気の緩み
今日の早朝に倒壊した廃ビルは道路に面しているが、その周囲には誰も居なかった。
警察によって交通規制がされているため当然ではあるのだが、ビル周辺を警備しているはずの警察が一人もいないのだ。
闇の中にその根元のみが残る廃ビルは、静寂が辺りを支配していた。虫の気配がなく、風が吹くこともなく、まるで心霊スポットのような独特の不気味な雰囲気を醸し出していた。
私とリベルナは透明化することなく易々とビル内部に入ることができた。真っ暗だったので持参してきたライトを点ける。
「師匠の行っていた地下への扉はどこにあるんでしょうね」
「そんなに広いところじゃないからすぐ見つかるニャ」
辺りをを照らしながら進むと、一番奥に大きな扉を発見した。でも特に魔法が施された形跡は見当たらない。
「開けてみるニャ?」
「……そう、ですね。きっと中に師匠がいるはずです」
私は扉のノブに手をかけると、ゆっくりと力を込めながら回した。扉はギギギ……と軋むような音を立てながらぎこちなく開いた。
扉の向こうには地下へと続く階段があった。奥から冷気が静かに吹いていて、一度降りたら戻れないような気もした。
それでも、私たちは一歩一歩心許ないライトで足元を照らしながら、下界へと歩みを進める。師匠を見つけるために。
階段を降り終えると、数台の車両があることから地下が駐車場であることを推測する。ここに師匠が……?
「ししょー! 居たら返事してくださいー!」
私が叫ぶと、駐車場一帯に反響して私の木霊だけが返ってくるだけだ。ライトで周辺を照らすが、物体の動きは見られない。
「ここに居るはずですけど……」
「うーん、次元が違うかもしれないニャ」
次元が違う? 一体どういうことなのだろうか。リベルナさんは首を傾げる私に補足で説明をする。
「つまり、アタシたちとリンバは今地下にいるニャ。でも、次元の位相にズレが生じているから同じ空間にいても会うことができない、ということニャ」
「あーそういうことですね。解りました!」
本当は全然解っていなかった。そんなことより、私は師匠と接触を図る方法を考えなくては。
「リベルナさん、私たちはどうやったら師匠に会えるんですか! このままじゃ私たちも師匠も家に帰れません!」
有効な手段が思い付かず、リベルナに助け舟を出さざるを得なかった。私の心に焦りが生じる。
だが、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、リベルナはアッサリと私の問いかけに回答する。
「それなら簡単ニャ! 次元をズラしてるヤツを倒せば良いだけニャ」
「それはそうですけど……その人は何処にいるんですか? もし地下に居なかったら手の出しようが……」
私が悲観的な発言をしようとしたその瞬間、車の陰から白い何かが複数、それもかなりの速度で私たちに向かって飛んできた!
リベルナは猫耳をビクつかせて咄嗟にバク転で回避行動を取ったようだ。一方、私はそれらを斬り伏せることにした。
目標物と私との間隔はおよそ10m。だが、約2秒ほどで私のいるポイントに到達するだろう。
普通の人間なら今みたいに思考する間もなく攻撃を受けているだろう。しかし、今の私には全てのモノがスローモーションのように見える。
私が得意としている、というより唯一使える魔法は高速魔法だ。自身の動作を魔法によって加速させることで、スピードの面でアドバンテージが取れる。
白い何かを認識した時点で高速魔法を発動したが、お陰で向かってくる複数の物体が白い蝶であることが判明した。
私はライトを手放して両手を腰の辺りに動かすと、これから取り出す武器の名前を心の中で呼んだ。
すると、何もない空間から2本の鞘に収められた小太刀が両腰に携える形で出現した。どちらも漆黒の刀で、ライトの光すら呑み込んでしまうほどの黒だった。
《闇裂斑》、2本で1本の刀。影杜家で代々継承されてきた魔剣の一つ。
私はその両刀を同時に引き抜くと、突撃してくる蝶の群れ目掛けて振り降ろす。
高速で繰り出される斬撃の乱舞に突入するしかない蝶の群勢は、彼女に到達する前に何度も何度も羽や胴体を切断されて、足元に細切れになった蝶のパーツが散乱する。
全て斬り伏せた私は、蝶が向かってきた方向を警戒しながら軽く息を吐く。
「お見事だニャ」
柱の陰からリベルナが拍手をしながら軽快に近付いてくる。
「何言っているんですか。まだ敵が近くにいるんですから気を緩めないでくださいよ」
落としたライトを拾いながら、脳天気な猫耳お姉さんに注意を促す。こんな時でもマイペースなんだから。
リベルナがこちらに向かってくる間、蝶が飛来してきた方向にライトを当て続けていた。まだ車の陰に身を潜めているのだろうか。
萌芽は無意識に一歩、魔道士が隠れている方へ足を踏み出す。
「……っ!?」
――刹那、少女の背中を弾丸で撃たれるような鈍い痛みが幾つも襲いかかってきた。背中が痛みで熱くなるのを感じる。
そして、その痛みの正体が彼女の胸を突き破って露わになる。それは先程バラバラに斬り刻まれた蝶の断片だった。
「萌芽!!」
糸が切れたマリオネットのように崩れていく私にリベルナが必死な顔つきで迫ってくる。
(私、死んじゃうのかな……)
地面に倒れ込むと、コンクリートの床が冷たくて気持ちいい。胸から流れる血が拡がって、地下の冷え切った床に熱を与えて鮮やかな朱に染める。
段々と意識が薄れていく。耳も静寂が支配し始める。
見える景色がボヤけ始めて、最後に瞳に写し出されたのは、懸命に私の身体を揺すりながら名前を呼び続けるリベルナの姿だった。
やがて、双眸から光が喪失すると、静かな闇が私を覆い尽くす。……心臓の呼吸も聴こえない。