昼間原狂騒・一岩 - 13
駆け込んだレストハウスの裏手で、風香をほとんど投げ捨てるように放すと、舞は手早く地面の三箇所に苦無を打ち、簡易的な結界ですと言った。
かがりもようやく全力疾走をやめて、呼吸を整える。
ユウは顔までぺたりと地面に伏せると、目を閉じてしまった。余程怖かったのだろう。
「ふふふ、幻術にも煙幕は通じるみたいですね」
舞は冗談めかして言ったが、本心からの余裕ではないのは誰にでも分かった。
人魂は、今のところ追ってはきていない。振り切るのに成功したのか、どこかに潜んで様子を窺っているのかは不明だ。
かがりは、自分たちを三角形に囲む苦無を見た。刃には、斜めではなく柄と水平に符が巻かれている。
どうやら、彼女の流派にとっては苦無がベースとなる道具であるらしい。
かさばる分を差し引いても、シンプルな形状は携帯に向いている。
「忍者も結界を使うんですね」
「ええ。これぞ霜走流忍法、雲隠れの術! なんちゃって」
「ははは……」
両手を組み、人差し指と中指を立てた胡散臭い印を結んでみせながら、舞が言った。
痛い程の緊張が、僅かながらほぐれる。その気遣いが有り難い。
ここは、公園内のグラウンドに併設されたレストハウスである。
コインロッカーと更衣室、自動販売機程度しかない簡易施設だが、掃除が行き届いていて運動場の利用者には好評だった。
公園全体で見れば、あの広場からはほぼ正反対の方角にある。
普段は人の多い場所だ。誰かいないかと、かがりは耳を澄ましてみる。
が、日中なら常に誰かしらが草野球やテニスを楽しんでいるグラウンド内にも、やはり人が立てる物音や気配を感じる事はできなかった。
今まで公園内にいた人たちは、どこへ消えたのか。
騒動の首謀者や、あの人魂の仲間にやられてしまったのか。
そうではないと、かがりは考えた。
おそらく夏祭りの幻の時と同じで、誰かしらが、まさに今も、ここにいる。
単にかがり達の側からは彼らを認識できないし、向こうからもかがり達を認識できていないだけだ。
かといって、グラウンドで暴れ回って強引にこちらを認識させ、それをトリガーに幻術を解く事ができるかというと、見通しは暗いと言わざるを得ない。
そんな初歩的なやり方で解除できる程度の幻術なら、祭りの光景など五分とかからず崩壊している。
範囲幻術を使うに当たって問題となるのが、周囲の視線である。
対象のみを騙すなら密室で行えば良く、難易度はぐっと下がる。
だがここに第三者が絡んできて、その数が多くなればなる程、維持は難しくなる。
声をかけられたり、触れられたり、脆いものだと存在を意識した視線を向けられただけで幻術が壊されてしまう為だ。
これを防ぐには幻術の効果範囲内において、まず術をかけたい対象を幻の中に捉えた上で、対象の外側にいる者達に、対象がそこにいる事を認識できないようにしなければならない。
見えているが、見えない。
見られているが、見られていると知らない。
ぶつからないよう避けたが、自分では避けたと思っていない。
要は、幻術を二重に重ねる必要が生じる。
人の多い場所で対象を幻に捉えようとするのならこれが必須となり、環境によっては対象を幻に捉えるのの何十倍もの労力を、対象ではない人々を幻へ落とし込む為に割かねばならない。
まるで割に合わない。力の無駄遣いにも程がある。
しかし人前で幻術を使い、それを長時間持続させるというのはそういう事なのである。
騙したい相手だけではなく、騙したい相手に干渉しそうな全ての動的存在に対して術をかけ続ける。だからこそ範囲が広がる程、人が多くなる程、行動の自由を許す程、加速度的に維持は困難になっていく。
とりわけ町中となれば、迂闊に歩き回られて自動車やバイクや電車に撥ねられる危険からも守らなければならず――。
(……待てよ。そういえば、どうして我々はあの夜、車にぶつからなかったんだ?)
いくら夜間の、幻が解けてみれば元々昼でも交通量の多くない県道だったとはいえ、深夜零時過ぎでもないのだから、走っている車が数時間もの間全くのゼロだったという事はないだろう。
事実、あの後帰宅するかがり達の横を、ぽつりぽつりと家を目指すらしき車が走っていった。歩行者天国の幻を被せられた車道を歩いている最中に衝突するには、充分すぎる間隔である。
まさか、車の方からあの通りに入るのを避けてくれた訳でもあるまいし。
それとも、歩行者天国となった車道を自由に歩いていたように思わせながら、実際には歩道の上だけをぐるぐると歩き回るよう誘導されていたのだろうか。
「楝殿」
舞の呼び掛けに、かがりはハッとなって考えを切り替え、目の前の問題に集中した。今気にするべきは終わった出来事ではなく、この場でただ一人何ひとつ理解できていない者へ手を差し伸べる事だ。
「………………」
「……些峰さん」
「市が企画してるヒーローショー……な訳ないですよ、ね……」
舞の作り話を覚えていたのか、半ば泣きそうに目を歪めて風香が言った。
状況が一切把握できないまま、それでも尋常ならざる事態に己が置かれているのを悟った者がする顔だった。この反応からして、光安のように元から不可思議な存在が見える人間ではなかったのかもしれない。
だとしたら尚更、現実は彼女にとって酷だ。
「思いっきり突き飛ばしてしまってすみませんでした、お怪我はありませんか?」
「怪我はない……です。お尻と腰ぶつけちゃったくらいで」
尻餅をついたままだった風香を助け起こしながら、舞が詫びた。
ああしなければ殺されていたかもしれないのに、それを恩に着せる素振りはない。
風香はどうにか立ち上がるも、気を抜くと足元がふらつきかける。
無理もなかった。いつ再び敵が現れるとも知れない状況だったが、かがりも舞も、まずは彼女から口を開いてくれるのを待つ。
「………………」
「………………」
「……あの……」
「はい」
「さっきのは……何ですか? 地面からいきなり出てきたみたいに見えて……」
「はい、いきなり出てきました。一般には認知されていませんが、あれらはそういう生き物なのです」
「……そういう……いきもの……」
「はい……」
「やっぱり、地震っていうのも嘘なんですか?」
「……すみません」
「いえ、いいんです。助けてくれようとしたん……ですよね? たぶん」
すっかり営業用の口調が取れた風香は、喋りながら少しずつ落ち着きを取り戻していった。
頃合いと見て、かがりから現状の説明を行う。
ひとまずは、かがり自身と舞の身柄について。そしてここが、現実の昼間原八岩公園そっくりの幻の中であるという事も。
昼間原市自体が呪われている事と、ユウの事はまだ伏せておく。
要は、自分たちは霊能者でああした怪物と戦うのを仕事にしており、最近昼間原で起きた大きな事件を追っているという事と、そんなプロの二人から見てもあれはかなり危険であるという事を、率直に教えたのである。
この間、質問は一切させていない。
「いきなりこんな馬鹿げた話をされてもついていけなくて当然ですが、ついていけなくて構いませんから、今だけは無理にでもそういう世界が存在しているのだと信じてください。疑って勝手な行動をしたら、死にます」
「し――わ、わかりました、信じます! っていうか信じるしかないですよね。あんなの見ちゃったし……」
あれが幻術の一部である可能性を捨て切れない以上、正確には死の危険がある、だ。
だがかがりは、あえて死ぬと断言した。
強い口調と眼差しで迫るかがりに、風香はそういう玩具のように何度もコクコクと頷いている。
力技で叩き込んだ納得であった。論より証拠というが、常識だと思っていた世界が目の前で崩壊すると、人は案外いつまでも否定や現実逃避を続けず、素直に受け入れ飲み下す傾向がある。
とはいえ死という単語は、迂闊な行動を制御するには優れている反面、恐怖感を高めてしまう。いざ逃げる時に死を意識して身が竦むのを防ぐ為、守ってくれる味方が隣にいる事も同時に伝えておく必要があった。
「最初に怖い話をしてしまいましたが、これも全員の命を守る為です。
些峰さんがパニックを起こさず指示に従ってくれれば、我々は全力を発揮できます。力を合わせてあの化け物を倒し、ここから抜け出しましょう」
「ほ、ホントに? 何とかなるの? 助かる?」
風香はかがりの腕に縋り付き、次の瞬間には我に返った。
「ごめんなさい。わたしったらお客さんにこんな態度を……」
恥じ入るように謝ってくる。
あのふわふわした掴みどころのない雰囲気は語尾同様営業用に作ったもので、こちらが素なのだろう。
申し訳無さと気恥ずかしさが入り混じった顔でベレー帽を前へずり下ろす風香に、かがりは微笑んだ。
「そっちの方がいいですよ。無理してる感じがなくて」
「本当……?」
「ええ、必要以上に丁寧に接されるより、私もその方が気が楽ですから」
「ありがと……アーちゃんって呼んでもいい?」
「いやそれはちょっと」
唐突に蟻巣塚が二人に増えたような錯覚に、かがりは陥る。
何故どいつもこいつもフッチーだのアーちゃんだのと奇怪な略し方をしたがるのだ。
「わたしって昔から親しい友達ができにくくて……剥製の話しても喜ばれない事が多いし」
「まあ……積極的に大喜びして聞きたい人は少ないかもしれませんね。需要はある仕事なんでしょうが」
「でも社会人なんだし、自分は自分だから、自分で選んだ好きな道だからって頑なになって、世間の目に無頓着すぎるのも良くないなって思って。
だから頑張ってお店作りや接客の勉強して、お洒落なお店のほんわかお姉さんって印象が出せるように口調も作って。
おかげで寄ってくれる人や、固定客って呼べそうな人は増えてきたんだけど、プライベートがなかなか充実しないの」
「……親しい友達を増やしたいなら、まずアンティークショップに初めて来た客に嬉々として剥製作りの話をしない方がいいのでは。というか動物を連れてきた人の動物を剥製にしようとしない方がいいのでは」
「あ、あれは……わたしってばすっかり同好の士だと思い込んで、わあ動物持ってきた若い女の子だあ!剥製好きかな!?って舞い上がっちゃって、つい……」
「どういう思い込みなんですか……」
さすがにかがりも突っ込まざるを得なかった。
友達が少ないのは職業とは全く関係なく、距離を詰める際の判定と詰め方に問題があるからではないのかと疑わしくなる。
極めて妥当な指摘が堪えたのか、風香はしゅんとしていた。
「……でも、ちょっと嬉しかったな、さっきのお話」
「嬉しい?」
「うん。剥製への先入観って強いし、世間的には堂々としてない方が無難なんだなって空気をいっぱい味わってきたから、わたしよりもっとずっと自分を隠して暮らしてる人がこの街にいたんだなあって思うと、なんていうか……元気になる!」
なんともおかしな仲間意識の持ち方をするものだった。
これが芸術家の感性かとかがりは感心したが、それはそれで芸術家は変わり者という先入観な気がしないでもない。
ふわふわ店長の仮面を完全に取り払ってしまった風香は、しゃがみ込んだまま爽やかに笑った。
自分の仕事がふたつとも好きなだけの、お洒落な女の子。
共感を抱いてくる理由は、かがりにはあまりピンとこないものだったが、僅かでも元気が出たのは良い事だ。絶望は、駆ける足さえ止めてしまう。そう思えば、貴重な時間を使っての雑談にも意味があった。
近くにいたユウが、風香の手をペロペロと舐める。
「あは、慰めてくれてるの?
ありがとユウちゃん、いろいろビックリさせちゃってごめんね」
風香がユウの頭を撫でる。ユウは逃げず、目を細めてされるがままになっていた。
かがりと舞は、その光景に顔を見合わせる。
そして同時に前を向いた。
「隠し事ついでと言っては何ですが、更に大きな隠し事をばらしてもいいですか」
「へっ? まだあるの?」
「あります。本物の霊能者が日夜化け物をお祓いしてた事なんて、これと比べたら些細な話です。
単刀直入にいきますよ。些峰さんが撫でてる狐が実は妖怪で、しかも喋るとしたらどうしますか」
「………………」
「………………」
「……喋るん?」
「喋ります。なにせ妖怪ですので、鳴き声が言葉に聞こえるレベルではなく、それはもう流暢に。
できればこの後の戦闘と脱出に向けて、意思疎通に障害が生じないよう行動制限をなくしておきたいのです。人前で喋ったら駄目だからという一瞬の躊躇が、致命的なミスを招かないように」
「よーかい……」
「妖怪です」
「一つ目小僧とかの?」
「そうですね」
「目、ふたつあるけど」
「狐ですので」
「………………」
「………………」
「……どうぞ」
気圧されながらも風香が小さく頷くや、ぷはあ、と塞がれていた口を解放されたかのような歓声をユウがあげた。喋らないよう我慢し続けるのがそこまで窮屈だったのか。獣がそれというのは何かが間違ってはいないか。
仰天したのは風香である。いくら事前に忠告されていようと、本当に喋られればそんなもの根こそぎ頭から吹き飛ぶ。
「喋ったあー!!」
「ですから喋ると……それと結界内とはいえあまり大声を立てないように。
霜走さん、この結界って防音性はどうなんです?」
「正直申し上げてそんなでもないのですよ。相変わらず追ってはきていないようですけど」
舞は油断なく周囲を確認している。
「という訳です些峰さん。
こんなものを見せられたら失神してもおかしくありませんが、今はどうか心を強く持って現実を受け入れ」
「わあ……わあああスゴぉぉい!
これが妖怪!? 見た目は狐なのに全然違うんだね! 触った時の手応えや触感が普通じゃないっていうか……!」
「うわあああああ!!」
「あの、ちょっと」
鱗隠しの服の中に手を突っ込んでユウの体をまさぐっている風香を、かがりが止めた。
いきなりの狼藉を働かれたユウは、悲鳴をあげて大暴れしている。慰めた事を思えばあんまりな仕打ちであった。
騒がしくするなと言ったそばからの大騒ぎに、焦った舞までもが些峰の肩に手を置いたが、非日常空間に置かれたせいで却って研ぎ澄まされた芸術家の五感に火が着いてしまった風香は止まらない。
「妖怪って本当にいたのね! って事はこれからも出会ったり触ったり捕まえたりする機会があるって事よね!? ああっ、妖怪なんて未知の生物を剥製にできるかもしれないなんて! これには師匠もびっくり!
あ、喋ったりしないから大丈夫よっ! これでも口は堅いからっ!」
「まるで信用できない! というか結局は剥製にしたいのでは!?」
先程までの恐怖はどこへ行ったんだと、暴走する悪魔の手からユウを引き剥がそうとするかがりだったが、当のユウは風香の股の間に抱き込まれて服を引き剥がされつつある。
か細い悲鳴が切ない。陵辱とはこういう光景を指すのかもしれない。
死への恐怖如き圧倒的な熱意で上書きできるという、ごく限定的な範囲でのみ適用される事実をかがりは知った。人間って強い。
返せ返さないとりあえず脱がすでやり合う二人と一匹の横では、進言を無視され続けた舞が若干いじけつつあった。




