6話 トニーと二人の誘拐犯~噛み合わない犬目線と人間目線での誤解が重なる~
「おい、坊や。起きろって」
大きな手が、何度も僕の身体を揺らしていた。僕も起きたいんだけど、どうしても身体がまだ自由にならないんだよね……と思ったその時、僕は自分の手が、一瞬、ぴくりと動くのを感じた。
もうちょっとで起きるんじゃないかな。ほら、おじさん頑張って!
「意識を奪う時に、俺、強く打ち過ぎたのかなぁ……」
「警戒心がなさすぎで、熟睡しているだけだろ」
別の男の人の声が聞こえたと思ったら、僕の頬に、ぺちぺちと大きなものが当たった。痛くはないけど、少しくすぐったくて、父さんに「朝だよ、トニー」って起こされるみたいだったからか、僕の身体が勝手に寝返りを打った。
僕は、自分の身体が起きようとしているのを感じた。瞼に力が入って、身体にもぼんやりと自由が戻って来るのを感じた。
もうっ、起きろったら僕の身体!
心の中で『わんッ』と吠えて怒鳴った時、ハッとして僕の目が開いた。どうにか上体を起こしてみると、開いた目にいきなり太陽の眩しさが入り込んできたので、慣れるまで目を細めて少し待つしかなかった。
辺りの光景がはっきり見えてくると、僕が車の中にいて、開いたドアから二人の男がこちらを覗きこんでいるのが分かった。最初に僕に声をかけた人が――面倒だから『太っちょ』って呼ぶことにする――少し心配そうな顔をして尋ねてきた。
「坊や、痛みとか吐き気はあるかい?」
僕が首を横に振ると、車の奥にいた髪のない人――彼のことは『髪無し』、って呼ぶには失礼だからそのまま『おじさん』って呼ぼうかな――が、腕を組んで僕を見下ろしてきた。
「坊や、おじさんから、いくつか質問があるんだ。正直に答えてくれるね?」
お話したいってことだよね? 僕は小首を傾げて、それから、任せてと応えるように胸を張った。
「うん、いいよ」
「賢い子だね。おじさん、そう言う子は好きだよ」
おじさんはそう言うと、口元だけで笑って、太っちょに顎で合図を送った。太っちょが紙とペンを見せる。
僕は、どちらのおじさんも黒い服を着ているから、暑くないのかなぁって思った。まっ昼間より太陽は強くないけれど、それでもやっぱり暑いと思う。辺りを見回すと、ここが畑のド真ん中で、陽影は僕が座っている車の中だけしかなかった。
「まずは、君の名前だ」
「僕? 僕はトニー」
僕が答えると、おじさんが大げさに溜息をついた。
「坊や、そんなに小さな子供じゃないんだから、フルネームで言えるよな? ファミリーネームは?」
問い返された僕は、少し困ってしまった。フルネームとかファミリーネムって、なんだろう?
「太っちょさん、僕は『トニー』だよ」
「『太っちょさん』って、地味にひどい……いやいやいや、名前がトニーなのは分かったけどな、そのぉ」
「おい坊や、家族皆の名前に入っている、同じ名前のことだよ」
言い方に困っている太っちょの横から、おじさんがそう言って確認させてきた。
僕は、ショーンや父さん達の名前が、もう少し長かったことを思い出した。でも、あれは父さんたちの名前であって、僕のじゃない。僕は『正直に話してくれるよね』と言ったおじさんとの約束を守るために、きちんと説明することにした。
「うん、あのね、家族の皆にはあるんだけど、僕にはないの。皆、僕のことは『トニー』ってしか言わないんだよ」
すると、太っちょが驚いたように飛び上がって、おじさんが大きく目を見開いた。
「え? えッ? き、ききき君は、養子か何かなのかい?」
「『ようし』って? 太っちょさん、何言ってるの? ちゃんと説明するとね、僕には本当の親はいないけど、二人のことは『父さん』と『母さん』って呼んでいるよ。その子供のショーンとは一番の友達なんだけど、その妹のペギーは、いつもひどいことをするから苦手なんだ」
太っちょが、震える手で「ショーンとペギー」とメモ帳に書いていた。おじさんが息を飲んで、なだめるように僕に尋ねてくる。
「ショーンと、ペギーっていう子がいる家なんだね?」
「うん、ショーンは大好きなんだけど、本当にペギーったら乱暴なんだ。この前なんか、何度も口でボールを取りに行かされて、最後は川に突き落とされたんだよ! それなのに、ペギーったら、僕が勝手に川に飛び込んだって父さんに言ってさ。父さんも、それを信じてるんだよ」
怒りが蘇ってぷんぷんし始めた僕を見て、おじさんが動揺しつつ「まぁまぁ」と言って宥めてきた。
太っちょが、ぎこちなく歩み寄って来て、ペンを持っている手で額の汗をぬぐう。やっぱり、すごく暑いんだろう。こんな時期に、黒い服で全身を覆っているからだよ。
「なあ、坊やは一体、どこに住んでいるのかな……?」
太っちょがそう問いかけてきて、おじさんが確認するみたいに、口を閉じたまま僕を覗きこんだ。僕は『正直に答えてくれ』と先程言っていたおじさんを見上げて、だから包み隠さず話すことにした。
「ショーン達が住んでいる大きな家にね、広い庭があるんだ。そこの端に、小さな僕専用の小屋があって、僕はいつもそこにいるの。身体に合わせて作られているんだけど、僕が横になれる分の大きさしかなくて、あまり寝返りも打てないから、普段は芝生の上で横になっているんだ」
「待った待った、ちょっと待ってくれッ」
またしても、太っちょが飛び上がった。話の途中だったので、僕が「何?」と言うと、おじさんの方が喋り出した。
「それって、世に言う『犬小屋』なんじゃ……」
「そう、それ! それが『僕の家』だよ! おじさん、よく知ってるね!」
僕は嬉しくなってしまった。その話をすれば、きっとショーンと僕が、どれだけ仲がいいか分かってくれるはずだ。だから、わくわくとした気持ちを隠せずに、僕は言葉を続けていた。
「その小屋はね、ショーンが父さんと一緒に作ってくれたんだよ。色つけもデザインも、ショーンがやったんだ。僕はとても気に入っているんだけど、雨が降ると大変なんだよね。すごくじめじめして、隙間から雨が入って来るから、身体中が濡れちゃうんだ」
僕のために作ってくれたなんて、とても素敵なことだ。そう身振り手振りで伝える中、どうしてか『おじさん』と『太っちょ』の顔色は、僕のテンションに反して、どんどん悪くなっていく。
変だなぁと思った僕は、自分の説明不足に気付いた。
「あ、でも丸くなっていれば、雨が降っていても小屋の中は快適だよ。体温は確保出来るし、小屋の中には、そんなに強い風だって入ってこないもの。ただ、小屋の前に置いてあるご飯が、ぐしょぐしょになっちゃうのは困りどころかな」
僕はしみじみと言って、ふと、このことは言っておかなければと思って続けた。
「そうそう、ご飯はね、いつも母さんかショーンが持って来てくれるんだ。毎日新鮮なお水に入れ替えてくれて、粒状のカリカリとしたご飯を入れてくれるの。初めて目にした時は、一体なんだろうって僕も思ったんだけど、食べてみると、すごく美味しいの! うーん、名前は忘れちゃった。それから、花壇の水やりの時が、僕は一番好き。母さんがホースで水をまきながら、僕にこうやって――」
身体に当たる水飛沫の良さを伝えようとした時、突然『おじさん』と『太っちょ』が後ずさったので、僕は続けるタイミングを逃してしまった。
もうっ、これからが良いところなのに、一体どうしたっていうの?
それを僕が尋ねるよりも速く、彼らが青くなった顔を見合わせて、声を揃えてこう叫んだ。
「……犬小屋の前に置かれていて、雨でぐしゃぐしゃになってカリカリしている……つまり『ドッグフード』!」
「あ。そうそう、それ。そういう名前だったね」
なぁんだ、ちゃんと僕の話が分かっているじゃない。
そう僕は笑い掛けたつもりだったけど、おじさんがひどく可哀そうなものを見る目を向けてきた。隣にいる太っちょは、ぶるぶると震えたまま、手に持っていたペンとメモ帳を落としてしまっていた。
「ホースで身体を洗う……? そんな、兄貴どうしよう、あまりにもひどすぎる………!」
「どうしたの、太っちょさん? 晴れた日だけだよ、すぐに乾いてくれるもん。母さんたちが僕の水を忘れた時なんかは、最高なんだよ。ホースを口に向けてきてさ、こうやって口を開けて飛び込んだら、口の中も洗えるし、喉が渇いていたら水分も取れるし――」
「それ以上は止めてくれ!」
突然、太っちょが頭を抱えてうずくまってしまったので、僕はびっくりしてしまった。
「どうしたの? 大丈夫? 頭が痛いの?」
おじさんが、太っちょの背中をさすりにかかりながら、チラリと僕を見やった。どうしてか、その目は若干潤んでいた。
「……よく、こんな良い子に育ったな。酒飲みだった俺のとこよりひどいのに、お前は、こんな真っ直ぐな目をして、まっとうに生きているのか……ぐすっ」
僕は、おじさんが何を言っているのか分からなかったので、小首を傾げて少し考えた。先ほどよりも眉間から力が抜けているようだし、話をして聞いてあげたから、父さんが言うように『心が軽くなった』のかもしれない。
おじさんは、太っちょを起こすと、ふっと弱々しい微笑みを浮かべて僕を見下ろしてきた。
「坊や、話してくれてありがとうよ。おじさん達、これからはまっとうに生きて行こうと思う。さっきのところまで、送っていってあげるからな」
「うん、ありがとう。道は分かる?」
「……ああ、分かるよ。はじめっから、この辺りは調べ済みなのさ」
「じゃあ、どうして僕に道を訊いたの?」
不思議になって僕が尋ねると、おじさんは遠い目をして、少し陽が傾きかけた空を見上げて、こう言った。
「君と、話しがしたかったのかもしれないなぁ…………」
やっぱりお喋りがしたかったみたいだ。
僕がなるほどと納得していると、太っちょが「何か食べたい物はないか?」と訊いてきたので、お腹は空いていなかったから首を横に振った。
再び皆で車に乗り込んで、ちょっとしたドライブが始まった。
僕が物珍しげに二人がいる前の方の席を覗きこんでも、彼らは何も言わなかった。僕は太っちょに何度か質問をして、円状の『ハンドル』と彼が踏んでいる『アクセル』と『ブレーキ』という単語を何度か口で繰り返したりした。
おじさんが、少し悲しそうな表情で僕を振り返ったけど、見つめ返すとふいっと視線をそらされた。
僕は、なかなか乗る機会がない『車』に興奮していた。大抵はお留守番だったから嬉しい、と口にしたら、何故か太っちょが俯いて、おじさんが目頭を押さえて窓の向こうの空を仰いでいた。僕は「どうかしたの?」って訊いたけど、誰も答えてくれなかった。
マイケル、まだ空き地にいるかなぁ。
興奮が収まってきた頃、僕はようやくマイケルのことを思い出したのだった。




