昼間原狂騒・一岩 - 17
個人店とチェーン店を合わせても、昼間原市で人気上位に位置する寿司屋、がま寿司。
現店主の見切光安が独立してから数十年というそれなりに続く店だが、前に立っただけで身構えてしまうような高級感とは無縁だ。サンプルの並ぶショーケースこそ出ていないものの、入口の前には一番人気の上にぎりとちらしの値段、そして本日のおすすめを記した立て看板が置かれている為、時価に怯える心配もない。もちろん、出前やお土産も受け付けている。
いわゆる町のお寿司屋さんというポジションを守り続けている、安定した店であった。
今夜のがま寿司の入口には「貸し切りです」と書かれた紙が貼られてある。
かがりが静かに引き戸を開けると、清潔な白の調理服の光安が笑顔で出迎えてくれた。
「こんばんは。今日はありがとうございます」
「いいって事よ。だいぶ危なかったんだと? 無事で良かったな」
混じり気なしの善意がくすぐったい。
すぐに支度するからよと言うと、光安は奥の座敷席を指し示した。
がま寿司は広い店ではない為、カウンターがメインとなる。
座敷席は、奥にある小上がりのひと間だけだ。畳の上に長方形のテーブルが二つ横に並び、座布団をそれぞれ四つ置けばほぼ満杯になってしまう。
ただし襖があるので、締め切った個室に出来る利点があった。
またテーブルの下は掘りごたつになっており、ゆったりと脚を伸ばしてくつろげる。格子の入った窓は採光用で、曇りガラスを開けない限り外の景色は見えず、外から見られる事もない。
今は開け放たれている襖の向こう側には、蟻巣塚が既にいた。
一台だけ停められる駐車場に車は見当たらなかったから、余計な人目を避ける為に歩きで来たのだろう。
他に、客の姿は見当たらなかった。
貸し切りといっても会社の忘年会ではなく、客はたかが数名。
寿司屋にとって本番である夜の稼ぎを数時間分ふいにしても快く場を提供してくれた光安には、感謝しかない。
かがり達を見て、蟻巣塚がひょっこり片手を上げた。
「やあ、先に失礼してるよ」
「こんばんは。本日は席を設けて頂きありがとうございます」
「どういたしまして。礼を言うなら、こんな大して儲からん貸し切りを受けてくれた親父さんだけどな。狐くんは連れてきたの?」
「コートの中に」
「そうかい」
かがりは靴を脱いで揃え、座敷に上がる。
コートの前を開けると、待ちかねたようにユウが飛び出してきた。
飲食店に動物を入れるのは、盲導犬や介助犬でもない限り原則、厳禁に近い。猫のいる定食屋のように、おおらかな店もあるにはあるのだろうが、衛生観念から考えればあくまで例外である。
動物が一匹入った程度で汚れるような適当な掃除はしてねえと光安が言おうと、ここで問題になるのは実際に汚れるか汚れないかよりも、他の客の心象なのである。
貸し切りにしてしまえばその点は安心であり、更に、狐が人語を喋る問題についても解決できる。
労いの席と聞いて、狐も来ていいぞと特別に許してくれた光安の心意気に応える為、せめて清潔にしてから来店するのが、店に対しても後から来る客に対しても礼儀というものだ。だから風呂にも入れ、服も新しいものを着せ、こうしてかがりが座敷まで運搬する事で店内を歩かせない。
ドライヤーをかけられて全身ふわふわになったユウは、シャンプーの香りを漂わせながら得意気に座布団に座った。乾燥直後はひたすら全身を掻き毟ろうとしていたが、稲荷寿司の一言で静かになったのだからたいした効果である。
「ふいー、やっと出られたや! こんばんは、市長のおじさん」
「狐くんも来たんだね。今日はアリスおじさんの奢りだから、いっぱい食べてっておくれ」
「うん、すごい楽しみにしてた! お風呂にも我慢して入ってきた!
ありがとう市長のおじさん! あと俺はユウだよ」
「……まあいいや。みんな無事で何より何より」
席には、人数分の割り箸とコップが並べられていた。
かがりは一礼して、蟻巣塚の向かいの座布団に座る。
蟻巣塚の手元には開栓済みのビール瓶があった。ちゃっかり先に一杯やっていたらしい。
かがりが席に着いてすぐ、光安が温かいおしぼりと、突き出しの盛られた小鉢を持ってきた。山椒の葉を添えたほのかな桃色の練り物には、とろみのある餡がかかっている。
丁寧な仕上がりは、ちょっと気取って先付けと呼びたい程だ。寿司は気楽に食え、とは常々光安の主張するところなのであるが。
飲み物を聞かれたので、お茶をとかがりは言いかけ、利益を考えて日本酒をお任せでと言い直す。
以上のやり取りを、ごつい顔に不思議な笑みを浮かべて蟻巣塚が眺めていた。
そういえば奢りだった事を思い出し、店の利益には貢献したものの蟻巣塚の財布に傷を付けた事に気付いて、些かかがりは焦る。そんな様子を面白がるように、かがりに向かって蟻巣塚がビール瓶を傾けた。
断るのも何か癪だと、かがりがこれをコップで受ける。逆は拒否された。
「まずはお疲れさま。フッチーも狐くんも後から出てきた怪我はない?」
減った分のビールを手酌で注ぎながら、蟻巣塚が問う。
かがりとユウが頷くや、報告書を読んだと即座に本題を切り出してきた。
かがりも一口だけビールに口をつけてから、コップを置いて姿勢を正す。
襖を締め切った座敷内に、蟻巣塚のガラガラ声が響いた。
「再びの幻術。時刻は日中。侵食範囲は推定で昼間原八岩公園全域。
今回巻き込まれたのは楝かがり、霜走舞、妖狐一頭。それから民間人が一名の、判明しているだけで四名。
発生時、公園内にいた他の人間は年齢性別問わず一斉の気配消失を確認。
意図してこの四名を選んだのか、何らかの条件によるものか、偶然網に引っ掛かったのかは不明。ついでに術の行使者も相変わらず不明。が、前回と明確に異なる点として、幻術内での敵性体による攻撃を確認。
楝かがり及び霜走舞及び妖狐により、これを撃破。敵性体の消滅後、幻術の解除を確認。
『ノヅチ』と暫定命名するこの敵性体の消滅と、幻術の解除との関連性の有無は不明だが、確率は高いと思われる。
関連性があったとしても、敵性体が幻術の行使者であるかは不明。また、人間と妖狐との間で視認性に大きく差異あり。
敵性体ノヅチとの交戦による死亡者、大きな負傷者ともに無し。いい事だ。
ここまでで報告書と食い違いあるか?」
いいえとかがりは答えた。
色々分かったようで、こうして並べると不明点だらけだ。
「交戦経過も見た。霜走くんから二重に確認も取ってる。
あー写真の一枚も欲しいなーとか、そもそも何で石碑の下から出てきたんだとか話し合いたい事は山程あるが、こういう話題を延々続けると飯がまずくなるからな。現時点でオレから伝えられる事実のみズバッと言おう。いいか?」
「はい」
「その狐には敵の幻術が――少なくとも幻術の一部が通じない。理屈は知らん。とにかく通じなかった。だからその狐がいれば、今後出てくる敵性体の真の姿や弱点も分かるかもしれない。
そして幸か不幸か憑き物スネークの譲渡によって、その狐の霊的面は楝かがりと綿密に結び付いている。よって事件解決の為にもっと力のある人間を探してくるにせよ、あなたは居残って戦うしかなくなった」
「――はい」
「って事で今後の計画だ。事態がやばい方に向かってるのは確かなので、オレは市側を説得しつつ代打を探す。あなたは引き続きその狐と共に、幻術第三段発生時の対応と、引き継ぎに備えてこれまでの情報、新しい情報をまとめておく」
一拍置き、蟻巣塚はビールで喉を潤す。
今から一番言いたくない事を言うんだろうなと、かがりは思った。
「逃げ道を塞がれてしまったせいで、ぐっと危険は増した。
冗談抜きで死ぬかもしれんが、幻術内での敵性体の弱点を射抜くには、その狐を連れてあなたが戦場にいないと駄目だ。
やれるかい? こんなのは契約外だから勘弁してほしいというなら――」
「やります」
かがりは即答した。
「ただ、できるだけ早く交代要員を調達した方がいいでしょう。
最悪、私が死んでもユウだけは絶対に残さないと、現状唯一の対処法を失う事になります。正確な姿すら分からない敵といつまでも戦い続けられる訳がない。逆に言えば、姿さえ分かれば私でなくてもいい」
「そうだな」
蟻巣塚も同意した。
見える見えないが単純な力の差の問題ならいいが、そうでない証に、ユウの弱さはお墨付きだ。見破る為の手段が他にあったとしても、いつ確立できるかが不明な以上、ユウの存在は替えがきくかがりや蟻巣塚より遥かに貴重なものとなっている。
もし狐という種族の特異性が関わってくるなら、尚更それは跳ね上がる。
人間の側に立った妖狐の協力者など、そうそう得られはしない。
物騒な言葉が飛び出したせいか、ずっと襖の向こうを気にしていたユウが振り返る。
「かがりは死んだりしないぞ、昼間原の英雄だもん」
「過信はそれこそ死を招くぞ?
まあ私もそう簡単に死ぬつもりはないさ。というか死にたくない、普通に」
「この街で死だの何だのの単語を聞く羽目になるとはねえ」
蟻巣塚は、テーブルに置いてあったプリント用紙の束を箸で摘んで捲った。
かがりの提出した報告書を、わざわざ印刷してきたらしい。
「しっかしなあ、まーた余計な事を知ってる一般市民が増えちゃったねえ。
呪いの件ならまだしも、今回の幻術はなあ……短期間に親父さんに続く二人目かよ」
「いまだ大規模には巻き込まれていない、と前向きに考えては」
「うん、被害者が少ないのはいいんだけどね。
この……アンティーク剥製ショップの人はほっといて大丈夫そうかね?
呪いだの幻術だの叫んでも常識の壁が守ってくれるから、そっちはほとんど心配ないんだけどさ。今後巻き込まれる人間が増えてきたら、同調する市民も出てくるかもしれない。そうなるとちっとまずいよなあ。怖くなって引っ越してくれるのがベストなんだが」
それはなかなか難しいのではないかと、かがりは考えた。
彼女はこの街を気に入っているし、商売もそこそこ軌道に乗っている。
固定客を掴むのが重要な店を経営しているとあっては、即座の引っ越しには難色を示すだろう。死ぬかもしれないぞと脅したところで、でも店を畳んだら食べていけなくなりますと答えられたら、強くは言えない。
生活の糧を失う事への不安は、時に生命を失う事と並ぶ。
一度死にそうな目に遭っていてさえ、今回は無事だったのだからと考えてしまうのが人間の心理なのである。
ただ彼女の場合は、失業への恐怖より妖怪への興味が勝っているからという気もするのだが。
「かがり、かがり、お寿司まだかな? 稲荷寿司頼んでくれたよね?」
「お前なあ……真剣な話をしてる時に……」
「寿司屋なんだから寿司を気にしてる狐くんが一番まっとうに正しいやね。
こんなしみったれた話してたら、そんなツラでうちの寿司を食うなと親父さん怒りそうだ」
「……そうですね」
ユウは、襖と襖の隙間に鼻を突っ込もうとしている。
無邪気な姿を見て、かがりも蟻巣塚も何となく笑った。おかげで話が切り替えやすくなる。
「サポートは行う、可能な限り」
「お願いします」
「死んでもいいなんて思っちゃいないんだからね、それを忘れないでね」
「はい」
「幻術の発生例は、もう二回。されどまだ二回。
しかも収束時間が数時間程度と短かった為に、皮肉にも逆にオオゴトにしにくい空気になっちまってる。だがそれでも、何も知らん市民が巻き込まれて殺されかけたって事実は取れたんだ。嫌な言い方だがこれはデカい。こいつを盾に押しまくって、早めに応援呼べないか頑張ってみるよ」
「ありがとうございます。それまでは持ち堪えてみせます」
「頼もしいねえ。まあ応援を呼べたら、いよいよもってあなたと交代って話も現実味を帯びてきちまう訳だが……」
それはそうだ。昼間原を守ろうとする限り、騒動の完全収束を図る限り、実力者とのバトンタッチは避けて通れない。
だとしても、きっと交代までの道のりは失意に満ちたものにはならないだろうと、蟻巣塚の話を聞いたかがりは思う。
用済みだと捨てられはせず、命を懸けて道を繋いでくれと依頼されたのだ。
だから、笑った。笑顔の意味を正しく受け止めた蟻巣塚も、馴染みのガラガラ声で笑い返す。
「ま、それでも頑張れるだけは頑張れよ、ヒーロー」
「俺もだよっ!」
「おうさ。目指せふたり一組の昼間原の英雄、だな」
随分と、ローカルなご当地英雄もあったものである。
かがりは、英雄なんて肩書きが欲しいと思った事はなかった。昼間原の為に戦う決意を新たにした今でも、それは同じだ。むしろ、さっさと頼れる援軍を寄越して肩の荷を軽くしてほしいとすら思っている。
ヒーローの精神からは程遠いそれが紛う事なき本音であっても、かがりは今だけはそう呼ばれるのを受け入れる事にした。
英雄は強い。英雄は何だってできる。英雄は最後に必ず勝つ。
ならば――先の見えない昼間原を覆うこの暗雲も、きっと吹き払える日がくる。
さあ、これで湿っぽくてややこしい話は一旦終わりだ。
気分直しに残りのビールを喉に流し込もうとしたかがりは、隣のテーブルの下から響いてくる啜り泣きに思わず手を止めた。寄せては返す波のように緩急をつけて聞こえ続けていた泣き声が、今は会話が中断させられる程に大きい。
「……あの、ところで座敷に入った時からずっと聞こえているこの声は……」
「ああ、うちの忍者が自分全然役に立たなかったって自信なくして泣いてる」
「そうですか……」
「こんなに落ち込んでんのは、就職に20件失敗してオレのとこに流れてきた時以来だな。ま、寿司が来れば元気になるでしょ。なんだかんだで店にはついて来たんだし」
実のところ、かがりと蟻巣塚が話をしている間も断続的にこの情けない泣き声は聞こえていたのだが、蟻巣塚が何も言わないので、全員色々と察してノータッチを貫いていたのである。
ユウが隣の掘りごたつを覗きに行こうとして、止められた。そっとしておけという事らしい。かがりからすれば舞の働きには感謝しかないのだが、肝心の攻撃がまるで効かなかったのが相当ショックだったようである。
魚肉のすり身を使った、なめらかな舌触りの突き出しを楽しんでいると、入るよと確認があって襖が開いた。最初の日本酒が来るにしてはだいぶ遅い。光安の事だから、話が一段落つくのを見計らっていたに違いない。
ガバッとユウが立ち上がる。
「お寿司!?」
「いいや、まずは刺身と焼き物だァ。たんと食ってくれな!」
威勢の良い声と共に、テーブルの中央に舟盛りがどおんと置かれた。
この人数に出す規模ではない量に、かがりも蟻巣塚も目を丸くする。
「おいおい、すげぇなこりゃ。
寿司屋で舟盛りかよ、お造りがちょびっと出てくると思ってたんだが」
「普通はやらねェ。お任せでなるたけ豪勢にしろって言ったのはお前だろうがよ。貸し切りにしたぶん稼がねえとな」
「どーもな親父さん、感謝と同情すんのやめるわ」
「すごい! すごいよかがり! こんなの俺はじめて見た!
スーパーのパックのお刺身と全然違うよ! 前に百貨店でかがりが買ってきたのよりすごい!」
「……ユウ、やめろ恥ずかしいから」
赤裸々に楝家の食環境を語るユウに悪気はない。悪気はないからタチが悪いといえる。
ちなみに山葵は端にたっぷりと盛られていた。かがりは見なかった事にして、無言で日本酒を猪口に注ぐ。
「ほい、んでこっちが焼き物。マグロのステーキってやつさ」
「これもすごい!」
がま寿司店主は、メニュー開発に関してなかなか柔軟な思考を持ち合わせているようだ。だから生き残っているのだろう。
正真正銘、大トロを使った贅沢なステーキである。
少量だが、却ってこの少なさが嬉しい。メインはあくまで寿司。こんがり焼けた脂が刺身づくしの舌を適宜変えてくれる。ユウの分は味付けがされておらず、ただ焼いただけだった。妖怪に調味料は問題なくても、その気配りが心憎い。
無論、質は極上なので焼いただけでもご馳走である。
「ユウ、よだれよだれ」
「あー……中年のおっちゃんは刺身とステーキだけで腹が膨れそうだ。この刺身、持って帰って後でお茶漬けにして食いたいなあ。ゴマと揉み海苔振ってさ」
その時スッと隣の掘りごたつの中から腕が伸びて、タッパーを蟻巣塚が座る座布団の横に置いた。それが済むと、テーブル下の怪しい影は再び奥へ引っ込んでいき、やがてしくしくと情けない嗚咽が再開される。
一連の出来事を目撃していたかがりとユウが、無言の眼差しを蟻巣塚へ向けた。
出てくれば?と仕方なさそうに蟻巣塚が声をかけると一瞬泣き声がやみ、また始まる。
結局、舞が掘りごたつから這い出してくるには、ユウお待ちかねの特上寿司三種稲荷寿司添えを運んできた光安が、いつまでそんな所でめそめそしてやがると容赦なく尻を蹴飛ばすのを待たなければならなかった。




