85/拡張
ちゃぽん、と。
湯の中に体を委ねる。
見上げれば大きな月。少しばかり欠けたそれは閉じかけた瞳のように見え、ならば夜空を彩る星々はそこからこぼれた涙なのではないかと思ってしまう。
そんな少女じみた空想を抱いてしまうのは、胸のもやもやとしたモノから目を背けるためだろうか――ノーラ・ホワイトスターはそんなことを思った。
(――わたしは)
ほのかに硫黄の香りがする湯の中、ノーラは一人浸かっていた。
塀に囲われているものの天井の無い温泉――露天風呂。石造りの大きめな湯船の周りを木々が彩っており、またスペースを広く取っているためか覗き防止の高い塀からも閉塞感を感じない。
初めて入浴したが、開放感があって気持ちはいい――外、というのが少しばかり落ち着かないが。慣れていないからなのか、それとも皆を避けるように一人で入ってしまったからなのか。
転移者たちとの戦いの後。
彼らを追い払った礼として、普段ならば利用できないような高級宿に連合軍は宿泊していた。
もっとも、元々泊まっていた者を含めるとさすがに全員が泊まれるほどのスペースはなかった。そのため、騎士団と共に転移者と正面衝突した者たちが優先され、他の者は他の宿に泊まっている。
なんでも、ここは泊まろうとしても中々泊まれない宿なのだそうだ。湧き出す温泉は美容にも健康にも良く、若い女が綺麗な肌を保つため、年老いた者が湯治のために良く来るらしい。
――そう、勇敢に戦い、町の皆の安全を守った人たちと一緒に、ノーラもこの宿に泊まっている。
自分は何が出来ただろうか?
否、何も為せていないだろう。
戦闘で何か貢献できたワケでもないし、現在交代で町を巡回している騎士や兵士、冒険者と混ざれるほどの実力もない。仮に一緒に巡回し潜んだ転移者と遭遇したら、真っ先に狙われて人質にされるだろう。
自分の実力は知っている。
だから、自分の出来る範囲で頑張り、サポートしよう。
そう思っているし、無理しても迷惑をかけるだけだとは思っている。しかしその結果、大して貢献出来ていない今の自分があった。
それが申し訳なくて、皆の喧騒が心苦しくて、そっと一人だけ部屋から出て早めの入浴をしていた。少しばかり、一人で考え込みたかったのだ。
(わたしは――何にも出来てないのに、カルナさんやレンちゃん、ニールさんと一緒に居るってだけで特別扱いされてる……)
みんな、みんな凄い人なのだ。
カルナは魔法という、しっかり勉強しないと使用すら危ういモノを自由自在に操り、そしてそれに満足せず鉄咆という武器を考えだした。
ニールは転移者という凄い力を持つ者を相手に、真っ向から斬り合える勇気のある人だ。ノーラから見て無謀とすら言える部分はあるが、ちゃんと結果を出している。
連翹は転移者でありながら転移者の国に行かず、現地人と共に戦ってくれる優しい人だ。ほんの少し前の戦いでもニールの命を救い、幹部を名乗る転移者を追い詰めていた。
この三人は冒険者の中でも『転移者と戦い慣れた者たち』として、騎士たちに評価されている。一緒に居るノーラも、ついでに。
「わたしは、何も出来てないのに……」
胸元で拳を握る。強く強く、握りしめすぎて感覚が麻痺するくらいに。
別に、嫉妬しているワケではないのだ。そんな恥知らずな真似をしてしまったら、ノーラは自分を許せなくなる。
皆のことは凄いと思っているし、故郷の村に帰れば皆のことを自慢したいと思っている。皆、自慢の友人たちなのだ。
ただ、そんな中に凡才の自分がいることが申し訳ないのだ。少し皆と親しいだけで一緒に特別扱いされていて、虎の威を借りている狐のような惨めな気分になるのだ。ノーラには、他人の威容を借りて得意気に笑うことなど出来ない。
そして、この悩みの解決策もまた、存在しなかった。
ニールやカルナのように、このクエストの前から冒険者として経験を積んでいたワケでもないし、神官としての実力が高いワケでもない。能力も、経験も、仲の良い皆の中で一番足りていないのだ。
(こんな無力感は――きっと、多くの転移者の人たちも抱いてるんでしょうね)
この連合の目的は『転移者を倒す』というモノだ。
仲の良い者、それ以外の顔と名前が一致しない者も転移者たちに良い感情を抱いてはいない。
その感情は秩序を乱す者に対する怒りであり、見下されたがゆえに見返したいという意地であり、何もやってなかった者が力を得たことに対する嫉妬である。
騎士にしろ兵士にしろ冒険者にしろ、想いの総量に差はあれどこれに類する感情を抱いている――ノーラを除いて。
だって、少しだけ気持ちが理解できるから。
(力が足りなくて、劣等感が心の中にあって――それを一発で解決する『力』が突然手渡されたら)
それに依存してしまうのだろうな、と思う。
仮にノーラが転移者たちと同じように力を与えられ別世界に転移したとして――調子に乗らない自信は無かった。
生活基盤を整える中で力を振るうことが日常になり、無茶を通すことに段階的に慣れて、最終的には暴君もかくやという暴走をしているのではないだろうか。
そして――その果てが、自分たちが戦っている転移者なのではないかと思うのだ。
突然コンプレックスを解消されて嬉しくて嬉しくて嬉しくて――徐々にタガが外れたのだろう。ことあるごとに『最強』や『規格外』と叫び誇示するのは、きっとコンプレックスから救ってくれた力に依存した成れの果てなのだと思う。
そう思うと、ノーラは心から憎みきれないのだ。
元々、彼女は女王都に行く決意をし宿場町に辿り着くまで転移者と面識はなかった。だからこそ『転移者だから』という好悪の感情がなく、皆と出会って得た経験と情報が全て。ゆえに他の者のように悪感情を抱くことが出来ないのだ。
無論、彼らがやったことは許せないし、許すべきではない。
平和な街を占領したことも、女王都で女性を集め従属させようとしていたレオンハルトと名乗った男も、何度か自分たちを襲ってきたならず者に近い連中も。同情できる点はあると思うが、だからと言って許してはいけないと思うのだ。
「――そんなことを考えても、何か出来るわけじゃないんですけどね」
どんな理屈や理想を持っていても、それを実現出来る能力がなければ意味が無い。
無論、完全に無意味とまでは思わないし、考え続けることは重要だとは思う。それでも理想を成就させる力を持つ者と持たざる者の間には、大きな隔たりがある。
(……やめましょう。気分が沈むばかりですし――?)
がたり、と。
温泉を囲う塀から音がした。
怪訝に思いそちらに視線を向け、小さな悲鳴を漏らした。
「居た――女、一人……!」
はあはあ、と。
荒い息を漏らしながら塀に跨っているのは、血に濡れた黒髪の男だった。
軽装の鎧を身に纏っているが、大部分が破損し、切り裂かれた断面から赤い雫を滴らせている。
彼の荒い吐息は、ノーラの裸体に欲情したがゆえのモノではあるまい。疲労とダメージが、彼の吐息を大きくしているのだ。
「あなたは――」
ゆっくりと後ずさる。
神官として怪我人を放っておくのはどうかとも思うが、時と場合だ。
黒髪に戦士とは思えない体つき。けれど軽装とはいえ金属鎧を纏った状態で高い塀を昇る身体能力――間違いない、転移者だ。
大声で悲鳴を上げるべきかとも思ったが、下手に刺激をして攻撃でもされたら、ノーラでは太刀打ちできない。
だからこそ、山道で熊にあった時のように、視線を合わせたままゆっくりと後退する。刺激しないように、しかしなるべく離れるように。
「逃さねえよ」
だが、塀から跳び下りた男はその勢いのままノーラに跳びかかり、喉を強く握りしめた。
「あ、き――ぁ」
首がへし折られる程の力でも、呼吸が不可能になる程の力でもない。せいぜい、声が掠れる程度の力だ。
だが、こんな掠れた声で助けを求める叫びなど上げられるはずもない。
「くそっ、あんの騎士ども、騎士ならキシドー遵守して名乗り上げてタイマン仕掛けて来いっての。複数人で囲んで斬りつけるとか、新選組か何かかっての」
だけど、と。
男は安堵したように笑みを浮かべた。
「人質が手に入ったのは重畳ってやつだ。民を守るだとか秩序云々言ってる連中が、まさか人質ごと俺を殺せるとは思えねえしな――レゾン・デイトルまで逃げ切ってやる」
デジャブを感じる。
あの時、そう女王都の時だ。
その時は気づく間もなく意識を奪われ、そのまま連れ去られていたが、状況的には大きな違いはないだろう。自分は今、転移者の手に落ち連れ去られようとしている。
(それは――駄目)
役に立たないのは、まだいい。少し前の大きな戦闘では何も出来ずに立ち尽くしていたが、それは役に立たなかっただけで足を引っ張ったワケではないのだから。
しかし、ここで捕まり、人質として盾にされたら――マイナスではないか。役に立たないどころか、皆の足を引っ張る邪魔者だ。
それは、嫌だ。
それは駄目だ。
確かにノーラは経験が足りなくて、まだまだ皆に追いつけないが――それでも自分の力が少しでも役立てばと思い故郷を飛び出したのだから。
「ぃ、た――」
「あ? なんだ?」
命乞いか? と。
男は微かに喉から力を抜いた。大声で叫べるほどではないが、囁く程度なら問題ない。
「――汚い、手で、触らないでください」
「ああ? お前、自分の立場が分かってんのか?」
「あなたこそ、最強の力を持っていても何も出来てない無能のくせに、随分と、偉そうですね。自分の立場、理解しているんですか?」
「――――んだと?」
男の表情が引きつった。
しかし、あからさまに怒ることも、こちらに危害を加えることもない。
いいや、出来ないのだ。
(ここで怒れば事実だと認めたようなモノですから。それに、彼はわたしのことを人質と言った)
ならば、殺せない。殴られたりはするかもしれないが、彼は殺すことはできないはずだ。
だって、今この状況でノーラを殺せば、人質としての価値は無くなる。もしそうなれば、新たな人質を探すか単身で町から脱出を図るしかなくなる――そう、騎士や兵士が巡回する町の中で、だ。
(従順なフリをして――っていうのは、たぶん駄目。町には騎士や兵士に冒険者――この人から見て、わたしの仲間が沢山いる。信用してくれるとは思えない)
隙を見て逃げ出すための演技だ、と思われるのがオチだ。仮に信じさせることが出来るとすれば、町を出てしばらく経った後になるだろう。
それでは駄目だ。どれくらい町から離れた時に信用して貰えるか分からないし――そんな風に連れ去られたノーラを連翹やカルナ、場合によっては騎士団も放ってはおかないだろう。結果、足並みが大きく乱れてしまう。
だから、煽る。
煽って煽って煽って、怒りで思考を狂わせミスを誘う。
「無能? 無能、とか言いやがったか? なあ、おい」
怒り、殺意、それらが混ざり合った視線がノーラを穿った。ぶるり、と無意識に体が震える。
ああ、怖い。自分より強い誰かが放つ強力な悪感情に、ノーラの肌から冷や汗が溢れ出る。
「言葉を聞き取るという能力も無いんですか、あなた? まあ、それも仕方のないことでしょうね。凄い体、凄い力、あなたたちが言う規格外。それを恵んで貰ってなおそうでない人に負けるなんて――無能以外になんと言えば良いんですか?」
それでも気丈に、そして見下すような低い声音で言えたのは、女王都で捕まった時の経験があったからだ。
演技し、騙し、出し抜く――あまり人として褒められた行いではないが、現状の自分が出来るのはこれだけ。
なら、それを全力で行うのが創造神ディミルゴの神官たるものの義務であろう。
「ふざけるなっ……! 俺は、俺は選ばれたんだよ! 転移で、チートで、主人公なんだよ! 抵抗できねぇ雑魚の分際で、見下すんじゃねえよ!」
「戦士から逃げて抵抗できない女に強がる――だから見下されるんですよ。今も、そしてこれまでも、これからも――」
「黙れよこの糞女ぁ――!」
怒声が鼓膜を震わせる。
びりびりと体を震わせる音の衝撃に顔を顰めつつ、しかし口元を緩ませた。
少なくとも、これで町の外に連れ去られるという展開はなくなった。
「あっちから声がしたぞ!」
「血痕がある――こっちだ!」
ガチャガチャ、という甲冑を纏った者の足音が複数。凄い勢いでこちらに近づいてくる。
「なっ、あっ、……テメエ!」
「わたしの喉を抑えても、自分であんな声を出せば見つかりますよ。当然でしょう?」
「ん、の――女ぁああああ!」
怒りが、殺意が膨れ上がった。
男の額に青筋が浮かび、瞳が野獣のように血走る。
その感情のままにノーラを殺すのか、それとも怒りを抑えて人質にするのか――相手がどうするにせよ、その前にやることがある。
「――創造神ディミルゴに請い願う」
囁くように呟いたのは治癒の奇跡の詠唱だ。
目の前の男に向けて放とうとする奇跡は、一見なんの意味もない、それどころか敵に利する行為だ。
しかし、ノーラの狙いは治癒そのものにない。
(奇跡の力は発動した時に発光する――わたし程度の力量じゃほんの些細な輝きだけど、日の落ちた今なら目立つはず!)
いきなりこちらの傷を癒やしたことに対する驚きで数瞬だけでも足止めし、光で周りにアピールする。
そうすれば、人質として盾になるまえに、怒りのまま殺される前に、誰かが助けてくれるだろう。
最後の最後で他人頼みなのが情けないが、ノーラが咄嗟に思い浮かぶ最善の行動がこれだったのだ。
「――失われ行く命を守る力を、癒しの奇跡を」
聖句を詠唱し終え、男に治癒の奇跡を放つ。
――――瞬間。
激しい熱と共に辺りを極光が満たした。
「あっ、い、ぁ――!?」
瞬間、ノーラの思考が飛んだ。
残ったのは、体に伝わる情報のみ。
痛い。
熱い。
痛い、熱い、痛い、熱い、痛い痛い痛い――!
体が、全身が、焼けるように痛い。体の内側から、全身を拡張されるような痛み。
いや、ようなではない。事実、ノーラの体は焼かれ、拡張されている。
男に握られた首付近から全身へ、熱が伝わり四肢が焦げ肉が焼け体が膨らみ肉が爆ぜ熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い熱い痛い。
体の内側から拡張され、めきめきと体を広げられていく感覚。体中の血管という血管が膨らんで、ノーラの体を紙風船の如く膨らませようとしているようだ。
まるで、体の中に沸騰した油を流し込まれ、それの体積がどんどん増えていく感覚。体の内側から焼かれ、広げられていく。
ああ、それが熱くて、痛くて、熱くて痛くて熱くて痛くて――それ以外に思考が出来ない。
だというのに、光に包まれた体には傷も火傷もない。いや、違う。焼けた肌は瞬時に治療され、爆ぜた肉は即座に癒やされているのだ。
激しい熱とノーラを中から拡張しようとする圧力が体をいくら壊しても、治癒の奇跡の光がノーラの体を即座に健康な状態に戻していく。
(熱なに痛これ、ごめ痛んな熱さい、やめ痛て、死熱熱熱んじゃう、痛痛駄熱目、も痛う熱無痛理熱な痛熱死死死死死のやだ死死死死死)
混濁する思考の中、ノーラは喉から獣じみた絶叫を放ちながら男を突き飛ばした。
相手が転移者だとか、自分の腕力じゃ無理だとか、そんなことは思考の埒外だ。ただただ、熱くて痛くて、それから逃げるために
「痛っ……!?」
だが、光に驚き力が緩んだのか、思いの外あっさりと彼は弾き飛ばされ、温泉の中に叩きこまれた。
「てめえ、なんて馬鹿力――あ? なんだ、これ? 体が――」
男の声がまともに聞こえない。
首から注ぎ込まれる感覚は途絶えたものの、痛みも熱も未だ体の中に残留している。
みちみち、と体が拡張され、内側から肉を焼かれる感覚。涙とよだれと尿を垂れ流しながら、ノーラは地面に倒れ伏した。それでも意識が途絶えないのは、激しい熱と痛みが失いかけた意識を瞬時に覚醒させているからに他ならない。
「突入する! 警戒を怠るな!」
「ノーラ! ここ!? ノーラ!?」
塀が破られ騎士たちが突入し、脱衣所から駆け込んで来た連翹はノーラに駆け寄った。
「あ、レンちゃ――」
「え、あ……ま、待ってね、待ってねノーラ。今、今誰か神官の人呼ぶから……! 誰かぁ! ねえ、誰かぁ! 助けてよぉ、ノーラが、あたしの友達が死んじゃう、死んじゃうの――!」
僅かに呆けたように立ち尽くした連翹だったが、すぐさまノーラを抱きとめると、泣き叫びながら宿に向けて駆け出した。
ああ、心配させちゃったなぁ――そんなことを思いながら、ノーラは彼女の腕の中で意識を失った。




