二話 「決意」
アリスは驚きのあまりしばらくの間、ぽかんと口を開けた。
いわゆる放心状態だ。どうやら、人は驚きの容量を超えると頭が上手く回らないらしい。そして、やがてそれはゆっくりと覚醒し――。
「あんた私に何てことするのよ!?」
「ふべらぁっ!?」
ビンタの衝撃で白ウサギはゴロゴロと転がり、ズシンという音とともに本棚が倒れていった。その反動で本は散らばり、紅茶を入れるティーカップまで揺れ動く。
しかし最悪な事態にはならず、大惨事は免れた。
「うへぇぇ……」
「ふん。変なこと言い出すから、当然の報いね」
アリスは無傷だったが、白ウサギは目を回し軽く頭を打ったようだった。そんな彼を無視してアリスは先程のことを思い出す。
『アリス……ボクと結婚してほしい。主ではなく、妻として』
「うっ……あいつ、よくあんなキザな台詞言えるわね」
若干の吐き気がしたため、アリスは軽く口元を手で押さえた。
アリスの好みは自分より年上で繊細な心を持った美青年で、決して白ウサギのようないい加減な男ではない。
「それと言ったらうちの従者は……」
アリスは幻滅した目で白ウサギを見つめ、深いため息をつく。
「まぁ、若干のルックスがあるのは百歩譲って認めるけど、信頼できないのよねぇ」
確か教えてくれたのは好きなものと誕生日のみ。
当時アリスは白ウサギに好きなものを聞いた試しがあったが、白ウサギはアリスに抱きついて
『赤ワインが好きだけど、アリスの方がもっと大好きだよ!』
などと言い出したのでいつもの蹴りを食らわせた。
「……もし私が白ウサギの思い通りに結婚したらどうなるのかしら」
アリスは自分にとって最悪な状況を考える。そんなのはありえないし耐えられない。アリスは首を左右に振った。
「はぁぁ……。絶対嫌われたなぁ、うぅ……」
アリスが考えていることは露知らず。白ウサギはよろけながらも散らばっている本を片付けていく。
「そういえば……。あいつはどうして私を『アリス』って呼ぶのよ。私にもちゃんとした名前があるのに。
私の知っているあいつは全然違うやつなの……? だったらなんで……」
白ウサギの護身用のナイフや先程の鋭い目付きから、アリスは一つの可能性を見いだした。
「あいつの本来の姿ってまさか。……まさか、ね」
アリスは後ろに冷たい視線を感じながらも、薄ら笑いを浮かべた。そして今まで抱いたこともなかった疑問をふと浮かべる。
「私って、どうやってこの茶会に来たのかしら。茶会に着いたときのことは思い出せるのよね。でも家族とか、お友達とか……。あれ……?」
何か『大切なもの』を忘れている気がする。頭の中が渦巻いていく。今までの出来事が、『記憶』が。フラッシュバックして全て消え去ろうとしていく。
ついには自分が何者かも忘れかけたその時。宝石のように美しく、優しい声が脳裏に響いた。
◇◇◇
「……リス。アリスッ!」
「……!」
アリスは目覚め、勢いよく起き上がる。飛び起きた反動で濡れたタオルは額からポトリと落ちた。
大丈夫だ。自分が『アリス』ということと、白ウサギのことは覚えている。
アリスはホッと胸を撫で下ろすも、本当の『自分』が何者か忘れてしまった。なぜだが分からないが、上手く思い出せない。
アリスは記憶喪失になってしまったのだ。
「大丈夫、アリス? ボク心配で……。どうしようか悩んでて……」
半泣き状態になっている白ウサギを見るに、アリスはどうやら意識が飛んでいたらしい。
アリスは目線を下ろす。すると、白ウサギが温かい両手で手を握ってくれていたのが見える。
「……ありがとう……」
アリスはぽろぽろと涙を流し、しゃくりあげて思い切り泣いた。
「大丈夫。大丈夫だよ、アリス。……大丈夫」
白ウサギはアリスを優しく抱きしめて背中をゆっくりさすった。幼い子供をあやすように。
アリスは赤くなった瞼を手でぬぐい、目を開ける。
そして、白ウサギが用意してくれたティッシュで鼻水をかんだ。何とか落ち着こうとしたが、しゃくりあげるばかりで体が言うことを聞いてくれない。
「そうなるのも無理はないよ、アリス。大丈夫……。そう、ゆっくり深呼吸して……」
言われるままに深呼吸し、呼吸を整える。するとどうだろう。あれほど荒れていた心がみるみるうちに落ち着いていった。
「まるで魔法みたいだわ」
アリスはそう言って、白ウサギは思わず吹き出して一緒に笑いあう。何だか懐かしくて暖かい気持ちになった。
これが幸せというものなんだろうか。それが嬉しくて、ほろりと涙がこぼれた。
アリスは決意し、一度深呼吸して口を開く。
「あのね、大事な話があるの」
白ウサギはうなずいてアリスの話を聞き入れる。真剣な表情で、彼女を馬鹿にしたり冷やかす素振りは一切なかった。
「今までのこと、ごめんなさい」
アリスは頭を下げ、白ウサギに謝罪する。白ウサギもこれには予想外だったようで、少しだけ目を見開いた。そして真剣な表情に戻る。
アリスは一瞬だけためらったが、思いを込めた願いを口に出す。
「私は自分が何者か知りたい。だから、私を外の世界に連れていって。