14話 雅くんの激闘
僕が走り出したのとほぼ同時に包帯に包まれた怪物も走り出した。
これはおそらく、たまたま走り出したタイミングが同じだったわけではなく奴の反射神経が異常なまでにも高かった結果、同時の走り出しとなったのだろう。
僕が走り出すのを見て奴も走り出したのだ。
この事実だけでも怪物と僕の実力に歴然の差があることが分かる。
だとしても、僕は負けない。
まず最初に、奴に僕の打撃が効くかどうかを確認しなければならない。
打撃が有効なのか否かで作戦の成功が大きく左右されるからだ。
だが、それを確認するすべは何もない。
よって、あいつに打撃が通じる前提で作戦を決行した。
賭けではあるが、リスクを負わずに勝てる相手でもないと踏んでの判断だ。
その作戦は、とても単純なものだ。
走って近づき、殴ると見せかける。そこで放たれる敵のカウンターを躱す。そして顎に一発いれる。
こんな稚拙なものだが、絶対にこれで勝てるはずだ。
中学生のころネットの動画であんなに格闘技を見てたのだからいけるはずだ。
僕と怪物との距離がかなり近づいてきた。
このファーストコンタクトを外せば僕に勝ち目は無い。
ここまでの包帯の怪物の動きを思い出してみると、間合いに入るや否やお得意のパンチを繰り出してくることが予測できる。そうやって巨大な虫たちを一撃で粉砕してきたのだ。
まったく恐ろしい拳だ。
だが、僕はあんな虫たちとは違って考える脳を持っている。
パンチを繰り出してくることが分かっているのなら躱せば良いだけなのだ。
もう一度これからの自分の行動をおさらいしよう。
奴の拳を脇にすり抜けるように躱しながら身を反転させる勢いで顎に向かってストレート。
いける。これでいける。
さらに距離は縮まり、お互いの間はもうおよそ3メートル程しかないというところまで来た。
怪物が地面を蹴るとそのあまりの力強さに土がえぐれている。
圧倒的なパワーの差。
しかし、ここまで来ればもうそんなのどうだっていい。
僕の予想ではこの辺りで怪物はパンチを放つモーションを取り始める。
でなければ腕が伸びきった状態で拳をぶつけることができなくなるからだ。
そう思って怪物の腕に注視していたのだが...。
なんでまだパンチしてこようとしないんだ!?
ここまで距離が近づいても怪物は走る姿勢を全く変えようとしない。
まさかこいつ...?!
脳裏に最悪な仮定が立てられた。
奴はこれより近づいても拳を放てる。
僕は奴を人間と同じ扱いにして考えていたが、それが間違いだったのだ。
普通の人間ならここで腕を動かし始めなければパンチは間に合わなくなるが、こいつは人間じゃなくて怪物なのだ。
怪物ならば、人間よりももっと素早い動きができてもおかしくはない。
全身を悪寒が駆け巡る。
怪物との距離はさらに縮まり、その距離およそ2メートル。
人間離れした速さで放たれる拳を一般人の僕が避けることなどできるのか。
そして残り1メートル。
ここまで来ても奴は全く拳を放とうとせず、包帯の隙間から血走った目をまっすぐと僕へ向けて走ってくる。
この距離から放たれる拳は、もはや音速の域に達するのではないだろうか。
高まる絶望感。
離脱も考えたが、音速の拳をもつ奴の間合いから逃れることなんて出来るはずがない。
僕に残された道は、こいつの音速の拳をかわすことだけなのだ。
そんなこと可能なのだろうか。
幸いなことに、僕の脳はこの0コンマ何秒の間に凄まじいスピードで思考を巡らせている。
今の僕ならばいけるかも...。
いや、いける。信じるしかない。
どのみちやらなければならないのなら、
最後まで自分を信じるだけだ。
海道が信じてくれた僕を、僕は信じる。
さあ、ファーストコンタクトはいよいよクライマックスを迎える。
すでにお互いが挟む距離は1メートルを切っている。
奴の右手に集中する。
どちらの手で放つかなんて考えてたら間に合わない。
最初に背中を殴られたときに奴は右手を使っていたことから、今回も右手で仕掛けてくるだろうと、山を張っているのだ。
ここからの光景はまるでスローモーションのように感じた。
さあ来い!
まだ打たない!
音速どころか光速だったのか?!
なんだ、どうして放たない。
もしかしてこいつは光をも上回る拳の使い手なのか?!
その瞬間、突如として僕の頭を衝撃が襲った。
「んがっ!!」
目の前の景色がぐらりと揺れる。
たまらず尻餅をついた。
全く見えなかった。
奴の頭が目の前まで迫ってきたところまでは覚えている。
いや、そんなこと考えている場合じゃない!!
ここで僕が死んでいないということは、奴の放った一発目は僕を怯ませるための一撃だったのだ!
ということは間も無くとどめの二発目がくる。
まだ視界がはっきりしないが、ここで体を横に回転させれば避けられるか?
いや、無理だ。
きっと尻餅をついてしまった時点で僕の敗北は決した。
まさかここまで高度な戦い方の出来る相手だったとは。
僕は奴の知能を完全に誤解していた。
ただ闇雲に殴りかかってくるだろうとばかり思っていた。
武術の腕も高く、戦術を考える脳も持ち合わせているとなると、もう僕に勝ち目はない。
そうか、僕はここで死ぬのか。
悔いはない。
僕は全力を尽くしたのだから。
自然と笑みが溢れた。
理不尽だらけの人生だった。
今もこうして人生最大の理不尽によって生涯に幕を下ろそうとしている。
だが、思い出してみれば、僕はいつも全力だった。
なるべく疲れないように、出来るだけ楽に、そう努めてきたつもりだったが、結局僕は全力を尽くして理不尽に立ち向かっていた。
「ばかだなあ」
一度、こんなことを考えたことがある。
なんてことはない、昼下がりの教室でふと浮かんだ小さな疑問だ。
死ぬその瞬間、僕は一体どんな表情をしているのだろう。
そのときの僕はこう結論を下した。
惨めな顔だ。
悔いだらけで、思い残したことばかりで、何も成すことが出来なかったことを歯がゆく思いながら死んでいく。
それが僕の宿命だと、そう結論をくだした。
だがどうだ。
僕は今、笑っていた。
理不尽の多さを不公平だったと嘆きはしない。
その度に立ち向かった自分を誇った。
きっと、あと1秒もしないうちに怪物からとどめを刺される。
もう僕が奴に勝つことはない。
だが、せめて最後は奴を睨みつけてやろう。
今まで、理不尽にそうしてきたように、最後まで立ち向かうのだ。
どうやらまだ僕の意識はある。
ということは最後に睨む時間ぐらいはくれるということだな。
僕は目にありったけの想いと気迫を乗せて、顔を上げた。
「さあ殺せよ!殺してみやがれ!」
薄暗い森の中に激しい怒号が響き渡る。
消えゆくさだめにある人間の魂の叫びに続き、命の灯火を吹き消す残忍な暴力の衝撃音が響き渡る。
はずだった。
顔を上げて目の前の景色をはっきりと視認した僕は、困惑に包まれた。
いない。どこにもいない。
奴がいない。
なんでだ。
後ろにもいない、右にも左にも上にもいない。
あいつは光よりも速い動きで拳を放ったけど、光よりも速い動きで移動できるわけではないはずだ。
では、あいつは一体どこに...。
「ぐ...」
蚊の鳴くようなそのか細い声を僕は聞き逃さなかった。
正面の方向だ。
急いで立ち上がり、身構えた。
だが、やっぱりいない。確かに正面から奴の声がしたのだけど...。
「まさか...
我が敗北を喫する時が来ようとは...」
「うぉわっ!!」
そいつは足下にいた。
おぞましい姿を晒しながらそこに仰向けになって、僕にとどめの一撃を放つための準備を...
「ん?
いま何て?」
いま、この怪物は何かおかしなことを言っていた気がする。
「汝、名をミナギノ ミヤビと言ったな...。
ふっ、我が武を上回るとは、誠、武を極めし者よ...」
いいや、おかしい。
こいつは何を言っているのだ。
これじゃあまるで僕がこいつに勝ったみたいではないか。
よく見ると、確かに力なく横たわってはいる。
だが、僕はこいつに何もしていないし、むしろ殴られたのは僕の方だし。
全く状況の理解ができていない僕を置いて、怪物は続ける。
「我は今まで長く生き、一度たりとも敗北を味わったことはなかった。
いつの日か好敵手のようなものに巡り会いたいと思っていた。
我は貴殿のような者を探していたのだ。
ああ、しかし我の命の灯火はどうやらここまでのようだ...。
なんということだ、天は残酷な仕打ちをなさる。探し求めた好敵手とたった一度の試合しかさせぬとは。
敗北した身でありながら無様なのは百も承知。だが武を磨き好敵手を探し続けた求道者のよしみで、せめて、我が名を名乗ることを許してはくれまいか...」
「どうぞ」
もうよく分からないから、てきとうに喋らせてみよう。
「おお、心の広い御仁だ。
我に足らぬのはその山の如き度量であったか...。
我が名は破砕丸。
風雅龍山脈の頂点にして、霊界四天王が一人である。
お見事なり、この霊界四天王の証を受け取るがいい」
そう言うなり、破砕丸とやらは何らかの証とやらを取り出そうと右手を弱々しく動かしながら...。
「おい」
思わずその右手を叩いて払いのけてしまった。
これに破砕丸は、
「なんと?!
霊界四天王の証が要らぬと申すのか...?!」
なんて驚嘆したが、そんなものの価値は知らないし、今思ったのはそんなことではない。
「証だかなんだか知らないけど、お前いまどこから取り出そうとした?」
「どこかと?
それはここであるが...」
そう呟きながら、破砕丸が自分の右手を運んだのは、股間の部分。
「おい。
証とか知らねえけど、お前、股間部分にしまってるものをほいと人に渡すなよ。
渡される方の気持ちにもなれ」
「しかし、霊界四天王の証ほどの大宝、ここにしまうべくしてどこにしまう」
「もっとあるだろ?!
少なくともそんなところではないはずだろ?!」
「いやいや、だがな主人殿よ」
「誰が主人だ」
僕を無視して話を続ける破砕丸。
「ここには男である主人もおそらく所持しているであろうもう一つの大宝があるだろう?」
「おそらくっていうか間違いなく持ってるからな」
「それほど大事なものがここにあるということは、ここが何かを守るのに最もふさわしい場所であるということだ。それ故、我はここに霊界四天王の証を保管しておったのだが...
奇異であったか?」
なるほど、こいつはバカだ。
さっきまでの死闘の雰囲気はどこへ行ってしまったのか。
この破砕丸とやらがバカであることは分かったが、まだ大きな謎が残っている。
どうして僕はこいつに勝ったのか。
「おい破砕丸、お前なんで倒れてるんだ」
僕のこの問いかけに、何を言うかという雰囲気を醸し出しながら
「主人殿の光をも上回る拳に我が反撃出来なかったからであろう?」
と、当たり前であるかのように答える破砕丸。
いや、言っている意味が全く分からない。
もう少し聞いてみなければ。
「ああ、そうだったな。
でもあのパンチはあまりの威力と速さのせいで少し記憶が飛ぶんだ。
もっと詳しく教えてくれ」
なるべく不自然じゃないように装ったが、さすがにきついだろうか。
自分の記憶が飛ぶパンチってなんなんだ。
「なるほど、そのような拳法は知らなんだ」
通じた。やっぱりこいつはバカだ。
呆気にとられていると、破砕丸は勝手にしゃべりだした。
「主人は我めがけて淀みなき足取りで駆けてきたのだ。我もそれに合わせて駆け出したのだが、心中に大きな迷いが生じたのだ。
これほどまでに名実ともにする我へとここまで怯むことなく立ち向かう者を我は知らん。
故に、この世に産まれ落ちて初めて僅かながら恐怖した。思えばここで勝敗は決していたのだな。
我は主人殿の初撃をいなす手を選んだ。
お互いの間合いが縮まっていくあの瞬間ほど昂ぶった覚えはないぞ。この我にも臆することなく駆けてくる主人殿が一体どのような拳を放つのかと、興奮と恐怖の入り混じる胸中であった。
しかし、結局我には主人殿の拳をこの目に捉えることは出来なんだか。
主人殿の拳一閃。お見事、我は頭を撃ち抜かれ、無様にもこの始末よ。
誠、武を極めし者よ。あっぱれである。
さあ、受け取るが良い」
「だから要らねえって」
差し出された右手を払いのけた。
すると、その手に乗っていた複雑な形をした紋章のようなものが地面に落ちた。
「なんと?!
証が!!証が土で汚れてしまう!!」
大慌ての破砕丸の隣で、僕は事の顛末をはっきりと理解した。
理解してしまった。
まず、僕と破砕丸がお互いに走りだしたあのとき、僕は奴の拳をかわしてから一発叩き込む、カウンター作戦をとっていた。このとき、怪物も同じことを考えていた。
お互いにカウンターだけを狙ったまま、だんだんと距離は縮まっていく。
奴には拳を放つ暇などないはず。
まさか、奴はとんでもない速さで拳を放つのではないのか。
そう考え、冷や冷やしていたのは僕だけではなかった。
お互いに何もせず勝手な深読みをして走り続けた結果、僕と怪物は結構なスピードで衝突したのだ。
正面衝突した。
そして、僕の方が頭が固かったのだろうか、破砕丸に勝利した。
「だ...だせぇ...」
あれだけ必死に戦った。
命を捨てる覚悟までして臨んだ。
そんな戦いが正面衝突で幕を下ろしたのだ。
「主人殿。今宵より、四天王の座は主人殿に...」
気づかない間に、破砕丸は僕の手に証を握らせていた。
それを見ているとなんだか無性に腹が立ってきた。
「バカやろおーーー!!」
握らされた証をてきとうな方角に全力投球した。
「ああっ!!!
証がァァァァッッ!!!」
するとさっきまでの死にそうな雰囲気はどこへ行ったのか、活き活きとした動きで立ち上がり、悲鳴にも近い声で絶叫しながら、破砕丸は証を追って夜の闇に消えていった。
「くそ...
なんなんだよ...」
確かにあいつがバカだったおかげで生き残ることができたのだが、なんだか心がモヤモヤする。
「雅くん!!」
突如として耳に聞こえた声に驚きながら振り返ると、そこには今にも泣き出しそうな顔で駆けてくる海道の姿があった。
「海道、お前なんでここにーーー」
だが、僕の言葉を無視して海道は駆けてくる。
もうぶつかるというのに止まらず、海道は僕の体を抱きしめて止まった。
「良かった...本当に良かった...雅くんの叫び声が聞こえてきたから本当に怖かった...」
その声は涙で震えていた。
叫び声とは、あの「殺せ」のことだろう。
思えばあの言葉も恥ずかしい。
「おいおい、やめてくれよ」
僕が死闘を制してここに立っていたのなら、海道の抱擁も満更ではなかったのだが、僕はあの怪物とただ交通事故を起こしただけなのだ。
こんな、ラスボスを倒した勇者に抱きつくヒロインみたいな行動をとられても、余計にみっともなさが増すだけなのだ。
本当にやめてくれよ。
海道の肩を優しく引き離した。
涙で赤く腫れている海道の目を見ると、ますます後ろめたさが大きくなる。
僕が生きてたことを喜ぶのは構わないけど、とりあえず話題を変えてさっさと逃げよう。
「海道、そういえばーーー」
「雅くんは凄いな。あの霊を倒しちゃうなんて」
その話はやめてくれよ。
とりあえず誤魔化そう。
「あの...うん...まあな。
ギリギリだったよ」
と、あたかも激戦を繰り広げたかのようなことを言っておく。
事故っただけだけど。
「雅くんあんなに戦えない戦えないって言ってたくせに、結局戦って、しかも勝っちゃうなんて、もう凄すぎて言葉にできないよ」
言葉にしないでください。
早めに話題を変えなければ、いつボロが出てしまうか分からない。
それに、
「あいつがまたここに帰ってこないとも限らないから、早くここを離れよう」
褒められれば褒められるほど、戦いのダサさが思い出されて、苦しくなるのだ。
またここに奴が帰ってくるかもしれない。
その言葉に海道は顔色をかえた。
「そうだね。
せっかく雅くんが撃退してくれたんだから、早くここから逃げようか」
そうしたいのだが、逃げるといっても一体どこに行けばいいのだろうか。
まさか町内で遭難するなんて思ってもいなかったので、逃げる方角なんかまったく考えていない。
そんな僕の意中を察したのか、海道が
「とりあえずこっちに進もう」
と、歩き出してくれたので、ひとまずついていくことにした。