三十七話 「初めの第一歩」
「わたしは、あなたを信じます――ロワ皇帝陛下」
ジェリエナの声が城に響く。もうこれ以上、犠牲は増やしたくない。それはジェリエナ・エトワールにとっての切なる願いだった。
十年前の襲撃でレイを失い、ヘンリーは帝国に連れ去られ、顔を合わせることも出来なくなってしまった。およそ十年間もだ。その心の傷はとどまることを知らず、ジェリエナを苦しめてきた。逃げ切れた場所でも悲しみの念が解かれることはなく、彼女は涙で頬を濡らした。
――その呪縛を今、解かなければいけない。
「もうあなたを信じることしか道はありません、ロワ皇帝。わたしはあなたと……クリーク帝国との協定を組みます。
あなたはハイドを殺すためならディリットとヴァイオレットを貸す、と言いましたね。断言しましょう、勝ちます。ディリットの戦略と、ヴァイオレットの戦力があれば敵なしです。こちらにはラパンがいますし、最終の措置としてレクスも控えていますので」
「ともかく、わたくしジェリエナ・エトワールは帝国との協力を結び、ハイドを倒した暁にはわたしとラパンとの結婚を認めてもらいます。よろしいでしょうか、ロワ・サングリア陛下」
涙を振り切って厳格に、かつ凛々しく言葉を紡ぐジェリエナはまるで鷹のようだった。玉座を見据え、未来に向けての一歩を彼女は歩んでいく。瞳に映るのは怒りや憎しみではなく、ただ純粋な、戦うための『初めの第一歩』である。
「はぁ……そうか。……リヒトよ、クロシェよ。お前達の子どもらは立派に育ったぞ」
「ロワ皇帝?」
「いいや、独り言だ。――ジェリエナ・エトワール、お前の志は十二分に分かった。貴様をフリーデン王国の王女として認めてやろう。
今! ここで帝国はフリーデンとの協定を結ぶ――!」
ロワの声で城の者達は一斉に決意を固めた。それがどのような結果になってもいいように。
ある者は自らの剣を手にかけ、ある者は行き場のない感情を口を手で覆うことで堅く閉ざす。
そして、またある者はナイフに触れることで心を落ち着かせた。
「これで私の息子とヴァイオレットは、お前の物だと思っても構わない。存分に我が帝国の知力と戦力を使うといい」
「ありがとうございます、ロワ皇帝陛下」
「おい、ジェリエナ・エトワール」
もう一つの玉座から声が降りかかる。ロワ皇帝の一人息子であるディリット・サングリアだ。
「……。なんでしょう?」
「オレは基本、戦略で勝負をする知力の役割をしている。まぁ、お前がどうしてもと言うなら戦力を使うオレを見せてやっても構わない、という話だ。
あと、オレに対して敬語は使わなくていい。自然体でいろ」
ジェリエナの頭にはてなマークが浮かぶ。
「はぁ? それはどういうことかしら。あとあなたの言い方がまどろっこしくて、七割くらい意味が分からないのだけど」
ディリットが玉座の階段から降りてきて、腕を組みながら目つきを悪くした。酷くうなだれているような顔をしているようだ。
「……チッ。普段は帝国の戦略を担っているオレだが、貴様のためなら戦力として扱ってもいい。あと、敬語を使われると非常に腹が立つ。オレをおちょくるヘンリーに似て不愉快だ」
「本人ここにいるんだけどな!? ディリーちゃんったら、まぁだ俺のこと嫌っちゃってぇ」
それまで控えていたヘンリーが口を開く。彼の口は言葉を紡ぐたびに冗談との境界すれすれを吐き出すものだから、余計に質が悪い。
「それ以上言うな。撃つぞ」
「それは辞めていただきたいなぁ、ディリー坊っちゃん?」
「こいつ……!!」
「はいはーい、喧嘩は控えてくださいね。ここはあくまで謁見の場。協定を結んだのですから仲良くしましょうよー」
「そうね。お兄様とディリットが喧嘩ばかりしていたら、お互いの品位ってものが崩れてしまうもの」
いったいどちらが保護者なのだろう。ジェリエナより年上の男性の大人二人が言い合いするのは、ヘンリーの妹である自分でさえ少しだけ見苦しいような気がした。
「まぁ、お兄様とディリットが楽しいのならそれで良いのだけれど」
ジェリエナはふ、と半ば見くびるような笑みをしつつ、そんな妹の肩に腕を回しながらヘンリーは言う。
「お兄ちゃんはこんな奴をおちょくって腹を抱えるほどに楽しいぜ」
「おい!? エトワールの名を継ぐ者が悪ノリするな! 図々しい兄妹め」
「あらあら、皇子様はそれでもわたしを無理やり結婚させようとした男なのかしら?」
「おいおい、それじゃあお話にならないなぁ。ディリー坊ちゃんはその程度の男なのか?」
これ以上にない笑みで一人の皇子をコケに落とす王族がいただろうか。いや、どこの歴史を辿っても到底いやしないだろう。もし生きてさえいれば、レイですらも嘲笑するに決まっている。それがエトワールという者なのだから。
「こんのっ……。言わせておけば! ここで力の差というものを分からせてもいいんだぞ!? そうですよね、父上!」
「そんなもの勝手にしておけ。これで皇帝との謁見は終わりだ、後はお前達で好きにしろ。私は職務が山ほどあるからな。執務室に戻る」
ロワも玉座から降り、執務室へ向かうその時。ロワが口を開いた。
「ヴァイオレット、こいつらの面倒は任せた。あとディリット。私にすぐ縋り付くな、お前の悪い癖だぞ」
「分っかりましたー」
「は……はっ! 以後気を付けます!」
しばらくして本当にロワがいなくなった頃、涼しいくらいの静けさが城を満たす。
「で、これからどうするの? ヴァイオレットが手配してくれた宿とやらに行くのかしら?」
ジェリエナの問いでようやく従者のラパンが堅い口を開いた。
「あぁ、それがいい。今の俺達に必要なのは戦いではなく休息だ。無駄な討論をせずさっさと宿に行くしかない。お前達、異論は無いな?」
「なぜお前が先導を取ろうとする、ラパン・アルザス。……まぁいい、オレに異論はない」
「俺も異論はなーし」
「じゃあ皆さん、ボクに着いてきてください。宿まで案内します。それにボクの部下も待ってますのでー」
「あなたに部下? あぁ、あのフミとかいう女の人?」
「当たりでーす。お姫様、よく分かりましたね」
まだ出会って数分も満たないが、藤色の髪が奇麗だったのはよく覚えている。確か頼りない叫び声をあげていたような。
「ていうか、そもそもわたし達が城に行く前に駆けつけてくれたじゃない。その時魔法まで詠唱してくれて、わたしとラパンをこの城の玄関まで飛ばしてくれたのよ。宿に着いたら彼女にお礼を言わなくちゃ」
「お姫様にしては律儀ですね。そんなにフミのことが気に入りましたか?」
「まだろくに話もしてないから何とも言えないけど。まぁ、わたしと同じくらいの女の人に会うのは珍しいから、ちょっと親近感が湧くというか」
「立場は違いますけどねー」
「それは仕方ないわ。なんせ他国の姫と帝国の一従者だもの。あぁ、でも帝国だから軍人の一人なのかしら」
「その真相は貴女達でお話ししてください。会う前からべらべらと種明かしするのは面白くないでしょう?」
「確かにそうね。一理あるわ……って、今回は転移魔法使わないの? あれ楽で便利だったのに」
「転移魔法も無下には使えないんですよー。それも転移する人数が多ければ多いほど、魔力の負担も多くなるのです」
「そういうことだったのね。でもあなたほど強い人ならちゃちゃっと出来そうだけど。実はサボりたいだけなんじゃないの?」
ジェリエナのなんてことない問いは、ヴァイオレットの幼い笑みをより一層際立たせた。
「いやー、人の労力を顧みない王女様発言ありがとうございます! ボクも貴族の出ですが、貴方達はいささか徒歩という交通手段を思い知ればいいかと。つまり、つべこべ言わずにとっとと宿まで歩けバカヤロー、ということです」




