☆番外編 「海の幸、星の空とエトワール」
知らない場所のはずなのに、どこか懐かしい気がして立ち止まる。
――来たことなんて一度もない。エタンセル王国とかいう名前も初めてだ。
だというのに。
少女『アリス』の心は浮足立っていた。
◇◇◇
これは、まだジェリエナが記憶喪失だった頃。クーデターが始まる少し前の話。
うだるような暑さの中、アリスの唐突な問いから始まった。
「ねぇ、この辺に海ってないの?」
「突然どうしたんだ、突拍子もないこと言い出して」
従者のラパンが口を開く。
「あんた涼しい顔してよくこの暑さに耐えられるわね!? はっきり言って、この街の昼の暑さはおかしいわ!」
「俺は慣れているからいいんだ。うちわで扇いでやるから、それで我慢しろ」
「ありがと……って、私は海に行きたいの! うちわでしのげると思ったら大間違いよ」
「肝心の海がないとどうにもならないけどな」
はぁ、と呆れ顔でラパンはため息を吐く。
ここまで正論を言われると、アリスも反論を返せなくなった。
「あのー、海ならありますよ……?」
「ちょっと、それ本当!?」
反射で首根っこを掴みそうな勢いでアリスは詰め寄る。
「ほ、本当です! 急にやめてくださいよ、心臓が飛び出るかと思った……」
「しょうがないでしょ。珍しくテンションが上がっちゃったんだもの」
「全く、貴女って人は……。今日の昼ご飯は朝市で買った、新鮮な魚を使おうと思ったんだけどなぁ」
居候とはいえ、毎日顔を合わせれば相手の気持ちは大抵わかる。アリスもその一人だ。
……ただ、目を潤ませるのは卑怯ではないだろうか。
「あーもう、分かったわよ! お詫びに手伝うから、それでチャラにしなさい」
「はい! ありがとうございます!」
「アリス、魚なんてさばけるのか? ましてや料理なんて、まともにやった試しがないだろう」
ラパンの言葉が針のように突き刺さる。
事実、アリスは料理どころか包丁すらまともに持ったことのない、典型的なお姫様なのだ。
「うっ、うるさいわね。私だって、やるときはやるわよ」
「……本当か? 後で俺に泣きついてきても知らないからな」
「えぇ、久しぶりに休んでくれたって構わないのよ?」
「……。そういうことなら、休ませてもらおう」
言うなり、ラパンはドサッとソファに寝転がった。
「絶対に驚かせてやるんだから」
ゴスロリの袖をまくり、決意を固めて見せる。
……が、ものの数分でその決意は叫び声に様変わりしてしまった。
◇◇◇
「はい、できたわよ。私とシリアーバ特製カイセンドン!」
魚の触感を乗り越え、気前よくアリスは机の上に人数分の丼ぶりを乗せる。
色とりどりの刺身は歪なれど、なんとか形になった一品だ。
「カイセンドン? うわっ、なんだこのゲテモノ! 気持ち悪いぞ……」
「これは望月の国に伝わる、海鮮丼と呼ばれる文化料理です。生の魚をそのまま切って、ご飯に乗せるものだと聞きました」
「だからこれはゲテモノなんかじゃなくて、れっきとした食文化ってことよ」
「なっ、望月の国だと!? エタンセル王国と交流があるのか……!?」
「は、はい。ありますよ。長くなりそうなので食べながら話しましょうか」
促されて、全員で食卓を囲んだ。
白米の上にはマグロやサーモン、イクラなど。昼食には申し分ないラインナップだろう。
「それで、望月の国ってなんなのよ。海があるのと関係があるの?」
「もちろんです、大有りですよ! “望月なくして発展なし”と言われるほど、商いに強い国はありません!」
ジト目で睨むアリス。シリアーバは咳払いをして
「商人の教訓なんですっ。……話戻しますよ?」
アリスとラパンは顔を合わせてうなずく。
そうして、シリアーバは改めて話し始めた。
「この町に朝市と夜店があるのは知っていますよね? エタンセルと望月の国は、お互い貿易をして成り立っているんです。海をまたいでの貿易なので、『海がある』というのは当然なんです」
「なるほど……。でも、王国が貿易をしてるなんて意外ね。どこの国にも頼らないのかと思ったわ」
「望月の方から話を持ち掛けてきたんですよ。皇子から直々にオファーなんて来たら、誰も断りませんよ」
シリアーバの言葉で突然、ラパンが口元を抑えてむせ出した。
「ど、どうしたのよ。あんた、刺身が喉に詰まったの?」
「いや……知り合いだから驚いただけだ。苗代のやつ、真面目に商売してるじゃないか」
「東雲さんと知り合いなんですか!?」
「俺はアルザス家の一員だから、面識はある。あっちは勝手に友人なんて言うけどな」
そんなこんなで話は盛り上がり、昼食は幕を閉じる。
――今日のは悪くなかったわ、と自然に笑顔が綻んだ。
◇◇◇
「地図は描いたので、後はお二人で楽しんでくださいね。僕は店番があるので」
シリア―バから渡された手描きの地図は、彼の土地勘もあって非常に分かりやすいものだった。
「本当に行かなくてもいいの?」
「えぇ、海なんていくらでも行けますし」
高波にさらわれないでくださいね、と彼は言う。
「そう。じゃあ、行ってくるわね」
「はい。行ってらっしゃい、アリス」
道に迷うことなく、アリスとラパンは真っ直ぐ海を目指す。
日は暮れて、波打つ特有の音が近づいてきた。
「これが、海……」
ぼう、と立ってアリスは呟く。
「確かに、いい眺めだ」
「ラパン、少しこれ持ってて」
アリスはおもむろにロングブーツを脱ぎ、ラパンに渡した。
「別にいいが……ちょっ、おいアリス!」
声を無視してアリスは砂浜を走ってダイブした。
この際、ゴスロリだろうが気にしない。
「ラパン、こっち来なさいよー! この砂、ふかふかよ!」
「ったく、誰がお前の服を洗濯すると思ってるんだ……」
ひとしきりはしゃいだ後、二人は砂浜の上に寝転がる。
柔らかい砂に、溢れんばかりの星。
意外にもエタンセルは、自然と幸せが満ちあふれていた。
「……星が綺麗だな」
「そこは『まぁ、お前の方がもっと綺麗だけどな』とか言っておきなさいよ」
「誰が言うか……いや、そうでもないな。エトワールも、お前も、綺麗だ」
「やけに素直ね。明日は雪か槍が降るんじゃないの?」
「ふ、はは。そうだな、そうだと少しはマシになる」
「……どういうこと?」
「お前と似た人が言ってたんだ。アリスと一緒で、賢い人が」
「ふぅん。じゃあ、あんたは少なくとも私を認めてくれてたのね」
「いや、それは……」
何を濁すことがあるのか、ラパンの返事はない。
「ラパン?」
「……やっぱりお前は、星の名の元に生まれて来たんだな」
悲しさと嬉しさが混ざった笑顔で彼は言う。
「はぁ? どういう意味よ、それ」
「いつか分かる。お前が記憶を取り戻した時に、必ず」
――一筋の光が星となって瞬いていく。
エトワールの名を持つ彼女は、今もその意味を知らないままでいる。




