昼間原狂騒・一岩 - 5
かがりは硬直する。驚きと焦りと、そして強い安堵に。
解決手段のまるで見えてこない危機的状況において、思いがけず知己の相手と出会えた事への本能からの喜び。ひとりで死んでいくよりは誰かが一緒にいた方がましだという下劣で人間的な感情、まさしくそれそのものだ。
絶望的な程、人の弱い心は道連れを求める。そして、この場合はただの犠牲者仲間という訳でもない。
皺のないグレーのスーツにぴしりと身を包んだ男が、邪魔そうに歩行者を避けて歩いてくる。
かがりは立ち止まったまま、得体の知れない人間の接近に逃げ腰になっているユウに、逃げなくていいと目と唇の動きで伝えた。
男が出店と出店の間を抜けてくる。壮年ではあるが初老と呼ぶにはまだ若い。
声の重さは、このような軽薄な口調とまるで釣り合っていなかった。濁ってはいるが突き抜けるような張りがある。
「ああ、やっぱりフッチーだ。今日も一日お疲れさま」
「その呼び方はやめてくださいと何度も」
「じゃあやめる」
「どうも……いえ、それよりこんな所で何を?」
「今日は早く仕事片付いてさ、どっかで飯食ってから帰ろうと散歩してたらこんな場所に出ちゃった。これ何? なんで冬に祭りやってんの? 知らないぞこんなの、クーデターか?」
言って男は、ぐるんと体操のようにダイナミックに首を動かして辺りの出店を見やる。
それを知りたいのは自分だと内心で呟きつつ、かがりは分かりませんと正直に答えた。
「確証は持てませんが、たぶん幻術です。……たぶん。
だとしてもこんな大規模なものをどうやって実現させているのか、私では想像もつきません」
「フーン……こっちは?」
男は視線を下げた。
「狐じゃないの。変な色してるし剥製でも作りに行くのかな?」
「微妙にタイムリーですね……そうではなく」
かがりは一旦言葉を切り、唖然としているユウを見下ろす。
つい今しがた許可が下りたばかりとはいえ、明らかな自由意志を持つ人間を前に喋っていいものか困っているらしい。
正しい判断だった。やや迷ったものの、いつまでも隠しておける話でもないとかがりはユウの正体、及び出会った経緯、兄弟狐の襲撃を経て現在は自分の店に滞在している事などをざっと伝える。
蛇を譲渡した件はひとまず伏せた。さすがにまずいと思ったのだ。
かがりが説明している間、ユウはそれを話していいのかという顔で、何度も視線を左右に往復させていた。
だが考えてみれば、かがりは男に対して「幻術」と告げ、男も当たり前のようにそれに応じている。
もしかするとかがりが言っていた街の事情を知っている人なのかもしれないと、ユウは僅かに緊張を解く。かがりの仕事内容や、昼間原の呪いについて知っているなら、ただの狐ではなく妖怪だと分かっても騒ぎにはならない筈だ。
「なにそれ、聞いてないよー」
「……報告していませんでしたので。
特に問題なく処理も済みましたし、次回に合わせて行えばいいかと」
「だめだよー。ほうれんそうは役所の基本。でしょ?」
言い方はともかく、自分に非があるのは確かなのでかがりは謝罪した。
帰ったら正式に報告書を提出する。帰れれば、の話だが。
「しかしねえ……成体の狐が精神に変調きたすなんて事あるのかなあ?
生まれたてのザコにしか効かない筈だろう、ここの呪いは」
「成長しきった妖でも、強い感情を有していると増幅されてしまうのかもしれません。今回はユウ――この狐を処罰するという目的があった為、攻撃性が増幅され狂ったと推測しました」
「そうなん? そんな可能性があるなんて親父さんからも聞いてないんだけど、あの無能」
「娘の前で父親を罵倒しないでもらえますかね」
「ああ、これは失礼」
意外な事に、本当にしくじったというように男が詫びた。
「じゃ、経緯を説明してくれ。
「……? それなら今話したばかり」
「隠さずに、全部説明してくれ」
「!」
「騙せると思ったかコノヤロウ。おめー明らかに様子がおかしいだろーがよー。
妖怪なんだろ、その狐。今のとこ祭りだワッショイピーヒャラピーヒャラやってるだけで平和なもんだが、こいつがもし殺意的な意味でヤバい方向に転んだ時、味方側に不確定要素があったら嫌じゃんかよ。
だから手に入る情報は全部ゲットしときたいんだわ。お叱りは後でな。今はとにかく話せ」
「……わかりました。すみません」
小声で俯いたかがりに少し笑うと、男はタレの滴るイカ焼きにがぶりと噛み付いた。
驚いたのはかがりである。何か持っているとは思っていたが、周囲の光景に溶け込みすぎて意識から外れていたのだ。
「何を食べてるんです!?」
「何って、イカ焼き。そこで売ってたやつ。味は普通だね。普通の出店のイカ焼き味」
「……失礼ながら、ヨモツヘグイや馬糞のぼた餅って言葉をご存知ですか?」
「知ってる。でも腹減ってたからさ。狐くんも食べる?」
差し出されたイカ焼きから漂ってくる甘辛くて香ばしい匂いに、ユウは思わずぱたぱたと尻尾を振った。
が、かがりがきつい目で見てきているのに気付き、慌ててぱたりと下ろす。
「フッチーも食べる? ゲソ焼きやるよ。ってそういやえらい大荷物だな」
「夕飯の買い物ですよ。でも、こうなると全部捨てて身軽になっておいた方が良さそうですね」
「んあーそりゃ勿体ないぞーやめとけ。なんか出てきたら投げ付けて怯ませる役には立つだろ。納豆のパックは全部開けとけよ。ああ葱もあるのか、ぐっちゃぐっちゃに潰しときな。あいつら臭いの嫌いだからな。つか半分持ってやるわ、ほれほれ寄越せ。恵方巻きと同じく現在大ブームのフィーメルファーストってやつ」
「違います。それから、戦闘前提ならそちらこそ手ぶらであるべきです。
今回はお気持ちだけ有り難く」
「まあそうだな、強い方がフリーになっとく方が無難か」
かがりが申し出を断ると、男は差し伸べた手をあっさり引っ込めた。
その緊迫感の皆無なとぼけた顔に、かがりから溜息が漏れる。
束の間会話が途切れたのを頃合いと見て、ユウがリードを咥えて引く。
喋って構わないか尋ねてきているのだと気付き、いいぞとかがりは言った。
ユウは、おずおずと男を見上げる。考えてみればかがり以外の人間と正面から言葉を交わすのは始めてであり、許可を得ているとはいえ、いざ話すとなると幾分緊張した。こういうのは勢い任せに喋ってしまうもので、相手からじっと見詰められながら改めてとなると実にやり辛い。
かといって、黙っているという選択はユウの中に存在しなかった。
この男が現れてからのごく短時間で、気になる謎が山盛りである。
「…………あのお……」
「うん」
かがりとはどういう関係なのか。
妖怪についてどこまで知っているのか。
しかし何よりもまず聞くべきは。
「おじさん誰?」
「おっちゃんは市長だよ。よろしくな」
狐が喋った事を不思議がるでもなく、男は朗らかにそう名乗った。
ユウは一瞬虚を突かれ、次いで「シチョウ」の音に当て嵌まる文字が何か分かった瞬間、驚きのあまり甲高い声をあげた。
「シチョー!? シチョーって市長!?
すごいよかがり、長だよ! 一番偉い人じゃん!」
「んあーそんな大したもんじゃない、市長なんて所詮この市で一番偉いってだけだわ。まあこの市で一番偉いんだけどな」
「一番偉いんだって!!」
興奮して捲し立てるユウに、それは一体何の報告なんだと脱力するかがり。
市民に聞かれたら落選しそうな事を平然と言ってのける姿に、かがりの方が思わず周囲を気にする有様だった。
一方でユウは、群れでの集団生活を送ってきた妖として、長という身分へ無条件で尊敬の眼差しを向けている。
社会性を持つ数少ない妖怪にとって、身分とは単純な力量の差だ。
強い者が弱い者を気紛れで重用もしくは寵愛する事はあっても、弱い者が強い者を従え使うという事はまず起こり得ない。
市長、即ち長、即ちこの昼間原市を治める者。そしてかがりは市に雇われているのだと聞いている。ならばヒーローであるかがりの上に立つこの人間も、さぞや強くて凄いに違いない。期待に満ちた眼差しをユウは男に向けた。いまだ人間社会への理解が完全ではないユウにとっては、身分や役職に対する認識も単純なのである。
大柄な男だった。
ざっと見積もっても身長は180cmを超えているだろう。
長身を包むのはライトグレーの厚手のスーツ。ぴんと襟の立った白のシャツに、左右均等な結び目も美しい、薄くストライプの走った紺色のネクタイ。そして丁寧に磨かれた黒光りする革靴と、いずれもひと目で逸品である事が窺える。
この寒さの中でどういう訳かロングコートの前を閉じず、後ろへ流したマフラーと合わせて肩に引っ掛けるように着ているせいで、ラフさが前に立ち高級感は幾らか薄れてしまっているが、おかげで成金趣味を感じさせなくなってもいた。
髪は、フェルトの中折れ帽にほとんど隠れている。
おそらくオールバックで、見える範囲の黒髪には所々に白髪の筋がひび割れのように走っていた。染めてはいないらしい。
眉間に向かいぐっと締まった眉。半分眠っているように下りた瞼と、面白そうに、そしてどこか皮肉げな笑みを湛えている口元が、面長で角ばった顔立ちに漂う厳しさを幾らか緩和していた。
全体的に見て、身なりは非常に整っている。
年齢に疲れてもいなければ地位に溺れてもいない、いいところ勤めの堅実な重役。外見から受ける印象はまさしくそれだ。会社員としても政治家としても、組織の代表として公の場に立たせて恥ずかしくない容姿という意味では申し分ない。
長い脚に、しゃんと伸びた背筋。45歳という市長職に就くにはかなり若い年齢からは、歳月を経て得られる貫禄とは別の力強いエネルギーを感じさせる。
くたびれた年寄りよりもこちらを、と好感を持つ人間が多くてもおかしくはなかった。
問題は口調である。
何かとスキャンダルが取り沙汰される昨今、政に関わる者となればプライベートでも、否、むしろ本性が現れるプライベートでこそ最も言動に気を配らねばならないという風潮に真っ向から逆らい、こと職場を離れるとざっくばらんにも程があるのがこの男だった。
乱暴、適当、品性の欠如。
十代二十代の若者ならともかく、市政のトップという高い社会的地位を持つ四十過ぎの男の話し方ではないが、何故か本人にも、そして周りにもそれを気にする様子は一向にない。
「おっちゃんは蟻巣塚っていうんだ。はい、これ名刺」
蟻巣塚は屈むと、ユウの顔の前に名刺を差し出してみせてから、それを首輪に挟んだ。
「かがり! 名刺もらった!」
「良かったな」
どう答えたものやら、これは。
喜ぶユウの頭を撫でてやってから、かがりは改めて一から説明を始めた。
先程は触れずにいたユウが山を出てきた動機の件や、この際だからと店を改装しようと思っている件、幻の祭りに迷い込むまでの流れも含めて、今度は包み隠さず蟻巣塚に話す。
蛇を手放した事については厳しく咎められるのを覚悟したものの、蟻巣塚は表面的には聞き流していた。
むしろ、最も目立った反応をしたのがユウの英雄志願の話が出た時であった。
英雄ゥ?と初めに素っ頓狂なガラガラ声をあげ、次いで呆れたように、あるいは本気で感心しているように蟻巣塚が唸っている間、ユウはずっと誇らしげに胸を張って座っていた。
そこは自慢するところではないと、話の合間にかがりはこっそり溜息をつく。
最後にこれから実行しようと考えていた脱出計画を説明すると、蟻巣塚も賛同した。
「まずはそれを試すんでいいんじゃないかね。協力するぞ、人海戦術といこう。
率直に言って、どう現状打破したらいいかオレにも分からん。こういう時は地道にいくのが一番だって遠い親戚も言ってたし、な」
「本当に言っていたんですか、それは。どうせいつもの適当な吹かしなんでしょう」
「ご機嫌斜めだなフッチー。このまま出られなきゃそろそろ生モノが傷み始めるもんな」
「ですからその呼び方はやめてくださいと何度も」
「そんなに嫌なのか……よし、特別にオレの事もアリスって呼んでいいぞ」
「双方共に嫌です」
かがりは力強く言い切った。
そういえばフッチーって何なのと、だいぶ遅れてユウが尋ねる。




