濡れない幼女
6月1日、少し早めの梅雨入りである。
昨日の深夜からバケツをひっくり返したような豪雨が降り続けており、靴が浸ってしまう程の降水量である。
4月に蔵森駅に倒れこんできた廃墟ビルを撤去し終えたばかりだというのに、大雨の影響で電車が止まってしまい、電車通勤の人たちは有給を取ることを余儀なくされた。
蔵森市内の学校施設は通常通り登校することを決定し、学生たちは憂鬱な気分で学校に脚を運ぶことになった。
蔵森市の周辺も梅雨入りしているが、蔵森市ほど激しくは降っていなかった。山に囲まれた蔵森市に雨雲が集結したのだろうか。
昼を過ぎた辺りから傘を差している小中学生の姿が見受けられる。学校側は4時間目で授業を終了させたのだろう。
小学生たちは大雨に大盛り上がりで、水たまりを長靴でバシャバシャ踏みつけて水しぶきを楽しんだり、雨合羽を着ている子供は豪雨の中はしゃぎ回っていた。彼らの母親は洗い物に手を焼くことになるだろう。
龍樹百合果も友人たちと帰途につく途中であった。
戸籍上、龍樹鱗葉の娘となっているが、百合果と鱗葉との間に血の繫がりはない。
だが、学校に通う際に『親戚の家から通学している』ということになれば、学校側は親とコンタクトを取ろうとあれこれ詮索してくるだろう。
『余計なことを知られる訳にいかないので、いっそのこと親子ということにしてしまおう』、ということになったのだ。魔導士だということは決して理解されないからだ。
百合果の両隣には、黒のランドセルを背負った金髪のロングヘアーの女の子と、水色のランドセルを背負った焦げ茶色のツインテールで眼鏡をかけた女の子がいる。
ロングヘアーの女の子は唐沢喜香。容姿端麗で性格もお淑やか、学内でファンクラブが密かに創設されているほどである。美術館で作品が展示されるほどの美術的センスを持ち合わせている。
ツインテールの眼鏡っ娘は芦屋要。頭脳明晰だが、いつも授業をサボって図書室で高校の範囲の勉強をしている。強気な性格からか、男子と喧嘩することがあっても今まで一度として敗北したことがない。
いつも3人で行動することが多く、それぞれの家に帰る途中に学校での出来事を話し合っていた。
「今日、宿題終わってなくて大変だったよー」
「喜香、あんなものやらなくてもいいのよ。宿題を終わらせることよりもその内容を理解して記憶することに意味があるの」
「そういう要ちゃんはいっつも授業休んでるよね」
百合果は授業に出席しないことを指摘する。自分が皆勤賞を狙っているから余計に許せない。
「私はいいのよ、もうとっくに授業の内容は頭に入ってるから」
「皆で授業を受けることに僕は意味があると思うなあ!」
百合果は要の態度にムスッとして言い返す。
「でも百合果さん、この間の数学の小テスト30点じゃありませんでした?」
喜香が二人の会話に介入してきた。
「えっと、そ、それはたまたま微分のやり方を間違えただけだよ!」
「ふーん、確かその時は授業の終わりに小テストしたんだよね。習ったばかりなのに解けなかったのかなー?」
「う……それは、そうだけど……」
百合果は何も言い返すことが出来なかった。要は更に追い打ちをかける。
「さっき、『皆で授業を受けることに意味がある』って言ってたわよね? でも授業内容を理解出来ていない方が問題だと私は思うけど、そこら辺はどうなの?」
「…………」
百合果は要によって完全に論破されてしまった。俯いたまま黙りこくってしまった。
3人の間に暫しの沈黙が訪れる。周囲にはただ雨の降り注ぐ音だけが響く。
10分ほど険悪なムードのまま歩いていると、暗い雰囲気に耐えかねたのか、喜香が話題を提供する。
「そ、そういえば! この前私の家に美味しいお菓子が届いたんですが、お二人とも寄っていかれませんか?」
喜香の機転を効かせた提案によって、重い空気に包まれていた二人の眼が輝きだした。
「お菓子!? 僕食べに行きたいな!」
「じゃあ、私も。糖分は脳の働きに必要だからね」
「では決まりですね。これから私の家まで行きましょう」
二人が頷くと、喜香は二人の手を掴んで自分の家の方角へと引っ張っていく。まるで二人の姉のようである。
喜香の自宅まであと数分の所で、3人は紫陽花を見つめている一人の子供を見かけた。
フードを被っていてこちらからは顔を拝見することは出来ないが、背丈が自分たちと変わらないことから同い年か年下だと推測した。
傘も差さずにしゃがんだままじっと紫陽花を観察している。フードが傘の代わりになっているのだろうか。
「一人なのかな?」
「さぁね、こんな雨の中花なんか見て何が楽しいのやら。雨の日は家でゲームが相場でしょ」
二人が勝手に推測していると、喜香がある異変に気付く。
「あの子、どうして服が濡れてないのでしょうか? それに、あの子の周りの地面も湿っていませんね」
百合果と要も子供の周囲に注目する。確かに、しゃがんでいる子供の周りにだけ雨が降っていない。
「あの子供の着ている服が雨水を弾いているようにも見えない。そもそも、地面まで濡れていないのはおかしい」
要が状況の分析を始めた。推理小説を愛読しているそうだが、その影響を受けているのだろう。
「ねえ、君一人? ここで何してるの?」
百合果が子供の傍まで近づいて尋ねる。子供は背後に百合果の気配を感じて後ろを振り向く。
「……ここで待ち合わせしてるの」
口を開いたフードの下には、あどけない表情をした6、7才ほどのナイトブルーの髪の幼女がいた。蔵森市に長く居る百合果にはあまり馴染みのない顔だった。
「そうなの? え、えっと、僕の名前は龍樹百合果。君の名前は?」
自分から名乗ってみせた百合果は目の前の幼女の応答を待つ。
「私は……サキナ。サキナ・ヴァートル」
彼女は百合果の瞳をまっすぐ見つめると、ゆっくりと確認するように自分の名前を名乗った。
「——サカナ・バトルさん? ふふっ、お魚さんと何かご縁がありそうなお名前ですね」
「この辺りの子じゃないね。観光に来たのかしら、この町意外と自然が豊かだから」喜香と要も会話に混ざってきた。
「この子サキナちゃんっていうんだって」百合果が二人に紹介する。
「私は唐沢喜香と言います。よろしくね」
「芦屋要よ。日本語話せるかしら」
「日本語? よく分かんないけど言葉通じてるよね?」
サキナは自分の発言が彼女たちに通じているのか急に不安になって顎に手を当てる。
「ちゃんと言ってること分かるよ! それでサキナちゃんは誰と待ち合わせしてるの?」百合果が尋ねる。
「仲間とこの辺りで合流する予定なんだけど、まだ来ないみたい。遠いところからやってくるから時間がかかるかも」
「サキナさんはそのお仲間さんと一緒に来られたわけではないのですか?」
「うん、私は特に用事がなかったから先に向かって待ってるように言われてるの」
「ねえサキナちゃん、もし良かったら僕たちこれから喜香ちゃんの家でお菓子食べるんだけど、一緒に行かない? 喜香ちゃん良いかな?」
「私は大歓迎ですわ」喜香はにこやかに答えた。
「えっ、うーん……」サキナは目を大きく見開いてから悩んでいたが、すぐに大きく頷いて四人で唐沢家へと向かうこととなった。サキナは仲間を待っていたらしいのだが。
「連絡しておけば大丈夫だから。それより早くお菓子食べに行こう」とよだれを垂らしながら言うので、足早に目的地へと向かう。
サキナは唐沢家へ向かう途中も傘を持っていなかったようなので、百合果が自分の傘に入れてあげたのだが、何故か唐沢家に到着するまでの道中、彼女たちの傘はほとんど雨粒を受けることはなかった。
まるで彼女たちの真上に、四人に覆い被さるかのような巨大な傘でもあるかのように。