☆番外編 「星が零れ落ちる前に/上」
――これは、十年と数年と少し前の話。彼が最後まで戦った、愛おしくも哀しいゆめのはなし。
「おはようございます、レイ様」
日差しがさし始めたばかりの頃。エタンセル王国の城で最も広い部屋に、聞き馴染んだ従者の声が響く。
「あぁ、おはよう――レクス。今日は晴れてよかった。綺麗な星空が見えるからね」
ベッドから身を起こし、「楽しみだ」と顔を綻ばせるのはエトワール家の長男、レイ・エトワールだった。
肩まで丁寧に切りそろえられた黒髪とアメジスト色の瞳。首元のチョーカーと、白いフリルの服にどこか憂いを帯びた雰囲気は、まさに星のように形づくられている。
「貴方は本当に星が好きなのですね。研究でもしたらどうでしょうか」
「研究はしないよ。僕は天体望遠鏡より肉眼で見るのが好きなのさ。そりゃあ、星に関する本でも書けたら御の字だけれど。レクス――お前は分かって言っているだろうに」
「ふふ、申し訳ございません。貴方なら、そう……『短い一生の中で一番心安らぐから』とでも仰られるかと」
「まさにその通りだよ。お前さん、ついに読心術でも得たのかい?」
「えぇ、少しだけ。とは言ってもまだ序の口ですが」
くっ、と笑みを隠しながらレクスは言う。
「……気味が悪いな。それは自分の力で? それとも自慢の『恩恵』かい」
レクス・アルザスには産まれた時から年に一、二回ほど自動的に何らかの能力が得られるようになっていたのだ。
……原因は不明だが。
「いえ、自力でなんとか。弟のおかげで鍛えられましたよ」
「……ラパンか。あの子も心中察するよ。時に彼、目元に酷い隈が出来ていたじゃあないか。あらかた仕事とお前のせいだね」
「く、あははっ。貴方には負けますよ、レイ様」
「世辞はしなくていい」
言葉を断つようなレイと違い、レクスはついに笑みを隠さず微笑んで
「――いえ、本当に仰られる通りなのですから」
◇◇◇
レイが朝食のフレンチトーストと紅茶を召し上がった頃、再びレクスがレイの元へと訪れる。
「レイ様、食後のお薬のお時間です」
「…………。また薬かい。……いいや、理解してるんだけれども。この時間ばかりはどうしても鬱屈となってしまうね」
レイ・エトワールは虚弱体質――つまり、生まれついての病弱だった。酷い時は一日中ベッドから離れないこともあるほど、喘息や病に悩まされている。
「お気持ちは分かりますが、飲まないとどうにもなりませんよ」
「そんなの、僕が一等分かってるよ」
薬を舌に乗せ、一気に水で飲み干してやった。すると偶然、誰かが部屋のドアをノックしてくる。
「レイお兄様……? わたしです、ジェリエナ・エトワールです」
「あぁ、エナか。レクス、扉を開けておくれ」
「分かりました」
レクスが白手袋越しにドアを開くと、そこには妹のジェリエナ・エトワールが待っていた。
「レクス、お前は下がっていい」
「……レクスはあっちに行って」
同時にレイとジェリエナの声が重なる。これにはレクスも空気を読んで二人に一礼し、庭の方へと向かっていった。
「お兄様、今日はおからだの調子がよくてなによりです。あっ、あと天気もいいので、いっしょに散歩と天体観測してもよろしいでしょうかっ」
六歳の上ずった声を、静かにうなずいてレイは聞いていた。
「あぁ、いいよ。お前も僕に似て星が好きだねぇ」
レイが優しくジェリエナの頭を撫でる。その時の彼女はとても嬉しそうに笑っていた。
「あ、あのっ、お兄様。いっしょにお散歩行きませんか?」
「あぁ、行こう。良い歩行訓練になりそうだからね」
妹の手を借りてベッドから立ち上がる。一瞬だけ目眩を覚えたが、ジェリエナのためならば軽いものだ。
「――うん、確かに今日は散歩日和だ。お前のおかげで身体が軽くなったよ」
「ほ、ほっ、本当ですか……!? それは……えと、何よりですっ」
自分と比べた小さな手は暖かく、何かに縋るようにレイを包み込む。
――あと何回、彼女と手を繋げられるだろうか。そんな楽観的な夢を、見て、
「……ッ!?」
ほんの一瞬、ノイズに紛れて何かが『見えた』。倒れている誰かと炎、そして――。
「お兄様?」
「……なんてことないさ。ほら、散歩に行くんだろう? お前の手で導いてくれないか」
「……! 分かりました!」
秘密の場所を見つけたんですよ、とジェリエナは言う。三日ぶりに浴びた日差しは暖かく、空気も心地良い。
ジェリエナと手を繋ぎ、壁伝いに歩いていると庭の方でヘンリーがぼう、と突っ立っていた。
「ヘンリーお兄様、いったい何を見つめているのでしょうか?」
「いいや、あれは見つめてなんかいない。何かを見ているんだよ、彼は」
「どちらも同じように感じるのですが……」
「そう思うのも無理ない。何せ、自分から見ているのだから仕方ない」
「えっと……??」
「要するに、心配しても意味がないってこと。ただの杞憂にすぎない」
そう、たとえヘンリーがどんな光景や未来を見ようが関係ない。『後継者』になり損ねたレイは、弟よりも微弱で半端なモノでしか見ることが出来ないからだ。
「きゆう……」
ジェリエナの間が抜けた言葉が空に溶けていく。
「お前は心配症だからねぇ。気に負うことはないよ」
そんな話をしつつ、レイの朝は終わりを告げた。
◇◇◇
――夜になった。外からの明かりは星と月の光だけ。
普段なら寝る時間帯だが、レイはジェリエナと星を見るためにずっと起きていた。
あの子のためなら頑張れる。何せ、たった一人の妹なのだから。
「えと……お兄様、星を見に来ました」
「あぁ、待っていたよ。ランタンを持ってきて正解だった」
窓際にランタンを置いて、隣り合うように座る。なんと心地良い時間なのだろう。
「今日は晴れて本当に良かった」
「はい、とても綺麗です。星に手が届けばいいのに……。願いが叶うのなら、お兄様とずっと一緒にいたいです」
ジェリエナは小さな手をかざす。そんな妹を見て、笑みがこぼれていって。
「僕もそう思うよ。けれどね、エナ」
「なんですか?」
その願いは叶わない。と言おうとして、やめた。
「お前さんの方がよっぽど綺麗だよ。どんな星よりもお前が一番美しい」
「なっ――わ、わわ、わたしですか!?」
「そうさ。お前さん以外の他に誰がいると言うんだい?」
ジェリエナの前ではついからかいたくなってしまうほど、いたずらな笑顔が横切る。
まぁ、なんせレイにしては事実なのだから仕方ない。
「……そんなのズルいです、お兄様」
「僕は事実を言ったまでさ。お前は星に愛されるべき存在なのだから」
レイは時々――いや、多少なりとも詩人のように語る節があった。
冗談なのか真実なのか分からないそれは、ジェリエナを余計に混乱させた。
「ふ、あははっ。これは僕が悪かった、ごめんな」
ジェリエナの頭を優しく撫でてやる。そうして、しばらくの間しあわせな現在を過ごした。
――が、今日は多くも出来ない日だ。未来の彼女にとっては酷かもしれないが、チャンスは今しかない。
「……エナ、これから大事な話をする。僕とお前にとっても、大切なんだ。
一つ、約束してほしいことがある」
「はい、なんでしょう?」
――カチャリ、と音がした。
レイが首元にかけてあったチョーカーを外してしまう。しかも瞳と同じ色をした、宝石のアメジストの首飾りを。
彼にとって何事にも代えられない、大切なもの。
「お前にはまだ早いと思っていたのだけれど。これを――預かってくれないか」
「な、えっ――それは、それは……」
「レイお兄様がお母様にもらった、大切なものじゃないですか……!!」
「……いいんだ。僕はもう、守られる側じゃあないからね」
「お兄様……」
ほら、と言ってジェリエナの首にチョーカーをかけた。あくまで平静を装って、笑顔を向ける。
――これでやっと決心がつく。後はもう、自分の死期を待つだけしかなくなった。
悲しさはない。けれども、何より寂しさが胸の奥から剥がれない。
死んだらどうなるのだろう。無の世界にずっと、ずうっと眠ってしまうのだろうか。
――分からない。でも、これだけは分かる。
残された遺品を妹に送るのは、これで最初で最後だということを。




