八話 「発熱とお使いⅢ」
目的地の霧の森に近づけば近づくほど辺りは闇に包まれ、白い霧が発生する。
確かな足取りと恐怖心を覚えたアリスは立ち止まった。生唾をごくりと飲んでそれらを見つめる。
葉は生い茂り、美しい花が咲いていて不思議な感覚があった。怖いはずなのに、なぜか吸い込まれるように自分の足が動く。まるで最初から知っているかのように、道をたどって歩いていく。
なんだか懐かしい感じがする。アリスはそんなことを思いながら、無意識に近い状態で足を運んだ。薬草を取りに行く目的も忘れ、アリスの足取りは止まらない。
急な来客に驚いたのか、照明係を担っている淡い光を放つ精霊達は一目散に逃げていった。
すると、突然アリスのつま先に鈍い感触があった。石ではない、もっとしっかりとした物体。その物体は――四肢があり、自我と人格を持つ人間だった。
アリスにぶつかってもうめき声をあげず、枕を抱いて胎児のように丸まって幸せそうに眠っている。
こんなところでよくも呑気に寝ていられるものだとアリスは呆れ、その人間が起きるまでしばらく待つことにした。
もしかしたら薬草の場所を知っているかも。そんな淡い期待を寄せながら、眠っている人間を観察する。
ぼさぼさの灰色の髪に身の丈に合わない、だぼだぼの白い長そでのシャツ。袖の間から見える細い指は、黒いネイルをしていた。
「もうお腹いっぱいなんだけど~……」
時折り何か寝言を言い、だるだるの黒い長ズボンは足を隠しているほどの長さだ。
白ウサギと同じ年齢くらいだろうか。眠り続けている青年は、どこかしら白ウサギと同じような雰囲気が漂っていた。
青年の体を揺さぶっても寝返りするだけで、起きる気配は一向にない。もう諦めて帰ろうとしたその時。たばこの煙がアリスの鼻先をかすめた。
おもわず咳き込み涙目になりながら顔を見上げると、屈強な男性がいつの間にか現れていた。
「よぉ、嬢ちゃん。こんなところに何の用だ? 子供が一人来る場所じゃねぇぜ」
動きやすさに専念された服装に、癖のついた短い赤毛。鍛え上げられた体は何年も積み重なって仕上がったもので、言うならば頼りがいのある兄貴分と言ったところだろうか。
男性はたばこを地面に落とし、火と煙が出ないよう踏みにじるとアリスの前に近づく。
「……!」
殴られる。アリスが目をつむり体を震わせていると、男性はアリスの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「オレは嬢ちゃんのこと殴ったりなんかしねぇよ。むしろ、優しくするつもりだ」
男性が快活よく笑うと、アリスはおそるおそる目を開ける。
「それにさっき思い出したところなんだが、嬢ちゃんのことは昔っから白ウサギの奴に聞いてたんだよ。いやぁ、すまねぇすまねぇ」
男性は申し訳なさそうにアリスに詫びると、改まって自己紹介をした。
「オレの名前は『チェシャ猫』。この森に住んでる、ただのおっさんだ。んで、地べたで寝てるのは『眠りネズミ』。寝言がうるさいが、まぁ我慢してくれ」
「あ~……おはよう、チェシャ猫~……。あれ、知らない人だ……。よろしくね~」
むくりと起き上がり、やわらかい笑みを浮かべる眠りネズミ。気だるげな声はこちらまで眠気に誘われそうだ。
「よ、よろしく。あの、チェシャ猫さん。昔の白ウサギを知ってるって本当なの?」
「あぁ、本当だ。オレはあいつのことをよく知ってる。息子みたいなもんだよ」
「チェシャとシロは仲良しで、おれも仲良し……。みんな、家族~」
眠りネズミがゆったりと喋りつつも、家族という言葉にほのかな温かさがあった。
かつて自分が幸せを感じたように、暖かくて優しい気持ちになる。けれど、なぜか心の奥底では胸がしめつけられるような感覚に陥った。ずきり、ずきりと少しずつ心の痛みが増してくる。
視界がにじむ。喉がつかえて、むなしくも奥に閉じ込めていた言葉は何も言えないままだった。
最終的には、チェシャ猫と眠りネズミが住んでいる家に泊まることとなった。
気持ちが落ち着かないままでは夜遅くに帰るわけにもいかず、ゆっくり休んで明日の朝に薬草を渡そう、という眠りネズミの案で決行した。
鼻水をすすり、夕食には温かいスープをごちそうになった。そして、アリスはふかふかのベッドですすり泣きながら、ゆっくりと眠りについた。
◇◇◇
場所は変わり、エタンセル王国。
夜も更け、月日に照らされた街で一人の少年が歩いている。嬉しくてたまらないというように鼻歌を歌っていた。どうやらご機嫌のようだ。
少年の手にはジャックナイフが握りしめられており、ところどころ血がついている。
そんな異様な雰囲気を持つ少年の姿を誰も見ることはなかった。
その理由としては、周囲の人間たちが物語っている。無残に引き裂かれたそれは、夜店の明りに誘われた者達の被害者だった。
自分と年の変わらないような子供や、大人など関係ない無差別な暗殺。
そんなむごたらしいことを平気でやってのけた少年は、住宅の屋根の上へ軽々と飛び、着地してみせる。
「よっと」
「さてと、あの人はいないかな?」
一通り目を凝らすと目当ての人がいたのか、満足そうに少年がにたりと微笑んだ。
身軽な体を使って地面に着地すると、一直線にその人のところへ向かう。
足取りは軽かった。ようやくあの人に会える。そう思えば思うほど、少年に笑みがこぼれていく。
数年かかって見つけたその人とは、白ウサギのことだった。少年にとっては見放されていた自分を育ててくれた、唯一の恩人である。
その恩人は今や熱にやられ、おかゆもまともに食べることができず寝苦しい夜を過ごしているのだが。
少年は勝手に帽子屋の家を散策し部屋のドアを開けると、ようやく彼とご対面した。
「探すまでに苦労したよ、兄さん」