五拾壱:最強のボス
時計の音。
時を刻む秒針の音。
今、三人がいる世界の音。
離れていたのはたった二日だけなのに、ずいぶんと懐かしく、そして心地よく感じていた。
「十二時五十分」
マハエがつぶやく。
セルヴォの世界で戦いを終えた後、案内人の指示どうりにしばらく歩き、人間の世界へ帰るための出口になるらしい、場所(ただ人目につかないだけの森の中)に到着した。あらかじめ回収ポイントが決められていて、そこから人間の世界へ帰ることができる、と案内人が話した。
そこで案内人に適当に別れの言葉を送り、無線機をそのへんに捨て置いてセルヴォ世界を出たのだ。
自分の体と視界が薄れていき、それから意識がなく、目を覚ますと施設の部屋の、布団の上で仰向けで眠っていた。
目を覚ましたときの時間は夜の九時。セルヴォ世界と時間が同じなら、三時間ほど眠っていたことになる。
そして激しい空腹に耐えながら、深夜―― 今の時間に至る。
布団に三人仰向けになって時計を見つめ、“作戦開始時間”を待つ。
妙に静かな夜。消灯時間はとっくに過ぎ、遊びまわる子供達の声もない。
「一時ゼロゼロ分―― 作戦開始」
エンドーが言うと、三人いっせいにむくっと起き上がった。
まずはマハエが部屋のドアに耳を当て、十秒後、ゆっくりと開ける。
静寂と暗闇が支配する廊下。
できる限り呼吸を抑えながら、足音を消して歩く。
ハルトキが階段の手すりのところでしゃがみ、隙間から階下を覗いて、マハエとエンドーに手で合図を送る。
何年も改築、補修されていない施設の階段は、少しの体重でもキシキシと音が鳴ってしまう。だが三人は、一段一段どの位置を踏めば音が立たないかを、ここでの生活で学習していた。
目指すは食堂。
空腹。腹が減っている。死ぬほど減っている。空腹なのか通常なのか、わからないくらいまで減っている。
なぜこの時間まで待ったのかというと、二日も行方をくらませていた“不良少年”を、この施設の職員がたが説教の一時間や二時間で許してくれるはずがないからだ。(前回は二時間、みっちり説教をくらった)
どうせ説教されるなら、その前に腹を満たしておきたい。あわよくば、翌日、何事もなかったかのようにあいさつをして、朝のだんらんに加わりたいのだが、当然それは無理な話。
十時の消灯時間になると、泊り込みの職員達は子供を寝かしつけ、十二時には全員が眠りについている。
念のために一時間置いた。起きていたとしても、気配を消せば気付かれない。
マハエが小声で言う。
「一階へ到達。だが本番はここからだ」
二階の部屋のほとんどは子供達の居室。一階には職員用の居室、職員室、応接室など。そして一番の難関である園長室。それらの危険ポイントを通過しないと、奥の食堂へはたどり着けない。
階段下にあるトイレ、その正面の壁に背をつけて、じりじりと食堂を目指す。
闇の中には人っ子一人いない。トイレのドアについている小さな窓からも灯りは見えない。が――
――ガチャ。
女子トイレのドアが開き、七歳の男の子が目をこすりながら出てきた。
あくびをした派手なパジャマ姿の男の子と、いかにも怪しい体勢の三人。数秒、時が止まった。
先に口を開いたのは男の子。
「シンエ――」
「ノボルちゃん! また便座で寝ていたの!? 女子が男子便所を使わなきゃいけなくなるからベッドにもどって寝なさいって、もう、何度言えばわかるのっ! でも今日は許したげる! もう少し寝てなさいっ!!」
目を見開いて言いかける男の子をトイレへ押し込み、マハエはバタンとドアを閉めた。
「…………」
男の子の声はない。再び眠ったようだ。
今の声で誰かが起きてくる気配はなく、胸をさすりながら息を吐き、三人はまた食堂を目指す。
職員の居室は問題なく。もっとも警戒しながら園長室の前を通り、食堂のドアにたどり着いた。
「いくぞ」
フック式のノブに手を伸ばすマハエ。それをハルトキがさえぎる。
「まってマハエ。『死神アラーム』だ」
ハルトキがポケットからカッターナイフを取り出し、刃をドアの隙間に差し込んで、仕掛けられていた糸を切った。
ドアが開いて糸が引っ張られると、アラームのピンが抜け、作動する。だが、このアラームの恐ろしい特徴は、音が鳴らないことだ。厳密に言えば、そこにあるのはスイッチで、アラームの本体は園長室にある。そのせいで罠にかかったことに気がつかない。いつの間にか後ろに立っている恐ろしい園長の気配を感じたときに初めて罠に気付く。知らず知らずのうちに忍び寄る恐怖。だから三人は、それを『死神アラーム』と呼んでいる。
「危なかった。『遊戯室』以外にも仕掛けてあったのか。この前ここに忍び込んだときにはなかったのに」
「足元に気をつけよう。まだあるかもしれない」
ドアを開けて足を踏み入れる。
エンドーのペンライトで照らされた食堂の床には、黒くぬられた細い糸があちこちに仕掛けてあった。
慎重に糸をまたぎながら厨房に入る。
「あ〜、ここに来ると空腹に拍車がかかるなぁ」
エンドーが腹をおさえる。
「今日の、おかずは、何ですか〜」
マハエが鼻歌をまじらせて鍋のフタを持ち上げた。
「今日の、おかずは、おブタの角煮〜…… で、し、た〜(過去形)」
「…………」
――沈黙。
鍋の中に、角煮の『角』すでになく、砂糖と醤油で味付けされた、猛烈に食欲をそそる香りを放つ煮汁だけが残っていた。
「大人気だねぇ、角煮さん。やっぱ日本人は角煮だよねぇ〜」
マハエは大きく頷きながらその隣の炊飯器を開けた。
「まあ、ご飯さえあれば十分だ。煮汁をかけていただきま〜……」
炊飯器の中には米の一粒も残っていなかった。
『いただきます。ごちそうさま。今日の明日の命を支えてくれる食物に感謝をし、たとえ米の一粒、野菜の一かけらも残すべからず』
壁に貼られた大きな紙に、筆で力強く書かれている。
「嗚呼、すばらしきかな我が家の教訓」
強烈なめまいで、三人は床に両手をついた。
「もうだめだ……。オレらはここで力尽きる……。でもいいんだ、悪の野望から世界を救えたから……」
「まてマハエ、あきらめるな。ここにまったく食料がないわけじゃあない」
打ちひしがれるマハエの背中を叩いたエンドーが、冷蔵庫を指差す。
「嗚呼、冷蔵庫ちゃん……、キミの存在を今以上に愛おしく思ったことがあっただろうか……」
歓喜の涙を流しながら、マハエ―― 三人は冷蔵庫のとってに手を伸ばし、力を合わせていっきに引き開けた。
――ピーン
何かが抜ける音がした。
「…………」
再び沈黙した三人は、冷蔵庫の扉の下のほうを見た。
そこには黒く細い糸が。
マハエは苦笑いしながら冷蔵庫を見上げた。
「裏切ったね? レイコちゃん……」
ぬぅっ…… と、恐怖を押し固めたような気配を、背中いっぱいに感じた。
「…………」
「(……で、なぜ?)」
マハエは、目の前にある大きなドンブリに目を向けた。
「(……なぜだろう?)」
ハルトキは、目の前にある大きなドンブリに盛られているホカホカご飯のマウンテンに目を向けた。
「(……どういうことだ?)」
エンドーは、目の前にある大きなドンブリに盛られているホカホカご飯のマウンテンの上にこれでもかと乗っかっている茶色い牛肉に目を向けた。
そしてテーブルの向かいにどっしりと座っている、ニコニコ顔のクマ男、こと園長に目をもどす。
「(読めないっ……!)」
三人は苦笑いして首をひねった。
園長特製の『超山盛り牛丼』の甘い香りが、三人の腹を鳴らす。
二日行方をくらまし、あげく厨房に忍び込んで冷蔵庫をあさろうとした三人にゲンコツを落とさず、代わりに手料理をふるまう園長の意図が読めない。
「腹が減っているんだろう? 食わんのか?」
相変わらずニコニコ顔の園長が言う。
三人は唾を飲み込んだ。園長の料理の腕はプロ級だ。調理師免許も持っている。和食から洋食、中華、どこかの民族の伝統料理まで、作るときは何でも作る。でも今は、何か裏がありそうで、恐ろしくて何も喉を通らない。
「――ごちそうさまでした……」
きっちり完食。
米の一粒も残っていない。
「(食っちまった……)」
マハエは頭を押さえた。
「(食べてしまった……)」
ハルトキは目頭を押さえた。
「(おかわりしてしまった……)」
エンドーは腹を押さえた。
園長はニコニコ顔をやめない。三人が残さず完食したのを確認すると、すっと立ち上がって手招きをした。
「来なさい」
「…………」
三人は黙って従う。
庭に出た園長と三人。自然をイメージして作られた庭には、木がたくさん植えられているが、夜中はそれらの影がとくに気味悪く、ゆらゆらと風に揺れている。
冷たい空気と、恐怖で冷え切った三人の心。
園長は剣道で使う『竹刀』を、三人に一本ずつ投げ渡すと、それを前に構えた。
「――来い」
微塵もすきのない構え。
「来いって言われてもなぁ……」
マハエは竹刀を構えつつ、ハルトキを見た。
「これは一種の選択肢だと思う。ここで園長を倒せば、ボク達は助かる。かも」
「だって……、デンテールより恐えよ」
体の震えが腕から竹刀へと伝わる。
「牛丼食いすぎた……」
エンドーがうなった。
園長は三人をじっと見つめ、ぐっと柄を握った。
「――まだまだ甘いな」