12話 雅くんの決意
背後から激しく落ち葉を踏みしめる音がしている。
間違いなく怪物は走って追いかけてきている。
「走れ走れ走れぇぇぇ!!」
追いつかれたら奴に呪殺ではなく撲殺される。
「ちょっと待ってよ雅くん!」
隣には必死の様子で走る海道。
「私そんなに足が速くないの!
ダメ!私絶対捕まる、殺されちゃう!!」
そうだ。海道は普通の女子高生。
僕と同じ速度で走れるわけではない。
僕ですら逃げられるか分からないというのに、彼女に逃げ切ることなんかできるのか。
海道を守るために僕が何かしてあげなくては。
大切な友達を守るために僕が勇気を出して、
「雅くん、ちょっとタックルでもして時間稼いできて」
「それじゃあ僕が殺されるだろうが!」
やっぱやめた。
だが、ここに海道を置いていくわけにもいかないので海道のペースに合わせて走ることにした。
海道は今も隣で
「いやー!!!足音近づいてるって!!
無理ぃぃぃ!!私もう無理ぃぃぃ!!」
と叫んでるので、とりあえず体力はまだありそうだ。
怖くて背後の確認は出来ないのだが、確かになんとなく足音が近くなっている気はする。
このままでは追いつかれてしまう。
何か生きているうちに成し遂げたいことがあるのかと聞かれると別にそういうわけでもないのだが、こんなところで死にたくない。
怖いので死にたくない。
やはり、何かして怪物を遅らせなければならないのだが...。
走りながら周りを見る。
枝、葉っぱ、木の実、土。
投げつけたりすれば時間は稼げるだろうか。
だめだ。そんなものが通用するとは思えない。
もっと画期的な方法はないだろうか。
くそ、こんなときに良い作戦を思いつかない自分のI.Qの低さが恨めしい。
僕が懸命に頭を働かせていると隣から突然、
「あ、カマキリさんだ」
と能天気な声が聞こえてきた。
顔を向けると、海道が前方一点に目をやったまま、生気の抜け切った笑顔を浮かべていた。
「こんなときにふざけてる場合か?!」
だが、それでも海道の表情は変わらない。
まずい、あまりに現実離れした絶望のせいで意識が飛ぼうとしているのか。
幸い、足を止めていないので、今のうちに早く呼び戻すことができれば最悪の事態は回避できるかもしれない。
「おーい、海道。聞こえるかー?僕だよ、三薙野 雅だよー。今から軽い質問をするからなー。
いちたすいちはなーんだ」
「カマキリさん」
こいつはもうダメだ!
海道の脳が完全にダウンした。
悲しいが僕だって普通の人間だ。
成人でもなければ伝説の勇者でもない。
自分の命が一番可愛いんだ。
このまま行けば海道も僕も2人とも死んでしまうかもしれない。
ここは非情な判断で海道を見捨てるしか...。
仕方がないことだ。
僕はここで大切な友達を見捨てたという咎を一生背負って生き続けるんだ。
落ちる涙を拭いながら走る速度を上げようと前を向いたとき、きっと僕も海道と同じ笑顔を浮かべていたんだと思う。
そこには確かにカマキリがいた。
軽トラサイズの。
「...海道、ごめん」
「いいの、分かってくれたなら」
絶体絶命。
僕たちはどうすればいいのか。
一難去ってまた一難とは言うが、これでは一難去らずにもう一難だ。
「一体なんなんだよ!!
変な霊に襲われるわ、生態系キラーみたいな昆虫に出くわすわ、
何日連続で星占いの最下位をとったらこんな1日になるんだ?!」
「知らない、もう知らない」
ちらりと海道を見ると、彼女は完全に色を失っていた。
生きる希望を失った人間は、こんなにも色素が抜けてしまうのか。
ちくしょう、死ぬものか。
死なせるものか。
「あのカマキリ、私たちのこと食べる気なんじゃない?」
カマキリは僕たちに向かって一直線に進んできていた。
おそらく海道の推察は当たっているだろう。
あんなデカさのカマキリはこの世の種ではないだろうから一概に同じとは言えないが、僕が知っているカマキリは肉食だ。
人間がカマキリに食べられない理由は自分よりも遥かにサイズが大きいからであって、万が一にも、いや億が一にもカマキリの方が人間よりも大きくなることがあれば、人も捕食対象だろう。
「くそ!
右に曲がろう!!
前も後ろもダメなら右か左に行けばいい!
で、世の中は右がマジョリティだから右に行け!」
「上じゃだめ?」
「上?」
見上げてみたが、覆い被さる木の枝と葉だけで、打開策になりそうなものは何もない。
「上ってなんだよ」
「雲の上」
「死ぬもんか!」
だが、僕が言う通りに右に曲がったところで状況は変わらない。
相変わらず僕たちは包帯人間と巨大カマキリに追われるだけで...。
「ん、待てよ?」
よく考えてみれば、この前提条件はおかしくないだろうか。
どうしてあのカマキリと包帯人間が仲良く二人で僕たちを追ってくるのか。
あの二体ともが僕たちを目的とするならば、カマキリは包帯人間が、包帯人間はカマキリが邪魔なはずだ。
「海道、良いことを思いついた!
僕の手に捕まってくれ!」
「え...
手のひらに楽に死ねるツボでもあるの...?」
「そんな地雷みたいなツボあるわけないだろうが!
いいから捕まれ!」
海道の手をとった。
「待って!
さすがに心の準備ぐらいさせて...
うん、できた。
いいよ、ツボ押して」
「だから楽に死ぬツボなんかないんだよ!」
「でも保健の授業で、手のひらには肉体というコックピットから魂を緊急脱出させるツボがあるって...」
「その先生の名前を教えろ。
家に着いたらまずそいつのこと教育委員会に報告するから!」
訳のわからないことを言う海道を黙らせて、作戦を伝える。
「いいか、僕が合図をしたらすぐに右折だ。
絶対に遅れるなよ」
僕の確信めいた自信を感じ取ったのか、海道は生気を取り戻し、緊張した面持ちで頷いた。
ときどき背後から響くおぞましい呻き声と力強い足音からして、包帯人間はかなり近いところまで来ている。
対して、前方のカマキリもあと僕たちまで20メートルほどというところまできた。
「いくぞ海道、3...2...1...!」
その瞬間、右へと進行方向を変えて海道の手をぐっと引っ張った。
先に伝えていたおかげで海道もしっかりと僕の動きについてこれている。
そのまま数秒走ったあと、
「これでどうだ!」
と、僕は振り返った。
すると、予想通り包帯人間は僕たちではなくカマキリめがけて走っていった。
奴らは二体とも怪物であることに変わりはないが、その種類までもが同じでないなら、きっと打ち解けることはない。
そう睨んだ僕の読みは正しかった。
「やっぱりな。
霊も人間と同じで欲張りだ。
僕らの片方も他の怪物に渡さないつもりなんだ」
「もしかしてこれって逃げられる?!」
上手くいったので、少しすかした言葉を言ってみたのだが、海道の目にはまったく僕は写っていなかったようだ。
寂しい。
目を輝かせ嬉々とした声を上げる海道。
気を取り直して、次の行動に移そう。
「よし、それじゃああのカマキリとと包帯人間が争ううちに僕たちはーーー」
パシャアッ!
そのとき、何か汁の入った柔らかいものが粉砕されたかのような音が森をこだました。
「「え」」
僕と海道は立ち止まり、物凄く嫌な予感に髪を引かれながら振り返る。
するとそこには、アッパーカットの姿勢のまま空中に飛び上がる包帯人間と、無惨にも顔面を砕かれた状態で佇む巨大カマキリの姿があった。
やがて、無事に地面に着地した包帯人間。
グニャリと僕たちの方に顔を向けてきた。
僕たちと包帯人間は見つめあったまま動かない。
ここでしばらくの静寂。
「お見事」
「お見事、じゃねえよ!
逃げるぞ!!」
拍手をする海道の襟を掴んで走り出した。
「あ!
雅くん邪魔しないでよ!
せっかくあの怪物のご機嫌とりをしてたのに!!」
「そんなのが効く相手か?!
いいから走れ!」
その後も僕たちは走り続けた。
その間、何度も不可解な巨大な虫と出くわしたのだが、理由なんて考えている余裕もなくその全てを同じ作戦で包帯人間にぶつけてみたのだが、
ことごとくワンパン。
何もかもワンパン。
何なら、包帯人間のおかげで僕らは巨大な虫の餌食にならずに済んでいるのかもしれない。
にしても、
「どんだけ広いんだよ!
神社の森ってこんなに広かったか?!」
「...いや、神社の森はこんなに広くないよ」
もう何十分も走っているというのに、一向に森から出られない。
三途の川のときと同様で、なぜだか疲労を感じないおかげでこうして走れているのだが、そんな僕と一緒に走ってきた海道も大したものではあるが、さすがに限界がきたようで、
「ねえ...もう...疲れて死にそう...
あいつに殺される前に疲れで死にそう...」
と、ふらふらな海道。
「頑張れよ!
ここが踏ん張りどころだろ?!」
だが、僕の呼びかけも虚しく、もうほとんど走れていない。
このままでは海道まであの包帯人間にワンパンされてしまう。
そんな結末は見たくない。
僕の抱いていた海道への理想のようなものは少しずつ崩れ始めてはいるものの、彼女が大切な友達であることは揺らがない。
僕が海道を助けるのだ。
さっき見捨てようとしたことに関してはノーコメントで。
海道がこうして疲れているのに対して、僕は何故だかまったく疲れを感じていない。
アスリートなんかにはパフォーマンスのピークがあると聞いたことがあるし、一般人の僕にもピークのようなものがあるんだろう。
人生最大だと思われるピークを迎えている今の僕なら、ひょっとすると海道を背負いながらでも走れるかもしれない。
「海道!僕の背中に乗れ!」
立ち止まって背中を差し出した。
「......セクハラ?」
「言ってる場合か!?」
何でこいつはちょっと余裕があるんだ。
少し腹が立ったので海道を置いて全力ダッシュをした。すると、
「待って!ごめん!ごめんなさい!!
お願いですから背中を貸してください!!」
と、泣きながらせがむので立ち止まって海道を背中に乗せてあげた。
「走るからしっかり捕まれよ!」
「分かった!」
返事をして海道はその腕を僕の前に持ってきて...。
「ぐぇっ!
何で首に腕を回すんだよ!
で、力を入れるな!
死ぬわ!!」
「ご、ごめん!
だって私、人におんぶされたことなんかなくて...」
手の置き場に困ったというわけか。
「とりあえず肩を持っておけばいいから。
早いところ走り出すぞ!」
足に力を込めて思いっきり地面を蹴り出した。
海道の体が想像している以上に軽かったこともあってか、予想以上に上手く走ることができた。
自分の身体の急激な強化に気味悪さも覚えるが、今はとにかくこの身体を酷使するまでだ。
森を出る方角も分からずにただひたすら走り続ける。
背後からは未だにドスドスという足音とときどき不気味な呻き声が響いてくるので、奴は相変わらずねちっこく粘着質に追いかけてきているのだろう。
こうして走ることが出来るのもどれくらいが限界なのか分からないので、体力があるうちに奴を巻いておかなければ取り返しがつかなくなるかもしれない。
「ねえ雅くん...」
急に耳元で囁かれたので、一瞬思考を停止させてしまった。
あわてて
「何だよ」
と返事をかえす。
海道を背負っているのだから、海道の声が耳元で発せられるのは当たり前のことだというのに、全てが未経験の僕には免疫というものがない故に、非常に心臓に悪いのだ。
「私、雅くんがいなかったらさっきのところで本当に死んでいたと思う」
あまりにも落ち着いた声だったので、まるでここが日常なのかと錯覚してしまいそうになった。
「何だよ急に」
僕のその返事に、海道は頭を僕の肩に埋めながら。
「何だかこうして雅くんにおんぶしてもらってたら心が安らいじゃって。
眠たくなってきた」
「お前凄いな。僕はまだまだ恐怖の真っ最中なんだけどな」
こんな状況で寝そうになるとは、僕の背中も過度に信頼を寄せられたものだ。
「ごめんね雅くんに苦労させちゃって...
でも、今の雅くんすごく頼りになるし、カッコいいよ」
どうして女性はそんな言葉を恥ずかしげもなく言えるのだろうか。
言われ慣れない言葉にうろたえていると、海道は優しくお淑やかな声で、
「私のこと大切って言ってくれてありがとう」
と、これまたそっと耳元で囁いた。
脳に一粒も恋愛細胞を持たない僕にはこんなときに返すカッコいいセリフは浮かばないので、
「...は...はぐ...ふは...」
と、イノシシの吐息のような言葉しか発することができなかったのだが。
海道を助けることに必死になるあまり見失っていたが、よくよく考えてみると女性を背負うなんて大胆な行動をよくも取れたものだ。
今になってとんでもない恥ずかしさがこみ上げてきたのだが、さっきの自分がお膳立てしてくれたこの状況は大切にしたい。
今日という日は色々な場面場面で僕がまるでヘタレであるかのように写っているだろうが、この状況はそんな僕の名誉挽回のチャンスでもあるのだ。
捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのこと。
僕のような人間を拾う神がいたことには驚きを隠せないが、今はとにかく感謝だ。
僕に目をつける神なんかどうせ変人で、信仰者も猫の額ほどしかいないだろう。
だが、チャンスをくれたことには違いない。
ならば僕はこのチャンスを活かすだけだ。
やる気が身体中にみなぎってきた。
今の僕なら何も怖くない。
「安心しろ海道、僕が絶対に君を守ってみせる」
決めゼリフを言い終わったと同時、足元で何か木のツルが伸びるような、そんな音がした。
「あれ?」
と、同時に僕の目の前の光景が激しくぶれる。
僕は平衡感覚を保てずに、地面に倒れた。
「......空間を操ったのかッ?!」
「雅くんが転んだだけでしょ!!」
すぐにバレてしまった。
僕としては100点満点の迫力で放った言葉だったのに、このウソを見破るとはなかなかのツワモノであることは認めよう。だがしかし、この程度でいい気になってもらっては困るというもの。僕の本当の実力はまだまだこんなものではない。僕が本気で人を騙そうとすればそのあまりの巧妙さに誰もが欺かれるに違いない。その気になれば日本中を恐怖のどん底に陥れるほどの詐欺師にだってなれる人間なんだという自負がーーー
「何してるの雅くん!
地面に向かって悪代官みたいな悪い笑み浮かべてないで早く逃げよう!まだ諦めちゃダメ!」
おっと危ない。彼女の言葉のおかげで我にかえることができた。
僕は確かに、あまりの想定外の出来事に、妄想という形で現実逃避を行ったわけだが、これは彼女が言うように諦めたからではない。
あれだけ自信満々に『君を守る』、とか言っておきながら、木のツルに足を取られて転んだ自分が恥ずかしすぎて、自分のカラに閉じこもりかけていたのだ。
「早く走り出さなきゃ追いつかれるよ!
もう私は大丈夫だから、一緒に走ろう!」
顔を上げると、すでに立ち上がって僕に手をさしのばす海道がいた。
「ほら、泣かないで!
あとでゆっくり言い訳きいてあげるから!」
ここでも結局、街道に助けられる形になってしまった。
一体僕はどれだけ醜態を晒せば気がすむのだろうか。
ここまでに、物語の主人公になったかのようなカッコいいシーンを生み出すチャンスは何度もあったというのに、僕はそのチャンスをことごとくモブキャラがジタバタするシーンへと降格させてしまった。
まだ命があるだけマシだろうか。
それとも、こんな生き恥さらすぐらいならいっそのことあのおぞましい霊にぶち殺された方が話は美化されるだろうか。
「雅くん?!」
未だに立ち上がらない僕を掴んで立ち上がらせようとする海道。
その顔は恐怖と焦りで埋め尽くされている。
それを見たとき、僕の頭の中をある一つの考えが駆け巡った。
この身を使って海道が逃げる時間を確保すれば良いだけのことじゃないか。
繰り返しになるが、僕は聖人でもなければ伝説の勇者でもない。
だというのにこの考えを実行しようと決意するのに何の躊躇いも無かった。
なぜなら、ここで海道を逃がすことができれば文句なしでヒーロー。
最悪、死んでしまえば生き恥がここで終わる。
まあもちろん死にたくはないが、失敗したとしても僕の勇敢さは認められるはずだ。
僕にとってメリットしかないのだ。
僕は海道の手を優しく払い、力強く自分の足で立ち上がった。
急な僕の変化に戸惑う海道に背を向けて一言。
「海道、逃げろ」
決まった。