前編
横読みとルビの編集いたしました。
辛抱して読んでくれた方、お詫びとお礼のお言葉を申し上げます。
「ここは一体……」
重いまぶたを開けて2、3度瞬きをして起き上がった。
薄暗い部屋。
中央には木造の丸テーブルと、
湾曲の脚の椅子がぽつんと並んでいる。
なぜ、こんなところにいるんだ?
脳細胞を絞り考え中。
だめだ、思い出せない。
そもそも自分が誰なのかすら思い出せない。
取りあえず立ち上がろうとして、
下半身を包んでいた茶色の毛布をどかす。
きっとぼくが風邪を引かないように、
かぶせてくれたのだろう。
四つ折りにした毛布を椅子にかけて部屋中を見渡す。
手がかりがあるはずだ。
壁際には2メートルはあるだろうと思われる、
本棚が仁王立ちしているしている。
背表紙を指でたどる。
六法全書や広辞苑、
英和辞典、生物図鑑など、
頭を殴られたら即死してしまうくらいの分厚い本ばかりだ。
試しにひとつ手にとってパラパラとめくる。
すると本からカビたような臭いが鼻孔を踊らせた。
収穫はなし。
パタンと本を閉じて棚に戻す。
アルバムらしきものがあれば記憶が蘇る気がする。
だか、本棚を指でなぞってみても、
その類いのものは存在しなかった。
何でもいい、手がかりがほしい。
するとオフホワイトのカーテンが並ぶ窓が目に付いた。
外の様子が気になったぼくは、
カーテンを左右に払いのける。
外は地面をえぐるような土砂降り雨で、
所々に水たまりが湧いている。
その先には青や紫など名も知らない花や草が生い茂っており、
薄く靄がかかっている。
ゴーン。
錆びた金属音に、
ぼくの心臓が飛び上がった。
反転すると、ドアの横に大きな古時計が立っていた。
カチコチと休みなく振り子を揺らしている。
時刻は4時半。
外の明るさと比較してみても、
午前か午後か判断に迷ってしまう。
ここから出てみよう。
それしかなかった。
ぼくは丸ノブをひねり、ドアを引いて身を出して閉める。
「……」
言葉を失った。
そこは洋風の大広間になっており、
中央には2階へとレットカーベットが伸びている。
天井には煌びやかなシャンデリアが、
吊されて淡い夕焼け色に輝いている。
キキキキキー。
ドアの開く音が隣から、ふと右を向くと女の子が立っていた。
水色のトップラインのキャミソールに白のショートパンツ。
膝上までかぶる黒のオーバニーソックス。
夏を感じる服装だ。
髪は茶色く後ろで束ねている。
この人なら何か知ってるかも。
ぼくは勇気を出して声をかけた。
「あのー、すみませんが」
「きゃああああ!」
突然、布を裂いたような黄色い声を発して走り出す。
「待ってください」
負けじと追いかける。
彼女は泳ぐような仕草で、
手と足をバタつかせて2階へ。
「怪しいものではありません」
説得を交えて距離を詰める。
「はあ、はあ、はあ」
廊下の隅に追い詰められた彼女は、
ナイフのように目を尖らせて息を切らしている。
「待ってください、
決して怪しいものではありません。
話を聞いてください」
息を整えたぼくは、
警戒を解く作戦へと大きく踏み込んだ。
「いやああああ! 近寄らないで!」
壁にもたれかかっていた背丈ほどのほうきを、
頭の上まで大きく振りかぶって一気に振り落とした。
「うっ」
思わず目を閉じて頭を隠すようにガード。
あれ、当たってない?
すると丸太のようなたくましい腕が、
ガッチリとほうきの先を捕らえていた。
「離して、離してよ!」
彼女は号泣しながら、
泥のように地面に座る込む。
全くもって今の状況が把握できない。
「お怪我はないだぁ?」
ぼくを助けてくれたのは、
2メートルくらいの筋肉がムキムキの大男。
その容姿からは想像できないほど優しかった。
「ありがとうございます」
礼を述べて立ち上がったぼくは聞いてみることに。
「実はぼく、自分の記憶がなくて。
なにか心当たりはありませんか?」
すると後方からふたりの姿が。
1人目は細身でメガネをかけており、
ネイビー色のジャケットにスーツ。
もうひとりは、白Tシャツのカムフラージュ色のベスト。
そして濃緑のショートパンツの女性。
マシンガンやサバイバルナイフを隠していそうで、
戦場に出会しても違和感がない。
「ほら泣かないで」
女性は崩れている女の子の介護に当たる。
「君、大丈夫かね?」
細身の男性がぼくに語りかけてきた。
さっき聞きそびれてしまったから尋ねてみよう。
「大丈夫です。ところであなたは誰ですか?」
「知らない」
「じゃあ、ぼくは誰ですか?」
「知らない」
なんだなんだ、この下りは?
もしこの流れで「ここはどこですか?」と聞いても答えは一緒だろう。
「どうやら君も記憶喪失のようだね」
細身の男は小首をかしげた。
その言葉は、ぼくに問いかけているのか否か見当が付かない。
でも「君も」ってことはもしかして?
「えっ、あなたたちも記憶がないんですか?」
「残念ながらそうなんだよ。
僕たち3人はみんな一緒の部屋で倒れていたらしく」
ぼくは苦笑した。
「そんなわけないでしょう!
ここにいるみんなが記憶喪失なんて。
みんなグルになってぼくをハメているんでしょう、きっと。
ほ、ほら、ドッキリかなんかで」
「……」
だが誰ひとり答えてくれなかった。
みんな?
つい口走ってしまったが、
ぼくを襲った女の子の真意は確かめていなかった。
「その子だったら記憶ががあるかも」
「ねえ、自分が誰だかわかる?」
保護に当たっていた女性が優しく語りかける。
「ううん」
泣きべそをかきながら左右に首を振る。
「うそだあ!
さっきぼくを見て逃げたじゃないか。
心当たりがあるから、
そういう行動に出たんじゃないの?」
「……」
ぼくに質問には答えてくれなかった。
これは立派な差別だ。
「そもそも記憶喪失ってもっと酷いもんじゃないの?
言葉とか仕草とか忘れるくらいの」
「確かにそうかもしれないね」
細身の男は言った。
「多分僕たちが陥っているのは、
自分自身を忘れるくらいの軽度なものだと思うよ。
こうやって普通に行動しているし」
「確かに、重度によってレベルがあるかもしれませんね」
素直に頷くことにした。
なぜなら今考えてる根本的な理由はそこではないから。
「まだこの屋敷に生存者がいるかもしれませんぞ」
ずっと黙って、ぼくたちのやりとりを耳にしていた大男がしゃべり出した。
「あたしはこの子を見てるから3人で捜索して」
ここは同性同士のほうが良さそうだ。
ぼくたちは散らばった。
大男は1階へ、
細身の男は手前にあった部屋を開けて、
ぼくは走って対抗側の部屋へ。
「失礼します」
コンコンと裏拳でノックする。
一応念のために。
もちろん返事はない。
そーっとドアを開ける。
部屋の中は薄暗く、本棚、ベット、テーブルなど、
ぼくが倒れていたところと、
さほど変わりがない。
何だろう? あれ。
ふわりと白い布を発見。
注意深く近寄ってみると、
床に黒髪ロングの女の子が寝ていた。
白い布はワンピース。
背丈を計算すると、
ぼくに殴りかかってきた女の子より幼いような気がする。
死んでいる?
ここからでは寝息を確認できなかった。
「こっちは誰もいない。おーい、誰かいたか?」
細身の男の声がフロア中に広まる。
まずは連絡しよう。
「この部屋に女の子がひとり」
するとぼくのところへ全員駆け寄ってきた。
「人形ではないようだね」
細身の男はどことなく怪訝そうに言うと、
「じゃあ生存を確認してきてくれたまえ」
「なんでぼくが?」
反射的に抵抗すると、
3人の視線がぼくに有無を言わせてくれなかった。
ちなみにぼくを襲ってきた女の子は、
しくしくと泣きながらうつむいている。
「わかりましたよ」
正直言うと嫌だった。
同じ目に遭いそうで。
理由はないが、
そっと忍び足で女の子に近寄る。
すっーすっーと息が漏れているので生存の確認はできた。
「生きてますよ」
よし、これで役回りは終了。
「体を揺すって起こしてくれ」
「そこまで聞いてませんよ」
「早くー」
仕方なく肩に触れて揺らしてみた。
や、やわらかい。
まるで大福のような弾力性。
少しでも力を加えたら砕けてしましそうだった。
女の子は目をこすってゆっくり上半身を起こす。
「あ、君は」
ぼくが問いかけると、
ビクンと肩をつり上げて震えて始める。
「だから怪しいものじゃなくて、その」
両手をグチャグチャにかき泳がせながら必死に言い訳をする。
女の子は可愛らしく小首を傾げた。
「反応はどうなの?」
ラフな格好の女性が、
ぼく後ろから顔を出してきた。
既に半円を描くように、
後ろにはみんな固まっている。
泣いていた女の子、
被ってしまうので、
ポニーテールの女の子は泣き止んでいて図々しくも、
「この変なお兄ちゃんにセクハラされなかった?」
カチンときた。
「なんでぼくが、
そんなことしなくちゃいけないんだよ!」
「目つきがなーっんかやらしーし、
あたしのこと襲おうとしてたくせに」
「ふざけんじゃねーよ!
こっちは自分の記憶もないんだぞ」
「あたしだってないよ。
だから不安だったんだから」
表情が曇ってきた。
目尻を下げてまた泣き出しそうな雰囲気だ。
「ほら、ふらりとも静かにするだ。
ところでお嬢ちゃんは、
自分が誰なのかわかるかなぁ?」
大男がしゃがみこんでにっこりと微笑む。
この状況を人混みの中で見かけたら、
間違いなく通報されるレベルだ。
「……」
だが、黒髪の女の子は左右に首を振るだけだった。
ぼくたちと同じ記憶喪失者。
「これで6人目ですね」
ぼくがそう告げると、
細身、大男、ラフな女性の吐く空気が一気に重くなった。
「実はもうひとりいたんだ」
細身の男は尻つぼみに言うと、
「あまりいいものではないが、
君たちにも見て欲しい」
「見てほしいって、
あたしらから行かなくちゃダメなんですか?
メガネさん」
「メ、メガネ?」
ポニーテールの子の直球に細身の男は動揺した。
「君ね、僕がメガネをかけてるからって、
メガネってストレートすぎないか」
「じゃあ、な・ま・え言ってください。
そう呼びますから」
確かに名前がない以上、
これはこれで不便だった。
「よし、思い出すまで個人のニックネームでも決めるとするか」
乗り出してきたのはラフな女性だった。
「じゃあメガネはメガネで」
「待ってくれ!
メガネ以外にしてくれないか?」
よっぽどメガネが嫌いらしい。
「なんでだよ、
メガネは体の一部なんだぞ。
しゃーねーなー、
じゃあメガネ1号」
「だからメガネは外してくれって!」
ふたりが揉めていると、
「はいはーい」とポニーテールの子が挙手をして、
「真面目そうだから、
エリートとかハカセとかは?」
「ハカセで構わない」
やっと鞘に収まったらしい。
「んで次はあたい。どうかな?」
ラフな女性は自分を指さして、案を求める。
だが、誰も口に出してはくれなかった。
「なんかないのか、おまえら」
その指先を払うようにして、
ぼくに付きだした。
「えっと、じゃあ肌が日焼けしているので、
コムギさんはどうでしょう?」
「コムギさんか……」
腕を組んで腑に落ちない様子。
人に振っといてそれはないだろう。
「センスゼロね」
横から口を挟んできたのは、
憎たらしくもポニテ子だった。
「反論するんだったら、
ぼくよりも良いの言ってみろよ」
「んーとね、頼りがいがあるから、
あねきかあねごの2択」
「まあ有りだね」
ここは一歩引いてあとは本人に委ねよう。
「あねきかあねご。
あねごのほうがしっくりくるな。
これからはあねごって呼んでくれ」
ハハハっと大声で笑い出した。
「次は、その白のワンピースの子。
自分でなんかないか?」
ターゲットは目覚めたばかりの黒髪少女に。
「……」
だが、金魚のように口をぱくぱくさせてばかりいた。
明らかに様子がおかしい。
「もしかして喋れないの?」
ポニテ子は前屈みになって顔を覗かせた。
黒髪少女はコクリと強く頷く。
こんな幼い子が記憶もなくて、
声も出ないなんて。
ぼく以上に不安なのかもしれない。
「んじゃあ、白ちゃんでどう?
ワンピース白だから」
そのまんまじゃねーか!
と心底でツッコミを入れたが、
黒髪少女は再度頷いたので口にはしなかった。
「次はあたしー。あたしはヒメって呼んでね」
ポニ子は活発に挙手をして自己アピール。
「反対だ。ヒメはねーだろ!」
「はあ? 反論するの?
あたしにふさわしい名前決めてよ」
「チビだ」
「ブー。あたしより白ちゃんのほうが低いもん。
却下!
ヒメできまりー」
ぐぬぬぬぬぬ、
なんだこの腸を煮え繰り返すような心境は。
「気持ちはわかる、ここは落ち着こう」
ぼくの肩を叩いたのは、
「わかりました、メガネさん」
「ハカセなんだが」
「次は君か」
あねごさんがチラッとぼくを見る。
遂にこのときが来たのか。
ぼくの存在はみんなにどう映るんだろう?
あらかじめ候補を選んでおこう。
そうだな、天才とか英雄とか救世主とかもいいだろう。
「バカ、アホ、マヌケ、キチガイ、
ヘンタイ、ウンコ、女の敵、ブサイク、
おまえのかーちゃんでーべそ。
さあ、この中から好きなものを選びな」
「それ全部悪口じゃねーか!」
殴りかかるような勢いでヒメに怒鳴りつけた。
「人がせっかく考えてあげてるのに、べーだ」
反抗的に舌打ちをして、そっぽを向いてしまった。
「他にありませんか?」
みんなの顔色をうかがった。
「普通なんだよね」
とあねごさん。
「……普通ですか」
そんなに特徴ないかな、ぼくって。
「こいつだけ名無しでいいんじゃない?
別に困らないし」
「あのなぁ」
ヒメがぼくの導火線に火をつけようとしていた。
「では聞くけど、君はどう呼んでほしいんだ?」
ナイス質問。
ハカセさんのその言葉、
首を長くして待っていたんですよ。
「いろいろあるんですけど、そうですねー」
「却下!」
「おい、こら!」
またしても口を挟んできたのはヒメだった。
一言も言ってないのに、もう!
「では仕切りを直して。
そうですね、
天才とか英雄とか救世主の3択なんですけど、
いかがですか?」
「……」
まるで幽霊が通り抜けたように黙りこくってしまった。
すみません、調子に乗りました。
沈黙を破ったのはハカセさんだった。
「ここはシンプルに、
太朗なんてはどうかな?」
「太朗……ですか?」
おとぎ話じゃないんだから。
「もういいよ、そいつの名前、太朗で」
大きく背伸びをして、
首をコキコキ鳴らしながらヒメが言う。
「いや、ぼくの名前だ。
最重要課題に匹敵する」
「あんた、いいかげんにしろよ!
自分の名前決めるのに、
どれだけ時間使ってんだよ!
実名じゃないんだから、
呼びやすい名前でいいんだよ、
コノヤロウ!」
鬼のような形相でぼくに指を突きつけてきた。
この勢いに負けて「はい」と情けなく返事をしてしまった。
ヒメとは絶対に気が合わない。
きっと他人同士だったんだろう。
「それぞれ呼び名も決まったことだし、例の部屋に行こう」
ハカセさんが先陣を切って誘導する。
表情はどんよりと重く、
そしてぎこちなかった。
「おらぁの呼び名が、決まっておらんのだが……」
大男が涙交じりに眉をひそめると、
「熊さん!」
あねごさんとヒメが、
打ち合わせをしたんじゃないかってくらいピタリとシンクロした。
丸太のように太い腕と太もも。
口まわりの黒いひげ。
この2点だけであだ名が、
熊と言われても否定はできない。
ちなみにぼくが考えた第2候補は、
イエティで第3候補はキングコング。
「おらぁが熊さん?」
本人は納得していなく、
胸のまえで真剣に腕を組む。
おい、誰か手鏡を持ってきて見せてやれ。
「熊さんは熊さんなんだから、
熊さんって呼ばれたら返事しなくちゃダメですよ」
白い歯をむき出してヒメが説得に取りかかる。
「う、うん」
しぶしぶと頷く熊さん。
もう諦めてくれ。
そう呼ばれたくなかったら、減量でもするんだな。
ここでひとまず人物と名前のおさらいをしておこう。
まずスーツでメガネをかけた細身の男が『ハカセ』。
次に、カムフラージュのベストを着て、
小麦色に日焼けしているラフな女性が『あねご』。
そして、じゃじゃ馬で小生意気なポニテが『ヒメ』。
黒髪ロングで声が出ない少女が『白ちゃん』。
大男が『熊さん』で、
ぼくが『太朗』。
こんなもんだろう。
「随分と長居してしまったようだね。
例の場所へ案内するよ」
メガネ……じゃなくてハカセさんの手招きで、
ぼくたちは中央階段を降りて左に曲がる。
つまり、ぼくが最初に倒れていた部屋と対向側の部屋だった。
「いいかい? 心の準備は。開けるよ」
ドアノブをひねり、手前に引いて開ける。
ここに7人目が。
だけど、何で出てこなかったのだろう?
だが、このどんよりとした黒い空気で確信が持てる。
ゴクンと喉を鳴らして凝視すると、
床いっぱいに白い紙が雪のように降り積もっていた。
更に一歩踏み出して中へ。
アンモニアの腐ったような臭いが、
ぼくに警笛を鳴らす。
これはやばい。
氷で背筋をなぞられたような衝撃。
ズームアップしてみると堅のいい、
白衣の男が、社長が座っていそうな木製の広い机に顔を伏せて寝ている。
机上にも真っ白な紙が降り積もっており、
所々にドズ黒い血の斑点が飛び散っている。
「きゃあああああー」
ヒメはヒメだけに悲鳴を上げてあねごさんにしがみつく。
一方、白ちゃんは手で口元を覆っている。
ぼくならともかく女の子にこういう惨劇を見せるのは、
トラウマになりかねないんだが。
「……ここは?」
ゴクンと息を飲み干して尋ねるとハカセさんが、
「ここは熊さん、あねごさん、僕と3人が倒れていたところなんだ。
もちろん死んでいる男のことは知らない。
君たちに見せたのは、
もしかしたら記憶が戻るかもって期待はしてたんだが、
その反応だとショックだけを与えてしまったようだね。
すまない」
深々と頭を下げる。悪意はないらしい。
「いいえ、でもここって書斎っぽいですよね?
やたらと本が飾ってあるし」
ぼくは記憶をさかのぼるように、
ゆっくりと部屋を一周する。
だが、つーんとさびた火薬のような血の臭いしか収穫はなかった。
「この死んでいる人、
このままじゃ、まずいですよね?
早く警察に連絡しないと」
何気ない一言がみんなの顔を凍らせた。
「そうだよ、警察だよ!
なんで早く気がつかなかったんだ」
あねごさんがポンと手を叩いて、
頭上の豆電球を光らせた。
「ケータイ持ってないか?」
みんながぺたぺたと体中に手を押しつけて捜索中。
6人もいるんだ、誰かしら持っているだろう。
ぼくはその様子をじっと眺めていた。
「なんだよ、持ってねえのかよ」
「あねごは持ってるの?」
ヒメが言った。
「あたいはもちろん……あ、持ってた」
胸をポンと叩いた瞬間に異物を発見したようだ。
「早く通報してよ」
「うん」
だが、ケータイを片手に石像になったように、
硬直してしまった。
「もしかしてバッテリー切れですか?」
悪感を読み取ったぼくは、横から覗き込むと、
「いや、パスワードが思い出せなくて……」
「なんで自分で入力したパスワード忘れちゃうんですか!
思い出してくださいよ。
ほら、えっと誕生日とかあるでしょうが。
こっちは一刻を争ってるときなんですよ」
「うっせえ! 記憶がないんだよ。
わかんねえのか、アホ」
鼓膜を破るくらいの大声でブチ切れた。
小さな唾液のシャワーが顔まで飛んできて汚い。
「4ケタだから順番に潰していくしか手立てはなさそう」
「おまえバカじゃねーえの!
3回間違えるとロックがかかって使用できなくなるんだよ。
これ常識だかんな」
うぬぬ、見下された気分。
なんでロックがかかる常識は覚えていて、
肝心のパスワードを忘れてるんだよ。
だとすると他に方法は?
足元を見ても白い紙だらけ。
さささっと一部分だけ回収すると、
意外なものを発見してしまった。
「ケータイありますよ、これ。しかも5台」
拾い集めると、みんなが物珍しそうに寄って集まってきた。
「おい、これ貫通してるぞ」
その1つを取って、
あねごさんはぽっかりと空いた穴からぼくを覗いてきた。
「うっ、本当だ」
「バカだよね。
ふつう、こんな穴開いてるんだったら、
あたしらに見せる前に気づくよね」
ヒメがそっぽを向いて鼻先で笑う。
ちくしょう、舞い上がって気づかなかったんだよ。
ヒメに言われると余計ムカつく。
ケータイを広げていた手が軽くなった。
ふと視線を落とすと白ちゃんが1台抜き取って、
表裏をひらひらと見ている。
「見覚えあるの?」
聞いてみると難しそうな顔をして、
ぼくに突き返してきた。
それにしてもなんでケータイに風穴が開いているんだ?
嫌がらせ以外考えられないんだが。
「近所に誰かいませんですかね?」
メガネを光らせながら、
ナイスアイディアを叩きだしたのはハカセさん。
「ちょっと探してくるベ」
部屋を出ようとする熊さんにぼくは、
「外は土砂降りなんで気をつけてくださいよ」
と、アドバイスを送ると軽く手を挙げて出て行ってしまった。
ひっそりと耳を澄ましてみると、
地を叩く雨音が、
ザーザーとテレビの砂嵐のように聞こえる。
残念ながらまだ止んでいないようだ。
これで連絡が取れれば問題解決……だろうか。
「他にケータイ持ってるヤツいねーか?」
ひょいっと右手を挙げてあねごさんは見渡した。
大体そんなこと聞いてどうするんだ?
持っていたとしても、
暗証番号がわからなくて使い物にならないだろうが。
「僕、持ってますよ」
ハカセさんは背広の内ポケットから、
折りたたみ式の黒いケータイを取りだした。
「ナイス、貸してみろ」
ハカセさんのケータイを分捕ったあねごさんは、
くの字に曲げて電源ボタンを押す。
「おい、起動しねーぞ」
「バッテリー切れみたいですね」
ガキ大将のように奪い取られたのにもかかわらず、
ハカセさんは冷静に言葉を返す。
「使えねーな」
ボギッっと関節が折れるような音がした。
なんとあねごさんは、
逆への字にハカセさんのケータイを曲げてしまった。
「ちょっとあねご、何壊してんのよ!」
その姿に口を割ってきたのはヒメだった。
「悪りぃ。
反対に曲げちゃた。
別にイラッとして曲げたわけじゃねーかんな。
ほれ返すわ」
ハカセさんの手元にはハの字のケータイが。
「まっ、電池切れだし別にいいだろ。
どうせ入ってたって暗証番号わかんねえし。
結果オーライってことよ」
ガハハハハ、と大笑いをして帳消しにするつもりだった。
これじゃあまりにもハカセさんが可哀想すぎる。
ぼくはあねごさんに、
「壊したんなら、ちゃんと頭を下げて謝ってくださいよ」
「ちょっと太朗、
股間が膨らんでるぞ。
なーに考えてるんだよ。
こんな事態に不謹慎なヤツだな」
「えっ?」
目をニヤリと光らせて、
ぼくのズボンを指してきた。
あねごさんの隣では、
ヒメが「やらしー」と軽蔑の眼差しが。
慌てふためき股間をガード。
だが膨らんでいる部位は、
右ポケットの辺りだった。
「違いますよ、これですって」
取り出してみたのは、
クリーム色の立方体のケース。
表面はうぶ毛のようにふさふさしていて、
どことなく高級感がずっしりのしかかっている。
「それってエンゲージリングじゃない?」
さっきまで冷たい眼差しを送っていたヒメが、
目をぱちくり開けている。
「えんげーじりんぐ」とあねごさん。
「婚約指輪のこと」
「サプライズか。
ってことは、あたいたち3人の誰かにプロポーズするために、
持ってきたってことだな」
ぼくの横に来たあねごさんは、
「このー、このー」と言って肘を2回押しつけた。
「どうでしょうかね」
曖昧な返答をする。
もちろん覚えがないから。
「早速確かめてみようぜ。
じゃあ、あたいから」
そう言うと、指輪ケースごと奪って開けて左薬指にはめる。
ヒメが「なんかシンデレラみたい」と嬉しとうに拍手。
ちなみにダイヤの大きさは米粒程度。
いかにも、なけなしの金を叩いて買ったとみえる。
リッチじゃなかったんだな、がっくし。
「キツいな。ほれ、次は白だっけ」
あねごさんは、
ぼくの後ろにいた黒ロング少女の白ちゃんに渡した。
喋れなかったので存在すら忘れるところだった。
「……」
頬をうっすらと染めて薬指に挿入。
あねごさんもそうだったが、
こういうシチュエーションには緊張するらしい。
「……ぶかぶかだな」
残念ながら彼女の指にはフィットしなかった。
まあ当たり前か、幼すぎる。
「はいはーい。最後はあたしね」
白ちゃんの指から抜き出すと、
ヒメはためらいもなく左薬指に装着。
「うっそおー! ぴったりじゃなーい」
左手をくるくる回して感触を覚えてあとに、
天に掲げて晴れやかに笑う。
マ、マジかよ。
反対にぼくは、
肩に鉄球が下りたように身体が重くなった。
「もったいぶってないで素直にプレゼントしてよね。
あ・な・た」
二の腕にしがみついたヒメは、
アイドルのようにウインクをして頬を紅潮させている。
「はははは……」
180度性格変わりやがって。
女って怖い生き物なんだな。
「おふたりさん熱いねぇー」
あねごさんがヒューヒューと冷やかしてきた。
その横ではハカセさんが、
だらだらと拍手をしている。
ハカセさんにとっては迷惑な空気だろう。
一方で白ちゃんは、
ぼーっと突っ立って動かない。
マネキンかと思ってしまった。
「はあ、はあ、はあ」
そして熊さんが大きく息を切らして帰ってきた。
バケツの水を頭からかぶったように全身がずぶ濡れ。
ぼくの忠告を聞いてなかったのだろうか。
「連絡は取れましたか?」
ハカセさんが熊さんの息を整ったことを見計らって尋ねる。
「ダメだっただ。
この屋敷周辺が断崖絶壁で、
1本のコンクリートの橋で向こう岸と繋がってるだけだったべ」
その声はどことなく絶望的だった。
つまり近所には家がなく、
この屋敷が孤立していることだろう。
「では誰かが橋を渡って、
助けを呼びに行きましょうか?」
「やめておいたほうがいいだ」
熊さんはキッパリと言った。
「雨脚も強いし、
暗くなってきてる。
もし行くとすれば明日に回すべきだ。
それにその先は視界が悪い。
遭難しかねないだ」
「そうですか。
明日の朝に回しましょう。
それでよろしいですか?」
ハカセさんの案に、
ぼくは首を振って同意した。
わざわざ危険を冒してまで進むべきではない。
むしろこの屋敷で待機していれば、
向こうから助けが来る可能性が大。
まさに『果報は寝て待て』作戦。
そう考えれば楽だった。
だが、目の前に見ず知らずの人間が死んでいる。
そう考えると胸が締め付けられるくらい不安だ。
「明日の朝か。問題は山積みだな」
あねごさんの声もどことなく疲れ果てていた。
ハカセさんが、
「問題とは?」
「雨風は凌げるけど食糧とかあんのか、ここ。
それにこいつ、
そのまま放置しちゃまずいんじゃねーの?」
グイグイと親指を指す先には、
机にもたれ死んでいる男の姿。
ぼくと同じくあねごさんも気にしていたらしい。
「食糧ですか。
まあ食べるものがなくても明日まで我慢すればいいことですし。
確かにこの遺体を放置しておくのも気が引けますね。
本来なら現場検証で動かしてはいけないでしょうが、
この蒸し暑さでは腐敗が進みかねません。
どこか涼しい場所に寝かせておくのが無難かと」
遺体を移動させるって嫌に決まってるだろ。
「太朗くん、お願いできますか?」
ハカセさんはメガネのレンズを光らせて、
ぼくにターゲットを絞ってきた。
拒否オーラを解放していたのにも関わらずに。
「嫌ですよ。
遺体に触るなんて気持ち悪い。
言い出しっぺのハカセさんひとりでやってください」
「それではもうひとり……」
うーん、と低い声で唸りながら考え込んでしまった。
「あのう、人の話聞いてますか?」
そこであねごさんが、
「もうひとりはヒメでいいんじゃねえ?
太朗とヒメの愛の共同作業ってことで」
「不謹慎すぎますよ!
死人が出てるんですよ!
もっと真剣に考慮してください」
「あねごったらもう。
でもあたし箸より重いもの持ったことないから、
太朗に委ねちゃう」
……頭が痛くなってきた。
こうなったら必殺、なすりつけ作戦。
「ぼくたちふたりで運ぶより、
熊さんひとりでやってもらったほうが、
人件費削減できますよ?」
「おらぁ、箸より重いもの持ったことねえだ」
「ムキムキの肉体で、
か弱いセリフ言われても説得力ないです」
ぼくの頭痛が2割ほど増して脳に縛りつけてきた。
勘弁してくれよ。
「男のクセにウジウジ御託並べやがって!
ズバッとジャンケンで決めるしかねえな。
一発勝負、
最初はグー、ジャンケーン」
あねごさんが拳を振り上げると、
みんな輪になって手を強く握りしめた。
「ポーン」
力ってしまったのか、
5人はグーで一人だけチョキ。
ハカセさんの負けだった。
すごい、珍しく1発で決まるなんて。
「おまえひとりでやっておけよ」
あねごさんがぼくたちの背中を軽く押して、
ハカセさんを取り残して部屋から出て行こうとすると、
「待ってくれ」と呼び止められた。
「やはり遺体をむやみに動かすのはよくない。
このまま放置しておくべきだと僕は思う」
自分に回ってたのは想定外らしく、
見苦しい言い訳を述べた。
「じゃあ最初っから動かすなんて言ってんじゃねーよ!
そもそもここに置いておいて大丈夫なのか?」
「冷房でキンキンに冷やしておきましょう」
机上にある白いリモコンを手に、
ピッピッピッと電子音をなびかせて冷房を稼働させた。
すると、ひんやりとした空気が滑り落ちてきて部屋中を包み込む。
「設定温度は15℃にしておこう。
すまなかった。
実は僕も遺体を触るのに抵抗があったんだ」
申し訳なさそうにハカセさんは深く腰を曲げた。
許してあげよう、ぼくは心が広い男だから。
「どうかしましたか?」
ハカセさんが頭を上げると、
白ちゃんが1枚の用紙を手に広げた。
そこには印刷文字でこう書かれていた。
『お前たち人間のクズは、
我が実験のモルモットにさせてもらったよ。
記憶は私が消去した』
白ちゃんを中心に、
その文章をみんなが目撃した。
「モルモットって、
あたしたち人体実験のために記憶喪失になったわけ?
なんでよ、どうしてよ?」
両肘を抱えてヒメは震えている。
ゴクンと息を飲み干したハカセさんは白ちゃんに、
「この紙はどこに?」
白ちゃんは遺体の机のあたりを指した。
「ということは、
この遺体の男が我々全員に記憶喪失の薬を投与して、
自害したってっことでしょうか」
何度も首を動かしながら、
腑に落ちない様子のハカセさん。
その推理も意味がわからなかった。
実験結果を見守らないで、
自殺する理由なんてあるのだろうか。
「ちょっと、白ちゃん」
ぼくの声が漏れてしまった。
なんと白ちゃんが、
伏せている男の遺体を起こしてるのではないか。
遺体は椅子にもたれかかるようにふんぞり返っている。
白目を剥きだして、
口からは滝のように、
よだれが糸を引いていた。
「どうやら、この男も被害者のようだね」
ハカセさんはじーっと遺体をにらめっこして呟いた。
ぼくと熊さんとあねごさんは、
釣られて興味深く覗き込む。
ヒメはぼくから手を離し壁際に背けてしまった。
「ほら、額の中央に弾丸の痕跡が。
誰かに殺されたに違いない」
「そっか。自殺するんだったらこめかみを打ち抜くもんね」
とあねごさん。
「ってことは、
おらたちの他に、
もうひとり屋敷いるってことけぇ」
外見に似つかなく熊さんの声は震えていた。
「いるかもしれないし、
逃げたかもしれない。
食糧のことも兼ねて、
ここはもう1度捜索してみないか?」
ハカセさんは眉間にしわを寄せる。
確かにここに立ち止まっていても何も始まらない。
それに屋敷を捜索すれば、
ふとした衝撃で記憶が戻る可能性もある。
「みんなバラバラになるんですか? あたしはイヤ」
後ろ向きにヒメが言った。
「単独行動は危険を生みかねない。
二手に別れるとしよう」
ハカセさんは完全に場を仕切っていた。
学級委員長タイプだろう、この人は。
それはそれでぼくも助かる。
この状況で二手に別れるとしたら男女別が無難だろう。
熊さんは盾になるし、
ハカセさんは頭脳明晰だし。
このふたりについていけば楽だ。
「あたしと太朗がペアで、あとはそっちで組んで」
「なぬ!」
ヒメの自己中発言に両肩がビクンと跳ねた。
待ってくれよ、
このじゃじゃ馬と一緒かよ。
「何か不満なの?」
「いやだって、
こういうのって男女別になるのが普通かと」
「あたしたち婚約者なんだから、
ペアになるのが当然でしょ」
「は、はぁ……」
すげえな指輪パワー。
「3対3で行動しよう」
ハカセさんが言った。
「太朗くんヒメさんペアともうひとりは……」
静かに小枝のように、
細い手を挙げたのは白ちゃんだった。
「では僕とあねごさんと熊さん。
そして太朗くんとヒメさんと白さんの二手に別れよう。
目的は不審なところの捜索と食糧探しってとこかな」
するとあねごさんが、
「二手って1階と2階に分別するのか?」
「まずは1階から探ってみましょう。
目星がついたら中央間に集合するってことで」
ハカセさんの案に異議もないので、すんなり頷いた。
「あ、それと付け加えてテレビと電話なども探してもらえないかな。
やはり外部との情報も欲しいからね」
「じゃあ、あたしたちは右側に行きますね」
ハカセペアと別れ、ぼくたちは右側の薄暗い廊下へ向かった。
「ちょっと電気ないの? 暗くて進めないって」
ぼくを盾にヒメが背中をギュッと握りしめる。
確かに不気味で怖い。
どこかにスイッチがあるはずなんだが。
壁際を目視すると白いスイッチを発見。
押してみることに。
「早く押してよ。なんで固まってるのよ」
「これを押したら床が抜けて、
針千本の地面に串刺しにならないかと」
「もう!」
ぼくの手を振り払ってヒメはパチンと押す。
すると天井の丸いライトが歓迎するように一列に点灯。
「ほら先に行って」
背中に回ったヒメは命令口調気味になった。
およそ50メートルくらいある長い廊下。
両サイドはガラス戸になっており、
雨粒がぎっしり詰まっていた。
ゆっくりと進むと左腕を捕まる感触が。
視線を送ると白ちゃんが震えながらしがみついていた。
あえて何も言わずに進むことに。
その突き当たりには銀色の扉が。
「ここなんだろう? 開けてみて」
背中からヒメが圧力をかける。
「いや、でも」
「忍者屋敷じゃないって。早くしろ」
抵抗も空しくドアを開けた。
「わぁー、調理場なんだ」
タンスのように大きい食器棚と、
両開きの冷蔵庫に赤ちゃんが入浴できるくらいのシンク、
それとコンロにテーブル。
ヒメの言うことに間違いないだろう。
「問題は食糧ね」
その通りだ。
ここに食べ物がなかったら、
ぼくたちは飢えてしまう。
ヒメが冷蔵庫の前へ。
業務用だろうか、
とにかく大きい。
ヒメと比べると2倍くらいあるかもしれない。
「結構あるわ、
ブロック肉とか魚とか。
3日分くらいあるんじゃない?」
よかったぁ、これで飢えはしのげる。
それにしてもきれいなキッチンだな。
ピカピカに清掃されている。
ネズミやゴキブリもビックリするだろう。
右肩をちょんちょんと白ちゃんが叩く。
「ん?」振り向くと戸棚が開けっ放しになっていた。
「お米にパン。それとパスタ。ラーメンもあるね」
そっと覗くと乾物系の食料がぎっしり。
つい見とれてしまった。
白ちゃんは更に隣の戸棚を開けると、
缶詰もぎっしり満員電車のように密着していた。
これで食糧は確保できた。
「うわぁ見てよ。調味料もいっぱいあるよ」
シンク下の戸をヒメが開けて目を丸くしていた。
要するに明日までの辛抱だから、
巨体な熊さんでも食べきれないから問題ないだろう。
もう1つ肝心なことを確かめることに。
ぼくは水道の蛇口レバーを落とす。
すると滝のように水が落下した。
ホッと胸を撫で下ろす。
「ハカセさんたちと合流しようよ」
ヒメと白ちゃんは既にドアにもたれかかっていた。
「うん」と頷き後を追いかける。
中央間にたどり着くと、ハカセチームは陣を取っていた。
「収穫はいかほどに?」
合流した瞬間に一声を上げるハカセさん。ヒメが答える。
「こっちはキッチンがありましたよ。
もちろん食糧もたくさん。
おまけに水も出るし」
「ご苦労さま。
こちらは浴室があってお湯が沸いていたよ。
大理石で豪華でしたね。
男女別ってことではないけど、
十分泳ぎ回れるくらい広かったね」
お風呂はそっちにあったのか。
「あたし汗でべとべと。
お風呂入りたいなぁ。
でもこの服一着しかなさそうだし……」
ヒメが肩を落としているとあねごさんがニッコリ、
「洗濯機と乾燥機も脱衣所にあったし、
風呂入ってる時に、
ぱぱっとできちゃうって」
洗濯はできるけど乾燥は無理だろう。
ヒメもそう思っていたらしく「ははは」と苦笑気味だった。
「乾燥機に入れている間は、
バスローブを羽織っていれば大丈夫でしょう。
それともう一つ気がかりなことが……」
ハカセさんの目が暗くなった。
「ひょっとして誰か死んでいたんですか?」
重くなった空気を読んでヒメが先手を取った。
「いや、地下に続く階段があってね、
僕たち3人では不安なので、
君たちと相談して行くか行かないか決めようとしていたんだ」
意外にも深刻ではなかった。
ぼくの左横で熊さんが腕組みをして、
もぞもぞと身体を動かしていた。
巨体の割には小心者だな。
「地下に行く必要あるんですか?
あたしお風呂入りたいんですけど」
シャツの胸元を指で摘まんで、
前後にバタバタ煽いでいた。
「ヒメさん反対か。太朗くんは?」
地下か……。ちょっと興味あるな。
けっこうな屋敷だから財宝が眠ってるかもしれない。
でも凶暴なモンスターが牙を研いでいるとも言いかねない。
もしかしたら、
この記憶を蘇らせる手がかりもあるかもしれないし、
かといって、
犯人の隠れ家ってこともある。
「考えすぎー」
ヒメがジト目で決断を求めてきた。
「ぼくも行かなくていいと思います。
みなさん精神的に疲れているようですし。
明日に備えて休養を摂るべきかなって」
「そうですか。で、白さんは?」
首を縦に2回振った。
ハカセさんの質問が悪すぎて、
イエスかノーかわからない。
手間がかかるが、
紙とペンを持たせるべきだったな。
「質問が悪かったね。白さんは地下に行くべきかな?」
今度は上下に首を振って肯定した。
「5対1か。
地下捜索は保留と言うことで。
ではキッチンに向かいましょう」
「えっー! お風呂先でしょう」
ハカセさんとヒメの意見が2つに分かれた。
ぼくたちって、まとまりないな。
「よしわかった、
男女別行動にしよう。
それでどうかね?」
「太朗と一緒に入っちゃダメなの?」
この気を及んで大胆発言。
ヒメと一緒にお風呂!
身体の隅から隅まで洗いっこするのか?
けしからん。
まだぼくたちは、
そういう仲って決まったわけじゃないんだから。
急に口の中の唾液が蒸発して、
こめかみからは汗がだらだらと湧いてきた。
「太朗くん、お腹空いてるだろ? ほら行くよ」
ぼくの手を握ったハカセさんは、
キッチンへ繋がる廊下へ引っ張り出した。
「太朗、またねー」
あねごさんと白ちゃんを両脇に、
ヒメが優しくエールを送ってきた。
「熊さん、行きますよ」
ぼけーっと立っていた熊さんは夢から冷めたようにハッと我に返り、
ぼくたちの後を追いかけてきた。
まさか自分も入りたかったのだろうか。
キッチンへ向かう長い廊下。
ワインレッドのカーペットの上をハカセさんの後ろを歩いて行く。
「こちらにも廊下があるけど調べたの?」
ハカセさんが振り向いて不思議そうにぼくに投げかけた。
キッチンを突き当たり右手には廊下が続いていた。
「いいえ、行ってませんよ」
「ここにキッチンがあるってことは、
こっちはリビングに繋がっているかも」
口元を押さえながら推理モードに入ってしまった。
「気になるなら、みんなで行ってみましょうか?」
「太朗くん、頼んだよ」
「ぼくだけですか?」
「そうだよ。僕たちはキッチンで夕食の下調べをしてるから」
ハカセさんは親指を立ててゴーサインを出してきた。
その横では熊さんが必死で頷いている。
「勘弁してくださいよ。
ライオンが野放しにされていたらどう対処するんですか」
「太朗さんが二手に別れたときに、調べていないのが悪いベ」
熊さんが強気で見下ろしてきた。
ていうか、ハカセさんと話していたんだが。
「オーバーだな君は。
その時は逃げてくれば済む話だよ」
大きく口を開けてアメリカ人風に笑ったハカセさんは、
「健闘を祈る」と口走って、
ぼくの肩を2回叩いて熊さんとキッチンへ行ってしまった。
すき間は空いてないのに、
冷たい風が右から左へ通過した。
ここは腹をくくるしかなさそうだ。
大丈夫、ぼくの予感はハズレることが多いから。
木製のドアを引いて顔を覗き込むと、
長方形のテーブルが中央に木製の椅子が6つ囲んであった。
やはりリビングだろう。
薄暗かったので電気のスイッチを探す。
ドア横に見つかりパチンと押す。
天井のライトがニッコリ微笑んだ。
「失礼しまーす」と謙虚に頭を下げて様子見。
教室1個分の広さだろう。
左側はガラス戸になっており、
名も知らない草花が今も雨に打たれていた。
それにしても殺風景だよな。
テーブルと椅子の他にテレビ、電話と……。
ん? ぼくは光の如く電話の受話器を掴む。
1、1、0をプッシュ。
「もしもし、もしもーし」
返事がない。それどころか音すら聞こえない。
電話機から線を辿っていくと無事に切られていた。
「誰だよ、こんなことをするヤツは!」
怒りを吐いてくるりと反転すると、
畳一畳分くらいの大きさの豪華なテレビと対面する。
期待はしてないが電源押す。
……つかない。
こんちくしょう!
椅子を逆さに持って、
ぶん投げようとしたが、止めた。
まいっか。明日までの辛抱だから。
開き直ってキッチンへ行くことにした。
「ちょっと、なに抜けがけしてるんですか」
キッチンへ入ると、
真ん中のテーブルを囲んでハカセさんと熊さんが、
食パンをむしゃむしゃ食べている。
「カビが生えてないか試食していたとこだぁ」
熊さんは言い訳をして、
イチゴジャムをふんだんに塗ってもう一口大きく頬張った。
カビが生えてるって、
別に食べなくても見ただけでわかるでしょうが。
「太朗くんもどうだい? お腹空いてるよね」
「はい、いただきます」
無造作にハカセさんは、
1切れの食パンを手渡してくれた。
少し抵抗があったが、
お構いなしにマーガリンとイチゴジャムを並々に塗り潰して食べる。
「おいしいです」
疲れ切った脳と、空っぽの胃袋が一時的に満たされた。
「食べてる途中で申し訳ないが、
太朗くんは料理の記憶とかってあるかい?」
一瞬考えてぼくは、
「いいえ、ありませんね」
「困ったな。
直に食べられるのがパンと生野菜と缶詰しかなくて」
明日までしのげれば十分だろうって。
「でも女性陣だったら、いるんじゃないんですか?」
「あの3人で、出来そうなのがいると思うかね」
ハァーとため息を吐いてハカセさんの幸せが逃げていった。
あねごさんとヒメと白ちゃん。
あねごさんとヒメは料理をするタイプではなさそうだし、
白ちゃんは幼すぎるから外しているのか?
「こんなのあったけど、見るけぇ」
口を止めていたぼくに、
熊さんからのプレゼント。
1冊のファイルだった。
残り1口の食パンを放り込んでペラペラとめくる。
肉じゃが、カレー、イチゴタルト、ハンバーグ。
これってレシピノートだ。
誰のだろう?
ふと裏を見ると「福永定光」と書いてある。
男性の名だ。
と言うことは、この中の3人の可能性が高いってことだ。
「ここに名前が……」
「知ってるよ。
僕も熊さんも心当たりがないんだ。
潜在的に思い出すと感じていたんだが、
太朗くんも的外れのようだね」
ハカセさんの言うとおり、
ぼくも何一つ感じなかった。
だとすると、書斎にある男の名前だろうか。
筆跡を辿れば3人のうち誰だかわかる気がするが、
このレシピノートの文字は、
パソコンでプリントアウトしたものなので、
筆跡は諦めることにした。
「ところで、太朗くんが見てきた部屋はどうかね?」
「洋風のリビングでした。
テーブルと椅子があって。
そうそう、テレビと電話もあったんですけど、
配線が切れてて使い物になりませんね」
「ありがとう。
ここで食べるのもなんだし、
リビングに食料を持って移動しよう。
分担は僕が缶詰を持っていくから、
熊さんは冷蔵庫から飲み物を、
太朗くんは缶切りとパンとジャム類をお願いできるかな?」
悪くない役割だった。
ぼくが軽いもの担当だがら。
リビングに移動したのは5分もかからなかった。
中央のテーブルにピクニックのように広げ終えると、ハ
カセさんは窓際に立って風流に外を眺めている。
あとは女性陣を待って食事。
特にやることもない。
ぼくはハカセさんの横に立ち黄昏れることにした。
夜の帳もすっかり下りて、
漆黒に染まり、激しい雨音だけが耳に障る。
ハカセさんは、まじまじと外を見ている。
この景色のなにが興味をそそるのか理解しきれない。
「雨、止みませんね」
心の中を探るために、何気ない話を投げかける。
「そうだね」
視線を変えずに返事がきた。
だが返答に困ってしまい、
ハカセさんとの距離に沈黙の時が流れる。
「太朗くんは今日の出来事をどう思うかい?」
窓ガラスに手を当てて、ハカセさんは言った。
「どうって言われても腑に落ちない部分が多いですよ。
記憶がないし、
人が死んでるし、
電話が繋がらないし、
それに今日が何月何日かすらわからないし」
口にするだけで不安が募るばかりだった。
でもぼくはひとりではない。
みんな同じの立場の人間がいる。
もしひとりだったら孤独に耐えきれずに、
土砂降りの雨の中を爆走してただろう。
「そうだね。不自然な部分が多すぎる。
あの予告状の通りに僕たちは、
この状況にはめられたって言わざるを得られない」
口元をギュッと一文字に力を入れるハカセさん。
怒りと悔しさが交わっているようだ。
しかし気がかりなことが一つある。
「ぼくたちの記憶って、
どうやって失われたんでしょうね?」
「本来、記憶喪失っていうのは、
頭を強打して脳に障害が起きるパターンが一般的だからね。
でも大量にアルコールを摂取して、
目が覚めたらぶっ飛んでるって極軽い症状もあるし。
きっと寝てる間に、
薬でも投与されたんだろう。
あ、これは僕の推理だから当てにしないでくれよ」
確かにハカセさんの考えには一理あった。
と言うことは、
「じゃあ、ぼくたちの記憶は元に戻るんですか?」
「それはわからない。
特効薬があるかもしれないし、
ないかもしれない。
ふとしたことで、
戻る可能性もあり得る。
君は記憶が元に戻りたいと思うかい?」
ズバッと言い切ったハカセさんの問いに言葉を失った。
さっきまでは自分を知るために手探っていたけれど、
自分という人間がどういう者なのか、
真相がつかめないからだ。
モルモットにされるくらいだから、相当な犯罪者かも。
真実は知らないほうが、幸せってこともあるのか。
「重い話になってしまったね、すまない。
にしないでくれ」
ニッコリとはにかむハカセさんは、ぼくの機嫌を取りかかる。
「滅相もありませんよ」
と首と手を左右に振った。
「こんなところにいたのかよ」
あねごさんを先頭に、女性陣がバスローブ姿でリビングに覗き込んできた。
「あー、お腹ぺこぺこ」
ヒメは能天気に腹を抱えている。
白ちゃんは仏頂面。
「みんな揃ったことだから食事でもしよう」
ハカセさんが手を叩く。
「男どもはお風呂に入らないの?」
あねごさんは団扇のように手をバタつかせて自分に風を送る。
け、結構大いきんだな。
むっちりと盛り上がった胸元から、
豊満な谷間がくっきりと映し出されていた。
「ぼ、僕は食後で構わないんだが、
ま、まあいざという時を考えて、
固まって行動したほうがよさそうだし、
く、熊さんは?」
あねごさんの胸を意識していたらしく、
ハカセさんの口調は、
電波の不安定なラジオのように途切れ途切れだった。
そういえば食料をここへ持ってきてから、
熊さんの姿が見当たらないんだが。
「さっき食ったから風呂さ入るベ」
部屋の奥にあるテレビの裏を覗いて、
ゴソゴソと配線を手探っていた。
「ちょっと、あたしたちが入浴しているときにつまみ食いしてたの?
信じられない!」
ヒメがぼくの口元まで接近して、
警察犬のように小鼻を立てる。
シャンプーの爽やかな残り香をかきわけたぼくは、
「毒味に決まってんだろ。
全部食べたわけじゃないし、
こうしてキープしてたじゃないか」
「ふーん、まいっか。
食べたんならさっさとお風呂入ってきなよ。
それとあたしたちの下着、
今乾燥機に放り込んでるから、
戻ってくるときに服と一緒に持ってきてよね」
「うん」
これ以上の抵抗は無意味に近いので、
素直に従うしかなさそうだ。
「うーん、いい湯だな」
ぼくたち男3人は入浴を楽しんでいる。
「広いねぇ」ハカセさんがタオルを頭に、
ふうーっと一息吐いた。
確かに広い。
リビングと同じくらあるかもしれない。
カラフルな小石のタイルで敷き詰められており、
およそ半分くらいは浴槽を占めている。
お湯は透明で温泉って感じはしなかった。
まるで旅館の浴場みたいだった。
「これで外の景色が展望できたら最高だよね」
「そうですよね。
でもぼくたち遊びに来たわけじゃないですから」
「おらぁ、先にあがるだ」
ぱしっと肩にタオルを叩いて、
剛毛の熊さんが立ち上がり出て行った。
意外にもぽっこりとお腹が出ている。
あの身体だったら、
野生のヒグマに遭遇しても同類と間違われるだろう。
「さてと、随分リラックスできたので僕も上がろうかな、
太朗くんは?」
「はい上がります。
熊さんを待たせては悪いので」
脱衣所で体を拭きバスローブ姿に。
入浴前に放り込んでいた3人分の下着は、
既に洗濯終了のボタンが光っていた。
次は乾燥機を覗く。
「あれ、ないよ」
緊急事態発令だ。
女性陣たちの服が消えた。
またしても1つの謎が浮かび上がる。
「ハカセさん、事件ですよ」
ふと後ろを振り返ると、
ハカセさんは等身大の鏡の前で、
ボディービルダーのようにムキムキとポーズを決めていた。
しかも全裸で。
「今忙しいから後にしてくれ」
「は、はぁ」
どこが忙しいんだ?
こっちの方が大変なのに。
もしかしてこの人の記憶喪失の原因は、
頭を打った拍子で成り立ったのかもしれない。
だめだ、当てにならない。
もしかしたら熊さんが。
脱衣所にはいない。
足がもつれながら飛び出す。
「熊さーん!」
ぼくの声は長い廊下に乱反射する。
返事がこない、どうしよう?
女性陣の下着がなくなったら間違いなく殺される。
どうせ死ぬなら、自分がどういう人物か知ってから身を納めたい。
「そっだに大きな声出して何事だぁ」
帰って来たよ返事が。
くるりと反転すると熊さんは、
大きなかごを両手いっぱいに抱えていた。
もちろん中身は、
見覚えがある女性たちの服。
「それを探していたんですよ。
どこ、ふらついていたんですか?」
「ちょっとば、小便してただ」
熊さんの後ろには、
曲がり角が生えていた。
確認はしてなかったが、浴
場の近くにトイレがあるらしい。
「返してください。
それ、ぼくが担当なんです」
「太朗さんだ荷が重すぎる。
ここは力持ちのおらぁに任せるだ」
バスローブ越しに厚い胸板をドスンと叩く。
かごのてっぺんには、
黒のブラジャーとパンツが君臨していた。
大きさを考えてあねごさんのものだと判明。
このスケベおやじが!
これが目的なのバレバレなんだよ。
「わかりました、お願いします。
じゃあ戻りましょう」
「君は僕を差し置いて戻る気なのかね」
突然、脱衣所の扉が開いて、
ハカセさんがぼくの目と鼻の先まで詰め寄った。
「そもそも僕たちは記憶がないうえに、
この屋敷でひとり死人が出てるんだよ。
団体行動を慎むわけじゃないのかね。
各個人の力は微弱だ。
だが、ひとりひとりの力を束ねることで、
無限の可能性と明るい未来が見えてくるんだよ。
それなのに君は独りよがりの行動を取って」
「わかりました、すみません。
だからバスローブ羽織ってください」
言ってることはまともだ。
だが、全裸で説教を並べても、
説得力など皆無そのものだった。
「そこで待機してるように」
くるっと振り向いてハカセさんは脱衣所へ戻っていく。
これでやっと肩の荷が下りる。
でもなにか忘れているような?
「太朗くん、僕たちの服乾燥機に入れておくよ」
ドア越しにハカセさんの声が。
「いけね、お願いします」
深々と一礼をした。
もちろん声しか届ないはずだ。
ただ単に頭を下げておこうってことだけで。
そしてリビングへ。
「どう? いい湯加減だったでしょ?」
ドアを開けたと同時にヒメが寄ってきた。
「うん、悪くないよ」
「ところで頼んでた下着と服って、
な、なんで熊さんが持っているのよ!」
頬を真っ赤にして熊さんから服をカゴごと奪った。
「太朗さんに頼まれただ」
「うっそだぁー。
自分で持っていくって張り切ってじゃないですか。
いい大人なんですから、
自分の言動に責任を持ってくださいよ」
「うおおおおお、急に頭が!
おらは、おらは一体誰なんだ?」
自分自身の頭を両手で包むように掴んで、
ブルブルと左右に振った。
もちろん演技なんで相手にする気にもなれない。
ヒメもこの行動に口をぽかーんと開けて固まってしまった。
「おーい、早く来いよ。
メシ全部食べちゃうかんな」
中央のテーブルでは食パンをかぶりつくあねごさんと、
魚の缶詰らしきものを、
フォークで突っついている白ちゃんの姿が。
「さて僕たちもいただこうではないか、明日のために」
ぼくの肩を後ろから軽く叩いたのはハカセさんだった。
そしてぼくたちは食卓を囲むことに。
熊さんとあねごさんは、
食欲が旺盛で2人で半分以上平らげてしまい、
キッチンから追加することに。
できれば、明日の朝食のことを気にしてほしかった。
「食事も済んだことだし、ここで僕から提案があるんだが」
ハカセさんがすらっと立ち上がり、みんなの注目を独り占めした。
「全員でまとまって取るべきだと思うんだが、どうでしょうか?」
「全員って、みんな同じ部屋に固まって寝るってこと?」
ヒメの声は反発するように尖っていた。
「まあ不満があるのは仕方がない。
それぞれが別の部屋で睡眠を摂って、
朝になってたら死んでいたってことになったら、
原因を追及しなくてはいけないんだ」
「意味がさっぱりわからないんだけど」
あねごさんが口を歪めていた。
「つまり僕たちは、記憶喪失の薬を打たれたってことになる。
みんな腕を見てごらん」
真相を確かめるべく、
左腕を見ると赤い斑点が複数こびりついていた。
「ちょっと太朗の多くない?
あたしのは1カ所だよ」
ヒメが覗き込んでビックリする。
「あたいも同じ1カ所。
憎しみがこもってるね。
こりゃ相当投与されたんじゃない」
あねごさんは半分ニヤけていた。
人ごとだからって、もう。
「太朗くんは今のところ正常だから問題ないだろう。
もしかしたら時間が経つにつれて、副作用が出る可能性もあり得る」
ハカセさんが深く息を吐いた。
ぼくは反論に出る。
「副作用って、有益の代償みたいなものですよね。
ぼくたち何1つメリットなんて得てないですよ。
ここにいる全員がぴんぴんしてるし」
ハカセさんはすんなりと同意しながら、
「きみの言うことも、もっともだ。
けど既に副作用が出ている人が出ているのに気づかないのかい?」
既にってみんな至って普通じゃないか。
目も見えるし、耳も聞こえる。
話すことだって……。
まさか! 考えること数秒。
単純だった答えにビクンと肩が跳ねた。
「白ちゃんのことですか?」
「正解。彼女こそが副作用になる最初の被害者に当たるってことだ」
ヒメがテーブルにバンっと突いて立ち上がる。
「あたしたちだって記憶喪失なんだから被害者なのよ!
白ちゃんが1番なのっておかしいじゃない」
「理解してくれたまえ。
記憶喪失のことを抜きにして話しているんだ。
彼女は自分のことを思い出せない挙げ句声が出ない。
我々より1つ分ハンデを負っているんだよ」
納得したのかわからないが、
ヒメは黙って椅子に座り込んでしまった。
「すまない、大声を出して。
とにかく僕たちに投与された薬が、
人体実験だが定かではない。
遠回りしてしまったが、
このリビングで一夜を明かそうと思うどうかね?」
ハカセさんが鋭利な目でぼくたちを見渡した。
「反対なさそうだね。
では決定と言うことで」
「あのさ」
ヒメがかしこまってゆっくり手を挙げる。
「一応敷居はしてくれるよね?」
「もちろんさ。
男女の境界線は引かせてもらうよ」
「そーじゃなくて、
あたしと太朗は一緒で、その……」
「はあ?」
こんな時にふざけているのか。
喉の奥から甲高い声が漏れてしまった。
「お熱いね。見せつけちゃって。
ラブラブモード全開ってやつか。
あたいたちと別部屋にしたほうがいいんじゃね」
茶化してきたのはあねごさん。
「やだなぁ。当然のこと言っただけなのに。
からかわないでくださいって」
頬を紅潮させて首をブルブルとヒメは否定する。
「仕方ないなぁ、君たちは」
すっかり老けてしまったハカセさんに、ぼくは弁解に入る。
「男女の境界線だけ引いてもらって構いません」
ちょっと怒り口調なってしまったらしく、
みんなしーんと黙ってしまった。
「見栄張っちゃって、太朗のテレ屋さん。
あたしも太朗の意見でいいよ。
お手数かかけてごめんなさい」
「は、ははは……」
なんだったんだ、今の時間は。
笑ってこの場を流すしかなかった。
「でもさ、フローリングで雑魚寝ってのもなんだかねー」
眉を真ん中に寄せながら、あねごさんは気むずかしい顔をしている。
「確かに首が疲れてしまう。
布団でも調達してくるしかなさそうですね。
もしくは布団部屋を探しに行くか」
釣られてハカセさんも同調してしまった。
「誰かに布団持ってきてもらったほうがよくねぇ?」
「ここはやっぱり、
力持ちの熊さんに行ってもらうしかなさそうだね」
「おらが? 勘弁してくれだ。
人を見かけでこき使うのやめてけろ」
激しく首を振って否定する熊さんにハカセさんは、
「もう1人付けますよ。
そうだね……あねごさん行ってくれますか?」
「はあ? なんであたいなんだよ。
てめえが行けよ。
さっきジャンケンで負けただろ。
なんでもかんでも指図すれば、
こっちが喜んでしっぽ振るなんて思ってんじゃねーよ、このメガネ」
「その呼び方止めてください。
仕方ありませんね。
太朗くんとふたりで探してきましょう」
「なんでぼくが」
ハカセさんの思考回路のネジが狂い始めたように思えた。
ぼくはジャンケンで勝ったはずだ。
なのに……。
「イヤなんですか?
今の状況で単独行動はいかがなものか、話し合いをしましたよね。
忘れてしまったのですか?
わかりました。
太朗くんは全裸で寝てもらいましょう」
「全裸って関係あるんですか? イヤに決まってますよ!」
「じゃあ代わりに、ヒメさんに付き添ってもらいます」
「あたし? あたしが太朗と全裸で寝るってこと?」
「違いますよ」
勘違いヒメにハカセさんがダメ出しをする。
ぼくとヒメが全裸って。
どういう関係なんだこれ?
「太朗くんが嫌がるので、
僕とヒメさんが布団を探しに行くってことです」
「あたし箸より重いもの持ったことないもん」
ニッコリと笑って見せるその表情はハカセさんではなく、
ぼくに向けられていた。
要するにおまえが行けよ、
とオブラートに包んでいるんだろう。
「あのー、ハカセさんと行ってきます」
もちろんイヤだけど、床面で寝るのもイヤだった。
「ありがとう、心強いよ。
じゃあ行こう」
「もう出発するんですか?」
「君は男のクセに行動力が欠けるね。
善は急げってこと知らないの?」
「は、はあ……」
ハイテンションになっているハカセさんに、
首を振っても無理なようだ。
「ほら、立って、立って」
ハカセさんはドアの前でぼくを手招きしている。
しぶしぶ腰を上げて向かう。
すると、
「君も来てくれるのかい?」
後方に気配を感じ首だけ振り向くと、
白ちゃんがぼくを盾にするようにくっついていた。
コクリと頷く。
「ありがとう。これで運ぶ回数が1回で済むよ」
おい、布団だぞ。
掛け布団と敷き布団を混ぜて6人分で12枚。
3人じゃ無理だろうが。
「どこ行くんですか?」
中央フロアの廊下で、
ハイペースで先行くハカセさんの後ろ姿に聞いてみた。
「2階が客間になっていたからベッドもあったので、
そこから失敬しようかと」
なるほど。
そういえば白ちゃんが倒れていた部屋にはベッドもあったし、
ぼくがいた部屋にも毛布があったな。
それにしてもガラス越しの空は黒かった。
雨はすっかり引いており、
草木を揺らす風の音だけがくっきりと耳にしみこんでいる。
中央フロアに到着。
天井のシャンデリアが豪華に照らしてあるだけで、
ここは真昼のように明るい。
ハカセさんが、
「2階は個室になっているから、
手分けして布団を回収しよう」
ぼくと白ちゃんは反論することもないので素直に頷いた。
2階へ伸びる階段を上り、
ハカセさんは突き当たりを右へ行ってしまった。
じゃあ左に行くか。
すると白ちゃんが、ぼくの横にくっついてきた。
てっきりハカセさんの方へ行くと思っていたのに。
左奥の部屋を開けた。
ベット、テーブル、本棚の3つが備わっている。
白いベットには掛け布団すらなかった。
つまり的外れってこと。
白ちゃんはぼくの肩越しに背伸びして中の様子を眺めている。
一緒にいては意味がないよ。
手分けして探そうって言ったのに。
左側には3つの部屋があった。
残り2部屋を片っ端から調べたが、結果は同じだった。
「そっちはどうでした?」
手ぶらのハカセさんが、ぼくたちと合流した。
「布団はなかったですよ」
「あと調べていない部屋は……」
「そういえば、ぼくが最初に寝てた部屋に毛布がありましたよ」
「何枚?」
「1枚です」
「まあ他を当たって足りないときに補足しよう。
あと調べてない部屋は……」
腕を組んだままハカセさんは再び考える。
調べてないところって地下くらいしかなかったような。
でも、今行くには気が引ける。
なにがあるかわからないところに夜行くなんて。
まるで心霊スポットに、真夜中足を踏み入れるようなものだ。
「部屋という部屋は一通り調べたので、
もうないですよ」
「そうだね。
残念だけど、みなさんには雑魚寝で夜を明かしてもらおう」
「どうしたの?」
白ちゃんがぼくのシャツの裾を必死に引っ張って指を差す。
その先は浴場と地下に続く階段がある。
わかっているから余計なことをしないでよ。
「心当たりでもあるんですか?」
前屈みになってハカセさんが白ちゃんに話しかける。
白ちゃんは指差しを止めない。
「そちらは浴場ですね。
トイレもあります。
トイレに行きたいんですか?」
ボケたつもりではないハカセさんだったが、
デリカシーがなさ過ぎる。
白ちゃんが激しく首を振って否定する。
あたりまえか。
援護することにした。
「白ちゃんは、
地下に行けばあるんじゃないかと訴えていると思いますよ」
「地下か……。太朗くんはとうする?」
「行きたくないです」
すると、なぜか白ちゃんに鋭く睨まれた。
「僕もあまり行きたくないな。
昼間なら構わないよ。
でも白さんが押してくるってことは、
行く価値はあるんじゃないかな」
そうかもしれない。
ただ不気味と言うだけで逃げていたら始まらないし。
ん? ひょっとして。
「白ちゃんって記憶が戻ったから、
地下に行こうって言ってるの?」
左右に首を振る。
戻ってないのか。
だったら何で進めるんだろう?
女の勘ってやつか。
「ここでウジウジしてても無駄なので、
ぼくたち3人で地下に行ってみませんか?」
「んー」
ハカセさんは腑に落ちない様子でうなっている。
「君たちがそこまで通そうとするなら、
僕も同行させてもらうよ。
でも暗いところはちょっと……」
「大丈夫ですよ。
きっと照明も備え付けてありますって。
もし怪しいところだったら引き返しましょう」
地下室へ続いていると思しきドアの前まで来た。
「ここで合ってるんですよね?」
ハカセさんに確認を取ると、
「そうだね。
この先に下り階段があることしか見てないんだ。
もしかしたら地下ではなく、
どこかに繋がってる可能性もありえるから」
「わかりました。ハカセさん先頭で」
「僕が? なんで?」
「この3人の中で、1番年上っぽいから」
「あのね、人を見かけで判断してはいけないよ。
白さんが君より年上ってこともありえるから」
「それはありませんよ。
断言できます。
ジャンケンで負けたでしょ?
ここで道草してたら、
またあねごさんに怒鳴られますって」
ぼくの説得に不満があるみたいで、
唇をアヒルみたいに尖らせて、
小言で念仏のように言葉にならない言葉を唱えている。
よほど暗闇が苦手らしい。
押してもダメなら引いてみるか。
「じゃあ、ぼくと白ちゃんで地下室に行きますので、
ハカセさんはここで待機してください」
ハカセさんを背に、ぼくは階段を一歩下る。
白ちゃんも一歩後ろから付いてきてくれた。
「置いていかないでくれよー」
僅か5メートルくらいしか離れていないのに、
ハカセさんの顔は涙と鼻水でグチャグチャになっていた。
ちょっと可哀想なことをしたかも。
冷たい階段を下るとL字型になっており、
ドアが3つあった。
「ちょっと薄着見悪いところですね」
ハカセさんが言うのもごもっともで、
シャンデリアで目が肥えてしまったぼくには、
地下の照明がホタルのようにぼんやりと淡かった。
「順番に開けていきますか?」
振り向かずに、
ぼくは間近にあったドアノブに手をかける。
「そうだね、異議はありませんよ」とハカセさん。
真横の白ちゃんはコクリと人形のように首を縦に1回動かした。
鍵はかかってなさそうだ。
こういうのって緊張するんだよな。
「真っ暗だね、電気は?」
ドアの隙間から流れる光を手がかりに、
ハカセさんがスイッチを探し当て点灯。
「お、色々なものがあるね。
お米にしょう油、
シャンプー、リンス、トイレットペーパー。
ということは、ここは備蓄倉庫ってことかな」
ハカセさんが言ったとおり、
金属製の棚には調味料らしきビンが並んでいる。
その横には真ん丸に太った黄土色の袋が四つ束ねられていた。
まあ食料はあるに越したことはないが、
今の目的からは外れていた。
「ハカセさん、布団ありますか?」
白ちゃんと一緒に棚の反対側にまわったハカセさんを呼んでみる。
「毛布があるね。1枚、2枚……。
10枚あるから持っていこう。
こっちに来て手伝ってくれないか?」
ぼくは軽く返事をして、
棚の裏へ行くと白ちゃんの手に2枚、
ハカセさんの手に2枚、
肌色の毛布を持っていた。
「戦利品も手に入れたし、
みんなのところへ戻るとしよう」
ニッコリとハカセさんは、
ぼくたちの先を歩いて「消すよー」と、
スイッチに指を乗せている。
さっきまで怯えていたのが嘘のように思えた。
「他に2つ部屋がありますけど、見ておきます?」
「あんまり待たせるのも悪いし、
引き下がった方がいいと思うよ。
太朗くんが気になるって言うんだったら止めはしないけど」
意外にもハカセさんは乗り気じゃなかった。
正直ぼくも気にはしてないが、どうしよう。
「白ちゃんはどうする?」
口をぱくぱくさせてなにか訴えている。
だめだ、質問が悪かった。
イエスかノーにしないと。
「白ちゃんは残りの部屋を見ておく?」
左右に首を振って否定した。
ふたりとも興味なしか。
「ほら行きますよ」
ハカセさんが生意気に急かしてきた。
不要かもしれないけど、
念は押しておいてもいいだろう。
「もう1部屋見ておかないですか?」
くるりと反転したハカセさんと白ちゃんの足が止まる。
「珍しいね。気にかかることでもあるのかい?」
「いえ、興味本位です」
いつものぼくだったらネガティブに考えて拒否するのだが、
好奇心が勝ったのだろう。
口を一文字にしてハカセさんは、
彫刻のように黙りこくってしまった。
シンキングタイム10秒経過。
「構わないよ、目的の品も手に入れたしね」
了承を得た。
ぼくはそのまま白ちゃんへと目線をスライドさせる。
白ちゃんは深く頷いた。
よし決定だ。
「で、どっちの部屋を探るのかね?」
2つのドアの前でにらめっこしているぼくに、
ハカセさんが言った。
「これといってなにも」
「右の部屋にしよう」
「なんでですか?」
「興味本位っかな」
人のセリフパクりやがって。
ハカセさんは2枚の毛布を足下に落とし、
銀のドアノブを回す。
「あれ、鍵がかかっている。
太朗くん、鍵?」
「持ってるわけないじゃないですか。
諦めましょう」
「そちらのドアは開いてるのかね」
ぼくは左のドアノブを回す。
「開いてますね」
そのまま静かにドアを引く。
2回目? いや3回目のドキドキ。
いくら経験してるからって未だになれることはなかった。
ピタリと手を止める。
開けた瞬間、ライオンが飛び出てきたらどうしよう?
リビングの時と二の舞の状況に陥ってしまった。
自分で決めたことなのに。
もっと前向きに考えないと。
「どうしたんだい? 目が止まってけど。
嫌ならやめようか」
ハカセさんがぼくの顔を覗き込んできた。
「いやあ、実はですね。
このドアの向こうにベットの上で、
裸の金髪美女が誘ってきたらどうしよう、
って考えてたとこなんです」
「太朗くん、君って人は……。
面白いことを想像するんだね。
その考え嫌いじゃないよ」
「ハカセさん」
ぼくたちは見つめ合って爆笑した。
「……」
背中をえぐる冷たい視線が。
反射的に口を閉じた。
「白さんもいることだから教育によくないよ。
早く開けてくれるかな」
ハカセさんも気づいているらしく、
優等生を装うようにコホンと咳払いをした。
ぼくはゆっくりとドアを引く。
中はお約束通り真っ暗だった。
だが、鼻を刺すような薬品の臭いに慌てて呼吸を止めた。
「科学室……みたいだね」
電気のスイッチをパチンと点灯させるハカセさん。
どうやら隣の部屋と同じ間取りらしくスイッチの位置も一緒だった。
「みたいですね。どうします?」
「取りあえず、軽く偵察でも」
ずかずかと中に入ってしまった。
不用心なんだから。
するとぼくの脇を素通りして白ちゃんも入っていく。
仕方がない、行くとするか。
内装は至ってシンプル。
中央にぽつんと断熱性の黒い机があり、
左右の壁には薬品の小瓶が入った棚がずらりと並んでいる。
左隅には学習机1つ分の広さの、
ステンレス製のシンクが備わっていた。
「何の実験が行われてたんでしょうね?」
ハカセさんはぼくを無視して、
薬品棚の引き出しを開けて探索を始めてしまった。
目的がわからない。
暇なので、白ちゃんのいる左側の棚を見物することに。
白ちゃんは小瓶を1つ持って念入りに回している。
ラベルにはテトロドキシンと書かれていた。
初めて聞く名前だ。
ちょんちょん。
後ろから誰かが肩を突っつく。
誰とは考えることなく反射的に振り向くと、
「わあ!」
「わあああああああ!」
慌てふためいて、
ガラス戸に強く背中をぶつけてながら、
ドスンと床に尻もちをついてしまった。
ハエみたいな仮面をつけている人物は、
「いやあ、ごめんごめん。
そんなに驚くとは思わなかったよ」
「ハカセさん、おちょくるの止めてくださいよ。
おかげで口から心臓が飛び出そうでしたって」
「いやあ、なにか写真でも入ってるかと思って引き出しを漁っていたら、
偶然にもガスマスクを見つけちゃって、ごめん」
棚の薬品もビクンと震えてだけで、
こぼれ落ちることはなかった。
白ちゃんも目をぱちくりさせて、
こちらを見ながら一時停止している。
するとハカセさんが、
白ちゃんの持っている小瓶に反応した。
「テトロドキシンかあ。
それはフグの毒だね。
まさか飲むつもりでしたか?」
白ちゃんは首を横に振った。
当たり前じゃないか。
好き好んで毒なんて飲む人はいない。
「この棚には結構毒の瓶がありますね。
青酸カリウム、
アコニチン、
ポロニウム、
ネオスチグミン、
亜硫酸など」
棚にへばりついて小瓶のラベルを順番に述べていった。
「毒を保管してるなんて、
どんな実験していたんですかね」
「僕の予想では、
記憶を消す薬を作っていたと思うよ。
そう考えれば、
今の状況に合点がいかないかなぁ」
自分の出した答えに「うんうん」とハカセさんは頷く。
「説得力ありますけど、
普通だったら記憶力アップする薬を開発するのが常識ですよ」
「それならもうあるよ」
ハカセさんの意外な答えに、ぼくはじっと待った。
「DHAって聞いたことあるかな」
「ありますけど……」
意外にも頭の隅に残っていた。
けど、説明するとなると自信がないので口を閉じた。
「簡単に言うとドコサヘキエン酸。
不飽和脂肪酸の一種で、
主に青魚に多く含まれる油のこと。
血栓の防止や、
脳機能の向上に効果があるといわれているらしいよ」
「DHAを多く摂取すれば、
ぼくの記憶も戻るってことですか?」
「薬じゃないから、さすがに言い切れないね」
ハカセさんは含み笑いをしている。
ちょっと安直な発想みたいだったらしい。
「そろそろ引き上げるよ太朗くん。
みんな待たせるわけにはいかないから」
ぼくたちがリビングに戻ると、
ヒメがぷんぷんしていた。
だいぶ寄り道してきたからな。
リビングを半分に割って、
各自毛布にくるまって明かりを消して寝ることに。
静かな夜だった。
さっきまで窓ガラスをノックしていた風も止んで、
すぅーすぅーと寝息だけが聞こえる。
だが、ぼくは寝付けなかった。
記憶を失った不安と死体との対面が重なって、
ストレスがのしかかってきたのだろう。
ふと暗闇を見渡す。
テーブルを挟んで向こう側は女性陣の領域だった。
動く気配も感じない。
ぐっすり寝てるようだ。
一方こちらは、熊さんが隅っこにもたれて足を広げて熟睡中。
暑いらしく毛布を尻に敷いている。
ぐーすかと大いびきを立てそうな人じゃないのが救いだった。
ハカセさんも毛布を下に仰向けになっている。
みんな記憶がないのに、
平然と寝てられるもんだと感心してしまう。
……本当にみんな記憶喪失なのだろうか?
おかしすぎる。
確かに何者かの薬の投与で、
生活に支障もなく、
自分自身の記憶がはぎ取られるなんて。
……いや、おかしいのはそこではなく、
記憶喪失のフリをしている人間がいるのではないかという部分だ。
怪しい人物がふたり挙げられた。
まずはハカセさん。
頭脳明晰というのだろうか。
とにかく知識が豊富。
そんなに知識があるのに、
記憶がないなんて明らかに矛盾している。
口は災いの元。
そのうちボロが出るはずだ。
マークする必要があるな。
そしてもうひとり、白ちゃんだ。
薬の副作用だからってずっと喋らないってあるのか?
しかも風呂以外ぼくと共に行動している。
地下に行こうって進めてきたのも白ちゃんだ。
記憶喪失の人間が催促してくるわけがない。
マークしておこう。
考えることに疲れたぼくは、
いつしか両目を塞いで夢の中へ旅に出た。
「……くるぢい」
あまりにも束縛に耐えきれず、ハッと目を開ける。
なんと熊さんがぼくの身体に巻き付いていた。
最悪の目覚めだ。
できれば女の子がよかったのに。
昨日の雨が嘘のように、窓からは朝日が差し込んでいた。
今、何時だろう?
リビングの中を見ると時刻は5時10分。
境界線の向こう側、
女性陣はまだ横になってゴロゴロしている。
「熊さん、苦しいです。
どいてください」
体重0・1トンはあるだろうと推測していたので、
力任せにより起こして、どいてもらう作戦だ。
「むにゃむにゃ。
おらぁお腹いっぱいだ」
お約束の寝言が返ってきた。
……こいつ、このままだとこっちが潰されてあの世行きだ。
「熊さーん!」
もはや強行手段。
熊さんの胸に両手を当てて力の限り突き飛ばした。
す、凄い! 人間やればできるんだな。
熊さんはくるくると回って、
「ぐほっ」
ハカセさんのみぞおちに、
肘をくらわせて止まった。
熊さんは起きる気配もなく、
ぐっすり眠っている……はずだ。
何事もなかったように、
ぼくも2度目の眠りにつくことにした。
「起きてよ、太朗」
肩を乱暴に揺らされて目を開けると、
ヒメがぼくの正面にしゃがみこんでいる。
「ふわああああああー」
口をカバのように大きく開けて手を伸ばす。
「朝食並べたから食べよって」
男女を分ける境界線であるテーブルの上には、
食パンや缶詰などが載せてあった。
昨日の夕食と変わり映えがない。
だがそれよりも重要なのは、
ハカセさんが仰向けに寝ていることだ。
熊さんと白ちゃんとあねごさんは、
既に椅子に腰掛けてスタンバイしている。
ハカセさんのことを気にも止めないのだろうか?
尋ねてみることに。
「ハカセさん、起きませんね」
「死んでるんじゃねえの」
あねごさんはコップに牛乳を注いでいる。
「まさかねぇ。
もしそうだとしたら第2の殺人事件ですよ」
被害者には、みぞおちから大量の出血が。
どうやらこれは重く固い凶器で貫かれたものらしい。
そして犯人は熊さん、あなたですよ!
そんな熊さんは食パンにジャムを塗りまくっている最中だった。
「ほんと起きねえな」
たっぷりと牛乳の入ったコップを持って、
あねごさんはハカセさんの頭付近にしゃがみこむ。
嫌な予感しかしなかった。
そしてハカセさんの鼻をつまんで口を開け、
「おっきろー!」
牛乳を注いだ。
「ごほっ、ぐほっ、ぐほっ」
息を吹き出したハカセさんは、
上半身を起こして必死に手で口元を拭った。
「な、なにをするんです、あなたは!」
バスローブの襟元は、
牛乳とよだれが混じってえげつなかった。
「ありがとうの一言も言えねえのか」
「危うく死ぬところでしたよ。
ところでメガネ、メガネ……」
昔のコントみたく手探りでメガネを求め始める。
そのメガネはテーブルの脇、ちょうど熊さんの肘の辺りにあった。
ハカセさんに手渡すと、
「ありがとうございます。ごほっ、ごほっ」
「大丈夫ですか?」
ハカセさんに近寄って背中を優しくさすった。
「ちょっと、みぞおちの部分が寝違えたみたいで痛くて、痛くて」
「昨晩のこと覚えてないんですか?
仰向けに眠ってるハカセさんに、
寝相の悪い熊さんが肘打ちを食らわせて」
「なるほど、情報ありがとう」
メガネを装着したハカセさんは食卓へ加わった。
まとまりが悪く別々に朝食を頂いている。
この風景を見ていると、
ひょっとしてぼくたちは家族なのだろうかと一瞬頭を過ぎった。
熊さんがおじいちゃんで、
ハカセさんとあねごさんが夫婦で、
ぼくとヒメと白ちゃんが3人兄妹で……。
んなわけないか。
どう見てもあねごさんとハカセさんが若すぎる。
「朝食を終えて着替えたら、玄関に集合しましょう」
マーガリンとイチゴジャムを、
食パンに塗りながらハカセさんが仕切った。
みんなはうんうんと無言で頷く。
ぼくたちの目的は、ここを脱出することなのだから。
「んー気持ちいい」
朝食と着替えの準備を終えたぼくは玄関を開けて、
背筋を伸ばして太陽の光を受けていた。
玄関の周りは朝露の残る芝生で覆っており、
1本だけ長く橋へと道が伸びている。
この屋敷はどうなっているんだろう?
くるりと反転して仰ぎ見る。
洋風の建物らしく、まるで大きな猫が座ってるように思えた。
「早いなー」
あくび交じりのあねごさんが2番目に到着。
「ええ特に」
「実は昨日、服洗うときにあたいのポケットから出てきたんだけど……」
ジャラジャラと取りだしてきたのは、小型のリモコンと銀色の鍵だった。
「このリモコン、まだ押してないんだけど、
爆発するアレじゃね?」
「物騒なこと口走らないでくださいよ。
その鍵ってもしかして……」
「心当たりでもあるのか?」
「ええ実は、昨日ハカセさんと白ちゃんの3人で毛布探しに地下に行ったとき、
ひとつだけ鍵がかかっていて。
持っている鍵がそうではないかと」
「おっしゃあ、ビンゴ!
試しに行こうぜ」
「目的が違いますって。
まずは脱出することが先決ですよ」
この人はなにを考えているんだ?
ぼくたちがここから抜け出せれば、
鍵のかかった地下室なんてどうでもいいだろうに。
「冒険心の欠片もない若者だな。
ったく、白も気になるだろ?
この鍵の行方」
えっ、白ちゃん?
あねごさんの目線を追って振り返ると、
仏頂面の白ちゃんが頷いていた。
「わぁ! びっくりした。
いるならいるって存在アピールしてよ」
驚きの拍子に真横へぴょんとジャンプする。
この子は透明人間並に影が薄いんだから、もう。
「ほら、太朗が驚くから白がしょんぼりしちゃっただろ」
「ごめんごめん、許して」
うつむいて泣き出しそうな白ちゃんに、
オーバーに手を動かして謝罪を試みる。
正直めんどくさかった。
「お、またせー」
ヒメを先頭に、ハカセさん、熊さんが来た。
遅せーよって。
「これで全員集合したね」
見てわからないのか、ハカセさん。
「出発しよう」
ハカセさんの後をぼくたちは付いていった。
橋に差しかかる。
「すごーい。ここ渡るの?」
ヒメが下を覗き込む。
ぼくも釣られてみると、底が切り抜かれたように真っ暗だった。
「落ちたら、ひとたまりもねーわ」
さすがのあねごさんの額にも冷や汗が滲んでいた。
「鉄骨で十分補強されているので、
橋が崩れることはまずないでしょう。
それに手すりもあるし。
行きますよ」
ハカセさんが一歩橋に踏み入れたとき、
あねごさんが、「待った」と止める。
「怖いんですか?」
「怖かねーよ。
昨日の雨風で強度が落ちてるかもしれねーだろ。
誰かひとり試しに歩いてみるってのはどうだい?」
「そうですね、わかりました。
では言い出したあねごさんに行ってもらいましょう」
「メガネ、おまえバカだろ!
あたいが歩いたって意味がねえんだよ。
ここは一番重いヤツが行くってのが筋だろ」
一番重いヤツ……。
みんなの視線を熊さんが独り占めした。
「なんで、おらぁのこと見るだぁ?」
「おまえが一番太ってるからだよ。
自分でわかんねのか? ほら行ってこいよ」
「ううう……」
熊さんの目尻から涙が溢れてきた。
がんばって熊さん。
あなたが歩いて壊れなければ、みんな通過できるから。
「それはちょっと腑に落ちないね」
ハカセさんが挙手をして意義を求める。
「もし熊さんが橋を渡り切った後に、
強度が下がって崩れることだってあり得るかもしれないよ」
「いちいち突っかかってうるせえなぁ!
その時はあたいらがここで待機してて、
デブが助けを求めに行けばいいだけだろーが」
あねごさんは額に大きな青筋を生やして、
ハカセさんの胸ぐらを掴んだ。
「痛てて、離してください。
わかりました、暴力反対」
ハカセさんも折れて命乞いをする。
これ以上の反論は無意味だと悟ったらしい。
「ほらデブ、行ってこいよ。
あたいらの未来がかかってるんだからさ」
熊さんは一歩だけ橋に触れる。
異常はなさそうらしい。
がんばって熊さん。
そしてもう一歩足を踏み入れて立ち止まる。
「ちゃっちゃと行けよ!
日が暮れちまうだろーが!」
あねごさんの虫の居所は悪い。
「ひえええええー」
熊さんは体を震わせながら左右に揺れた。
「下は見ない方がいいですよ」
ヒメが声を張って励ました。
熊さんは再び一歩踏み始める。
そしておよそ30メートルある、
コンクリートの橋を無事渡りきった。
向こう岸にたどり着いた熊さんは、
息を弾ませながら、大の字になって寝そべっている。
「デブも渡ったことだし、あたいらも行くか」
あねごさんが軽い足取りで渡る。
次にヒメ、そして白ちゃん。
「太朗くん、先に行ってくれませんか?」
顔を引きずりながら、ハカセさんが進めてくる。
最初に渡ろうとしていたくせに。
「構いませんよ」
正直自分も怖いが、ここで足止めをくらってはいけない。
先に進むしか道はないのだから。
棒状の手すりを掴んで歩む。
うわぁ、さすがに底は見えないな。
落ちたらひとたまりもないや。
「下を見ちゃダメだってば」
怒鳴りつけるようにヒメが援護する。
わかってるってば。
そう自分の足に言い聞かせて歩き出した。
そしてゴール。
難なくクリアーできた。
「おーい、最後なんだから早くしろよー」
あねごさんの叫び声がこだまする。
振り返るとハカセさんが3分の1くらいまで進んでいた。
ちょっと意外。
全員が渡りきるまで30分、いや40分くらいかかっただろうか。
最初に渡りきった熊さんも、息を整えて立ち上がっている。
「おい、あれ気になっていたんだけど」
あねごさんの指差すほうへ目を向けると、
車庫らしき建物を発見。
車庫にはシャッターが下りておらず、
2台の車が並んでいた。
1台目は車高も高く、自衛隊が乗っていそうなジープみたいな車。
色はシルバー。
もう1台は軽自動車で色はホワイト。
白と言ってもドアやボンネットが墨汁を伸ばしたように黒ずんでいて、
グレー寄りのホワイトだった。
「なにか手ががりがあるかもしれませんね。
確かめましょう」
すっかり元気を取り戻したハカセさんは、いそいそと車庫へ走り出す。
「ジープのほうは内装がきれいですね。
それに比べて軽は……」
ぼくたちが行くと、
ハカセさんが口を歪めながら内部をチェックしている。
確かに軽自動車の中は、
スコップやら長靴やらペットボトルやらお菓子の袋やらで、
ドライバーの性格がもろにむき出ていた。
「開かないよ、鍵かかってる」
ぼくの隣でドアノブを必死に引っ張るヒメ。
「うーん、こっちも無理ですね」
ジープのほうはハカセさんが確認している。
「よし、ここはデブの出番だな」
ぽんっとあねごさんは熊さんの背中を軽々しく押した。
もはやあねごさんの中では、熊さんはデブ扱いになったしまった。
可哀想に。
「おらぁが? やってみるだ」
腕をまくるような仕草をして、ヒメと熊さんが入れ替わる。
「ふんぬぅー」と奇声を発してドアノブを引っ張る。
実に原始的だ。
だが、手応えもなく車体が揺れるだけだった。
「あたいらも協力するぞ。
太朗、一緒に助手席側から押すの手伝ってくれ」
「えっ、ちょ、ちょっとー」
あねごさんは助手席側のドアへ回り込んで、
腰を深く落とし全体重を預けるように押す。
「ボケッと突っ立ってねえで早くしろよ!」
「だって」
運転席側のドアを引っ張る熊さんと、助手席側から押すあねごさん。
このふたり、何がしたいの?
「ロックがかかっているので、鍵がないとダメですね」
ジープを1周してきたハカセさんが、ぼくたちの元へ戻ってきた。
ロック、鍵……もしかして!
「あねごさん、鍵ですよ」
ハッと気づいたぼくは、あねごさんを呼んだ。
「ああこれか。
遂にあたいの時代が降臨したようだな。
待ってみー」
ペタペタと体中に手形を押し当てる探す。
「まさか落としたんですか?」
「ほーらよ、心配すんな」
胸ポケットから取りだしてニヤッと勝ち誇る。
トントン拍子で弾むなんて、ラッキー以外なんでもなかった。
「今、開けまちゅからねー」
なぜか知らないが、赤ちゃんに問いかける言葉になっていた。
そんなあねごさんは運転席側にまわって鍵を突きだしたまま、
瞬きもせずに硬直してしまった。
「あねごー、早く開けてよー」
背後からはヒメのしびれを切らした声が押し寄せてくる。
なんで動かないんだ?
まさか鍵の開け方がわからないのか?
「その尖った先端を、鍵穴に刺して右に捻るんですよ」
「んなのわかってるわ!
肝心の鍵穴が見あたらねえんだよ」
「まじで! ってことはこの車どうやって入るの?」
ぐるりと1周だけ車を見渡したが、
鍵穴らしきものはどこにもなかった。
っていうか、これ本当に車なのか?
車の形をしたプラモデルかなんかじゃないのだろうか。
等身大の。
「わかった! そっちのジープの鍵ですよ」
「なーんだ、そっかぁ」
コントの観客のように大げさに笑いながら、
あねごさんはジープの運転席側のドアに移動。
またしても硬直してしまった。
「もしかして?」
「そのもしかしてだよ」
あねごさんのこめかみからは、嫌な汗がぞわりと垂れてきた。
「君たち本当に愚かだね。呆れてものも言えないよ」
溜息を吐いたのはハカセさんだった。
「自信たっぷりあるんだったら開けてみなよ」
ブチ切れると思っていたあねごさんは、
すんなりとハカセさんに鍵を投げる。
「簡単ですよ、このボタンを押して」
だが、うんともすんとも言わなかった。
「おやおや? 開いてないんですけど。
どうしちゃったのかな」
あねごさんがジープのドアノブを引いてみるが、
手応えは感じられなかった。
「ちゃぁ、そやぁ、えい、やあ、とう!」
色々とポースをしながら小型リモコンを押してみる。
結果は一緒だった。
「はあ、はあ、はあ」
とうとう息をを切らして、前屈みになってしまった。
「もういいですよ、ハカセさん」
あまりにもかっこ悪いので自ら止めに入る。
「あと1回、あと1回だけ」
どうやらプライドが許さないらしい。
そんなハカセさんの様子を、
あねごさんとヒメはジト目で見送っている。
「うおりゃぁぁぁぁぁ!」
右手を挙げてリモコンスイッチを押した。
ピッと、どこからか電子音が鳴る。
「ようやく開いたか」
あねごさんが再度ジープのドアノブを引く。
「開いてねーじゃねーか、このメガネ!」
キレた。
「こっちの車も開いてないよ」
軽自動車の開閉の確認は、ヒメがやっていた。
ってことは、さっきの音は空耳?
いや、ぼくだけならともかく、
あねごさんもヒメも聞いていたはず。
トントンと肩を叩かれて振り向くと、
白ちゃんが指を差していた。
その先にはジープより1回り大きな車が、
道外れの草むらの上であぐらを掻いている。
「あそこにも車がありますよ。行ってみましょう」
みんなで車を取り囲むと、あねごさんが運転席のドアノブを引いた。
「あ、開いた。すげえな、さすがメガネ。
メガネをかけてるだけあるわ」
「メガネは止めてください。ところでこの鍵は?」
「あたいのポケットに入ってた。凄いだろ」
「別に自慢することでもありませんが。
てとなると、
もう1つの銀の鍵はご自宅のものになるでしょう」
「地下室の鍵じゃねえの?」
「車のキーと抱き合わせで付いていたので、
可能性は低いですよ。
試してみますか?」
「いいわ。ってことはこの車、あたいのもんだな」
運転席に乗り込んだあねごさんは余程嬉しいらしく、
両足を大きく伸ばし広々と構えて、
ハンドルを左右にブンブン回した。
「よし、みんな乗りこめぇ」
ぼくが後部座席に乗ると、
ハカセさんが「失礼」と言って、
むりくりあねごさんの座ってる運転席に身を寄せる。
「隣空いてるだろうが」
一喝を浴びてハカセさんは助手席にまわって乗る。
「なになに、開いたの?」
ヒメと白ちゃんと熊さんも集まってきた。
「お言葉に甘えて。そっち詰めてよ」
ヒメが後部座席に乗ったせいで、
ぼくは助手席の後ろへ詰めることにした。
「ラジオが繋がるか、やってみますね」
ハカセさんは人差し指を巧みに、
エアコンの辺りのボタンをじっくり押していく。
確かに外部情報は喉から手が出るほど欲しかった。
おや、このバッグは?
偶然にも足下にあった、
黒のボストンバッグと目が合ってしまった。
車内の物だから、あねごさんの所有物。
気になるところだが、勝手に開けてはいけない。
『午前中は、スッキリとした晴れ模様に包まれるでしょう。
午後からは湿った空気が入ってきて大気の状態が不安定になり、
局地的に、にわか雨か雷雨なる可能性がありますので、
念のために、折りたたみ傘を持参すると良いでしょう』
女性アナウンサーの、
はきはきとした声が車内中に漏れた。
ハカセさんがラジオのチューニングに成功したらしい。
「やるじゃん、メガネ」
「お静かに」
ぼくたちはラジオの声に耳を立てることにした。
『冒頭でもお伝えしましたとおり、
一昨日宝石店ジュエル・ミコーに強盗に入った2人組はなおも逃走中。
被害総額は2億円にのぼる模様。
周囲の住人の不安を払拭するように、
警察官一同が鑑識、聞き込み調査を行ってるようです。
逃走した犯人の名は、
硯 美礼容疑者と、
黒飛 侑斗容疑者と断定。
付近に潜んでいるかもしれませんので、
近くのお住まいの方は十分に警戒してください』
急に貫禄のある男性アナウンサーにバトンが渡されると、
冷たいニュースが流れてきた。
「物騒な世の中ですね」
とハカセさん。
「捕まるのわかってるくせに、
石ころなんか欲しいもんかね」
とあねごさん。
「あたしはこれがあるから、
他の指輪なんてゴミそのものよ」
左薬指をじっと見つめるヒメ。
いつの間にか自分の物にしているなんて。
世間を騒がせているニュースに、
みんながぶつぶつと主張をむき出してきた。
熊さんは無言でノーコメント。
同じく白ちゃんも。
「おい、太朗の足下にあるそのバッグ、何入ってんだ?」
あねごさんが不意に振り向く。
「中は見てませんよ」
「なんで開けないんだよ。ったく」
「だってこれ、あねごさんの所有物だし」
「あたいが許す。開けてくれ。
何か役に立つもんが入ってるかも知んねえし」
確かにそうだった。
ぼくはボストンバッグを膝の上に置いてチャックを滑らせた。
重さからすると、ずっしり手応えがのしかかる。
もしかしてバラバラ死体の一部でも入っているのか?
途中で止めていた手を端まで加速させた。
「で、中身は?」
鋭い視線がバッグに注目する中、ヒメがゴクンと息を呑んだ。
「宝石……だね」
パールやダイヤの輝かしいネックレスに、
親指くらい大きいエメラルドの指輪。
金のブレスレットにルビー、
アメジスト、サファイア、その他諸々。
「きれーい、あたしみたい」
いつの間にかヒメは、
首を伸ばして少女のような純粋なまなざしで観察する。
って、どこまで自分を持ち上げてるんだよ、お前は。
でも、こんなにたくさんの宝石どうしたんだろう?
「あねごー、ひとつちょうだい」
「しゃねえなー。吟味しな」
あねごさんもまんざらでもなかった。
まさかねぇ、偶然にもほどがある。
敢えて口にしなかったが、
ハカセさんがピーンときたらしくズバリと切った。
「ひょっとして、
先ほどニュースで流れていた宝石強盗のものではないでしょうか?」
辺りは南極にワープしたように一気に凍り付いた。
「じゃあ、あたいが犯人だって言うのかよ!」
噴火したのはもちろんあねごさん。
なんか知らないけど、
ハカセさんとあねごさんの衝突の頻度が増しているような気がする。
「そこまで言ってません」
「逃げるんじゃねーよ! 言ってんだろうが」
確かに記憶喪失とはいえ、
車のキーの所有者と車内のバッグに宝石がてんこ盛り入ってて、
ニュースで強盗騒動ってきたら疑われても当然だ。
「もしあねごが強盗だったら、
もう1人この中に相棒がいるはずよね?」
空気を読まないヒメが犯人捜しを開始した。
「はあ? お前まであたいのこと疑ってんのか?」
「そうじゃなくて、もう1人この中にいなかったら、
あねごの濡れ衣が晴らせるのよ」
「偉そうなことぼやきやがって。
だったらその指輪だって盗品に決まってんじゃねえか、
お前が強盗なんだよ」
「この指輪は太朗があたしにー」
ヒメの言葉が詰まった。
そして、
「もう一人の強盗って太朗なの?」
ブルブルと痙攣しながらぼくの方へ振り向いた。
「見覚えないよ」
「サイテー! 盗んだ指輪であたしとの愛を計ろうとするなんて!」
薬指から指輪を抜いて、怒りを込めてぼくに投げつける。
「痛ってえなぁ。記憶にないって言ってるのに」
このままでは、あねごさんと一緒に強盗にされてしまう。
「どーだか。本当は記憶のないフリをしてるんじゃないの」
否定はしたものの、
証拠がないので証明はできなかった。
ましてワガママヒメ相手ではお手上げかも。
あねごさんなら助けてくれそうな。
そっと横目でヘルプを送る。
「自分で撒いた種だ。反省しろ」
「待ってくださいよ。
あねごさんの無実だって証明されたわけじゃないですか」
するとハカセさんが深刻な顔で、
「この場を乱してすまない。
もしかしたら、みんなが当てはまるか思っただけで……」
ハカセさんの言ってることがイマイチ掴めなかった。
「どういうことですか?」
ヒメが代弁してくれた。
もちろん、ぼくとは一切目も合わせずに。
「僕の予想だが、ここにいる全員は記憶喪失になっている。
それは何者かによって、薬を打たれた実験材料として。
つまり何らかの前科に基づいてそうなったのではないかと。
それが強盗かもしれないし、殺人犯かもしれない……」
一理あった。
理由がなくてはモルモットにされることはないはず。
今まで記憶が蘇るように、
あれこれ探ってみたことが急に怖くなった。
自分を知るのが怖い。
その感情が再びぐつぐつと沸き出してきた。
静まりかえる車内。
スピーカーからは電波の調子が悪くなり、ザーッと砂嵐が流れる。
「バッテリーがもったいないから、ラジオは消した方がいいべ」
ずっと黙っていた熊さんが、
ボソッと口にするとハカセさんが電源を落とす。
「これは僕の推理であって真実ではないよ。
あねごさんが持っていた鍵も犯人に仕立てる罠かもしれないし」
バツが悪かっただろうと、
ハカセさんは挽回に試みたみたいだ。
「そ、そうだよなー。
あたいたちは被害者なんだし、
それにこの宝石も偶然かもしんねえし、
あたいだって車の運転できるとは限んねえし」
あねごさんの顔が左に引きずっていた。
自分が強盗かもしれないのを、
帳消しにするための言い訳だろう。
「そーよね。
こんなカワイイ美少女が、人殺しなんてするわけないって」
ヒメも笑いながら便乗する。
少しずつみんなの空気が緩やかななってきた。
よし、ぼくも、
「さっきのことは水に流しましょう。
昨日の雨のように」
苦笑を含めると、ギロッとヒメがナイフのような視線で睨む。
そして「ふん!」とぼくから逸らした。
どうやら婚約ごっこにヒビが入ったようだ。
ベタベタされるのも好きではなかったが、溝が入るのも嫌だった。
「よーし、みんな乗った、乗った。
あたいのハンドル裁きで一気に下山してやろうぜ」
えっ? ぼくは一瞬、自分の耳を疑った。
あねごさん、車の運転できるとは限らないって宣言したよね?
なのに運転する気なの?
「逃げろー!」
ハカセさんのおぞましい者と遭遇したような声を上げる。
ぼくたちは一斉に車から飛び出した。
「おい、てめえらあたいをバカにしてんのか、コノヤロー」
車内に取り残されたあねごさんは、ドアを開けて怒鳴りつけてきた。
「自分の腕に自信があるなら、試運転して見せてよ」
木の陰から顔だけぴょんと出してヒメが説得をする。
「おーし、わかった。目ん玉引ん剥いてよーく見てろよ」
バコンと車体が傾くくらい、大きな音を立ててドアを閉める。
バラバラに散らばったぼくたちは、
集結して車から10メートルくらい離れたところから、
行く末を見守ることにした。
車はピクリとも動かない。
1分ほど経過。
「おーい、これどうやってエンジンかけるんだ?」
運転席のドアが開いてあねごさんが、せっかちに吠える。
「ブレーキペダルを踏んで、
ハンドル横のエンジンスイッチを押してください」
我こそにハカセさんが対応してくれた。
「ブレーキペダルってどれだ?」
「右足元から2番目のペダルですよ。
右隣がアクセルですから」
おい、大丈夫か?
これって運転する以前の問題だよな。
ってことはエンジンかかってなかったのか。
でも、どうして?
「ハカセさん、エンジンかかってないのに、
なんでラジオ聴けたんですか?」
「ブレーキペダルを踏まないで、
エンジンスイッチを押したから、
スタンバイモードに入って聞くことができたんだよ」
「案外詳しいですね。
だったらハカセさんが運転した方が安全ですよ」
「僕も自信はないよ。
それにいまさら彼女が代わってくれると思うかい?」
「……ごもっとも」
ハカセのさんと会話をしていると、
エンジン音が高鳴り車が息を吹き返した。
「エンジンがかかったぞ、次は?」
窓を下へスライドさせて、
あねごさんが顔を少し出してきた。
「ギアをドライブの位置に落として、
ハンドブレーキを解除してください」
果たしてハカセさんの説明は通じるのだろうか。
「ギア? ドライブ? ブレーキは踏んでねーぞ」
ダメだこりゃ。
「ブレーキペダルは踏んだままで、
左手にギアがありますよね?
運転席と助手席の境目の辺り。
パーキングのPに入っているので、
Dに落としてその下ったところに、
棒みたいのが斜め45度に上を向いていますよね。
その先端のボタンを押しながら、
下に落として解除してください」
「次?」
「ブレーキペダルを離して、
アクセルペダルを踏むと進みます」
ハカセさんの説明は一通り終了したらしい。
車はゆっくり前進する。
まるで亀が散歩しているようだ。
と、その瞬間、
やかましいくらいのエンジン音と共に、
車が激しく蛇行して走り出した。
「乗らなくて正解でしたね」
ハカセさんは胸に手を押し当てて、深く息を吐いた。
そんな安堵も束の間、
猿の悲鳴のようなブレーキ音を上げたと同時に、
ドンっと追突音が走る。
「やってしまいましたね。
救助に行きましょう」
額に汗を光らせてハカセさんが走り出すと、
ぼくたちも後へ続いた。
数十メートル先の道外れの大木に車が煙を吹いて止まっている。
そっと近づいてみると、
車のボンネットは蛇腹のようにぐしゃりと潰れていた。
「あねごー、生きてるー?」
ヒメの呼び声と共に運転席を覗いてみると、
あねごさんは白いエアバッグに、上半身を委ねてピクリとも動かない。
「大丈夫ですか?」
運転席のドアを開けてハカセさんが肩を激しく揺する。
「う……ん、ああ」
ゆっくりと体を持ち上げたあねごさんは、
ぼくたちの方向へ全身を向けると、
足をぶらぶらさせてぴょんと飛び降りた。
「あーあ、やっちゃった。
折角の移動手段だったのに」
腕を組みながらヒメが顔をしかめる。
「まあ形あるものいずれ終わりが来る。
仕方ねえよね、あははははは」
口を豪快に開けて笑うあねごさん。
全くもって反省の色が見えない。
「あねごさんが無事だったので、良しとしましょう」
ハカセさんは運転席に潜る。
何をするんだろうと思いきや、
プスンプスンと鼻をすすっているようなエンジン音が止んだ。
どうやら切ったらしい。
あ、そういえば中に。
「どうかしましたか?」
後部座席に四つん這いになっているぼくに、
ハカセさんが声をかけてきた。
「ヒメがぶつけてきた指輪を探しているんですよ。
……んーと」
宝石入りのボストンバッグを退かすと、
背もたれにぎらりと光るものがあった。
よかったぁ。
ケースを取りだして指輪収めようとしたところで手が止まる。
ジャマだからいっか。
ケースを捨てて、そのままズボンのポケットに入れた。
一応ぼくの所持品だし、
何かの手がかりになるかもしれないから、
持ってても損はないだろう。
車内から下りると、みんなが輪になって何やら話している。
ぼくは、ハカセさんとあねごさんの間に入ることにした。
「道が続いてるから進むべきじゃね。
なあ太朗もそう思うだろ?」
あねごさんが尋ねてきた。
どうやらこれからの方針らしい。
「ですね。
通信手段が途切れていますので、
待っていても助けに来るとは限らないし」
「えー!
この山道、みんなで行くの?」
頬をぶくーっと膨らませてヒメが反発する。
「大丈夫だあ。
おらぁリュックに、
しこたま飯と水入れて来たたべ。
餓死にはならないだ」
胸を叩いた熊さんはリュックを下ろして中身を披露。
水二リットルのペットボトル3本に、
缶詰がガチャガチャに仕込まれていた。
「二手に別れた方がよさそうですね。
待機組と捜索組で」
まとめたのは、やはりハカセさんだった。
「どう分けましょうか?」
「……」
良案が浮かばないらしく全員が黙りこくった。
「希望を取りましょう。
待機組か捜索組で挙手してください。
捜索の方がいい人?」
しーん。全員が手を挙げない。
「では、待機組がいい人?」
ぱっ! 花火が咲いたようにぼくを含めて全員が挙手。
「当然でしょ。
いくら水と食料があるからって、
どこまで続くかわからない山道なんて歩きたくないし」
ヒメがふてくするように言った。
「参りましたね。
全員残ったら意味がないですよ」
「またジャンケンで決めるしかねーな」
今にもケンカを始めるような仕草で、
あねごさんが指をボキボキ鳴らす。
「恨みっこなしだぜ。
最初はグー、ジャンケンポン!」
全員がリズムに合わせて中央に手を振った。
「またメガネかよ」
ハカセさんがグー。
その他全員パー。
まるで仕組まれたように。
「よっしゃあ、あと2人だな」
2回戦。あねごさんの音頭でジャンケンポン。
結果はぼくとヒメがチョキ。熊
さんと白ちゃんとあねごさんがグー。
「珍しいな、2回で決まるなんて」
自分の勝利にぽっかりと口を開けるあねごさん。
「僕と太朗くんとヒメさんが捜索組で、
あねごさんと白さんと熊さんは、屋敷で待機ですね」
負けたハカセさんは、
ちょっぴり嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あたし行きたくなーい!」
ヒメはその場にしゃがみこんで顔を伏せてしまった。
ぼくだって行きたくねーよ。
ワガママ言いやがって。
その様子を見るに見かねたあねごさんは、
「しゃーねーな。
あたいが代わりに行ってやるよ」
頭をかきむしりながら言った。
「ほんと? あねごだーいすき」
すくっと立ち上がったヒメは、
あねごさんのふくよかな胸に迷いなく飛び込んだ。
なんとも微笑ましい光景。
ぼくも代わってくれないかなぁ。
と、熊さんをじーと見ていると、
アイコンタクトが通じたのか、
向こうから歩み寄ってきてくれた。
そしてぼくの正面に立ち、
「太朗さん。これ水と食料だ」
リュックを手前に出した。
「ははは、ありがとうございます」
笑うしかなかった。
「日が暮れてしまうので行きましょうか」
ハカセさんとあねごさんの後をしぶしぶ歩こうとすると、
シャツを引っ張られる感触が。
「どうしたの?」
白ちゃんだった。
まさか荷物が増えるのだろうか。
それだけは勘弁して欲しかった。
「もしかして白さんも、同行していただけるのですか?」
ハカセさんがぼくの左に回って白ちゃんと目線を合わせる。
コクリと頷いた。
「留守番してろ。
その格好じゃ無理だ」
あねごさんがぼくの右に入ってきた。
確かに白ちゃんの服装は、白のワンピースに鼻緒の付いた草履。
山道を歩くのには軽装過ぎる。
この先どのくらいかかるかわからないし。
それでも白ちゃんは左右に首を振って駄々をこねる。
「仕方ありませんね。
僕の代わりに行ってもらいましょうか」
「てめえは強制に決まってんだろうが」
ハカセさんの後ろ襟を鷲づかみにしたあねごさんは、
そのまま引っ張った。
ハカセさんは「おっとおととととと!」
と、倒れそうになったのを、踏ん張って持ちこたえた。
「暴力はいけませんよ、もっと民主主義に」
「すっこんでろ」
あねごさんの一喝にさすがのハカセさんも、
しゅんと縮こまってしまった。
「白ちゃん連れて行っていいんじゃないの?
別に3対3に分けなくちゃ行けないわけでもないし」
確かにヒメの言うことも一理ある。
でもどうして捜索組に?
意味のわからない子だ。
「ぼくも同意見です。
捜索は1人でも多いほうが、もしもの時に助かります」
もちろん根拠はなかった。
口からデマカセ。
「じゃあ白の面倒は太朗が見ろよ。
出発するぞ」
あねごさんが先頭を歩き、
その後ろをハカセさんとぼく、そしてその後を白ちゃん。
深い理由はないが、
知らず知らずのうちにそうなっていた。
道は山だけあって、所々曲がりくねっていた。
けれど、道幅は車が通れるくらい広く、案外歩きやすかった。
「ちょっと休憩しませんか?」
ハカセさんの足元が、
生まれたての子鹿のようにブルブル震えておぼつかない。
激しく息を切らして、今にも転倒寸前だった。
5歩くらい先を歩いていたあねごさんの足がぴたっと止まる。
「ったく、だらしねーな。
あたいはまだまだ行けるよ。
太朗はどう?」
「ぼくは……」
ハカセさんの涙で溢れた視線に負けて、
「さすがに疲れました。
一息入れましょう」
「まだ1時間くらいしか歩いてねえだろうが。
精神がたるんでんだよ」
言ってることがわからない。
休むか進むかはっきりしてほしい。
あねごさんは手ぶらだからいいけど、
こっちは食料を抱えているんだから。
「そこの木陰で休むか」
今までハカセさんが握っていた主導権は、
すっかりあねごさんへと一任されていた。木
陰で陣を取り、リュックを下ろす。
「太朗くん、水をくれないか?」
まるで砂漠で遭難したように、
ハカセさんの声はガラガラだった。
急いでリュックを開けて、
2リットルペットボトルの水をハカセさんへ手渡す。
これが3本入ってるから、計6キロ。
プラス7キロに及ぶ。
熊さんあなたって人は。
「ふうー、生き返りました。
太朗くんもどうだい?」
息を吹き返したハカセさんは、
半分くらい減っている水を進めてきた。
すごいな、1リットル近く飲んだのか。
「お言葉に甘えていただきます」
再び水を受け取るとあねごさんが、
「あたいと白で飲むから水をくれ」
そのまま、あねごさんにたらい回しすると、
「それは男どもで処分しろ。
封切ってないのあるだろ」
ゴソゴソとリュックを漁って水を取ってキャップを外し、
ラッパ飲みをする。
白ちゃんと分けるって言っていたが、
一人で飲んでしまう勢いだった。
「よくよく考えてみたのですけど、
このメンバーの分配でよかったのかもしれませんね」
ハカセさんが木の根元に腰を下ろした。
「むこうはデブとヒメがいるし、なんとかなるだろう」
半分くらいまで飲み干したあねごさんが言った。
熊さんとヒメか。
個人的にはクセの強い2人なんだけど大丈夫だろうか?
どちらかと言えば男女別だったほうが利口かもしれない。
まあいっか。
ここまで来てしまったのにとやかく考えなくても。
しばしの休憩を摂ったぼくたちは再び歩き出した。
この道の果てに誰かいる。
今はそう信じるしかなかった。
「おーい、耳を澄ましてみろ。
川の音が聞こえねーか?」
蝉しぐれをかき分けて、
耳を立てるとゴーッと水の流れる音が。
だからなんだよ、ってツッコミたくなるんだが。
「大きいですね。氾濫しれるかも」
そう告げるとハカセさんは、
小走りで先に行ってしまった。
昨日の集中豪雨を予想すると、
河川にも影響が出る可能性はある。
でもそこまで血相を変えなくてもいいじゃないか。
「あたいらも行ってみるか」
ハカセさんと裏腹にあねごさんはノリが軽かった。
ぼくたちは川岸で棒立ちしているハカセさんの後ろ姿を掴まえた。
「どうしたんですか? ぼけーっと突っ立って」
ハカセさんにそう言って向こう側を見ると橋が壊れていた。
「な、なんで? 昨日の雨で橋が流されてしまったの?」
目の前の現実を疑った。
ぼくたち側の橋の先端は僅かしかなくて、
向こう岸から3分の1ほど伸びていた。
「折角の交通手段が、
昨日の大雨で途切れてしまうなんて」
「向こう岸まで太朗に泳いでいってもらうか」
口を開けていたあねごさんはぼくの後ろに寄ってきた。
その後ろには白ちゃん。
「無理ですって。
川幅も結構あるし、水かさだって増してますよ。
オマケに濁って底も見えないし。
ほら、大木だって流れてるからあねごさんだって無理ですよ」
「まあな。死に行くようなもんだろ。
せめて向こう岸に誰かいれば助かるんだけどな」
腕を組んで考え込むあねごさん。
「いや、これは昨日の雨が原因で橋が流されたわけではなさそうだね」
ぼそっとハカセさんが、ちょっと前に言った答えに反応した。
「じゃあ、以前に壊れていたことになるんですか?」
「壊れたと言うより、
意図的に壊したと表現するほうが正しいと思うよ。
こっち側がほとんどなくて、向こう岸が残ってる。
つまり、こちら側からダイナマイトを仕掛けて壊したんだろうね。
僕たちを閉じこねるために」
確かにその推理は筋が通っていた。
ぼくたちは記憶喪失のモルモット。
簡単に外に出すわけにはいかないはず。
でも誰がそんなことを。
ぼくたちの知らない第3者がどこかにいるのか?
もしそうだとしたら。
「早く戻りましょう。
ヒメと熊さんに何かあったら大変ですよ」
「そうだね。
ここで指をくわえても仕方ないし、
屋敷に戻って策を練ってみよう」
ハカセさんの意見は、なぜか悠長だった。
ぼくとハカセさんと白ちゃんは固まって振り向く。
誰か忘れているような? って、
「あねごさん。戻りますよー」
向こう岸を向いて放心状態で立っていた。
ビクンと目を覚ましたあねごさんは、
「悪りぃ、行く」
せかせかとぼくたちに追いついて追い越した。
「そういえばハカセさん、
あの濁流を渡る策ってあるんですか?」
「今の段階では、
水位が下がるのを待ってロープで体をくくりつけて、
向こう岸まで歩くしかないようだね」
「でも相当深そうでしたよ。
熊さんでもキツいような」
「一番手っ取り早いのが向こう岸に誰かがいれば済むんだけど、
山奥みたいだから、第3者に会えるのは難しいね」
「のろしを上げてSOSを送るのはどうですか?」
「天気次第だね。
ラジオの予報では局地的に大雨になるって言ってたからね。
実践する価値はあるよ」
「おーい、みんな来てるか?」
10メートルほど先を歩いていたあねごさんが、
くるっとまわって大きく呼びかける。
ハカセさんと肩を並べて歩いていたぼくは、「来てますよ」と返す。
「白は?」
「白ちゃんも来て……いない」
迂闊だった。存在が空気に等しい白ちゃんを見失うなんて。
「戻ろう。そんなに離れてないから」
ハカセさんの声も動揺しているみたいで震えていた。
「先に行っててください。ぼくが戻りますから」
ハカセさんの返事も聞かずに振り返ろうとすると、
「リュックは預かるよ。そのほうが動きやすいから」
「ありがとうございます」
リュックをハカセさんに渡すと走り出した。
「おーい、白ちゃーん」
どのくらい引き戻したのかわからない。
いつの間にか、疲れてとぼとぼ歩いていた。
白ちゃんの呼ぶ声は、空しく乱反射している。
行方不明になるんだったら、
目先に置いておけばよかったよ。
でも白ちゃんも白ちゃんで悪い。
大人しく留守番していれば済んだものの。
後悔だけが頭の中を渦巻く。
無事でいてほしい。
「あ、あれは!」
道のど真ん中で白ちゃんが、しゃがみこんで左足をさすっている。
「白ちゃーん」声を発しながら駆け寄った。
「足、怪我したの?」
白ちゃんは深く頷いた。
くるぶしの辺りがテニスボールくらいに腫れ上がっている。
本当だったら、叫んだり呼び止めたりすることができたはずなのに。
声が出ないことを疑っていたぼくは情けなくなった。
「ほら乗って、おぶっていくから」
白ちゃんに背を向けてしゃがむ。
ずっしりと背中にのしかかる。
「行くよ」
ぼくは白ちゃんの太ももを抱えて立ち上がった。
「……重い」
山道で体力を奪われていたせいか、思っていた以上に重かった。
「いてててて、痛いってば」
ちぎれるくらいの力で、耳が引っ張られていく。
白ちゃんが『重い』という言葉に反応してぷんぷんときたらしい。
「冗談だってば、ごめん。重くないよ」
耳をちぎるくらいの力が徐々に消えていった。
「じゃあ行こうか」
首だけ後ろを振り向いて白ちゃんを呼ぶ。
コクリと承認したことをみて、1歩、1歩と歩き出す。
日差しは熱く、蝉の合唱はうるさい。
おまけにコンディションは芳しくない。
それに屋敷までどのくらいかかるか、わからない。
でも歩くしかなかった。
1時間くらい歩いただろうか?
牛歩並のペースで進んでいるので、
未だに屋敷の「や」すら見えてこない。
日差しが和らいで、すうーっと冷たい風が走る。
嫌な予感がする。
徐に空を仰ぎ見ると灰色に染まっていた。
やばい、これは一雨来るな。
ラジオの天気予報で局地的に雷雨になるって言ってたから。
よりによってこの場所かよ。
悪い方向の時だけ天気予報が当たるのは、勘弁してほしかった。
そんなことを念頭に、ぼくの歩みはハイペースになっていた。
それから5分くらい経過。
水滴が鼻頭をくすぐった。
遂に来た。
雨脚は徐々に激しくなり、容赦なく視界を遮る。
「雨宿りをしよう」
ぼくと白ちゃんは、バケツの水をかぶったようにびしょ濡れ。
ちょうど大きめの木の下に避難。
ひとまず雨脚が弱くなるまで待機することに。
ぼくはシャツの脱いで両手で絞る。
白ちゃんは木にもたれて上を見ていた。
「雨止まないね」
もちろん返事は期待していない。
白ちゃんは反省しているのかわからないが、
今度はうつむいてしまった。
それにしても目のやり場に困る。
白ちゃんの服がびしょびしょに濡れて肌に張り付き、
うっすらと下着が浮き上がっていた。
チラッとこっちを向く。
やばい、バレた?
反射的に目をそらす。
チラッと動かすとまだ目線を送っていた。
そしてぼくの右腕辺りを指差す。
気になってさすってみると、血がこびりついていた。
「なんで?」
怪我した理由はわからない。
知らないところで枝の先端にでもぶつかったのだろう。
痛みはないのでそれほど気にならなかった。
すると白ちゃんが、ポケットから淡いピンクのハンカチを差し出す。
「これくらい、ほっといても治るからさ」
ぼくが遠慮しても白ちゃんは手を引いてくれなかった。
「ありがとう」
礼を述べ傷口に当てる。
ハンカチを剥がすと再び血がこぼれ落ちる。
これは止まるまで巻いておいたほうが良さそうだ。
ハンカチを2つに折って、
傷口にかぶせ端と端を結ぼうとした。
やはり片手では無理だった。
「悪いけど結んでくれないかな」
すると白ちゃんはハンカチの端を交差させる。
だが指先が震えていておぼつかない。
「そこを下に持ってきて、あっー、そこじゃなくてそっちの……」
色々とアドバイスを送るが、ハンカチの先端同士で格闘中。
まさかと思うけど、こんな初歩的なこともできないのか。
これは諦めたほうが良さそうだ。
ハンカチも満足に縛れないなんて、靴ひもとかも縛れないだろう。
「ありがとう。傷が浅いからすぐ止血すると思うけど」
苦笑しながら左手でハンカチを押さえる。
念のため剥がしてみると既に血は止まっていた。
血が付着したハンカチをそのまま返すのは失礼なので、
ポケットに収めることに。
空を見上げると雨は小降りになっていた。
雷も発生していなかったので、進むには絶好のチャンス。
再び白ちゃんを背負って歩き出す。
それからおよそ1時間くらい歩いたのかもしれない。
あねごさんの壊した車を発見。
やっとここまでたどり着いたんだ。
「太朗くーん」
木造立ての車庫が、目先で感じるところまで来たとき、
ハカセさんが大きく手を振って駆けつけてくれた。
「助かったぁ」
ぼくは白ちゃんを下ろして大きく息を吐いた。
そのまま大の字に寝そべってみたかったが、
地面は雨でぬかるんでおり、
自爆しかねないので、それだけは避けることにした。
「お疲れさま。
ずっとあの車庫の中で待っていたんだよ。
もしかしたらと思って」
「ありがとうございます。
白ちゃんのことは任せていいですか?」
「ケガをしているようだね。
でもどうしようか?
この橋をおぶって渡るのは自殺行為だから」
ハカセさんと一緒に悩んでいると、
白ちゃんが足を引きずりながら橋のほうへ歩き始めた。
「ちょっと白ちゃん!」
慌てふためいて叫ぶと白ちゃんは、
振り向いてニッコリと一瞬微笑んで歩みを進める。
何を意味しているのか理解できなかった。
「ハカセさん、ボケッとしてないで止めてきてくださいよ」
「いや、彼女に託そう」
眼鏡がきらりと光った。
「悠長なんですから、ぼくが……」
「やめたまえ」
ハカセさんの怒鳴り声に、ぼくの体はピタリと静止した。
「太朗くんは頑張った。
だから白さんも、頑張らなくてはいけないんだよ」
まるで青春ドラマみたいなセリフだった。
もちろん説得力はない。
「普通に歩いても橋を渡るときは、
ゆっくりだから造作もないこと。
今は巣立ちの時、温かく見守ってあげよう」
そっと後ろから肩を叩いてきた。
確かにパイプの手すりがあるものの、
白ちゃんの歩き方は不安定だった。
だからと言って、ぼくの頭では策が浮かばない。
手をこまねくしかなさそうだ。
そんな心配も皆無に白ちゃんは、
難なく橋を渡りきってしまった。
うそだろ。
「僕たちも戻ろう。
あと1時間くらいで日没だから、
みんなと話し合ってまた明日にしよう」
白ちゃんに続いてぼくとハカセさんも橋を渡りきった。
向こう岸では、
しゃがみこむ白ちゃんにあねごさん、
熊さんにヒメが囲んでいた。
ぼくたちがたどり着くとあねごさんが、
「ったく、足を引っ張りやがって。
山道をバカにしてんのか!」
白ちゃんに説教中だった。
「まあ、その辺にしてもらえますか?」
仲裁に入ることにした。
「太朗が庇うんだったら許してやっか。
じゃあデブ、白のことを運んでやれ」
「おれがぁ?」
自分のことを指差して真っ赤に頬を染める熊さん。
目つきがいやらしいんだけど。
「デブはおめえひとりしかいねえだろ!
納得いかねえんだったら、
今からみんなで体重を計って証明してやっか?
やんなくてもわかるよな?
あたいらとてめえの体格を比較すれば済むんだから。
とっとと運べ!」
何1つ嫌な顔をしない熊さんは、
白ちゃんをお姫様だっこして屋敷の中へ入っていく。
白ちゃんは抱き上げられたとき、
目をぱちくりしていたが悲鳴は上げなかった。
「あねごさん、君はいつからそんなに偉くなったのかね?
熊さんをあごでこき使って。
それに熊さんのことをデブって言って。
誰にだって言われたくないひと言だってあるんですよ。
少しは女性としての品格を持ってください」
ハカセさんは熊さんの肩をもちながら、
あねごさんに反論を試みた。
「うっせえんだよ、このメガネ!
デブだからストレートにデブって言ったら悪いのかよ。
じゃあデブに向かって『ガリガリに痩せてますね』って言えばいいのか?
そしたらあたいは嘘つきのレッテルを貼られるんだよ。
てめえだってハカセって呼ばれてるけど、
本当はメガネって呼んだほうが型にはまってるんだよ。
大体どこがハカセなんだ?
何かノーベル賞でも受賞したのか?
違うだろ。
ただ単にメガネをかけてるから、
ハカセっぽいだけでハカセなんだろ。
そんなにメガネが嫌か?
メガネの何がいけないんだよ?
そもそもメガネって悪口なのか?
メガネがこの世にあっちゃいけねえのか?
メガネをかけてるヤツはお前だけじゃないんだよ。
つまりお前にメガネを語る資格はねえんだよ!」
ほーら、火に油を注いじゃって。
ハカセさんは反論もできずに、
下唇を噛みしめながらうつむいてしまった。
この場所だけ空気が重く冷たかった。
「時間も時間なので夕食にしましょうよ」
流れを変えるべく、ぼくは一案を出した。
「そーだな。
ここにいても意味ねーし。行こ行こ」
マシンガントークを繰り広げたあねごさんは、
小さくあくびをして玄関へと向かう。
どうやら換気に成功したようだ。
ヒメも「あたしもー」と声を伸ばしてあねごさんの後を追う。
そういえばあれ以降会話をしていない。
ぼくたちの間に深い溝が入ったままだった。
「ハカセさん、行きましょうよ」と振り向くと、
「あのアマ……」
爪がめり込むくらい拳を握りしめていた。
「ハカセさーん」
ぼくは聞かなかったふりをして再度呼んでみる。
「あ、すまない。行こうか」
ぼくを追い越して行ってしまった。
「あのビニールシートって何ですか?」
玄関左の芝生の上にブルーシートに包まれている不思議な物体。
大きさで言うと大人1人分くらいの大きさだった。
「書斎にあった死体が腐敗するからって、
熊さんが外に移動させたものだよ」
「でもブルーシートってありましたっけ?」
「車庫にあったのを僕が持ってきて被せたのさ」
「ふーん」
特に関係なさそうなので聞き流した。
そして夕食の時間となり、
ぼくたちは昨日同様に食料を集めてリビングに集合した。
「食べながらでいいので、
今後のことについて話し合っていこうかと」
ハカセさんがコホンと咳払いをする。
「結局、橋が壊れていて、その先には行けなかったんですよね?」
食パンを片手にヒメが付け加えた。
どうやらある程度のことは耳にしているらしい。
「一応おさらいするとそうなるね。
僕たち4人で道を下ったわけだが、
途中大きな川が流れていて、
おまけに橋が壊れていた。
渡るにも水位が増していて、
危険と判断して引き返すことになった。
ってことです」
「つまり袋小路状態ってこと」
サバの水煮缶を手にあねごさんがつぶやいた。
ある意味缶詰ってことだろう。
「どーすんのよ?
このままあたしたち、
ここで一生暮らさないといけないの?」
「ヒメさん落ち着いて」
ハカセさんが必死でなだめる。
「通信手段を考えるから」
「通信って何ができるの?
ケータイも使えないし、電話も繋がらない」
「まあ火を焚いてのろしを上げるとか方法は……」
「原始的なことで誰が気づいてくれるのよ。
バッカじゃないの!」
わがままヒメ相手にハカセさんも、てんてこ舞いだった。
のろしを上げる案はぼくが出したのに、
頭ごなしに否定されるとイラッときてしまう。
ましてヒメに。
「捜索組から以上ですね。待機組は変わったことはありませんか?」
ぼくたちの目線がヒメに集中した。
熊さんは当てにならないからだろう。
「変わったことはないよ。
一応見回りはしたけど、あたしと熊さんの他に誰もいなかったし。
そうそう熊さんが、書斎にあった遺体を外に運んだだけ。
これはみんな知ってるよね?」
ハカセさんとあねごさんは無言で頷く。
ぼくもついさっきハカセさんに聞かされてい
でも白ちゃんは首を傾げていた。
「あたしからは以上よ」
言い終わったタイミングで、ヒメがもぞもぞと座り直した。
「おいデブ、何かあるか?」
腕を組んで黙っていたあねごさんが、上目遣いで熊さんを呼ぶ。
「おらかぁ?」
どこか間の抜けた返事だった。
これに対してあねごさんがズバッと切りかかる。
「あのさぁ、デブの一人称ってなまってねえか?
おらぁってなんだよ?
べつにおらぁでもいいんだけど、おらぁ以外にあるだろ。
試しに一人称変えてみろよ」
「おらぁは、おらぁだ」
「だから変えてみろって」
「お、お、お、おれえぁ?」
「もういいわ。
あたいが悪かった。
で、話を戻すけどデブは何かあったか?」
「死体運んでいるとき鍵があっただ」
鍵ってもしかして?
ポケットからゴソゴソと、熊さんは銀色の鍵束を抜き取った。
ぼくが予想していた開かずの地下室も含まれているはずだ。
「デブにしてはお手柄だ。
早速片っ端から開けていこうぜ」
「待ってください」
鍵束を持ったあねごさんをハカセさんは強く止める。
「あんだよ?
あたいの冒険心がうずうずして、張り裂けそうなときに」
「確かにこの屋敷内でまだ行ってない場所もあるでしょう。
もうすっかり暗くなっているんですよ。
明日に回しましょう」
「釣れないカタブツだな。一カ所だけならいいだろ?
ほら、太朗だか誰かが言ってた地下室の開かない部屋。
もしかしたら通信機とかあるんじゃねえ?」
「よりによってそんな怪しい場所を。
僕は行きませんからね」
地下室とか苦手だもんな、ハカセさんは。
「誰もメガネなんか誘ってねーよ。
じゃあ地下室行く人、手ぇ挙げて?
はーい」
挙手をしているのは空しくあねごさんだけだった。
「もういいわ。あたいひとりで行くから」
「単独行動は危険です。明日にしてください」
ハカセさんが透明なグラスに水を注いでいる。
諦めたほうが無難ですよ、あねごさん。
「じゃあヒメ一緒に行くか?」
「ヤダ。いくらあねごの頼みでも行かない」
「お前も否定派かよ。
仕方ねえな、あたいらだけで行くか?」
あねごさんは、ぼくと熊さんを順番に見た。
「ぼくですか?」
「今朝言ってただろ。開かずの間があるって」
「まあ言ったような……」
「真相を確かめないと眠れないんじゃないのか?
太朗はそういうタイプだ」
そこまで深刻に考えていなかったが、気になるレベルだ。
何らかの通信機があれば、ここから脱出する希望もあるし。
「よし決定だな。おいデブ行くぞ」
ピクリとも肯定の合図を送ってないのに、強制的になってしまった。
「食事中」
「バカヤロウ!
てめえどんだけ食べれば気が済むんだよ。
あたいらは今、大きな密室にいるんだぞ。
食料だって限りがあるんだ」
同じく熊さんも強制。
「ここを下りれば地下室なんだな」
あねごさんは壁に手を添えて一歩ずつ階段を下りる。
「やっぱり、おらぁたちも行かなかあかんべか?」
ぼくと熊さんは入り口でためらっていた。
「怖いんですか?」
「怖いに決まってるベ。
おらぁのことデブデブって連呼するから」
地下が暗いとか幽霊が出るかって意味の怖いじゃなくて、
あねごさんが怖いって意味ね。
「おーい、早く来いよ。シバくぞー」
階段を下りきったらしく、
あねごさんの声が洞窟にいるように長く伸びていた。
「行きましょうよ、熊さん」
「うん」
ぼくたちが階段を下りきるとあねごさんが、
「鍵のかかってるのってどこだ?」
「1番奥の部屋です」
あねごさんはドアノブに鍵を差し込む。
「ん? これじゃねーな。これでもない」
次から次へと試していく。
「鍵に表示されてないんですか?」
「それもあるけど、この部屋もなんだかわかんねえだろ」
地道に潰していくしかないんだな。
「お、刺さった」
10個くらいある鍵束で最後の1個で見事引き当てた。
ある意味才能かも。
「なにかなぁー」
口笛交じりで上機嫌のあねごさんはドアを引く。
こっちからすれば不安だらけなんだが。
「真っ暗で見えねーよ」
他の部屋と構造が一緒なら、スイッチはドア横にあったはず。
手探りでスイッチを押した。
「お、これはこれは、武器倉庫か?」
1メートルくらいあるライフル銃や、
手のひらサイズのコンパクトなハンドガン。
刃渡り20センチはあるサバイバルナイフなどが、
両脇の棚に敷かれていた。
この箱は何だろう?
ふと鉛のように重く黒い箱を発見。
鍵はない。
中を開けてみると、
野球ボールくらいのと同じものがゴロゴロと入っている。
「これなんですか?」
するとあねごさんは覗き込んで、
「置いてあるものから想像すると、
ダイナマイトとかその類いじゃねーの」
「ダイナマイト!」
イメージからすれば、ソーセージを束ねたヤツとか想像していたが。
冷たい手で首を撫でられた感触をもらったぼくは咄嗟に封をした。
「ビンゴじゃん。あれ無線機っぽいな」
あねごさんは部屋の奥に進み、
無線機が積まれた机に椅子を引いて座りながら指先で触りまくる。
「操作できるんですか?」
「テキトーにボタン押してれば動くんじゃね」
「あのですね、
こういうのって、ぼくたち素人が触れてはいけない物なんですよ」
「さっきからうるせえな。
質問ばっかしてねーで手伝えよ」
仕方なくぼくは、起動スイッチらしき物をくるりと見渡す。
「これ、穴開いてますよ」
上から覗いてみると、
親指くらいの大きさの穴が地面へ一直線に続いていた。
「はあ? どれどれ。
銃で撃っちまったな。
ダメだ。使い物にならん」
「確かに一致しますね。でも誰が一体……」
やはり、ぼくたちの中に知らない誰かがいるのだろうか?
でも昼間ヒメと熊さんが屋敷をパトロールしたときは、
人影はいないって言ってたし。
「動くな! 撃つぞ」
「ちょっとあねごさん」
あねごさんはピストルを片手に銃口を向けてきた。
「冗談ですよね?」
「ジョークに決まってんだろ。
これ弾薬入ってなさそうだし」
半分だけ口を開けて、トリガーを引いた。
ズドォォォォォォォーン!
雷鳴と共にぼくの左こめかみを何かが掠める。
両目を動かすと、ペットボトルのキャップくらいの大きさの穴から、
火薬の臭いと一緒にもくもくと煙が泳いでいた。
「ひいぃぃぃぃぃぃぃぃー!」
下半身の神経が抜き取られたように、その場にしゃがみこんだ。
あねごさんはじーっとピストルの銃口を覗いていた。
「あねごさん!」
「悪い、外した。もうちょっと右だったな」
「狙ってたんですか?」
「うそうそ、じょーだんだってば」
「何ごとだベ?」
キョロキョロと左右に目を動かしながら熊さんが入ってきた。
そういえばこの人、今までどこにいたんだ?
「デブ、何やってたんだ? 入ってこねえで」
「見張りしてたべ。怪しい奴が侵入しねえようにだ」
いや違うな。
熊さんのことだから、
あねごさんと関わりを持ちたくなかったから避けていたんだ、きっと。
「まあいっか。
えっと実弾はあと2発入ってるから、この銃はあたいが預かるわ」
「ダメに決まってじゃないですか!
使用する目的がわかりません」
「護身用以外、使い道ねえだろ」
「護身用って、この6人の中であねごさんより強い人はいないですよ」
冗談じゃないよ。
なにか揉めごとが起きるたびに銃口を突きつけられたら、
たまったもんじゃない。
「ちっ、わかったよ。
こっちのサバイバルナイフで我慢してやっから」
「それもダメです」
「20センチのやつじゃなくて、10センチのやつ」
「変わりないです。ダメ」
知らぬうちに立ち上がっていたぼくは、
手をクロスさせて、バツの表示をあねごさんに突きつけていた。
「ほら、もう戻りましょう。
これ以上この部屋にいても意味がないですから」
「お、おう」
くるりとドアの方向へあねごさんを回して、背中を押そうとした。
「ピストルは置いていく!」
「おう」
図々しくも握っていたピストルをテーブルに捨てて、
あねごさんの背中を強く押した。
「熊さんも行きますよ」
「そうですか。あの開かずの部屋は、倉庫でしたか」
リビングに戻り、起こったすべての事情を話すと、
ハカセさんがうんうんと頷きながら聞いていた。
「もう大変でしたよ。
あねごさんがピストル撃ってしまって、
あと数センチ右だったら、ぼくの頭にズドーンでしたから」
「災難だったね。
それで無線機は直すことできなかったのかな?」
「真上から銃弾がめり込んでいて修復不可能です」
一通りの説明では、
壊れていたとしか言ってなかったので、ハカセさんが食いついてきた。
「でも変だね。ここまで銃声は聞こえてこなかったよ」
「それはお前がメガネをかけていたからじゃねえの?」
ぼくの隣で椅子にもたれながら、
あねごさんはグラスを片手に言った。
3秒くらい間を呼んで誰もフォローしなかったので、
ぼくが入ることにした。
「ほら、地下室だったし、
防音効果もそれなりに整備されていたからだと思いますよ。ははは」
苦笑を混ぜてみたがハカセさんは、
「ヒメさん、爆音って聞こえたかな?」
「ううん、静かだったよ」
更にハカセさんは、
「白さんも聞こえなかったよね?」と、質問する。
白ちゃんは大きく頷いた。
どこからどう見てもあねごさんのイヤミなのに、
ハカセさんは、わざとらしく真に受けたように確認しながらニコッと笑う。
「困るんですよね。
でたらめな仮説の立てて、僕たちを混乱させるのは」
「悪かったよ。目が悪いのに耳は達者なんだな」
テーブルにグラスを叩きつけるよう置いたあねごさんは、
立ち上がってガラス越しに外の様子を眺めていた。
導火線に着火しなくてホッと胸を撫で下ろす。
「まあいいでしょう。
ところで今後のことについて議論しなくてはいけません」
「今から? もう休もうよー」
ヒメが嫌そうに口を尖らせた。
「異議がなければすぐに終わりますので聞いてください。
まず明日ですが、鍵もありますので本格的に屋敷内を捜査します。
もしかしたら7人目が潜んでいるかもしれないからです」
「7人目じゃなくて8人目じゃねえのか?
ひとり死んでるし」
外の様子をうかがっていたあねごさんは、再びぼくの隣の椅子に腰をかける。
おさらいしてみると、
ハカセさん、あねごさん、熊さん、ヒメ、白ちゃん、そしてぼく。
この時点で6人。
書斎の男の遺体を混ぜて7人。
やっぱり8人目って言うのが適格。
「訂正させていただきますと、
八人目が潜んでいるかもしれないので捜査します。
いかがですか?」
異議はないらしく、みんなしーんと黙っている。
「意見はなさそうですね。
では引き続き今晩の寝床についていですけれども……」
ハカセさんは鋭く熊さんを睨む。
この2人が会話をするところなんて珍しいので、
ぼくはじっとかたずを呑んだ。
「あなたは寝相が悪いです。
今朝僕は昇天しそうになりかけたのですよ。
なんとかしてください」
全くもって同意見。
こっちなんか下敷きにされて漬け物になるかと思ったんだから。
「そりゃあ酷いことしてすまんかった。
でも避けなかったハカセくんもハカセくんだ」
反省の日差しが微塵も見えないよ、
人のせいにして! この肉だんご!
「わかりました。確かに僕たちにも非が存在します」
納得しちゃダメだってば。
「今晩から熊さんは、個室で寝てもらいます!」
人差し指を額の中心に突きつけるハカセさん。
この件に関しては相当お冠のようだ。
「嫌だぁー、ウサギは寂しいと死んでしまうだぁー」
自分のことをウサギに見立てているようだ。
ウサギじゃなくて豚だろう。
いや熊だった。
「僕もそこまでは鬼ではありません。
ここは民主主義なので多数決を取ります。
では、熊さんと一緒にリビングで寝てもいい人?」
我先に熊さんが手を挙げる。
「反対に熊さんはデカくて暑苦しいので、個室に行くべきだと思う人?」
ぱっ、ぱっ、ぱっ。
花が咲いたように熊さん以外全員手を挙げる。
「全員一致ということで、残念ながら熊さんには退場してもらいます。
ここで各自からコメントをもうけさせていただきます。
ヒメさん、この件についてひとこと?」
「明らかに自業自得でしょう。当事者には拒否権がありません」
ノリノリだな、ハカセさん。
「時間ありますか?
ではもう1人あねごさんからひとこと、どうぞ」
テレビ中継じゃないんだから、その辺にしておかないと。
密かに嘲笑していたぼくも、
徐々に気の毒になってきた。
「デブならではの結果。
多数決をやる事態ムダってことよ」
「辛口なコメントありがとうございます。
ええ? もうひとりいける?」
いい加減にしろよ。
熊さんの傷口に塩を塗るようなマネをして。
本人向こうで泣いてんじゃねえか!
ぼくに振ってもノーコメントだからね。
「太朗くんはどう思いますか?」
まるでマイクを持っているかのように、
拳をぼくの口元に擦りつけてきた。
「参ったな。お二方に全部持って行かれちゃいました。
でも熊さんにもチャンスがあったはず。
これを糧に再チャレンジを試みてください。
人生とは転倒の連続です。
転んだときに何かを掴んで立ち上がるかが重要なんですよ」
ハッ、しまった! ぼくとしたことが。
「厳しいお言葉ありがとうございます。
それでは熊さんには毛布を持参して退場してもらいましょう。
どうかみなさんで温かい拍手を」
この演出やり過ぎだろ。
うつむいたまま熊さんは、毛布片手にとぼとぼと出ていく。
名残惜しそうに首だけこっち向けて、
「単独行動は危険だべぇ?」
「熊という生き物は群れを作らない物なんです。
それにあなたの体重は成人男性の2倍はあるでしょう」
ハカセさんに反論もせず、熊さんは涙を溜めながらリビングを去った。
単独行動を過敏に発信していたハカセさんだが、
他人事になると手のひらをひっくり返すなんて。
ちゃっかりしてるな。
まあ熊さんなら大丈夫か。
「おーい、鍵閉めて寝ろよ」
あねごさんの声が大きな背中を刺した。
昨日同様に、ぼくたちは男女の境界線を張って、眠りに入る。
今日もいろいろなことが溢れていたな。
身体が疲れているはずなのになかなか寝付けない。
本来ならここから脱出してふわふわのベットで寝ているはず。
だがぼくたちはここにいる。
リビング内はレモン色の月光が差していて、真っ暗ではなかった。
キィー、キィー、とコオロギの歯ぎしりが聞こえる。
相当疲れているはずなのに、みんなぐっすり寝ている。
本当に記憶喪失なのか?
もしかしたら、ぼくだけ記憶喪失でみんな演技をしている可能性もある。
緊張感がなさ過ぎる。
一刻も早く外部と連絡を取らなくてはいけない。
そして真実をこの手で確かめるんだ。
と、意気込んでも宝石強盗のニュースを目の当たりにしたら、
真実を知らないほうが、身のためかもしれない。
だったらみんなで一生ここで生活するのも悪くない。
記憶が戻るとは限らないし、
戻ったとしても世間が受け入れてくれるとも限らない。
真実を知るべきか、伏せるべきか。
ぼくの心は記憶とぶつかる度に大きくブレていた。
ここまでお付き合い頂きありがとうございます。