☆番外編 「星が零れ落ちる前に/下」
「おやすみなさい、お兄様」
「あぁ、おやすみ。良い夢を見るんだよ」
――愛しい妹。と、最後に言おうとしたが、やめた。あまり情を移し過ぎると眠れなくなりそうだから。
それに。なんだって、妹の笑顔を消したくはない。
ドアが閉め切られたと同時に、レイは深く息をついた。
「……妹の前だからって、強がりすぎたかもしれないな」
うん、少しばかり頑張りすぎた。途端、げほごほと咳が出る。咳は呼吸を整えようとするたびに酷くなる。
うん、かなり無理をしてしまった。
死という言葉が頭をよぎる。少なくとも、今日か明日辺りには必ず自分は死ぬ。
半端な『星読み』でも分かりきったほど、死の濃度は上がっていくのだから――。
「よう。邪魔するぜ、兄貴」
咳が落ち着いた頃、弟が部屋に入ってきた。
少しはねた黒い髪とアメジストの瞳。それと性格の悪さをひとつまみしたのが、ヘンリー・エトワールを作りあげている。
「……敬語。もしくはお兄様と呼ぶんだな。お前さんはいつまで経ってもマナーがなっていないね」
「兄弟だから別に良いだろ? お兄様」
「全く、お前っていう奴は……」
弟……ヘンリーの態度にはほとほと呆れる。いくらエトワールの次男であろうとも、ヘンリーは少々悪癖がある。
「今日はあんたをからかいに来たわけじゃあない。悪いニュースか嫌なニュース、どっちを先に聞きたい?」
あぁ、もう、なんだってこいつは――相変わらず趣味が悪い弟だ。
「……悪いニュースで」
「兄貴、あんたは今日か明日には必ず死ぬ。それも取り返しがつかなくなるくらいには」
「取り返しがつかなくなる、っていうのはどういう意味だい?」
「言わないし、言えない」
言えない。妙な言い回しに、ざらりと舌を転がす。
大抵の場合、どちらとも判別出来ない言葉は考えても仕方ない。
意味が、無い。
「……。嫌なニュースというのは?」
「近いうちに戦争が起きる。それで、この国は崩壊して終わりだ」
間を空かず駆ける事実に一瞬、沈黙が走る。
「――全部、『星読み』で見たのかい」
「あぁ。見たぜ、今日の昼に。というか、あんたも若干見れてはいたんだろ、兄貴」
もう一度、レイは息を吐く。
「見れたよ。自分自身が死ぬことも。これから起きるであろう戦争で、国が火の海になることも。
お前は半端で弱い僕とは違って、完璧な後継者だから余計鮮明に見れた。そうだろ?」
「……。全部兄貴の言う通りだよ」
「エナには?」
「言えるわけないだろ。兄貴が着けてたアメジストの首飾りがないのを見た時点で分かったよ」
「本気なんだな、兄貴」
「本気だよ」
妹のためならばなんだってやる。それこそ自分の命を犠牲にするならまだ軽い。同情も、哀れだと嘆くことも、惜しむ言葉も必要ない。
文字通り、自分という星が流れ散ったって後悔などされてたまるものか。
そう感じる心さえ、自分にはいらない。
「エナにあげた、あの首飾りは魔力がこめられていてね。いざという時の逃げ道代わりにはなってくれるはずさ」
「逃げ道?」
「――精神魔法だよ。僕が唯一出来る魔の力。ずっとずっと思い描いていた、箱庭の世界。そこへエナに過ごしてもらう。
空は青くて、白いイスとテーブルがある箱の世界。あとは少しの本棚と」
「ちょ、ちょっと待てよ。どうやってその世界で生き抜くっていうんだ?」
自分ですら引いてしまう口ぶりに、ヘンリーはたまらず焦った。
自然、笑みがこぼれる。
「大丈夫、彼女には立派な従者がいるからね。彼には懐中時計を渡している」
「その懐中時計にも何か仕込んでいるのか?」
「うん、当たり。こればかりはレクスに手伝ってもらったのだけれど、世界を行き来出来る特殊な魔法道具を作った。
これが出来る最高の最善策。あの子には申し訳ないけれどね」
「――もう覚悟は出来ている。だから、ヘンリー。
僕がいない間、エナを頼んだよ」
心の底から出た願いは、強い結びつきを持って約束へと変わる。運命の赤い糸とは程遠い、けれども固い絆で繋がれた、流れ星のような誓い。
「あぁ、分かってる。そんなの、言われなくても……俺、が――。守るから……!」
言葉よりも先に、いつの間にかヘンリーに腕を伸ばす。そして、愛おしさについ頭を撫でた。
「お前は本当に偉い子だ。この僕より、世界の誰よりも。――お前さんは、賢いねぇ」
涙がほろほろ流れても気にしない。ただ妹と同じように、つい頭を撫でてしまう。
ふと、幼少期を思い出した。
この子は、星のようにきっと昇進する。
「お前は立派な『後継者』だ。僕がいなくても、お前は生きていける。安心して。お前さんほど、自慢できる王子は他にいないのだから」
あぁ、かなしいな。ゆめのおわりがもうすぐきてしまう。
せめて、お星さまだけはのこって――。
◇◇◇
翌日。レイは何事もなく朝を迎えることが出来た。しかし、時間制限は少ない。
レイに言わせれば、順番が早かっただけの話。『遅かれ早かれ人は死ぬ』。そんな死生観の中、彼は十九年間生きてきた。
だから彼には十分過ぎるほどの人生を歩んできた。もう立ち止まってもいいくらい、幸せで穏やかな日々を過ごしていて。
「良い人生だった。なんて、言うわけないよな?」
一瞬ヘンリーかと思えたソレは、気配もなく現れた。髪も目も真っ暗闇で、服は上下とも白い。
「ハイド・カベルネ・ウィリアム……! 『鬼火』の悪魔……!!」
「フルネームで呼んでくれるなんて思わなかったな。それにヒトを悪魔呼ばわりだなんて。『俺』は悲しいよ」
「何が“悲しい”だ……! 聞いたよ、王家のソミュールの姉に手をかけた癖に。
お前は人の皮を被った悪魔だ。正真正銘の外道め!」
「まぁそう怒るなよ。声を張っただけで息が上がるのは見苦しいぜ?」
……指摘されて初めて気がついた。
「うるさい。お前だけには絶対、言われたくなかった……!」
左胸を押さえつける力が強くなる。同時に息も苦しくなって、呼吸のリズムが狂ってきた。
「それより一旦落ち着かないか? 『僕』も見て哀れんできたからさ」
いつもより大きく深呼吸した。不覚にも苦しさはなくなって、楽になった。
「落ち着いたか? なら本題といこうじゃないか」
「何をしに来――」
瞬間、視界が黒くなる。どろりとした何かが蝕んできた。
気持ち悪い。苦しい。また息のリズムが狂ってくる。
その全てを吐き出したいが、そんな生ぬるいのはダメだと体が訴えてくるほどに。
「あーあ。お前は選ばれなかったか。俺にとっちゃ、せいぜい『鍵』の役目で終わると思ってたんだけどな」
――何を言っているのか分からない。何だ、何だコレは。
選ばれなかった? 『鍵』の役目?
分からない。理解出来ない。奴の意図がつかめない――!
「ど、ごぼっ。どういう、ことだ……!」
口から黒い泥のような液体がこぼれる。そのせいか思わず咳き込んでしまった。
「どういうことも何も、お前は運命に選ばれなかったんだよ! 無様で哀れだな、えぇ?」
「ぐっ」
こいつ、手で首を絞めようとしてきた……! ただでさえ苦しいのに余計に痛くさせる……!
「最期に遺言か質問くらいは聞いてやる。さぁ、その命どうしてくれようか」
「お前は……。お前さんは、どちら側なんだ……?」
「……く、くくっ。はははははっ! 俺はそちら側でもないし、僕はあちら側でもない! だが、いいぜ。気分が良いから俺が特別に教えてやるよ!」
「――本当の俺はあちら側さ」
それで奴の声が聞こえたのは最後だった。
もう聞こえない。痛くもない、苦しくもない、悲しくもない、この世を慈しむこともない。
産まれてから、失くしてばかりだった。元よりこの肉体は二十を満たないまま死ぬと、父親から告げられている。
体力。体の丈夫さ。魔法の才能と実力。寿命の長さ。自分には足りない物だらけだ。
実際、頭の良さと言葉を紡ぐことには自信があったのだけれど。
そんなもの、弟の方が優れている。
兄より優れた弟などいないと他人は言うが、とっくに覆されていた。
「あぁ、ごぶっ、……そうかい。先に地獄でお前さんを待っているよ」
自分は両親より先に逝く身。後を追いかけるように父親と母親が来るだろう。
けど、きっと突き放すだろうな。神様か自身の手か、分からないけど。
「あぁ――結局、そうなるのか」
まだ、まぶたを閉じるのは許されないみたいだ。
◇◇◇
気がつけばハイドは去り、自分の部屋も城もろとも燃やされていた。
ろくに呼吸など出来やしない。部屋に満たされた炎と黒い液体は、これが事実だと言わんばかりに広がっていく。
「――お兄様!」
「私より先に触れないでください、ジェリエナ様! 貴方があの液体に触れると、何か起きるか分かりません!」
ぐい、とレクスがジェリエナを外側に引っ張っていく。優しい、力を最小限に抑えたその手で。
「レイ様、会話は出来そうですか!? あぁ、もう! 意識が吹っ飛んでも知りませんよ!」
レクスにしては珍しく荒い感情で回復魔法をかけている。
それと同時に自分の息が――穏やかになって。
「……お前でも、その黒いものは取れない、よ」
「私は文字通り何でも出来る貴方の従者です! あの小物には、魔法で劣るだなんて絶対に言わせません!」
…………治らない。いくら高度な魔法を使ってでも、ハイドがかけた黒いものを取り払うことは出来なかった。
こうしている間でも炎は容赦なく広がって、火の海になりかけている。時間すら、ない。
「……お前は偉いよ、レクス。今、まで僕の従者でいてくれてあり、がとう」
レクスは無言でうなずいてくれた。あとは、そう。
誰よりも愛しい妹に――。
「お兄様……本当に、死んでしまうのですか?」
「うん、ごめんな……そうなる、みたいだ」
「最後に、最期に……頭を撫でてくれませんか。いつものように……」
「……あぁ、お前がそう言うのなら」
妹の頭を優しく撫でてやる。絹のように柔らかい、流れるような髪を。
もう二度と出来ない。会えない。触れられない。
かなしい。かなしいな。もうきらきらのお星さまに会えないなんて。
目から星という名の涙がこぼれ落ちる。自分すら消えていくなんて、ほんとうにあわれだなぁ。
「お前は、綺麗だ。きらきらで、きれいなんだ。ずっと思ってた。お前さんは本当に――綺麗だよ」
「お兄、様――」
妹からも涙がこぼれていく。
けれど己の指から灰になっていくのは、無様で笑えない。
もうだめだ。本当に体の限界が来たみたいだ。
目を閉じれば体が朽ていくのが分かる。指先から心臓に至るまで、灰になっていくまで秒読みだろう。
「さぁ、お行き。振り返らずに、レクスと逃げるんだ」
「いや! 嫌です、お兄様を置いては行けない。お兄様がここで死ぬというのなら、わたしも一緒に燃えて死にます!」
「――駄目だ!」
妹の肩が一瞬震えた。自分が妹に対して初めて声を上げたからだ。
「お前だけは、絶対に生き延びろ。逃げて、果てまで逃げれば必ずラバンに会える、から」
「そんなこと、二度と言わないでおくれ……!」
「……はい。わかり、ました」
目が鋭くなる。あぁ、この子は気高くて美しい子になるんだな、と直感した。
「…………。さようなら、お兄様。……あなたは、良い兄でした――!」
背を向ける彼女はもう別人になりかけていた。そういう星のもとで生まれてきたんだ。
でも自身の星はもう尽きる。光がなくなっていく。
それは、自分の命だと言うのに。心はもうそれを受け入れていたみたいだ。




