金色の光景
今の私は死亡している状態なのだろうか。私は今、死を迎えたのだろうか。
呼吸はできない。
喋れない。
何も聞こえない。
目の前は真っ暗。
無味無臭。
何もかも、感じることはできない。
――では何故、私の自我は今も保たれているのだろう。
それとも、これが死の世界なのだろうか。こんなにも冷たくて、寂しい場所なのだろうか。
少女が思考だけを巡らしていると、不意に眩い光が射し込んでくる。
日の出のように明るい光は、まるで私を何処かへ誘う道標のように観えた。とても暖かく、どうしてか懐かしささえ感じさせる、優しい光だった。
私は、光に思い切り手を伸ばした。例え腕が千切れようとも、絶対に掴まなければいけない。
そう強く思って、全身全霊で光を求めた。
萌芽は倒れたまま微動だにしない。リベルナは彼女の胸の傷口から蝶のピースを一つ残らず取り除いた後、真っ赤に染まった蝶だったものから魔素を発散させた。
リベルナは治癒魔法の心得は持ち合わせていなかったものの、応急処置程度の心許ない回復魔法で穿たれた複数の穴を塞ごうとしていた。
いつもの家で怠けている彼女の姿はなく、萌芽の無事だけをただ祈って治療に専念する、家族としての姿がそこにあった。
黙々と萌芽の胸に両手をかざして、額から汗を流しながら真剣に治療を試みるリベルナの背後の車の陰から男が一人、彼女たちの様子を伺っていた。
その40代くらいの小太りの男は、警察官の格好をしていて大きな両手には鋏と幾重にも折り畳まれた白い紙が収められていた。
(……よぉし、一人は仕留めたな。後もう一人はどう仕留めてやろうか)
車の窓越しから彼女たちを警戒しながら、男は鋏で紙を切り始めた。
(警官の素振りをして入口に立っていたのは正解だったな。夕方頃いきなり目の前にアイツが降ってきたのには驚かされたが、上手く閉じ込めることに成功したぞ)
男はゆっくりと鋏を入れてある形に仕上げていく。
(ビル周りの警察は全員片付けたし、《翡焔の暴君》があんなにあっさり捕まるなんて、俺は本当に運が良いなぁ。オマケにそのお仲間も仕留められるとは、上手くいきすぎて怖いぐらいだぜ)
鋏を動かす手が止まると、蝶の形をした紙の連なりが出来上がった。蝶の羽に次第に紋様が浮かんできて、1匹ずつ連なりから分かれていく。
(さぁてと、まだ向こうの治療も終わっていない様だし、早く終わらせて家で1杯やるかぁ!)
男は冷蔵庫で冷やしてあるビール缶を思い浮かべて口元を緩めると、両方の掌の100匹の蝶に嬉しそうに命令を下す。
(すぐ側の女共を蜂の巣にしてやれぇ!)
幾ら治癒魔法をかけても一向に穴が塞がる見込みはない。流れ出る血を止めるだけで精一杯だった。
(クソッ! なんでキズが塞がらねぇんだ!)
萌芽の胸部の穴は小さなビー玉サイズの大きさだった。
横たわった少女は眼を開けたままマネキンのように固まっている。アタシのやっていることはもう無駄なのだろうか。
徐々に治癒魔法の光の輝きが衰え、彼女の両手が脱力して項垂れる。
(アタシが甘かった! きざめはまだ魔道士として未熟なのに、彼女の強さに頼ってしまった)
萌芽は魔法の知識は基礎的な部分しか修得できていなかったが、剣術に関しては達人の域に達していた。その強さに、リベルナは安堵してしまったのだ。
(リンバを連れて3人で帰ってくるって約束したのに!)
悔しさとやるせなさが胸の内から湧き水のように絶え間なく溢れて、リベルナの心に溜まっていく。
このまま萌芽は目を覚まさないのだろうか。
だが、自責の念に駆られて苦悶の表情を浮かべているリベルナの目の前では、信じられない出来事が起きていた。
萌芽の瞳が琥珀色の光を宿し、上体を起こしているのだ。
リベルナは起き上がった少女に気付くと、眼を見開いて死体が蘇った時のような驚いた表情をした。
「きっ、きざめ!? お前っ、どどどどーして!」
あまりの驚きで上手く言葉にならず、慌てふためいているリベルナを気にも留めず、萌芽はゆっくりと立ち上がりキョロキョロと辺りを見渡す。
やがて1台の車に目をつけると、落ち着いた雰囲気でその車に向かって歩き出した。何時の間にか、彼女の両手には再び暗闇の中でもより一層漆黒が目立つ《闇裂斑》が握られていた。
リベルナは腰が抜けてしまったのか、ただ少女を見ていることしか出来なかった。手に持ったライトで少女の足元を照らすことしか出来なかった。
車との距離を2メートルまで詰めると、車の陰から無数の蝶が萌芽目掛けて再び襲い掛かってきた。琥珀色の眼で蝶を睨むと、萌芽は二刀流の構えを取る。
蝶の大群は上下左右に拡がると、獲物を呑み込む1匹の大きな生き物のように少女を包み込んだ。
「萌芽!」
リベルナは叫んだが、返答は帰ってこない。
(よしっ! さっきはいきなり起き上がってきてビビったけど今度こそ捉えた!)
蝶の大群が萌芽に群がってはいるものの、萌芽に動きは見られない。
(……おい、何で俺の蝶は攻撃しないんだ! 命令はすでに出しているんだぞ!)
白い蝶の群れは萌芽の周りを飛んだり彼女の肩や頭に止まったりと、彼女を攻撃しようとする意志はまるで感じられない。
「ーー危ないから少し離れてろ」
萌芽がそう言うと、周りの蝶たちは彼女の呼びかけに応じたかのように萌芽から距離を取る。蝶が実の主にではなく萌芽の命令を聞いたのだ。
「一体どうなってんだ……」
リベルナも唖然とした表情でその光景を見つめている。
(どうして俺の蝶があの女の言うことを聞いているんだ!)
萌芽は澄ました顔で小太刀を握り締めたまま両腕を上げる。そして刀を交差させるようにして勢いよく両腕を振り降ろす。
風を斬る音がして、乗用車ごと車に潜んでいた魔導士にも斬撃が届き、✕印の切込みが入る。
「ぐぁっ!」と車の奥から悲鳴が聞こえた。
蝶を操っていた魔道士だろうか、斬撃の隙間から胸元が✕印に斬り開かれて鮮血を撒き散らす警察官姿の男の姿がそこにあった。
無数の蝶は主の悲鳴と共にただの紙へと姿を戻した。
ヒラヒラと蝶を形どった白紙が落ち葉のように地面に落下する。その光景は妙に美しく、何か惹かれるものがあった。
少女の周りの床には無数の紙が散らばっていた。少女は何をする訳でもなくただ佇んでいた。
「き……きずな?」
リベルナが声をかけてみるが、少女に反応はない。
リベルナは何となく萌芽を刺激しないように、ゆっくりと側に近寄っていく。
リベルナが手を伸ばして肩を掴もうとしたその時、突然萌芽が膝から崩れ落ちた。
「きずな!」
何とか少女の身体を支えることができたが、すぐに少女の胸に傷があることに気付いて静かに床に寝かせる。
萌芽は気を失っているようで、微かに寝息を立てている。リベルナは安心して溜息をつく。
リベルナが萌芽の胸の傷を見ると、彼女の胸に空いていた複数の穴は、まるで最初から無傷であったかのように綺麗に塞がっていた。
いや、塞がったというよりはそもそも穴など空いていなかったようにも見える。塞がったにしてはあまりにも傷跡が目立っていないからだ。
魔法で治癒すると、道具を使って治療するよりも傷跡が目立たないが、これはまるで傷を受ける前まで時間を巻き戻したように綺麗に傷が消えている。
萌芽の傷の回復力に驚かされていると、
「おー、そこにいるのはリベルナか?」
聞き覚えのある声が後ろからかけられる。
「あ、リンバじゃニャいか! 今まで何処に行ってたニャ! こっちはきざめがケガして大変だったニャよ!!」
「なんだと!? そこに倒れているのは萌芽か! 胸の出血が酷いんじゃないのか!?」
リンバがきざめの傷を診ようと血塗れの制服を脱がそうとしている。
「いくら心配だからってお前は見ちゃダメニャ! それにきざめの傷口は完全に塞がっているニャ。だから安心するニャ」
「そうか……それなら良いんだ」
きざめの無事が確認できると、リンバは実の娘を慈しむ父親のように穏やかな顔になった。
「それじゃあ、リベルナはここで萌芽を見ていてくれ。俺は死体処理と後片付けするから」
リンバは気持ちを切り替えると、淡々と事後処理を開始した、魔法の痕跡を跡形も無く消し去るために。
猫耳の彼女はリンバの作業が終わるまで、安眠しているきざめの顔を観察していた。
(さっきの彼女、あれは本当に『影杜萌芽』だったのか……)
リベルナの頭の片隅に幽かな疑問が残った。
◇
ビルを離れてから30分後、俺たちが家に帰ると、美味しそうなカレーの香りが漂ってきた。
壁にかけてある時計に目をやると、もう10時を回っていて夕食と呼ぶには遅い時間になってしまっていた。
「あ! パパおかえり! オジサーン、みーくん、パパたちが帰ってきたよー!」
ドォルマと幹冶は、それぞれ自分の仕事に没頭していたが、百合果の呼びかけに反応すると、作業を中断して俺たちを迎えてくれた。
「ただいま。帰りが遅くなって悪かったな、すまない」
「気にすることはないさ。3人が無事に帰ってこれただけでも喜ばしいことだ」
幹冶が俺たちの帰還を祝福してくれた。
「……きずなは……寝てる、のか?」
「あ、ああ。ちょっと戦闘があったみたいで、ここまで俺がおんぶしてきた」
俺の背中の上では、萌芽が心地良さそうに寝ている。そして柔らかな感触が背中に当たっている。このまま背負っていても構わない気もする。
「皆は先にカレー食べててよ。俺は萌芽を部屋まで運んでくるから」
そう言って、俺は萌芽を2階の彼女の部屋まで運ぶと、なるべく起こさないようにベッドに寝かせた。
俺が男の死体を伝手の所に転移魔法で送っている合間に、リベルナも転移魔法で萌芽の部屋に戻って、着替えを持ってきて地下で着替えさせてくれていた。
血で真っ赤に染められた制服は、胸に数箇所の小さな穴が空いていた。血を洗濯で落としてから俺が縫えば直せるかもしれない。
「今日は俺のためにありがとうな。お疲れ様」
感謝の言葉を眠りに落ちている彼女に告げると、俺も遅い夕食を頂くことにした。
萌芽だけが食べられないのが少し残念ではあるが、カレーは1日経過した方が美味しくなると聞いたことがある。明日の朝食も恐らくカレーだろうし、より美味しく頂けるだろう。
彼女の安らかな寝顔を見て微笑むと、彼女の部屋のドアをゆっくり閉める。