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第九話 彼女の目的

 いつ、その想いに気が付いたのかは定かではない。

ただ確実なのは、雪川風美は幼い頃から栗山佐雄也に恋をしていたということ。

 佐雄也の傍に居ると風美はそれだけ胸が一杯になり、彼の笑顔を見るだけで天にも昇る気持ちになれた。

 幼馴染の異性に向ける少女の恋慕。

 誰でも懐くような淡い、本当に淡い恋心。

 その想いは今も続いている。決して消えることなく、胸の中で(くすぶ)っている。

 けれど、彼女は九年経った今でも、その想いを告げることができずにいた。

 それは彼の妹である栗山未亜が原因だった。

 未亜とは友達として親しくしていたが、内心では酷く嫉妬していた。佐雄也を独占する彼女を本心では憎んでいたと言っても過言ではない。

彼女さえ居なければ自分と佐雄也の距離はもっと近付くのに。そう思わない日はなかった。

だから、未亜が死んだ時には、彼女の死を悼む姿を見せながら、心から清々していた。

これできっと佐雄也は自分だけを見てくれるはずだと。

だが、実際は違った。

佐雄也は未亜の遺言に縛り付けられ、己の在り方までも未亜の夢を叶えるために殉じる道を選んだ。

死後も佐雄也の心を独占する未亜に風美は憎悪した。

同時に途方もなく、そんな醜い自分の心に嫌悪した。

 死んだ想い人の妹を妬み、憎んでいる浅ましく身勝手な自分が彼に愛される訳がない。

このまま、この恋心は薄汚い感情と纏めて、心の底に重りを付けて沈めるべきだ。

そう思っていた。『マリス』と出会うまでは。


 数日前、風美は夢の中――正しくはそのさらに深い層にある集合意識の底に位置する場所でそれと出会った。

 黄金色の髪に碧い瞳。陶器のような白い肌の美しい少女。

 童話に登場するような少女像を、無理やり三次元に映し出したかのようなその少女は風美に笑った。

「こんばんは、風美ちゃん……それとも、お久しぶりの方が良かったかな」

 風美はその皮肉気な笑みに見覚えがあった。

「う、そ……未亜、ちゃんなの……?」

 髪の色も目の色も異なる、けれど顔立ちだけは間違いなく、七年前に死んだ栗山未亜と瓜二つだった。

「ねえ、私を憎んで、嫌って、陰で妬んでいた風美ちゃん。貴女に一つだけお願いがあるの。聞いてくれるでしょ?」

 世界のすべてを疎むようなその眼差しは見るものに刺さり、目を逸らさせない。

 現実ではないにも拘らず、汗がじっとりと滲み、寒気を肌が感じ取る。

 彼女の言葉に気圧された風美は、黙って頷く以外の動作が取れなかった。


 それから金髪碧眼の未亜は風美が眠るたびに必ず現れた。

 彼女は己を『マリス』と名乗り、風美にさまざまな知識と特別な力を分け与えた。

 それが『魔法少女マリス』の力。

一つは個人の人間の負の感情を核に、マリスの僅か一部を混ぜ、現実世界にマリシャス・ミラージュという化け物を作り出す力。

 そして、もう一つは、三段階に形状を変化させる、魔法の剣『ジャバウォック』とそれを自在に扱える高い身体能力。

 彼女の言った願いとは、この二つを以て、自分を再び現実の世界に蘇らせてほしいというものだった。

 マリスは、マリシャス・ミラージュが成長して生まれる『銀の門』でしか現実に行くことができないのだと、風美に教えた。

 そして、それが世界を滅ぼすことに繋がることも聞かされた。

 だが、風美はその頼みを聞き入れないという選択肢はなかった。黙して従わなければならなかったのだ。

「あなたがこのお願いを聞いてくれないなら、お兄ちゃんを殺すよ。私は夢の中にしか現れることができないけど、その分、こちらの世界でなら何だってできる。……何だってね」

 どろりとした粘着質の絡み付くような視線は、彼女の心に染み込んで来る。

 佐雄也を夢の中で殺し、二度と目を覚まさないようにすることもできる。

 言外にそう脅されては、風美は頷くことしかできなかった。

 逆にお願いさえ聞いてくれれば、風美と佐雄也だけは助けてくれるとも答えた。

「私はね、私を苛んだ世界が許せないの。解るでしょ? あなたなら。だから、壊すの。粉々に」

 艶然と詩でも詠うように語るマリスはあの頃の未亜よりも愉しげで、それがとても恐ろしく思えた。

 まだ生きていた頃の未亜は佐雄也以外の人間には排他的で、敵意を隠そうともしなかったが、それでも理解できるところがあった。

 けれど、夢の中で風美に語り掛けて来る彼女は、本当に人の形をしている悪意の塊のようにしか見えない。

 彼女から魔法少女マリスの力を授けられてからは、彼女の声が夢から覚めても頭の中で響くようになっていた。

 風美にはそれを止められない。己がしている行為が誤りだとしても、風美は魔法少女マリスとしての行いを果たさなければならない。

 彼女のお願いを守り続けなければ、佐雄也の身が危ないのだ。

 例え、自分が世界を終わらせる手伝いをしていると知ってもいても、愛する人の命を守る方が風美にとっては重要だった。

 そうして、魔法少女マリスとして、風美は佐雄也以外のすべてを捨てた。


 風美は自室のベッドの上で寝転び、天井を仰ぐ。

 電灯を点けていない部屋は薄暗く、窓から入って来るカーテン越しの街灯の灯りだけが光源になっていた。

「また、失敗した……」

これで二度目だ。ボア・ミラージュの時と、オウル・ミラージュの時で二度、風美は銀の門の生成に失敗した。

 夢の中でマリスに会うのが怖くて、もう二日も眠れていない。彼女の眼の下には薄っすらと隈さえでき始めている。

『そうね。また失敗してくれたね』

 眠気が蝕む風美の脳内でマリスの声が反響した。

 怒っているのか、嘲っているのかも判別できない歪んだ感情の滲む声は彼女に話し出す。

『ねえ。風美ちゃん……お兄ちゃんがどうなってもいいの? 私は今夜にでも殺しに行けるんだよ?』

「やめて! それだけは許して……次は! 次こそは必ず、銀の門を作るから!」

 上体を起こして叫ぶ風美に、頭の声がしばし黙り込む。その沈黙は風美を焦らせるのには十分過ぎるものだった。

 嫌な汗が風美のパジャマをじっとりと濡らす。開かれた眼球が乾き、痛みを微かに発した頃、ようやくマリスは声を上げる。

『じゃあ、特別に最後のチャンスをあげる。いい? 最後のチャンスだよ? これを逃したら後はないと思ってね』

「ええ……分かったわ。ありがとう、マリス。今度こそは必ず、貴女の願いを叶えてみせる」

 マリスの答えにようやくほっと安堵し、胸を撫で下ろした彼女だが、次の言葉に意識が凍り付く。

『次は――お兄ちゃんからマリシャス・ミラージュを作るの。そうすればきっと上手く行くよ』

 無邪気に悪夢の女王はそう言って、甲高い笑い声を風美の脳裏で響かせた。


 ***


 暇があれば外に出て奉仕活動に励む変態・魔法少女マジカルマロンこと佐雄也はその日、珍しく自宅に居た。

 居間のテーブルに着いた彼の目の前には、彼の両親が向かい合うように座っている。

 仲睦まじい親子の団欒というには些か、剣呑な雰囲気が立ち込めていた。

「……佐雄也。私たちの言っていることは解るな?」

 佐雄也の父、和幸(かずゆき)は厳めしい顔で彼に尋ねた。

「いいや、解らない」

「どうして理解しないんだ! もう馬鹿な格好してはしゃぐのは止めろと言ってるんだ!」

 怒鳴る付ける和幸だったが、佐雄也はそれを涼しげな顔で受け流す。

 穏やかな笑顔だが、浮かべられたその笑みはいつもとは違うものだった。

 温かみの差す太陽のような笑みではなく、温度の低いぬるま湯のような笑み。

「悪いな、親父。そいつは無理な相談だ。何年も前から言ってるだろ? 俺にとって魔法少女活動はライフワークだ」

「お前は……いや、昔からそういう奴だったか。私たちが何を言っても聞かなかった。……未亜のことも」

 和幸が漏らした未亜の名に佐雄也の(こめ)(かみ)ががひくりと僅かに動く。しかし、和幸はそれに気付かずに言葉を続けた。

「私たちがどれだけ言ってもお前だけはあれに……」

「おい……あんたがそれを言うのか」

背筋が凍り付くような声音に和幸と母・(とも)()は思わず対面する息子の顔を見た。

そこには栗山佐雄也という人間を知る者ならば、目を見張るほどに冷え切った顔がある。二人はそれに一瞬怯みかけるものの、友恵は佐雄也に意を決したように言う。

「もう、止めてほしいの。私たちに対する当てつけは」

「当てつけ? 何のことだよ」

(とぼ)けても無駄だ。お前の行為が未亜を邪険にした私たちへの当てつけということぐらい知っている」

 和幸のその言葉に佐雄也は怒りを昂らせかけたが、両目を瞑ってその感情を抑えた。

「そうか、当てつけか。あんたらにはそう見えたのか……」

 目を開くと彼はすっと椅子から立ち上がり、何も言わずに両親に背を向けて、居間から出て行く。

「おい、待て。まだ話は終わってないぞ!」

「もう話すことなんてない。俺の今までの活動が、当てつけにしか見えなかったあんたたちとは」

 顔すら振り向かず、そう言ってから扉のレバーを掴んで廊下へと歩み出た。

 背中で閉められた扉の向こうで怒声を上げる和幸の声が聞こえたが、佐雄也は玄関まで歩いていく。

 靴を履き、外に出ようとして、玄関にある姿見に自分の顔が映り込んだ。

 そこには街の人々に奉仕する魔法少女マジカルマロンとしてではない、ただの高校生・栗山佐雄也の顔があった。

 ぎりっと小さく歯ぎしりをすると、スニーカーの踵を潰して家の外へと飛び出す。

 佐雄也は自分が大嫌いだった。

 何もできなかった自分が、未亜を守れなかった自分が心の底から嫌いだった。

 佐雄也と親しい人間さえ誰一人として、知る由もない真実。

 佐雄也が自分自身を憎悪していた。

 魔法少女マジカルマロンとは妹の願いを叶えるためだけではなく、人間として栗山佐雄也を殺すためのものでもあったのだ。

 彼が、本当になりたかったのは魔法少女などではない。

 未亜を守れる騎士(ナイト)になりたかった。

 皆に嫌われ、虐げられる最愛の妹を誰からも守ることのできる騎士に。

 ただ、それだけでよかったのだ。魔法も、奇跡も特別なものは要らなかった。

 未亜の笑顔を守れる存在にだけなれれば、それで満足だった。

 物心付いた時には未亜はいつもつまらなそうな顔を浮かべていた。誰にも心を開かず、すべてを嫌っていた。

 彼女は佐雄也のことも兄とは呼ばず、遠ざけようとしていた。

 佐雄也は兄として彼女を笑顔にしてあげたかった。

 面白い話ができるように本を読んで勉強した。

お道化て笑わせることができるように色々な冗談を考えた。

美味しいお菓子を作れるように近所の人に料理を習った。

 その甲斐あってか、未亜は佐雄也だけには笑顔を見せてくれるようになった。

 「お兄ちゃん」と呼び、慕ってくれるようになったのもその頃だ。

 未亜の笑顔を見て、自分は何があってもこの子の味方であろうと佐雄也は誓った。

 だが、その一時の幸福も彼女が原因不明の病に冒されるまでの話。

 子供ながらに未亜を助けようと奔走したが、結局何一つ彼女を救うことはできなかった。

 無力な自分が憎かった。何もできない己が悔しくて仕方なかった。

 神に自分を未亜の代わりに殺してほしいと願ったことさえあった。

 弱くて、無力で、愚かな自分が堪らなく嫌いだった。

 未亜が死ぬ一日前、佐雄也は彼女が死んでしまったら、後を追って自殺しようと考えていた。

 だが、彼女の魔法少女への願いを聞き、佐雄也は魔法少女を目指して生きることに決めた。

 それ以外に彼には愛する妹にしてあげられることがなかった。

 その時、佐雄也としてのすべてを捨て、魔法少女マジカルマロンとして生まれ変わったのだ。

 それが終わりのない旅路だとしても、関係ない。元より彼にとっての『魔法少女』とは贖罪の焼き印でしかないのだから。

 栗山佐雄也という無力な兄を傷付け、苦しめ、殺せればそれで充分だった。

 空から滴り落ちて来る雨粒で佐雄也は思考の世界から帰って来る。

 雨雲が空を覆い尽くし、泣き出すように水滴を次々に零していく。

 気が付けば、佐雄也は公園に一人佇んでいた。

 それほど大きくもない、高校生から見れば手狭な公園。

 昔、未亜を連れてよく遊びに来ていた場所だ。

 錆びたシーソーやローラーの滑り台、ペンキの剥げたブランコを見て、佐雄也はかつての懐かしい記憶が蘇ってくる。

 雨のせいで灰色に映る景色が尚のこと、過去の映像を投影させた。

 未亜は特にブランコが好きだった。この公園に来るといつも佐雄也に背中から押して動かすようせがんだ。

 自然とそちらに足が動いた。暗く、小雨の降る公園には佐雄也以外に人影はなく、ブランコも雨で濡れている。

 帰宅してからも着たままだった学生服のズボンポケットからハンカチを取り出し、軽く拭ってからで腰に下ろす。

 僅かに残った湿気がじわりとズボンを濡らし、冷たさを覚えるが、今はさほど気にならなかった。

 雨に打たれるのも構わずに、緩やかにブランコを扱ぐ。

 そういえば、未亜と一緒に二人乗りもした。佐雄也が立ち、未亜が座って二人で扱いでいた。

 楽しそうな彼女の笑顔がもっと見たくて、一生懸命に扱いたのが良い思い出だ。

 雨足が強くなり、顔に付着する水滴の勢いが増すと佐雄也はブランコから降りる。

 流石にこれ以上は長居ができないと判断して、公園の入り口の方に戻った時。

 違和感を感じ取った。

 耳から雨音が消えていた。いや、それどころか、顔に落ちて来る雫さえ感じられなくなっている。

 言い知れぬ危険を察して、振り返ると佐雄也の背後に黒いゴシックドレス纏った少女が立っていた。

 頭にはベールの付いた同色の帽子を被り、一見すると葬式の帰りのようにも見える。

 だが、その少女のことを佐雄也は麻衣子から聞いていた。

「君がマリシャス・ミラージュを生み出しているという魔法少女か……」

「…………」

 魔法少女マリスは何も答えず、無言で佐雄也を見つめた。ベールに隠れた顔から彼女の真意は(うかが)えない。

 麻衣子への連絡を取りたいところだが、相手が連絡の暇を与えてくれるとは思わない。

 それに佐雄也に接触してきたということは、向こうも麻衣子と繋がりがあることを知っていると見ていいだろう。

 迂闊に連絡を取るよりも、会話して時間を稼ぐ方が安全かと考え、佐雄也は彼女へ語り掛けた。

「君の目的は何なんだ? どうしてマリシャス・ミラージュを生み出しているんだ?」

 麻衣子から聞いた話によると彼女もまた何かを守るために行動しているとのことだった。

 話し合いの余地があるなら、可能な限りは言葉で解決の糸口を探りたい。

 だが、魔法少女マリスは一向に口を閉ざした状態でこちらを見ているだけで微動だにしなかった。

 佐雄也はそれでも粘り強く、彼女へ問いかける。

「何か大切なものを守るためか?」

「――っ」

 今まで動きのなかった彼女はその時に、僅かに反応した。

 佐雄也は確信する。この少女もまた、何かを守るために悪事を働いているのだと。

「理由があるんだな。もしかしたら、力になれるかもしれない。話してくれないか?」

「好きな……大好きな人の命を守るためです」

 ノイズの混じった不可思議な声が佐雄也に届く。魔法少女マリスは心を開いてくれたのかはまだ分からなかったが、佐雄也と対話はしてくれる様子だ。

 それに少しだけ喜び、再度に彼女に尋ねた。

「君の好きな人はどこかに囚われているのか?」

「違います。でも、マリスはいつでもその人を殺せる。助けるにはマリスの言うことを聞く他にありません」

 彼女の発言に佐雄也は希望を持つ。

この少女は望んで世界を滅ぼそうとしているのではない。

人質を取られ、仕方なく命令を聞いているのだ。ならば、その相手さえ助ければ和解の余地はある。

「それなら俺がその人を助けてみせる」

「無理、ですよ」

「大丈夫だ。魔法少女マジカルマロンは……」

「……無理なんです。だって、私の助けたい人は……」

 魔法少女マリスは被っていた黒いベール付きの帽子を取る。

 その下から出てきた顔は佐雄也のよく知る人物、雪川風美のものだった。

「私の助けたい人は、貴方なんですから」

 今にも泣き出しそうな声で彼女はそう吐き出した。

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