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昼間原狂騒・二岩 - 16

昨日の続きの資料と格闘していたかがりは、背後から響くノックの音に顔をあげた。

小部屋にこもってから、まだ数時間も経過していない。

訝しむ間もなく、ドア越しに冴絵の低くくぐもった呼びかけがある。


「楝さん、楝さん。ちょっといいかしら」


途中で話しかけてくるとは思っていなかったので驚きながらもドアを開けると、預けておいた携帯電話を持って冴絵が立っていた。電話からは着信音が鳴り響いている。ディスプレイには「蟻巣塚」の文字。

嫌な予感は一気に確信に変わった。かがりから、さっと血の気が引く。

市長さんがね、と冴絵が言うのと同時に、ほとんど奪い取るようにして携帯電話を掴む。通話に切り替えるや、前置きも無しに蟻巣塚のガラガラ声が聞こえた。


「すまん、しくじった」

「無事ですかっ!?」

「無事だ。無事だが逃げられた」

「逃げ――」

「逃げてったんだ。脇の植え込み飛び越えて道路を突っ走っていった。いま霜走くんが追ってる。こうして電話が通じてるって事は、公園の外にまで広がる幻術の中にいる訳じゃなさそうだな」


かがりは絶句した。

先の異変においては公園内からの電話は通じなかった。しかし今回は通じている。つまり蟻巣塚も、そして舞も幻術に囚われている訳ではない。ならば逃げていったというそれは、幻でも何でもない現実の市内に飛び出していった事になってしまう。

幻が実体を得たのか?

範囲型の幻から、独立個体型の幻に変わったのか?

それとも初めから幻などではなかったというのか?

わからない。またスタート地点に逆戻りだ。そして、そんな訳のわからないものが今、市内に解き放たれてしまっている。

惑わされていないと判明したのに、蟻巣塚が全く嬉しそうではないのもその為だ。電話など通じなかった方が、却って安心できただろう。


遂に。

とうとう。


震えを帯びる声を抑えられないまま、かがりは聞いた。


「足止めは……声での足止めもできなかったのですか?」

「だって馬に乗ってたからな」

「は!?」

「馬だよ馬。騎兵っていうのかありゃ。馬に乗ってる侍。

遠ざかるのが速くて追いきれなかった。距離が離れすぎると駄目なんだオレのは」


何か言おうとしたかがりの脳裏を違和感が掠める。その正体にはすぐに気付いた。

騎兵、と蟻巣塚は言った。馬の上に侍が乗っていた、と。

現実味はともかく伝言内容は非常に具体的だ。正体不明の黒い人魂などではない。

ユウの眼を介するまでもなく、敵の姿が明瞭に視認できている。


「岩だ、また岩から現れた。こないだのとは違う岩だ。ああそうだオレの見てる前だよクソッ! 幸い業者には見られてない。見られてないのか見ても視えてないのかまでは分からんが、とにかく機器だけ置いたらさっさと帰れと全員外に出させた。だがでもまあ、街に放たれちまったなら見られてようがいまいが同じか」


ふう、と蟻巣塚が露骨に大きく息を吐く。

余裕のなさをかがりは感じ取った。出口の見えない夏祭りの中でさえ冷静さを保っていたというのに、会話が散らかっている。市内に逃がしてしまった事が相当な痛手だったらしい。

公園が気になって昨日よりも調べ物に身が入っていなかったのだから、こんな事なら最初から行っていれば良かったと悔やむ。蟻巣塚と舞と自分、そしてユウ。微力なれど一人と一匹の追加は、あるいは足止めを可能にしたかもしれない。

なぜ幻が逃げたのか、なぜ前と姿が違うのか。それを考えるのは後だ。とにかく逃げたのだから、追って始末するのが先決である。

今から向かいますと、かがりは短く告げる。

ああ頼むと蟻巣塚は答えた。


「急いで家に帰ってゆっくり慌てずに準備して大急ぎで焦らず駆け足で来い」

「何言ってるかわかりませんよ」

「悪い。とにかく素っ裸で合流しようなんて絶対思うな。それよか家に戻って十全の状態を整えてきた方がまだマシだ。消化器なしで火災現場へ急いでも何の意味もねえ」


蟻巣塚の言いたい事は充分に伝わる。

焦りから手順を取り違えず、しかしひとつひとつの工程は迅速に。

かがりは手持ちの道具を確認した。いつもの品に、新しく購入したもの。そして風香の作った貝殻の呪具。質でも量でも以前までの数倍はある。一戦中に使い切るとなると難しいくらいだ。

しかし、全部ではない。直接合流するのと補充に家まで戻る選択とを天秤にかけ、迷わず取りに戻る事に決めた。

それに、ユウは家にいる。馬に乗った侍というのはフェイクで、真実の姿は別にある可能性もまだ否定できない。


電話を切ると、冴絵の物問いたげな視線とぶつかった。

年の功か取り乱してこそいないものの、ただならぬ様子に、さすがに瞳に不安が滲んでいる。


「すみません、行かなければならなくなりました。

市長か私から連絡があるまで、絶対に図書館を出ないでください」

「そう……来館者はどうしましょうねえ」

「地震が起きて自動ドアの電源が落ちたとか……ああもう無理がありすぎるな。いっそ被害のない範囲で本当に起きてほしいよ!」

「ごめんなさい、急いでるのに余計な事を言って。

職員や市民はこちらで何とかするわ、だから気にしないでお仕事に集中して。無駄な引き止めもしません。それから、なるべくならご無事でね。お父さんが悲しむわよ」

「ええ、なるべくなら」


それだけ答えると、かがりは脇目も振らずに駆け出した。






「ふんふん、ふふぅーん」


風香はでたらめな鼻歌を奏でながら、上機嫌で店内を歩いていた。

不良在庫化しそうで心配していたグラスが、遂に今日売れたのである。

元々は風香が一目惚れして仕入れた品だった。が、それはどうやら客観的な商品価値の評価と一致していたようで、結構な仕入れ値から付けた販売価格は、いかんせん店内に並ぶアンティーク品の中でも高い部類に入る。

日々売れ残る姿を見るたびに、絶対いいものなのにと風香は無念がった。

無論、良い物だと感じた客は他にもいるだろう。しかし人には生憎と先立つもの絡みの問題が付き纏う。

このまま売れなければいっそ自分用にするのも悪くないと考え始めた矢先に、売れたのである。

大枚はたいてでも手元に置きたいと思う程この良さを分かってくれる同志がいた喜びに浮かれるあまり、つい剥製を勧めようとする衝動に風香はブレーキをかけた。

あれをやって許されるのはごく一部の人間である。


あのグラスは、これからどんな道を辿るのだろう。

持ち主にとっての記念日に、とっておきのお酒をそっと注がれるのか。

それともお茶にジュースに晩酌にと気軽に普段使いされ、食器という道具の本分に立ち返るのか。

どちらでもいい、どちらでも素晴らしい。

分類は酒器だが、あれなら茶を入れるのにも向いている。濃く煮出した中国茶などは最適だろう。

手元を離れたお気に入りの品の使い道を、あれこれ想像するのも楽しいものだ。

おかげで、とてもいい気持ちでお昼休憩に入れる。


「そーだ! 外もあったかくなってきたから、お店の前に一人用のテーブルと椅子を出して、そこで食べよっと」


などと独り言を漏らしつつ店の外に出た風香の前を、疾風の如く巨大な塊が横切っていった。

暫し言葉を失ったまま立ち尽くしてから、それが走り去っていった方向へ顔を向ける。


「…………何あれ。今の、馬? なんか人乗ってなかった?」


思わず、風香は店の奥にある自分の工房を振り返った。



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