2話 トニーのお出掛け、そして出会ったのは……
僕は、本来だったら散歩でショーンと歩くはずだった住宅街を駆けた。
ほとんど庭がついた一軒家だけど、やっぱうちには敵わないと思う。大きくて立派な家々が多い中で、僕のために整えられた庭の素晴らしさと過ごしやすさが、一番だからだ。
一軒家の並ぶ住宅街を出ると、見慣れた交差点が現われたので、僕はショーンが学校でしか向かっていない右の道へと入った。いつも左に行って公園を抜けて海岸まで駆けていたから、この道は入ったことがない。
知らない道だったから、僕は慎重に歩いた。ふと、毛並みに埋まった首輪から、中途半端にぶら下がっている紐が邪魔だと気付いて、それも口でガブリとくわえて「ふんっ」とぶちぎってやった。
擦れ違う大人や子供が、僕を振り返って物珍しそうに見やったけど、気にはならなかった。見られることは、ショーンとの散歩で慣れているし、いつも父さんやショーンがキレイにしてくれている、ふわふわの立派な毛並みは、尻尾の先まで僕の自慢だった。
僕は大きな建物が並ぶ道を進んだところで、少し勇気がなくなって、自分の耳と尻尾がたれるのが分かった。
ほとんどお店ばかりで、なんというか、とても居心地が悪い。太ったおじさんが僕を見て、「うちのパン屋に入ったらただじゃおかないぞ!」と言って怒鳴ってきた時は、怖くなってびっくりして、慌てて駆け出していた。
しばらく行くと、辺りは少し古い住宅街に変わった。
たくさんの子供たちの声がする広い敷地内の建物を見つけて、歩み寄ってみると、大きく開いた鉄の扉には看板がかかっていた。似たような文字を、どこかで見たような気はするけど、僕には読むことが出来なかった。
「先生、さようなら」
そこから飛び出してきた男の子が、そう言って僕の横を通り過ぎていった。ショーンくらいの大きさだった。……ということは、ここがショーンが毎日通っているという『学校』なのだろうか?
そう推測した僕は、少し希望が持てたような気がして元気になった。すると、中にいた大人の女性が、僕に気付いて難しい顔をした。あ、なんか嫌な予感がする、そう思った矢先、大きな男の人がやってきて、僕をしっしっと追い払った。
「全く、誰が放し飼いにしているんだ? 犬っころ、ここは学校だから入っちゃ駄目だぞ!」
分かったよ、と答えて、僕はのろのろと歩き出した。ここが学校である確信が得られたので、男が中に入っていくのを横目に見たところで、振り返った。ここに、マイケルがいるといいんだけどなぁ、どうやって捜せばいいんだろう?
その時、反対側の道に黒い犬がいることに気付いた。耳が短く尖っている、とても賢そうなかっこいい奴だった。隣に綺麗な服を着こんだ太ったおばさんがいて、通り過ぎる車を横目に立っている。
僕は、彼にマイケルのことを訊こうと思い、ここから彼に聞こえるように尋ねてみた。すると、彼は背筋を伸ばして座ったまま、ちらりと僕を見やって、静かに首を横に振る。
そうか知らないのか……、と僕が座り込んで肩を落としてしまったら、彼が「そいつはどんなガキなんだ?」と渋い声で尋ねてきた。僕がショーンのことを伝えると、彼はかっこいい推理をしてくれた。
「そいつが苦手っていうくらいなら、きっと『マイケル』は、ショーンとは違って乱暴か腕っ節の強いガキなんだろうな。そういう連中は、学校に居座らないもんだ。とっくに建物から出ているだろう」
僕は彼に礼を言うと、いく当てもなく歩き出した。マイケルの顔も匂いも知らないから、ただ歩いているだけじゃ捜せるわけはないと分かっていたけど、でも、だったらどうすればいいんだろう?
前も見ずに、途方に暮れて歩いていた。人の気配がなくなって、淋しい気配を鼻先で察知してようやく、僕は顔を上げた。
右手にはフェンスの付いた小さな荒地、左には高い灰色の建物の背中がそびえたっていた。どの建物も後ろを向いていて、たくさん落書きがされている。
左右を見ても、そんな知らない風景が広がっていて、見たこともない裏道に入りこんでしまったようだと理解した。
僕は、改めて壁の落書きに目を留めたところで、ペギーとその仲間たちを思い出して嫌な顔をした。ペギーはこの前、少し荒れた公園に僕を連れていって、そこの壁に似たような落書きを見ていた。
ごちゃごちゃとした落書きから目をそらして、僕は気を取り直して歩き始めた。
そもそも僕は、自分が歩いた道なら、どこへ行っても家まで帰ることが出来るのだ。今はペギーとの嫌な記憶を思い出すよりも、マイケルを捜すか、ショーンを元気づける方法を考えなければならない。
けれど誰もいない道をとぼとぼと歩き続けていたら、寂しさを覚えて、つい口の中でショーンの名を呟いてしまっていた。頼りない鳴き声に応えてくれる人はいなくて、そうしたら少し悲しくなった。
やっぱり一人きりは駄目だ。
どうにかしてショーンを元気づけて、一緒にいてやらないと。
その時、地面に人影が見えて、僕は立ち止まった。
なんだろうと思って視線を上げてみたら、上からゆっくりと降りてくるお爺さんがいて、途中の宙でピタリと立って、浮いたまま僕を見下ろしてきた。
そいつはたっぷりの白い口ひげをした、とっても腹周りの大きな老人だった。あんなに真っ赤な服をつけた老人を見たのは、去年のクリスマスというイベント以来だ。そう、彼はまるでショーンたちが言っていた『サンタさん』に似ていた。
人間は、鳥のように飛ぶことは出来ない。僕は、少しだけ驚いて後ずさりした。老人は浮いていることなんて当たり前だ、と言わんばかりの顔をしていて、しばらくすると地面に降り立って僕に近づいてきた。
老人の足音は、不思議と僕の耳でも聞こえなかった。まるで宙を浮いて寄って来るみたいだ、と僕は思った。微かだけど、どこからか小さな鈴の音が聞こえてくる。
「こんにちは」
えっと……、こんにちは?
唐突に声を掛けられた僕は、恐る恐るそう答えた。あなたってショーンの言っていた『サンタさん』に似ている、と続けてみたら、彼が「私はサンタクロースだよ」と言ってきたので、僕は顔を顰めて見せた。
だって、ショーンは言っていた。『サンタさん』は『クリスマスの夜』にしかやってこない、だから一年に一度の特別な日なんだって教えてくれたのだ。
「少し足りない材料があってね。妖精のところに、買い出しに来たんだよ」
彼はそう言って、僕の目線に合わせるように少し屈んだ。
「君の心は、今とても沈んでいるね。どうしたのかな?」
まるで、父さんのように優しい口調で老人が言う。
僕は迷ったけど、素直にショーンのことを告げた。すると、彼は白い眉と髭をゆるめて僕を見つめてきた。
「トニー君、君はとても優しい子だね。良かったら、私が少しだけ手助けしてあげようか」
どうして? と僕は首を傾げかけて、ハッとした。
この人、僕の言っていることが分かるんだ! 人間にはこの声が聞こえないはずなのだけれど、どうしてだろう?
「ほっほっほ、私はどんな子とでも話せるよ。唯一話せないのは、大人だけさ」
大人だけ?
「そう。彼らには私が見えないし、声も届かないんだ」
老人は少しだけ寂しそうに、そう僕のよく分からないことを言って、ふっくらとして口ひげを手で撫でる。
「私は魔法使いではないから、大きな手助けは出来なくてね。さて、どうしようか……君はマイケルという少年を捜して、ショーン君を元気にしたいと望んでいる…………ふむ」
独り言を始めた老人に、僕は魔法使いなのって尋ねてみた。すると、彼は困ったように微笑んだ。
「魔法は使えるけれど、大きなものは年に一回だけ。良い子供には形あるプレゼントを、大人には夢と希望を心に届けるんだ」
僕がよくわからなくて尻尾を数回揺らすと、何か閃いたかのように、老人が表情を明るくして「そうだ」と手を打った。
「トニー君、私は大きな助けは出来ない身だけれど、君が『人と話せるように』一時だけ、人間にする魔法をかけよう。そのあと、頑張るのは君だ。やってみるかい?」
僕が人間に? そうすれば、人に尋ねてマイケルも捜せるかもしれないね!
そう喜ぶ僕に、老人は穏やかに笑った。
「でも、いいかい、トニー君。姿は人間になるけど、見た目が変わってしまうだけだからね? 君はとても力が強いままだし、中身もそのままだ。だから、人間が平気で食べているものでも、君には毒になったりする。それは気を付けるんだよ?」
人間が食べているものを、あれこれ食べちゃ駄目っていうのは、いつも父さんやショーンから言われているし、人を傷つけちゃ駄目だってことも、母さんから言われてずっと守っているんだから、全然平気さ!
「よろしい。それから、この魔法は信じる力でなりたっているから、決して誰かを傷つけてはいけないよ。日が暮れるまではもつ魔法だけど、そんなことをすれば、たちどころに『奇跡』は君から離れてしまうからね? その間に魔法を解くのなら、君がそう望んで、もう満足だと願えばいい」
うん、分かったよ!
僕が力強く頷くと、彼が微笑んで目を閉じるように言った。僕は、人と話せるようになった自分を想像しながら目を閉じて、ドキドキしてその時を待った。
「変化が終わるまでは、決して目を開けてはいけないよ。これは、本来なら『クリスマスの奇跡の一端』だからね。――さぁ、始めようか」
彼の言葉が聞こえた瞬間、僕の身体が暖かいものに包まれて、ゆっくりと地面から浮き上がるのを感じた。僕は驚いて目を開けてしまいそうになったけど、ぎゅっと瞼を閉じて、その不思議な感覚に身を任せていた。
僕は、人間になれるんだ。彼らと言葉を交わせるようになったら、まずはマイケルを捜して――そうだ、彼から話を聞いてみよう! ショーンと友達になってあげてって伝えて、それから、ショーンを元気づけてあげるんだ。
もし時間があるのなら、僕がどれだけ家族を好きなのかショーン達に伝えて、一緒に楽しくお喋りをしても、いいのかなぁ……
瞼の裏が眩しくなって、僕の思考はそれにかき消された。




