七話 「発熱とお使いⅡ」
帽子屋に叩き起こされたので、アリスは仕方なく買い物に行くことにした。
黒い髪を揺らす少女――アリスは帽子屋の鞄を借りて、ごつごつとした石畳の上を歩く。
ヒールが付いた黒のロングブーツでは歩きづらい。油断すれば転びそうで、お気に入りの服が台無しになりそうだ。
帽子屋にとりあえず北へまっすぐ進めば大丈夫。と言われたので、その通りに歩く。
夕方になり夜店が始まったのもあって、道路に連なる淡い明り、魚の焼いた香ばしい匂い……。見たこともない珍しい宝石に惑わされ、思わず寄り道しそうになったが、なんとかこらえる。
しかし我慢はしていても体は耐えきれず、空腹で腹が鳴る。
少しくらい使ってもいいだろう。アリスは、先ほど目についた店の焼き魚を買うことにした。
「へいらっしゃい。お嬢ちゃん、見かけねぇ顔だな。綺麗なおべべ着てよぉ。もしかして王都の生まれか?」
「えっ、いやその、ち、違います」
魚を焼きつつ、自分に話しかけた熟練の中年男性にアリスは戸惑っていた。すると、店の奥から男性と同じ年齢くらいの中年女性が店の奥からやって来る。
「ちょっとあんた。初対面の子に馴れ馴れしくするのはやめてって、いつも言ってるやぁないの」
「なんだとう!? これは俺のポリシーなんだよ! ケチつけんな!」
中年男性は唾を飛ばし反論する。その様子を見てアリスは一瞬体がすくんだ。しかし周囲の人々はいつもの夫婦喧嘩かと呆れたり、微笑ましく思う者もいる。どうやら、この辺りではちょっとした有名人のようだ。
「あ、あの。私、この焼き魚を買いにきたんです……」
恐る恐るアリスが言うと、人が変わったかのようにぱっと表情を変え、にんまりと中年女性は微笑んだ。
「何だい、あんたそのつもりなら早く言やぁ良かったのに。あんさんべっぴんさんやから、この焼き魚食うたらお肌がぷるんぷるんなるわぁ。いやぁ、若いっていいわなぁ」
と言いつつ豪快に笑ってアリスの肩をばしばし叩くと、満足そうに店の奥へ戻っていった。
今のは一体何だったんだろう……。そんなことを考えているうちに、待望の焼き魚が出来上がった。
「あいよ、お嬢ちゃん。お腹空いとっただろ? あんな奴なんか気にしないで、味わって食べろよ」
「は、はい。ありがとうございます」
アリスは串に刺さった焼き魚を受け取ると、中年男性は手を差し出してきた。アリスはこれを握手のことだと勘違いし、中年男性の手を軽く握る。
「おいおい、お嬢ちゃん惚れちまうじゃねえか。これはな、握手じゃなくてお金を渡すんだよ」
「……へ? あ、ああっ! ごめんなさい手が滑りましたわ!」
アリスは慌てふためき、パニックになってお嬢様口調になる。おほほと笑って誤魔化し、銅貨三枚を帽子屋の鞄の中から取り出して中年男性に渡す。
やらかしてしまった。外の世界では順風満帆な生活を送れると思ったが、そう簡単にはいかないようだ。こんなところ白ウサギにでも見られたりしたら、彼はきっと笑いすぎて死んでしまうだろう。
白ウサギがいなくて良かったと思いつつ、先ほどのことはさっさと忘れるようにして、黙々と焼き魚を食べる。
アリスはカツカツとヒールを鳴らしながら、霧の森へ足早と歩いて行った。
◇◇◇
城の書斎の中で、一人の青年が喜々として本を読んでいる。本を読む手が止まらないというように、はらり、はらりとページをめくる。
このまま空想の世界に浸っていたいが、どうやらそうもいかないらしい。来客が早くしろと言わんばかりに、慌ただしくドアを蹴っている。
このままドアが壊れるのも見ものだが、後々面倒くさいことになるので仕方なく本を元の位置に戻し、ドアを開ける。
「やぁ、ピッケ。君のそのせっかちな性格、直した方がいいと思うよ?」
「うるせぇ、女王が呼んでるんだよ……。お前もお前でその嫌味言うのやめろよ……マジうぜぇ」
「……あぁ、女王陛下ね」
トランプの兵隊は一瞬だけ声のトーンを落としたが、すぐに元の調子に戻った。
「分かったよ。それじゃあ、『トランプの兵隊』はここで退場しまーす」
トランプの兵隊は背を向き、軽く手を振り去って行った。
「……。本当、マジうぜぇ……」
ピッケは吐き捨てるように毒を吐き、彼の言葉はむなしくも消えていった。