昼間原狂騒・一岩 - 10
蟻巣塚の訪問から数日が経ち、きつねやは日常を取り戻していた。
ゴミの分別と回収も進み、店舗スペースは見違えるような清潔感を放っている。あとは床や壁を張り替え、照明を見栄えのあるものにし、商品棚を並べるなどして内装を施していけばいい。
土台は整い、煉瓦を積み上げていく段階に移った。
ここからは店が具体的な形になっていく、胸躍る時間の始まりである。
ところが順調に進んでいく作業に反し、かがりには物思いに耽る様子が多く見られるようになった。
てっきり仕事を失いそうな事を心配しているのかとユウは思ったが、どうもそれだけではないようである。
いや、むしろそちらが占める割合は少なく、憂慮の大部分は別の問題に囚われている。
ユウは、かがりから話してくれるのを待とうとした。
だが余計な心配をかけまいとしているのか、そこまでの信用を得ていないのか、表向きは前と変わらない態度を保って接してくる。
そんな日が一週間近く続き、遂に耐えかねてユウは話を切り出した。
「市長のおじさんが言ってた事、気にしてるの?」
「ん」
「この街の、大昔にやっつけられた蛭……だっけ? が、まだ生きてるかもしれないっていう……」
恐ろしい話だ。
しかし英雄志願の為せる技か、かつて倒された途轍もない怪物が実は生きていたという話自体には高揚感も覚える。
ユウはその場でぴょんと垂直に跳ね上がると、内心の興奮を高々と立てた尻尾に乗せて続けた。
「だとしたら、こないだのお祭りの幻もそいつがやったのかな?」
「ユウ、あれは何の根拠もない雑談だって言ってたろ」
「でもさ」
尚もこの話題に食い付こうとするユウを、かがりが遮る。
口調はいつになく強い。
だがそれはユウを叱りつけているというより、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
「荒唐無稽な話だ。荒唐無稽の中の荒唐無稽だ。荒唐無稽はそうそう幾つも重なったりしない。
蛭は倒されたさ。ずっと昔に死んだ。死んだから街を作る事ができた。私なんかとは比べ物にならない優秀な奴らが大勢集まって、何度も何度も確認してる。
昼間原にあるのはただの残りカスの呪いだ。もう何百年もこのままなんだぞ。蛭が生きてたなら、その間全く気付かれず何も起きないなんて事ある訳ないだろうが」
「でも……もしもだよ、もしも、それでも生きてたとしたらどうしよう?
ほら、死んだふりする奴っているじゃん。それが今になって目覚めてさ――」
「うるさい!! お前もいつまでバカな話をしてるな!!」
叩き付けるように怒鳴ったかがりに、ユウの心臓が止まらんばかりに跳ねる。
かがりがユウに対してここまできつく声を荒げるのは、それこそ初めて出会った日以来だった。
「フリじゃない、あれは死んでるんだよ。
もう何度も何度も、何度も何度も何度も確かめられた事実なんだ。
仮に――仮に生きてていつかは目覚めるにしたって、今である筈がない!!」
「……かがり……」
「…………目覚めるにしたって……どうして、今なんだよ……」
最後の方では消え入りそうな声を吐き出し、かがりが項垂れる。
突発的な激昂が冷めれば、後に残るのは無力感と、小さなものに激情をぶつけてしまった後味の悪さだけだ。
雑談だと前置きしながら、雑談では済ませられない引っ掛かりが蟻巣塚にはあった。
それは、聞かされた側のかがりも同じである。
せめて断片でもいいから今回の犯人の特定に繋がる手掛かりを掴めていれば、また受け止め方も違ってきただろう。一切何も手に入らなかった故に、想像は次第に最悪の方向へと転がり落ちていく。
時間が過ぎるごとに鬱屈は蓄積されていき、傍目には平静を保ちながらも、かがりは内心相当に参っていた。いやさ、日常生活では普段通りであろうと努めていた分の反動が、もろに精神面に反映されたと言っていい。
これまで一度もこんな事は起きなかっただけに、尚更。
いっそ今のうちに逃げてしまえばと、そこまで思考が飛躍した事もこの一週間で一度や二度ではなかった。
かがりが失踪すれば、市としては様子見を即座に中止し、代わりを調達せざるを得なくなる。
しかし、後任が来るまでの間に何かあったらと思うとそれもできない。
自分がいようと何も出来ないのは同じかもしれないが、市民が完全な丸腰にされるのと捨て駒がいるのとでは、多少は違う。
いかに確証が乏しくとも、いかに他愛ない雑談に過ぎなくとも、肯定材料が無いのと同時に、否定する材料もまた無いから。
考える事がやめられない。
悩む事がやめられない。
事態を収束させる力は無いが、かといって放棄して逃げる気にもなれない。
そう、結局のところ、あらゆる見栄や虚勢を脱ぎ捨てて丸裸となった心情を吐露すれば、この一言に尽きたのだ。
どうして、私の時に。
「……すまない、怒鳴ったりして。せっかく気にしてくれたのにな」
「ううん……俺こそごめんね」
「いいんだ。あんな事を言われたら気になって当たり前だからな。
わざとらしく触れずにいるより、思い付きを片っ端から喋って溜め込まない方が良かったのかもしれない。
……それにまあ、本当にそんな事になったと判明すれば、いよいよ本格的に私はお役御免だ。頑張れば対抗できるどころか、ハナっから他人に任せるしかないと分かり切ってるから、却って気楽になれるさ」
今が気持ち悪いのは宙ぶらりんだからだと、かがりは明るく言った。
無理をしているのは明白だったが、無理さえできない状態に比べれば一段階浮上したとも言える。
かがりを主に悩ませていたのは、自分の進退や、あまりにも強大な敵を前にした恐れというよりも、生まれ育ち、店を受け継いでからは守ってきた街が未曾有の危機に晒されている可能性を前にして、ただ待機するしかない現状への焦りや罪悪感であった。
異常が発生したのが一度きりで、目立った犠牲者も出ていないとあっては、様子見に徹するしかないというのは分かる。
だが、この場にいたのがより高い実力を持つ者であれば、待機中にも出来る事があったかもしれない。
今後二度目の異変が発生した時に、死ななくていい人を助けられるかもしれない。
かがりなりに、この街を大切に思って生きてきたのだ。
明日こそ顔見知りが犠牲になるかもしれないと案じ続け、しかも警告さえできないというのは辛いものである。
いっそ、お前では無理だからと蟻巣塚が問答無用で交代要員を連れてきていれば、こうまで煩悶する事はなかった。それなら後任にこれまでの仕事内容を引き継ぎつつ、かがり自身も補佐という形で原因究明に貢献できたのに。
頼れる者が欲しい。
父が店を去ってから、今ほど痛切に感じた事はなかった。
かがりは、隣にずっと座っていたユウを見る。
不安がぶり返したと思ったのか、差し出した手をぺろぺろと舐めてきた。
もしもこの狐が、保護対象ではなく正真正銘の力ある妖狐であればと、つい思ってしまう。それこそ、並大抵の人間など比較にならないくらい頼りになる味方だったに違いない。
が、それは無意味な仮定だ。そんな力のある狐ならむざむざ自分如きに負けも捕まりもしていないし、持ち前の知性から、英雄になりたいなどという馬鹿な願いを抱く事もなかっただろう。
かがりは黙ったまま、小さな狐の頭を撫でてやった。
お前がもっと強ければと思っているのを知られたら、弱さを自覚しているユウは仕方ないと割り切りつつも傷付く。鼠を捕まえられずに呆れられるのと、お前が頼りにならないせいだと憔悴されるのとでは、重みがまるで違う。
それは、避けたかった。
かがりは両膝をパンと叩き、勢いを付けて立ち上がる。
「よし、いつまで塞ぎ込んでいても始まらん!
見回りを兼ねて、気分転換の散歩に行くぞ。あれっきり仕事以外でほとんど外出してなかったしな」
「散歩は行きたいけど……かがりは平気?」
「ああ、今はできる事をやろう。これまで通りの仕事と、店の改装をやり遂げるのと。いつまたあの幻が発生してもおかしくないんだから、巡回の回数はいくら増やしても悪い事はない」
「そうだね。何か見付けられたら市長のおじさんも喜んでくれそうだしさ」
ユウは、いつになく神妙な態度で鱗隠しの服を着せられている。
日常業務はといえば、常に神経が張り詰めているのを除き、拍子抜けするくらい今まで通りだった。決まったポイントに決まった罠を仕掛けて、発生したての弱々しい妖がかかっていれば始末する。その繰り返しである。
以前とひとつ違っている点といえば、仕事中の街の様子や、倒した妖の場所、特徴などを、毎日事細かに記録するようになった所であった。今までは数と場所程度だったが、何もかもが手探りの現状では、どんな情報が有力な手掛かりになるか分からない為だ。
記録や数字や式が術者にとって非常に大切なものであるという基礎を、ぬるま湯から強引に引き上げられたかがりは久し振りに思い出しつつあった。




