二十五話 「勇気」
「帽子屋!」
アリスが叫び、すぐさま帽子屋のもとへ駆け寄っていく。ドレスの汚れなんて、この際どうでもいい。アリスは必死に祈りをこめた。神を信じないアリスでさえ、手を重ねて合掌するほどなのだ。
「どうか、お願い……」
すると願いが届いたのか、奇跡的にも帽子屋は傷一つなかった。
しかしそれは奇跡などではなく、ラネオンのおかげだった。
「はぁ、はぁっ……。くそ……」
ラネオンの息は荒く、相当な集中力を使ったのだろう。額からは汗が流れ落ちていた。彼の手には拳銃が握りしめられ、弾丸が一つ床に転がり落ちている。
つまり、さっきの銃声はラネオンの銃によるものということになる。ラネオンが帽子屋の銃を弾き飛ばし、あたかも奇跡が起きたようになったのだ。
「ラネオン、あんた……」
「……アリスは黙ってて」
状況を理解したアリスは、驚いた様子でラネオンに声をかける。だが、ラネオンはまっすぐな目で倒れている帽子屋のもとへと歩いていく。
「商人くん……。おれは君の師匠だから、たまには厳しいことを言うね……」
「師匠……? ひっ!」
ラネオンが帽子屋の襟首を掴んだ時、帽子屋は目を覚ましてしまった。その瞬間。とんでもない圧力と恐怖が彼を襲い、持ち前の笑顔もひきつっていく。
「師匠、僕のお肉なんて美味しくないですよ。だから早まるのは」
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
あのラネオンから想像もつかないほどの大声が、部屋に満たされ響いていく。下手をすれば、しばらく目を回していただろう。これを察していた幼馴染みのラパンは、素早く耳をふさいでいた。
「何が償いだ……。そんなことをするのは、おれが許さない!」
怒鳴り散らしているようにも聞こえるが、ラネオンの叫びには優しさもこめられている。暗殺者だった頃とは比べものにならないほど、優しい心もラネオンは持ち合わせるようになった。
「し、師匠……。すみません……」
帽子屋の頬には涙が流れている。それと同時に今までの辛さや悲しみも、涙と一緒に流れているような気がした。もう彼は『帽子屋』などではなく、シリアーバ・サヴィニーへと生まれ変わったのだ。
「いいよ。おれも、強く言いすぎたし……」
ラネオンが優しく帽子屋を下すと、ようやくアリスが首をはさんだ。
「本当によ。それに、私が祈った意味なんてないじゃない! そういうことなら早く言いなさい!」
「い、言えるわけないじゃないですか……」
シリアーバは服の袖を涙で濡らし、子供のようにしゃくりあげる。隠れていた彼のもろい精神が、あらわになる。
泣いているシリアーバを見て、アリスは記憶が混乱していた頃の自分を思い出した。白ウサギだったラパンに慰められ、すがっていた自分を。
「……勝手に死んだら私が困るのよ」
アリスが呟くと、瞳をうるわせて塩辛い雨を流した。自分とは同じくらいの歳な癖に、背丈と志は立派で。
アリスにとってシリアーバは、外の世界で初めて出来た友達なのだ。そんな彼がいなくなってしまったら、もう二度と立ち直る気はしなかった。
「アリス、ありがとうございます」
シリアーバの瞳から、また一つ涙が零れ落ちる。嬉しいという感情がはち切れて、たまらず自然と笑みが浮かぶ。シリアーバは感謝の気持ちを伝えずにはいられなかった。
「べ、別に? あんたが可愛そうだから、情けをかけてあげただけよ」
アリスはとっさに照れ隠しをして、ほんのりと頬を赤く染めていく。初めてアリスが、シリアーバに優しくしたかもしれない。
「……僕は、本当に幸せ者です」
対するシリアーバは瞳に涙を浮かべて、感傷に浸っていた。今までの楽しい思い出や、辛く苦しかったスラム街での幼少期。そして、甘くほろ苦い初恋や、潔く振られてしまったアリスとの初対面など。
思えばシリアーバの記憶には、数えきれないほどの人生が刻み込まれていた。こうして考えてみると死に直面しているようにも思えるが、彼の人生はまだまだこれからだ。
未来がどうなるか誰にも分からない。それはアリスやシリアーバだって同じことだ。人生の結末がどん底のふちに立たされていたとしても、精一杯生きてみせようではないか。
「アリス、一つお願いがあります」
「お願い? 何かしら」
アリスがシリアーバの方へ振り向くと、彼はもう涙を流してなどいなかった。かつてのアリスと同じような決意を固めた表情に、アリスも真剣な表情へと変わる。
「僕のことを『帽子屋』ではなく、シリアーバと呼んでくれませんか?」
アリスはただ呼び方が違うだけと言おうとしたが、直前のところで止めた。シリアーバの体が震え、またもや目に涙を溜めているのだ。これはただ名前の言い違いではない、とアリスは悟る。
ふと、アリスの脳裏に『白ウサギ』がラパンに変わり、ラパンの過去について白状させたことを思い出した。ラパンが過去を話すまでの勇気や葛藤を、よく覚えている。ようはそれと一緒なのだ。
「えぇ、いいわよ。これからもよろしく頼むわ、シリアーバ」
アリスは優しく、穏やかに。これまでに見せたことがない美しい笑顔を、シリアーバに見せた。ラパンがこの場にいれば、どれほど喜んでいたか。
「はい。よろしくお願いしますね、『アリス』!」
いつかアリスも『アリス』ではなく、本来の別の誰かへと変わっていくのだろう。そう思うとアリスの中で少しだけ、勇気と希望が芽生えていった。
平成最後の更新となりました!令和になっても、アリ外をよろしくお願いします…! 2019,4,29




