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昼間原の女 - 10

今度こそ、狐の時間は停止した。

吹き飛ばされた瞬間でさえ、スローモーションに過ぎなかったというのに。

今の今まで女と仲間にばかり奪われていた目を、のろのろと腹部へ向ける。

大きく、深く抉られていた肉。いかに法外な生命力を誇る妖といえど、死は免れない程の肉体損傷。

その幅15センチばかりの横長の傷が、びっしりと鱗で覆われていた。

鱗の一枚一枚は小さく、非常になめらかだ。凹凸に乏しい為、全体で一枚の革のように見える。

赤と黒と黄のまだら模様の鱗が、脇腹の吹き飛んだ箇所とそっくりそのまま置き換わった様は、まるで皮膚病にかかったかのようだった。


「他に方法がなかった」


絶句する狐に、女が目を伏せて言う。


「私の体を……というか身体能力を構成する一部を、移植……した。

おかげでその力はほとんど失くしてしまったが、それはいいんだ。勝手にやった事だからな。

問題はお前だ。お前が受けた傷は、いくら妖でも手の施しようがないものだった。

治療法を知っていそうな奴らは、何とか沈静化させたばかりで……」

「いやー、まず俺たちを起こしてーなんてやってたら間に合わなかったと思うぜ。

そもそも起こされたってあんなん治せないし」

「救命って課題には最適解だったと思うよ。決断力のある女性って僕は素敵だと思うね兄さん」

「俺もだ弟」


兄弟狐に褒められても、女は浮かない顔のままだった。

己の身に何が起きたのかをいまだ正確に把握していないのは、当の治療を受けた狐だけである。

途方に暮れている狐に、すまない、と女は告げると、それきり黙り込んでしまった。

ここまで気落ちした姿を見るのは初めてだっただけに、狐はただおろおろしているばかりだったが、女が大切な力の源を差し出して命を救ってくれた事だけは遅まきながら理解できた。

とにかく何か喋らなければという思いが、勝手に口を動かす。


「え、えっと、なんで謝るの!?

ほっとけば死んでたのを助けてくれたんでしょ、感謝してるよ!

そりゃコレには凄く驚いたし、助けられたからって従う訳にはいかないけどさ、でも」

「だから従わないの無理なんだって」

「正確には治したというより取り込んでるからね。ほら、丁度そこの」


弟狐が、畳の上に放置されたままになっていたリードへ目をやる。


「あの綱で彼女に繋がれちゃってる感じ。

動き回れはするけど綱の長さから先には行けないし、綱を引っ張られたら戻らなきゃいけない。彼女もやりたくてやった訳じゃなくてさ、手持ちの札で何とか君を助けようとしたら、こうするしかなかったんだと思うよ」

「……その通りだ。私は、お前を強制的に従わせる気なんてなかった。

だが私のやり方で助ければ、結果的に繋がってしまう。せめて、死か従属かをお前に選ばせられていればな……」

「そ……そんな! じゃ、じゃあ俺、ずうぅうっとこのままなの!?」

「あー、その事なんだけどな。お前が寝てる間に、俺らと姐さんで話し合ってよ。

お前、ちょっとこの姐さんのとこで勉強させてもらえ」


更なる爆弾が投下された。


「…………え?」

「従僕ついでにね兄さん」

「従僕ついでにな弟」

「従僕ついでって何!? 何そのついで!?」

「むしろ従僕がついで?

道具扱いしたりしないって言ってくれてるんだよ、高待遇じゃない」

「だ、だってそんな……まずジューボクとか従うとかそういうのがさ……!

本当にそれ話し合ったの!? そんなの冗談じゃないって嫌がったのに押し付けたんじゃないの!?」

「ここで拒むくらいなら、最初から助けてないと思うけど」

「ほっぽって全力で逃げてりゃ済む話だもんな。お前あんまこの姐さんに失礼な事言うなよ」

「う……」


確かに、命の恩人に対して限りなく失礼だ。

両耳を伏せて上目遣いになる狐に、女はぽつりと呟く。


「あのままお前を死なせる事は、私には出来なかった」


そう言われてしまっては、狐も喚くのをやめて項垂れるしかない。

あの日から今日までの扱いだけでも、女の善意は充分過ぎる程心に染みていた。

だから、分かる。これは本心であるのだと。


「話、聞くか?」

「……うん」

「ここではない何処かの、誰とも知らない、だが何処かにいた人間の話だ。

その人間は、言ってしまえば平凡な男だった。

平均的な家に生まれ、幾つかの長所と短所を持つ性格で、学歴もまた標準。

長じて家庭を持ち、贅沢こそ出来ないが極度の貧乏に悩まされもせずに、男は歳を取った。

そんな男が、自らの人生の変革を試みたのが80歳の時だ。

男は自宅の庭に小屋を建てると、買い集めた画材を抱えてその中に引っ込んだ。

以後、男は一日のほとんどの時間を、そこで絵を描いて過ごした。

家族との関わりも、友人との付き合いも、ほとんど全てを断って。

あまりの変貌に誰もが驚き、呆れ、案じた。歳を取っておかしくなったのだと噂する者もいた。

その6年後だ、男の絵がとある大きな賞を得たのは。

男は命の終局に差し掛かって、これまでの人生とはまるで無縁だった、画家という夢を叶えた。

それが、本当に男の夢だったのかは分からない。

ただの趣味だったのかもしれないし、周りが噂した通りおかしくなっていただけかもしれない。

それでも、男は結果を出した。本心を計り知る事は出来なくても、結果だけは確かだ。

10年。僅か10年で揺るぎない名声を得、その2年後に男は死んだ」


女はそこで、一度呼吸を整えた。

何度か瞬きをし、つい固くなりがちな顔の筋肉を解そうとする。

話の内容は物語を読み聞かせているようで、今ひとつ実感が湧くものではなかったが、それでも狐は真剣に聞き続けた。


「月並みな言葉だが、何かを始めるのに遅すぎる事はないという。

華々しい成果を挙げられるのは選ばれた者だけだとしても、それは間違いなく真実でもあるんだ。

だったら、お前が目指す英雄になるのだって同じ事じゃないかと私は思う。

人間50年、今は100年か。

たったそれっぽっちの生涯でさえ、遅すぎるという事はないんだ。

それと比べたらお前はどうだ? 妖の、狐。生まれ持った時間は人間よりずっと長い。全力疾走をやめて、一回ここで立ち止まって学ぶのも、お前にとっては僅かな足踏みに過ぎない。

学んでもやっぱり無駄に終わるかもしれないが、英雄への道が拓ける可能性も、まぁゼロとは言い切れないさ」


必ずなれると言い切らなかったのは、救う為とはいえ夢に水を差してしまった狐に対する女なりの誠意だろう。

口調はぶっきらぼうであっても、語る声は優しく狐の耳に入ってくる。

女の口元が緩んだ。やや寂しげに。


「……ずっと、ではないよ。

私とお前の関係は、対等な協力とは程遠い強制的な支配と隷属だ。

それも、私が死ねば終わる。

何十年後か、何年後か、私がお前に使ってやれる時間は、お前の一生からすれば長くはないが――」

「そういう事。

どっちみちそんな状態じゃ連れて帰るのは無理だからさ、置いてくしかない訳よ。どうしても嫌だってのなら姐さんごと連行する事になるけど、それだと今度は俺らがマズイ」

「人間一人の一生の間ここで使役される。

それを刑罰って扱いにして上と掛け合ってみるつもり、僕と兄さんでね」

「お前ときたら意識ばっか先走って、何やっても地に足着いてなかっただろ。立ち止まんのはいい経験だよ。姐さんが言ったみてぇに、ホントに英雄ロードが拓けるかもしれないしさ。ま、無理だと思うけど」


話を引き継いだ兄弟狐が、交互に話をまとめにかかる。

勝手に決めるなという困惑や怒りは、不思議ともう狐の中には湧いてこなかった。

完全に納得した訳ではない。しかし女がしてくれた話を思い出すと、激しい感情はすうっと引いていく。


何かを始めるのに、遅すぎる事はない。


その時、ふと狐は思った。老いて画家の夢を叶えた男の話を、女は、いまだ決まった道しか歩けない自分自身へも語り聞かせていたのかもしれないと。

才能があったから店に残ったと、あの公園で女は狐に言った。

しかし、それは首輪と鎖にまではならなかった筈だ。何度だって、他の生き方を選ぶ機会はあった筈である。

それをしなかったのは、この街が好きだからというのもあるが、何よりも思い切れなかったからだろう。

だからこそ、無力なくせに夢のままに生きている狐に優しかったのだ。

だからこそ、夢を抱いていた狐を自分と同じ囲いに閉じ込めてしまった事に心を痛めているのだ。


「……それとも、私を殺すか?」

「え」

「私が死ねば、いわゆる使い魔のお前は自動的に解放される。

お前が私を直に害するのは無理だが、そこの友達にやってもらえば不可能では……ない。群れに帰れば別の罰が待っているとしても、人間に使役される屈辱は避けられるだろう。

だから、もしもお前が――」

「やだっ!」


膝の上に飛び乗ってぶるぶる首を振る狐に、女が目を丸くした。

仮に群れへ戻れても、そこで受ける罰は死の影がちらつく非常に厳しいものになる可能性が高い。だったらここに留まる方が得策だ。ある程度頭の回る者なら、誰でもその結論に落ち着く。

だが、狐を動かしたのはそうした損得勘定ではなかった。

また、英雄として相応しくないという判断からでもない。

もっと単純に、血塗れで横たわる女の骸を代償に自由を得るのは、嫌だと思ったのだ。


「それは、やだ」

「おし、じゃ決まりだな」

「決まりだね兄さん。選択権なんて一切無かった気もするけど」

「言ってやるな弟。男には自由を捨てても女の膝枕を選ばねばならない時があるのだ」

「違うんじゃないかな。それにしても人間が短期間で随分と懐かれたものだね。どうやったの?」

「さあなぁ……強いて言うなら稲荷寿司かな……」

「稲荷寿司? 興味ある」

「それは興味あるな弟」

「興味あるね兄さん」


本題は解決したと見たらしく、兄弟狐は稲荷寿司、稲荷寿司と連呼している。

さすがに苦笑しながら、出前を取るべく電話を探そうとした女は、いまだ膝に乗りっぱなしの狐に気付く。

狐はじっと女を見上げていた。女は暫くその眼を見詰め返してから、そうだな、と、ひどく穏やかに呟く。


「お前は、足踏みついでに私を踏み台にしていけ」


伸ばされた手が、膝に縋り付いた狐の頭を優しく撫でた。



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