一、修羅場
帰還玉の白い煙に包まれた俺とアイリは――気付けば、あの不思議な落とし穴の前に立っていた。
「ふむ、どうやら無事に帰れたみたいだな」
空を見上げれば既に月がのぼっており、月明かりが周囲を明るく照らしていた。
「こ、ここがジンさんのいる世界……」
アイリはキョロキョロと周囲を見回す。
「何だか、不思議な感じです……。空気が違うというか……」
「ほぅ、そうなのか?」
さすがは自然と共に生きるエルフ。
そういった環境の変化には、人間よりもはるかに敏感なのだろう。
「はい、何となくなんですけど――あっ!」
するとアイリは、空中のある一点で視線を固定させた。
「綺麗……。これがジンさんの言っていた桜……でしょうか?」
彼女は空を舞うピンク色の花弁をてのひらに乗せると、俺の元へ持ってきた。
「あぁ、そうだ。綺麗だろう? 春はこれを肴に酒を飲むんだ」
「肴に……この花は食べられるんですか?」
アイリは桜の花弁を指でつまみ、くんくんとにおいを嗅ぎ始めた。
「ふふっ、違う違う。目で見て楽しむってことだよ」
「あっ、なるほど……。確かにそれは、きっとおいしいんでしょうね」
そうやって二人でぼんやりと夜桜を楽しんでいると――「くしゅん」という可愛らしいくしゃみの音が聞こえた。
「す、すみません……」
「あー、悪い。夜はまだ冷えるよな。早く俺の家に行こう」
桜も満開に咲き、日中はずいぶんと暖かくなった。しかし、夜になるとまだ冷たい風が吹く。そうでなくとも、彼女は元々かなり薄着だ。胸と腰の周りに赤いアクセントの入った白の布地をまとっているだけで、肩口とお腹周りは、丸ごと露出している。おそらくは、エルフ族特有の衣装なのだろう。
「は、はいっ!(じ、ジンさんの家に……私がっ!)」
すると少し硬い返事が返ってきた。
(ふむ……)
彼女にとってここは右も左もわからない異世界だ。加えて彼女はエルフ族。おそらくだが、エルフの森から出たことも数えるぐらいしかないはずだ。
(緊張するのも無理もない……か)
今日から向こう数日は、付きっ切りでこの世界のことを説明してあげた方がいいだろうな。
(今日はもう遅いからメシを食べて寝るとして……明日はどこへ連れていってあげようか?)
街に繰り出すのもいいし、ハンターズギルドを紹介するのもいいだろう。
俺はなんとなく明日の予定を考えながら――。
「――さぁ、こっちだ。ついてきてくれ」
「はい」
アイリと共に、自宅への道を進む。
■
「ただいまー」
「お、おじゃまします」
俺が玄関を開けるとすぐに――。
「ジーン、おっかえりー……んっ!?」
珍しいことにスラリンは俺の胸に飛び込んでこず、青い顔をしてその場で急ブレーキをかけた。
「あぁ、ただいま、スラリン。……ってどうしたんだ?」
何か悪いものでも食べたのか……?
(って、いやいやスラリンは暴食の王。どんなものを食べたって問題ないな)
俺がスラリンの状態を心配していると、その後ろからノソノソとリューがやってきた。おそらく、つい先ほどまで眠っていたのだろう。眠たそうに目のあたりをこすっている。
「ジンー……。おかえ……り……っ!?」
「あぁ、ただいま、リュー。って、お前もか……」
スラリン同様に、リューも機能を停止してしまった。
(なんだ、二人して何かの遊びか……?)
俺がそんなことを思っていると――。
「「ジン……その女は、なに?」」
二人は同時に再起動を果たした。
どういうわけか、その目からはハイライトが消えている。
「この子はエルフ族のアイリ。いろいろあって、今日から俺の家に住むことになった。二人とも仲良くしてくれよ」
「は、初めまして、エルフ族のアイリと申します。今後とも、よろしくお願いします」
そういってアイリはペコリと頭を下げた。
「さて、昨日も話したけれど、一応紹介しておくぞ。この青い髪の子がスライムのスラリン。こっちの銀髪の子が龍のリューだ。ほら、二人ともアイリに挨拶をしなくちゃだぞ?」
「「……よろしく」」
二人はそれだけ言うと、少し後ろに下がり何やらヒソヒソと話し出した。
「やばいよ、リュー! 変な女が増えちゃったよ!?」
「これは……まずいね……」
「どうしよう……、リュー。あのアイリってエルフ、絶対にジンのことが好きだよ……」
「……食べちゃう?」
「うー、でもでも! もし万が一にでも、ジンにバレたら……」
「……絶交じゃすまないね。……食べるのは……なしの方向で」
「どうしようどうしよう、ピンチだよ……。ジンが盗られちゃうよ……。胸も大きいし、顔も可愛いし――服もなんかエッチだし……」
「それにあの女は……エルフ族……。私たちと違って……モンスターじゃない……」
「「……どうしよう」」
さっきから何をやっているんだ、あいつら? それもあんな廊下の隅っこで……。
「おーい、何をこそこそとしてるんだ?」
「「な、何でもないっ!」」
二人はビクリと肩を震わせると、首をぶんぶんと左右に振った。
「そうか? それじゃ俺はメシの準備をしてくるから、大人しく待っていてくれよ」
「「うん、わかった」」
二人には、大人しくしているよう言いつけたし……。後はアイリをどうするかだな。
(さすがに一人でスラリンとリューのところにやるわけにもいかない……。俺が間に入って話さないと、精神的にいろいろとしんどいだろう)
俺がそんなことを考えていると――。
「あっ、ジンさん。ご飯を作るのでしたら、お手伝いしてもいいですか?」
「「んなっ……にぃ……っ!?」」
アイリからそんな嬉しい申し出があった。
「それは助かるが、別に休んでいてもいいんだぞ?」
この世界に来たばかりのアイリにとっては、見るもの触れるもの全てが新しいものだらけ。それは新鮮で楽しくもあるだろうが、同時に大きなストレスでもある。
(幸いなことに俺の家は大きい。空き部屋ならいくつもあるから、休んでいてくれても全然かまわないんだが……)
「いえ、気にしないでください。住むところもご飯もお世話になっているんですから、家事ぐらいはお手伝いしないと、バチが当たってしまいますよ」
「「はうぅっ……!?」」
全く、アイリは本当にいいこだな……。メイビスさんも、さぞ鼻が高いことだろう。
「それじゃ、一緒に作ろうか」
「はいっ!」
俺はアイリと一緒に厨房へ行く前に――チラリとスラリンとリューの方へ視線を移す。先ほどからあの二人は、不審な挙動を繰り返しており、どう見ても普通じゃない。
「スラリン、リュー。具合とか……悪いのか?」
「う、ううん、何でもないよ……」
「強敵……出現……っ。一時……撤退……っ」
二人はそういうと、ぎこちない動作で寝室へと戻っていった。
「本当にどうしたんだ、あいつら……?」