昼間原狂騒・嚆矢 - 16
ひとり取り残されてから、どのくらいの時間が過ぎたのか。
どこにも時計はなく、時刻までは分からない。
唯一の目安は、次第に薄暗くなっていく室内と、冷えていく空気だった。家という障壁で囲われている為に野外ほど極端ではないが、動かずにいれば日没に伴う気温の低下を肌で感じ取れる。
山での生活で身に付いた感覚に、ユウは感謝していた。
夜がやって来る。
途中で二度、舞が様子を見に来たが、黙って睨み付けるだけのユウを諦めたと判断したのか、最後の訪問からはだいぶ間隔が開いていた。部屋の中も、外の廊下もしいんと静まり返り、蟻巣塚たちがどこへ行ってしまったのかは分からない。地下室にいるのかもしれないと思うと気が気でなかったが、四肢の拘束は確認に向かう事をユウに許してくれなかった。
全身に疲労が溜まっていた。
あの後ひとしきり喚き終えてからは、暴れ、のたうち、縛られたまま全身をくねらせて襖を目指し、部屋から脱出しようとした。
だが、無駄だった。
体を畳で擦りながら一度は襖まで辿り着いたが、固く閉じられた立派な作りの襖は、小さな狐がこじ開けるには思いのほか重い。それでも諦めずぐるぐると回転して体勢を変え、どうにか足の爪を縁に当て、何度も何度も蹴って僅かに開いた隙間は、音を聞き付けてやってきた舞によってあえなく閉じられてしまった。
次に暴れたら、足を一本折りますという通告を残して。
足を折られるのは、怖い。
痛みよりも、動きを奪われ何も出来なくなるのがもっと怖い。
攻撃の対象が自分からかがりに移るのが怖い。
諸々が相俟って、ユウは動けなくなった。
縛られたままただ暴れても、どうにもならないという事は理解している。歩けさえすれば一分もかからず着いてしまう地下室が、今は千里先の山より遠い。
悔しさと焦りに胸を焦がしながら、寝る体勢を変えようと何気なく腕を引く。
「……?」
何かが違っていた。
今まで腕を動かした時にあった、縛られた手首に皮が引っ張られる感覚が心なしか弱い。どうにか抜け出そうと数え切れないほど腕を引き続けていなかったら気付けない程度の、些細な緩みだった。
ユウは顔を持ち上げ、手首の拘束を見る。外見に変化はない。が。
もう一度。
もう一度、ユウは慎重に右の腕を後ろへ引く。
途端に、激しい動悸が胸を内側から殴り付けた。
動くのだ、腕が。ごくごく僅かとはいえ、明らかに先程よりも大きく遊びの範囲が生まれている。
全身の毛がぶわりと逆立つ。落ち着け、落ち着けと、ユウは荒くなる呼吸の合間に必死に自分へ言い聞かせた。追い詰められた精神が生んだ幻覚かもしれない。希望を抱いてから味わう痛みはより強くなってしまう。
だから慎重に、慎重に、気のせいだというのを前提で――と心の中で繰り返しながらゆっくりと引いた腕は、コツンと紐に引っ掛かっただけで呆気なく抜けた。
暫し自由になった右前肢と、だらしなく緩んだ紐が乗っただけの左前肢とを呆然と眺めていたユウの中に、ひとつの解答が閃く。
(かがりが使った時と同じだ! 時間制限の術が解けたんだ!)
この部屋に放り込まれた時にも聞いた。決まった時間になるまで解けないから抵抗しても無駄だ、と。解除される時間を連中が見誤ったというのか。それが今解けた理由を考えている猶予はない。
続けて後肢を数度、前後に動かしてみる。
同じだった。こちらの拘束もほぼ無いに等しい。思わずあげそうになった歓声を、ぐっと堪える。
派手な動作になり過ぎないよう時間をかけ、後肢を順に抜き取る。まだどこかを縛られていないかと恐る恐る、手を、足を踏ん張る。
(立てた……)
昼以降、初めてユウは体を完全に起こす事ができた。縛られていた手足がじんじんと痛む。
動けるようになってからも、ユウはその場に伏せ、人間が行うストレッチのように手足を伸ばし、縮める運動に専念した。何をするにしても、まず全身の強張りを取らなければならない。この間に誰かが来るようならそれまでだ。
踏み出す四肢からふらつきが消えたのを確かめると、襖へ。
今度は自由に動く前脚の爪を、縁と縁のごく僅かな隙間に引っ掛ける。
たかが襖ひとつであっても、高価なものは小さな狐一匹がこじ開けるにはかなり重い。かといって力を込めすぎると音を立ててしまう危険がある。今この時だけ、群れのリーダー候補が見せてくれた、静寂の化身の如き見事な狩りの腕が自分に宿ってくれとユウは願った。
もどかしい程の時間をかけて、鼻先が出せるくらいの細い隙間が開く。
前脚を使っての作業をやめ、今度はそこへじわじわと頭を押し込みながら更に開いていく。頭が通ると呆気なく肩も通り、するりと腰まで抜けた。
真っ暗な廊下で暫く息を潜め、誰も近くにいない事を確認する。室内と比べて一段ひんやりした空気が、ユウの鼻を撫でた。
どうする。
引き返すならまだ間に合う。
見付かっても、今なら縛られて部屋へ戻されるだけで済むかもしれない。
だいたい拘束が解けて部屋を抜け出せたからとて、それでどうなるというのだ。地下室まで行けたところで、襖と違ってあの扉は開けられない。階段を降りた地点で行き止まり。ウロウロしている間に見付かって捕まって終わる。脱走した意味はゼロだ。
ならば暗がりに潜んで誰かを襲い、人質に取って扉を開けさせるか?
無理だ、初手で返り討ちにあって終わる。仮に運良く噛み傷くらいは負わせられたとしても、人質など夢のまた夢。まともに使える力を持たない弱小妖怪が一匹解き放たれようと、蟻巣塚たちにとっては痛くも痒くもない。
それでも、だとしても、このままじっとしているという選択はなかった。
出た時と同じ手順で襖を閉じたユウは、まず地下室へ向かう事に決める。何も出来ないとしても、せめてかがりの囚われている場所を目に焼き付けておきたい。
姿勢を極力低くし、足先に全神経を集中させて、廊下を進んでいく。
下り階段までは、道を間違えようもないくらいに短い距離だ。
(……! 扉が開いてる!)
見間違いではなかった。
あの時、背後で重い音を立てて閉じられた筈の扉が、浅く開いたままになっている。この時のユウは、不審や恐れを感じるよりも、中に蟻巣塚たちがいてかがりが痛め付けられているのではという恐怖の方が勝った。
隙間からは、内部の照明がうっすらと漏れている。
ユウは覚悟を決めた。狐の歩幅には高すぎる段差を、足を踏み外さないよう滑り落ちるように一段ずつ降りていく。
幸い、転がり落ちる事もなく降り切る事ができた。
階段を降りたユウは扉に体を張り付けて気配を窺ってみたが、中から物音や声は聞こえてこない。逸る気持ちを抑え、前脚と鼻先を使って慎重にスペースを広げ、ユウは扉と壁の間に潜り込んだ。
あの忌まわしい檻の中央で俯いていた人影が、動くものに反応して顔をあげた。
「! ユウ……!」
ひどく久し振りに聞くように感じる声が、ユウの耳に染み渡った。
かがり、と叫びたいのを懸命に耐え、ユウは忍び足で檻を目指す。
膝立ちで檻の前面まで進んで来ていたかがりが、それを出迎える。
手足の拘束は外れていた。
「無事だったか。お前、どうやってここへ……」
「紐が緩んだんだ。かがりが前に使った、時間で外れるやつと同じっぽい事をあいつら言ってた。そしたら扉もちょっと開いてて……かがりは? 自分で取ったの?」
「いや、こっちもいきなり緩んだ。どうやらお互い時限式の拘束呪具が使われてたみたいだな」
檻の床には紐が落ちていた。
「霜走さんが最後に見回りにきた後に外れた。次に来れば気付かれるだろうが、こればかりは勝手に時間切れになったんだからどうしようもない」
「その前に逃げよう」
ユウの声は上擦っていた。
ここへ来るまでは逆境が過ぎるあまり却って落ち着いていられたが、かがりの顔を見た途端に焦りと悲しみばかりが吹き出してくる。
声を潜めてはいるものの、かがりが普通に喋っているという事は、ひとまず室内に誰かが隠れているという事はない。奴らが戻ってくる前に、何としてでも脱出の手掛かりを探さなければ。
檻越しに必死の眼差しを向けてくるユウに胸を痛めつつも、かがりの表情は険しかった。
「逃げたいのは山々だが、こんな状態じゃな……。
呪具も取り上げられてしまったし、手が使えても扉を開ける手段がないんじゃどうにもならない。……ユウ、お前はすぐに部屋に戻れ」
「! いやだよ、何言ってんのさ!」
「どうして急に時間切れになったのかも扉が開いてたのかも分からんが、今ならまだ紐が取れただけで済む。こんな所に誰か戻ってきたら、お前がどんな目に遭わされるか知れたもんじゃない。お前だってそのくらいは理解できてるだろ」
「…………俺、何か使えそうな物がないか探してみるよ。鍵開けられそうな道具とか、扉壊せそうなやつとか」
「ユウ、お願いだから言う事を聞いてくれ」
「かがりはドアの方を見てて。あいつらが戻ってきそうになったらどこかに隠れるから」
「ユウ……」
ユウは檻に前脚をかけて後肢で立ち上がると、背伸びをして鍵穴の臭いを嗅いだ。金属質の匂いに、ほのかな人の匂いが混ざっている。今は僅かな手掛かりにでも縋りたい。
広い地下室内を手近な場所から嗅いで回り始めたユウに、かがりは一旦説得を諦め、気掛かりだった事を聞く。
「なあ、ユウ。お前は上にいたんだよな。連中何か、見切さんや些峰さんについて話してたか?」
「ううん、聞いてない。俺だけひとりで部屋に置いとかれたから」
「そうか……」
刻々と過ぎていく時間の中でかがりが思ったのは、あの二人の事であった。
数日間ならまだしも、留守が長引けば光安や風香あたりは心配し、蟻巣塚か舞に連絡を取ろうと試みるだろう。
裏で何かが動きつつあるからには、迂闊に首を突っ込んできてしまったら彼らが危ない。事前に遠ざけろと忠告していたからには積極的に害する可能性は薄そうだが、こうなってしまっては何も断言出来る事はなかった。
それとも、一連の異変の裏には楝かがりがいた、あるいは事件を追う過程で命を落としたと説明するか。それはそれで、全く笑えないし安心できない。
「――かがりっ!」
不意に、ユウが高い声をあげた。
連中に聞き付けられるだろうと注意しようとしたかがりの耳に、思ってもいなかった言葉が届く。
「……あった! 鍵あった!」
「なに?」
「鍵だよ、ほら! って見えないか。こっちの台の下の壁掛け……じゃない、フックに引っ掛かってる」
「……嘘だろう。別の鍵じゃないのか」
「別の鍵かもしれないけど、試してみようよ!」
かちゃかちゃと何かを弄っている小さな音が聞こえ、やがてリングになった鍵束をユウが咥えてきた。興奮で膨れた尻尾を左右に振りつつ押し込んできた鼻先から、かがりは半信半疑でそれを受け取る。
掌に乗る微かな重みと、冷たい金属の手触り。
間違いなく鍵だ。小さすぎも大きすぎもせず、二つしかないからどれが正解か悩む必要もほぼ無い。檻の鍵は上下二箇所。かがりは半信半疑で手を檻から出し、手首をぐっと内側に曲げながら、まずは上側の鍵穴に鍵を入れる。
が、駄目だった。先端が穴に当たる感覚はあるものの、それ以上入っていかない。やはりと落胆しつつ、もう片方の鍵を差し込む。入った。回す。
開いた。
バカな。
やった、と小さく歓声をあげるユウとは対象的に、かがりは低く声に出して呟いていた。これで脱出できるという喜びより、何故開くという驚きの方が大きい。
急いでもう片方の鍵を試す。こちらの鍵穴は檻のかなり下部にある為、内側からだと鍵の先端を当てるのがやや難しい。何度も手首を曲げながら四苦八苦しているかがりを見守っていたユウの脳裏に、ふと懐かしさが浮かんだ。
「どうした? 何を笑ってる」
「あは。なんか最初に俺が捕まった時と反対だなと思ってさ」
出会った夜を思い出す。
囚われている側と、外から見ている側。
あの時、かがりは自分を殺さなかった。勝手な理由で邪魔をされたのに殺さないでいてくれて、物心ついた頃からの夢の話を聞いてくれて、食事を与えてくれて、仕事を見せてくれて、命を助けてくれて、あのまま山にいたら絶対に触れる事のできなかった色々なものをくれた。
だから、今度は俺が扉を開けてやるんだ。




