82/血塗れの死神/3
「ふふ――あたしは転移者、英語で言うとトリッパーなんだけど、貧弱一般剣士が頼りないらしく普通では辿りつけない時間できゅ――ぅわぁああ!? ニールあんた予想以上にボッロボロじゃない!?」
髪をかき上げ、得意げな笑みを浮かべた連翹は、しかしニールの姿を確認した途端慌て始めた。
そんなに簡単に剥がれる演技なら最初からやるなよ、と思ってしまうのはニールだけではないだろう。
「ちょ、どうするのこれ、あたしケア――もとい治癒の奇跡とか使えないわよ!?」
「……うっせえな、お前は少し静かに出来ねぇのかよ馬鹿女」
助かった、とか。
ありがとう、だとか。
そういうことを言ってやるべきだと思ったし、事実そうしてやるつもりだった。実際、単身で切り抜けるには難しい状況だったのだから。
しかし、そういう感謝の感情は豪風の如く吹きすさぶ言葉と一緒に何処かへと飛ばされて行った。礼を言うのも馬鹿らしくなったというか、いつも通りすぎて礼を言うのが気恥ずかしくなったというか。
「はぁーん!? 馬鹿とか単身特攻しかけて死にかけてる奴に言うべきセリフだとあたしは思うんですけどー!?」
「ああ!? その辺りは弁明できねえが、そもそもお前はなんでここに来てんだよ!」
「カルナに頼まれたからよ! けどまあ、言われなくても来たけどね!」
――その言葉に、少々どころではなくカチンときた。
舐められている。
弱者扱いしているであろう連翹の言葉に、額に青筋が走る。
「は? なんだお前、そんなに俺が頼りねえか? そこで待ってろ馬鹿女、今華麗に逆転して勝利してやっからよ!」
全身が痛いだとか、骨が折れているだとか、そんなの知ったことか。
舐められたままで終わることを良しと出来るなら、そもそも二年前に転移者と戦い勝利するなどと考えるはずもない。
剣を構え、死神を睨むニールに、連翹は苛立った声を上げた。
「頼りない云々以前の話よ脳剣! 貴方、単身で敵に突っ込む時に『足止めする』なんて言うキャラじゃないでしょ! むしろ、『先陣切ってぶっ殺してくる』とかそんなこと言う人間じゃない! そんな弱気になってる人を一人で戦わせるワケにはいかないのよ!」
しかし、その言葉が全身から噴き上がった怒りの感情を霧散させた。
それは、否定出来なかったから。自分でも気づいていなかった図星を、正確無比に貫かれたからだ。
(カルナが理想を完成させてるのに、俺は数合わせの剣を振るってるだけ――そんな現状が、俺を弱気にさせてたのか?)
その言葉を強がって突っぱねること、それ自体はたやすかった。
しかし、ちゃんと自分を見て、思いやって言ってくれた言葉を無視することは、ニールには出来なかった。
「……悪ぃな察しが悪くて。助かった、ありがろうな連翹」
「だから感謝の言葉を言う権利を――え? あ、うん、ど、どう致しまして」
感謝の言葉を述べろ、と言った本人がなぜ狼狽しているのか。
ニールの言葉が完全に予想外だったらしく、無意味に何度も前髪をかき上げまくっている少女の姿に、思わず笑みが漏れる。
「――それで、茶番は終わったの?」
そんな二人の交流を、冷たい眼で観察する女が居た。
返り血で赤く染まったパーカーを纏う転移者、死神の表情は退屈な演劇を見せられた子供のように気だるげだ。
「おう、丁度な。それよか、横槍入れねえなんて思ったより律儀なんだな。俺とこいつの会話なんぞ、お前の言うとおり茶番でしかねぇだろ」
「構わないわ。だって――設定のないモブを倒すより、設定の多い敵役を倒す方が満足感があるじゃない。食べる前に調味料をつけてくれるなんて、本当に出来た現地人ね」
「その言葉には、どっちかと言うと大反対ね。どこのマヨラーかってくらい調味料だらけになっちゃったから、貴女じゃ食べることなんて出来ないわよ。あたしはもちろん、あたしと一緒に戦うニールもね」
剣を抜き放ち、連翹が言う。
普段通りの言葉遣いではあるが、しかし声音は平時よりもだいぶ平坦であった。
胸にわだかまる苛立ちを抑えこんでいるようなその言葉を聞き、死神は見下すように鼻で嗤う。
「なに、怒ってるのアンタ? そんなに騙されたことが悔しいわけ?」
「ええ、まあね。正直、かなり調子に乗って色々話してたから、内心で笑われてたとか思うとすっごく恥かしいしムカつくわ。それが半分」
そして、と。
大きな瞳を刃の如く鋭くし、剣先を死神に突き付け――
「もう半分は、あたしのと――……とも、ええっと、その……」
――ここまでやっておきながら言い淀みやがったぞこの女!
ニールがそう思ってしまったのは、決して普段から連翹を罵倒しているからではないだろう。
「この馬鹿女せめて頭整理してから喋れぇ!」
「うっさいわね、考えはあるのよ! ただ、言いかけてちょっと気恥ずかしくなっただけで!」
「普段から恥ずかしいことしか言ってねえだろ、恥ずかしいのが嫌ならとっととあの騎士の口調を真似るのやめりゃいいだろうが!」
「はぁ!? 黄金鉄塊の騎士の言葉がどうやって恥ずかしいって証拠よ! 調子に乗るんじゃないわよ、本気だすわよ!」
ああもうっ! と。
顔を左右にブンブンと大きく振り、心なしか普段より赤い顔で叫んだ。
「……友達をいたぶったからよ! 親のダイヤの結婚指輪のネックレスはないけど、奥歯ガタガタ言わせるくらい傷めつけるから覚悟しなさい!」
「――」
その言葉に、思わず間の抜けた吐息が漏れた。
考えてみれば。
『ノーラと一緒に居るニール』として扱われたことはあったが、『ニール個人』に対しこうやって関係を示唆する言葉を言ったことは無かったような気がする。
(ああ――くっそ)
ちらり、と不安そうにこちらに視線を送る連翹を見て、思わず口元を釣り上げる。
ああ、悔しい。
そして、腹が立つ。
なにが悔しい? それはあんな言葉に、喜んでしまった自分のチョロさが。
なにが腹立たしい?
それは――
「何を言ってやがんだ、この馬鹿女――今更、そんな顔してんじゃねえよ」
――『そう思ってるのは自分だけなんじゃないか?』
そんな不安そうな顔をこちらに向けてきてること。
正直、最初は色々気に入らなかったし面倒くさい女だと思った――面倒くさいのは今も、だが。
しかし、出会った宿場町からここまで一緒に交流してきたのだ。冒険者なんてしょせん根無し草。嫌いな相手ならば、とっくに縁を切っている。
「くふ――」
連翹が視線を逸し、小さく安堵の息を吐くのとほぼ同時だった。
もう押し殺せない、そう言うように漏れでた哄笑が、ニールと連翹の耳朶を打った。
「くふ、はは、あはははは! 友達、友達、友達って言ったのアンタ!?」
「……何よ、そんな笑われること言った覚えはないんだけど」
腹を抱えて笑い、嘲笑い、嗤う死神に、連翹は苛立ったように言う。
「こんなジョークを聞いて笑わない方がおかしいわよ、劣等」
だって、そうでしょう? と。
同意を求めるように問いかける。
「脆弱な現地人相手に対等な人間関係を求めるなんて――ゲームのNPCやマンガの登場人物に惚れちゃうタイプの痛い子じゃない」
「えっと、痛い子云々はちょっと否定できな――もとい、現地人は人間じゃない。物語の登場人物とは違うわ」
「そう、人間。ただの、人間。転移者なアタシとは違う格下。言ってしまえば、犬猫と同じようなモノね。愛でるのも殺処分するのも、上位種の思いのまま」
ペットは可愛らしくても、しょせんただの畜生だもの。
嘲笑うでもなく、嗤うでもなく、死神は語る。
「そんな犬猫相手に本気で恋慕の感情を抱いたら、ただの異常者じゃない。それと一緒――転移者は超越者であり、劣等種を支配し消費する存在。お手々繋いでお友達、なんてナンセンスよ」
――ぞわり、とした。
ニールの肌に鳥肌が立つ。極寒の風に晒されたように、勢い良く、全身に。
これが挑発目的の言葉なら、このような感情を抱かないだろう。その時に浮かぶのは臓腑を焼く獣の怒りであり、くだらない挑発に乗るべきではないという理性だ。
だが、死神の言葉は違う。
それが公理であると本気で信じている言葉の響きだった。
だからこそ、怒りよりも気持ち悪い。人の形であるのにどこかが決定的に違うその有り様は、デッサンの狂った絵画のように不気味だ。
「はっ――舐めてんじゃねえぞ、血塗れ女ぁ! 俺らが犬猫だってんなら、爪で裂いて牙で喰らってやるよ!」
ひたひたと背中を這いずる凍えた感情を吹き消すべく、叫ぶ。
相手がどんな存在であろうと、やるべきことは最初から変わっていないのだ。
連中はこちらを下に見て襲いかかってきた、だからムカついた、ぶっ殺す――単純だ。鍛え上げられた長剣のように真っ直ぐな理屈ではないか。
細かい好悪の感情など、後々じっくり考えればいい。
もっとも、敗北したら考える間もなく死ぬだろうし――
「行くぞ連翹――俺に続けぇ!」
――勝利すれば、そんなどうでもいいことを考える間もなく仲間と勝利を祝っている!
剣を担ぎ、突貫する。胸部を中心に自己主張する痛みは、眼前の敵に集中する意識と高揚感が誤魔化してくれる。
なら問題ない。腕や脚の欠損もないのだ。十全とは言えずとも、剣を振るえる!
「餓狼喰らい――!」
「ふんっ、馬鹿の一つ覚えね!」
技の名を叫び間合いを詰める。死神がこちらを嘲弄する笑みを浮かべているが、知ったことか。
ぐっ、と脚に力を込め――
「そろそろ死んでいいわ、『ファスト・エッ――」
「連翹、任せた!」
――跳ねた。
剣を振るわず、勢い良く上空に。死神が困惑する声が響く。
スキルは相手を視認して発声しなくてはならない――ゆえに、発声前に視界から外れたら不発になる。
「馬鹿が、こっちは転移者と違ってそもそも技名叫ぶ意味はねえんだよ!」
要は、ただのフェイントだ。
それも技名を叫び突貫するだけの拙いモノ。騎士相手にやれば失笑され、前衛の冒険者にやっても何人騙せるか微妙だろうと思う。
しかし、相手は素人。死神は他の転移者に比べ戦い慣れてはいるようだが、武芸を身につけているワケではないのだ。
「あわっ、と、こ、こういうのは前もって打ち合わせしてよ……! 『ファスト・エッジ』!」
僅かに生まれた間隙を突くように、連翹が悪態を吐きながらスキルを発動する。
踏み込み、袈裟懸けに振るわれる斬撃は疾く、女王都からアースリュームへの道中で出会った転移者ならこれで致命傷を与えられただろう。
「ふざけた真似をして! でも、この程度でアタシを倒せると思うんじゃないわよ! 『ファスト・エッジ』!」
だが、死神は武芸に関しては素人であるものの、戦い慣れていた。
フェイントに惚けたのは一瞬。すぐさまショートソードを構え、スキルを発声。連翹の攻撃を迎え撃つ。
刃と刃が重なり、当然の如く数打ちのショートソードが砕ける。にい、と死神は剣呑な笑みを浮かべた。
必勝のタイミング。ここで大技を放てば、連翹は為す術もなく切り刻まれ、倒れるだろう。
「『スウィフト・ス――」
「破砕土竜ァア!」
だが、ここには連翹だけではない、ニールもいるのだ。
着地と共に放った技は、人心獣化流・破砕土竜。剣を地面に叩きつけた瞬間に気を開放し、地を這う衝撃波を放つ技だ。
石畳を砕きながら奔るそれが、連翹に意識を集中させていた死神に迫り――脚に直撃した。
無論、この程度で倒せるワケがない。
そもそも、破砕土竜は威力が低いのだ。この技で転移者に傷を負わせられるとは思っていない。
だが、バランス程度なら崩せる。
スキルを放とうとしていた死神は、足払いをかけられたように体勢を大きく崩す。
「ち――」
舌打ちをする死神だが、その顔に焦りはない。せいぜい、面倒くさいという程度に不快さを表情に滲ませているだけだ。
それは彼女が言っていた技術、鮮血破損連撃(Bloody.Break.Blade.)がこのようなタイミングでも発動できるモノだからだろう。
恐らく『スキルが発動に成功した』という結果が最初に存在しているのだ。武器が壊れようと体勢が大きく崩れていようと、スキルをオーダーした時に繋がる神とのラインが存在する間は強引にスキルを発動させられるのだろう。
「死になさい、劣等。『スウィフト・スラッシュ』!」
「このっ、『クリムゾン・エッジ』!」
連翹の剣が赤く燃え、転倒しかけた死神の体が巻き戻り、強引にスキルを発動させようと操り人形の如く動き始める。
発動したタイミングは死神の方が速かったが、体勢を立て直す必要のなかった連翹は発声から発動までの時間差が無い。
ゆえに、剣が振るわれるのは同時になる――はずだった。
「ここだ――餓狼喰らい!」
駆け抜け、踏み込み、振り下ろす。
飢えた狼のように一直線に相手に突貫したニールが、死神の背中に剣を叩きつけた。
「がっ……!?」
金属が砕け散る音が服の中から響き、刃は死神の体を切り裂くことなく停止した。
切れ味の鈍い剣を使っているからというのもあるが、パーカーの中に仕込んだ複数のショートソードが鎧の役目を果たしているのだろう。刃は、相手の体に届かない。
だが、それでいい。
「しまっ――」
彼女の技、鮮血破損連撃(Bloody.Break.Blade.)は二度目のスキルをどんな体勢からでも発動させる強力な技だ。
転倒しかけた状態から体を巻き戻し、服の中に仕込んだショートソードを手元に呼び寄せてスキルを発動させるそれが弱いはずもない。
だが、転移者のスキルは強力ではあるものの、スキルの発動中や硬直時間は自分の意思で体を動かすことが出来なくなるモノだ。そしてそれは、死神もまた同様である。
体勢を立て直しスキルを発動しきるまで体は動かせない――ならば、
「体勢を立てなおしている最中に、追加でバランスを崩せばいいってわけだ!」
そうすれば、剣を振るうまでの時間を稼げる。
無論、一対一で向き合っていて出来るようなことではない。
ニールが相手のバランスを崩せた理由は、背後からの奇襲で脚を狙ったことと、鮮血破損連撃(Bloody.Break.Blade.)の途中で勢いをつけた突貫攻撃を行ったからだ。どちらも、一対一で戦っていたら思いついても実行できやしない。
だが、今は連翹が居る。
連翹が居て、死神はニール以上に彼女を脅威だと認識していた。現地人などより、劣等とはいえ転移者の方が危険だと思ったのだろう。
だから、大技でまとめて攻撃するよりも、連翹に意識を集中させた。その判断は、ある意味では正しい。現状、ニールの剣では転移者の肌を切り裂くのは難しいのだ。連翹を倒せれば、後でニールをなぶり殺すことも可能だろう。
だが、傷を与えられるか否かのみが、戦いにおいて重要なワケではない。死神はそれを見誤った。
「今だ、ぶった斬れ!」
「言われなくても――!」
炎を纏った刃が閃いた。
なぎ払うように振るわれた灼熱が、ようやく体勢を立て直し剣を振るいかけていた死神の右腕を切り裂いた。
袖が焼け、中に仕込まれたショートソードが溶解し、肉が裂け骨が断裂し――死神の右腕は、断面を焦がしながら宙を舞った。
「あ――あ、あ、あ、あああッ!」
獣じみた悲鳴を上げる死神から連翹は距離を取る。
ここは追撃をとニールは思ったが、連翹には死神の技能について説明していない。あの特殊な動きを警戒し、反撃されないように距離を取ったのだろう。
だが、ニールは魔法のスキルを使うことはあっても、剣技は現状使用できないと確信していた。
なぜなら、転移者のスキルの剣技は右手か両手で握り振るうモノだ。
これが自分の意志で剣を握り振るっているなら、残った左手で剣を握り、振るうことも出来るだろう。
だが、恐らくではあるが転移者はそういったことが出来ない。力を借り、自動的に体を動かすという性質上、使用者の意思でアレンジをすることが出来ないのだ。
「うで、腕がぁああ、アタシの腕がぁああ! 劣等の分際で、よくもぉおお!」
「はんっ! どうだ、お前の言った犬猫の爪牙、けっこう痛えだろ? ま、腕切り飛ばしたのは連翹だったがな」
憎悪で燃える視線に、真っ向から殺意と敵意をぶつける。
「それでも、これからその爪牙で死ぬんだ――舐めた相手の姿をしっかり刻み込んで死ね」
その言葉を聞いた死神は、しばし呆然とした表情をしていた。
何を言われたのか理解できない。いや、言葉としては理解出来ても、意味が理解できないと言うように。
だが、ニールが一歩、一歩、と歩み寄ると次第に迫り来る『死』を理解したのか、狼狽し後ずさる。
「待って――待って、待って、待ってよ、待って!」
「この状況で待つ馬鹿がどこにいやがる」
低い声音で言い放つと、慌てて背を向け逃げようとし――そちらの方向に連翹がいることを思い出し、立ち止まる。
(……やっぱ、連翹に任せなくて正解か)
連翹の方が筋力が高く、一撃で首を断てるだろうから、彼女にやらせるべきかとも思った。
だが、先程死神と目があった瞬間、連翹の手が震えていたのだ。
それは、命乞いする他人を殺すことに対する恐怖とためらいだ。
連翹は戦い慣れてはいても、人を殺し慣れてはいないだろうな、とは思っていた。
何だかんだで根が臆病で優しい女だ。敵意や殺意を持った相手とは戦えても、戦意を失った相手には剣を振るい難いのだろう。
(色々助けられたワケだし――手を汚させる必要もねえか)
それに――ニールはこの女相手にためらう理由がない。
女だろうが、他人を殺し、自分を殺そうとしたのだ。そんな奴を生かしておくほどニールはフェミニストではないし、女に飢えてもいない。
「やめ、待って、やだ――助けて、殺さないで! ち、チート貰って好き勝手に、自由に生きるなんて誰しも心のどこかで思うことでしょ!? 誰だって力貰ったらこうするわよ! ア、アタシだけじゃない。アタシだけじゃないの!」
「自由ってのは責任もついて回るもんだろ。好き勝手に暴れたのも、その結果ここで死ぬのも、全部お前が選んだことだろ。甘えんな糞女」
――物語を読んでいたら、突然登場人物に襲われた。
恐らく、死神の内心はそのような混乱で満たされているのだろう。
絶対に自分が傷つかない場所で人の生き死や恋愛などを観察する――物語とは言ってしまえばそんなモノだ。
そして目の前の転移者には、ニールが暮らすこの世界もその物語のように見えていたのだろう。
規格外によって強化された体と強力な能力が、襲い来る危険や困難を簡単に排除してしまうのだ。
そんな彼らにとって、この世界での日々は自分が主人公の物語と変わらない。
草花の匂いや料理の味を感じられ、登場人物が生きて自分に話しかけてくれようと、安全過ぎる日々が現実感を希薄にしたのだ。
「やだ、死にたくない、死にたくないのぉ!」
だが、敗北の痛みが彼女に現実を突きつけた。
この世界は安全な場所から眺める物語では断じて無い、と。
このままでは死ぬ、殺されると。
その恐怖が、彼女の脳を犯し、魔法のスキルを使うという選択肢を忘却させていた。
「うるせえ、殺される覚悟もねぇくせに刃物振り回してんじゃねえ!」
ニールはそんな彼女を憐れむこともなく、むしろ都合がいいとさえ考えていた。外道が今更命乞いをしても、胸から湧き上がるのは苛立ちくらいだ。
剣を振り上げ、狙うのは首だ。
切断は出来なくても、深く食い込めば失血死を狙えるし、首の骨をへし折れば逃げることも出来なくなるだろう。
どちらにしろ、一撃で殺せなくとも殺せるはず。
「同胞を救うべく唱えよう、『ライトニング・ファランクス』と」
聞き慣れぬ男の声が響いた瞬間、ニールは剣を上に向けて放り、転がるように距離を取った。
刹那、無数の雷槍がニールの剣に衝突し、爆ぜた。閃光がニールたちの視界を焼く。
「残念だったな、現地の剣士よ。しかし、弱卒の者たちならばまだしも、幹部を失う訳にはいかないのだ」
十代後半くらいの、長身痩躯の男だった。
金の装飾が施された白い衣服を纏い、その上に衣服と同様の色合いと装飾の成された外套を羽織っている。
それを見て、連翹は軍服を連想した。装飾が過剰で、歌劇の衣装めいているが、あれは軍服を元にデザインされたモノなのだろうなと思う。
長い黒髪をポニーテイルにした彼は、いつの間にか死神を抱きかかえニールたちから距離を取っている。
「なんだ、テメェ……」
「問われたのならば名乗ろう。我は王冠、王冠に謳う葬送曲――レゾン・デイトルの幹部の一人」
恭しく一礼をする王冠だが、そこに敬意や敬愛といった感情は皆無だ。
言動こそ違えど、敗れる前の死神と同じだ。安全な位置からこちらを見下している、そんな臭いがぷんぷんする。
「く、王冠……」
腕の中で振るえる死神に、王冠は優しく微笑みかける。
「安堵したまえ。君が男ならば命令であろうと見殺しにしていたが――君のように愛らしい少女なら、頼まれずとも救うのだから」
そう言って、彼はこちらに背を向けて歩き出した。
「待ちやがれ! 逃げるのかテメェ!?」
「ふむ――では問うが、戦ってもいいのか?」
王冠はニールを、いやニールの腰に吊るされた空の鞘に視線を向けた。
先程、雷槍を回避するために放り投げた長剣は、熱と衝撃で溶け砕けている。
無手の状態で二連戦――確かに、戦わずに済むのならそうしたいのは事実だ。こんな状態では、勝てる相手にも勝てないだろう。
「我は少女を救えれば良いし、無駄なことはしたくない。そして、貴様らは我と戦わずに済む。両者が利する選択だと思うのだがね」
「無駄なこと、って何なのよ」
剣を失ったニールをかばうように立ち位置を変えながら、連翹が言う。
「雑音の決めた方針というのもあるが――どうせ貴様らは死ぬ。道中か、レゾン・デイトルでかは知らんがね。だというのに、なぜ我が動かねばならんのだ」
自分の手で殺す価値もない、と。
それだけ言って、王冠は歩き出した。
走れば余裕で追いつける位置と速度。だというのに、ニールは動けなかった。
「野――郎……!」
否、動き出そうとする体を、必死に地面に繋ぎ止めていた。
今すぐ突貫して斬りつけてやりたい。実際、剣さえあればニールはそうしていたかもしれない。
だが、振るうべき相棒の無い現状がニールの足を踏みとどまらせた。
武器もなく、負傷もしている現状で戦いを挑んでどうするつもりだ。傲慢にも見逃してくれるなら、それでいいではないか、と。
その理屈は分かる。
武器も無しに転移者に勝てないのも、負傷していることも理解している。
だが、それと感情は別問題だ。
煮えたぎる激情を抑えこみ、
「ぜってえ、ぶっ殺す……!」
押し殺した殺意を背中に向けて放った。




