69/嗤わないで、あたしを認めて
――――人間は他人を嗤う生き物だ。
個人の感想ではあるし、この言葉を否定する人間は多数居るだろうと思う。
しかし、片桐連翹にとっては真実であり、揺るがない、揺るがすことの出来ない事実であった。
「……ああ、もう。やだな、あたし。なんで、こんなに――」
弱くて、脆いのか。
住宅街の路地裏。人気の無いそこで座り込んだ連翹は、ぎゅっと己の膝を抱きしめた。
先程の話を聞いてから、不安と震えが止まらない。自分からこの力が無くなることを想像するだけで、体の芯が凍えていく。
ニールと転移者の男から逃げるように、いいや、実際に逃げるために走り去った時、宿とは真逆の方向に行ってしまったが――結果的にこちらの方が都合が良かった。
宿の方角に走っていたら、見知った誰かと出会ってしまうかもしれなかったから。
今の脆く、弱い姿を見せずに済んでいるから。
(だって――ノーラも、カルナも、ニールも、他のみんなも……あたしが転移者で、凄く強くて、才に満ち溢れてるから一緒にいてくれるんだから)
強いから一緒に居てくれるし、一般人よりもずっとずっと才能があるからみんなは連翹を嗤わないのだ。
だって――そうでなければ、無様なだけではないか。
凡人の癖に努力して時間を無駄にする姿など、他人の嗤いを誘うことしか出来ない。
(そうよ、だって――)
――自分だって、そういう人間ではないか。
思い返す。
かつての日々を、無駄に努力をしていた頃の自分を。
連翹は絵を描くのが好きだった。当時流行っていた漫画の、格好良い登場人物。それを描くのが好きだった。
それをあまり多くない同じ趣味のクラスメイトに見せるのが楽しみだったし、それを見て嗤う男子がとても嫌いだったのだ。
下手なのは知っている。
けど、それでも楽しいからやってるんだ。横から顔を出して嗤うな、目障りな。
そんな風に考えていた。
だが、その嗤った彼が部活動で汗を流している姿見て、思った。思ってしまった。
――なんて無様。全国どころか県大会にすら行けないような学校に入った癖に、一人で皆を引っ張れる人間でもない癖に、なにをそんなに無駄な努力をしているんだろう、と。
嗤われたことに腹を立てたため、そんなことを思ってしまったのだろう。
苛立ちに任せ、必死に汗を流す彼を脳内で嘲弄し、愚弄し、侮蔑した。
――それが、彼が自分の絵を嗤ったのと同じであることに気づいたのは、布団の中で微睡んでいた時だ。
それから、全てが怖くなった。
自分が一番嫌だと思っていたことをやってしまったことより、それに気づくのに何時間も必要だったことを怖いと思ったのだ。
だって、それは無意識だったから。
他人にやられて嫌なことを平然と心に思い浮かべ、馬鹿な奴め、と気分をよくしていたからだ。
(きっと――皆も同じ)
誰もが心の中で嗤っている。
声に出すか出さないか、意識的か無意識的かは別として、皆が他人を嗤っているのだ。
そう、きっと自分を絵を賞賛していたクラスメイトも、当時仲の良かった友達も、他のクラスメイトも、先生も、そして家族も。
みんな、みんな、凡人を嗤ってる。
影で、心の中で、こっそりと。
――だから、転生や転移に憧れた。
新たな世界で恵まれた力を振るうその物語に、のめり込んだ。
だって、天才なら、最強なら誰にも嗤われない。嗤うような奴は無能な雑魚であり、敵なのだ。そいつらを倒して更に賞賛され、満ち足りた人生を送る。
そう、日の当たる場所で輝くのはそういった者たちであり、凡夫はどうあっても輝けず、無理に輝こうとしても上からも下からも嗤われるのみだ。
かつて自分を嗤った誰かも、そして片桐連翹も、また同様。
だったら、何もやらない方が良い。
どうせ他者に嗤われるだけの存在なら、何もやらない方がマシだ。
それなら、無力を嗤われることはあっても、無駄な努力と嗤われることはない。
だから、自分は間違ってはいない。
きっと真理だから、異世界の神様は力を授け転移させてくれたのだろう。
だというのに――
「いまさら元に戻るかも、なんて考えさせないでよ――」
体の中の不安を絞り出すように、膝をぎゅうと強く抱いた。
あの男が言っていたことなど妄想だ、ただの空想だ、と呪文のように心の中で呟きながら。
そうしたら、きっと元に戻る。
心を落ち着かせ、いつものように理想の片桐連翹を演じられるようになる。
だから、それまでは一人で――
「……よっ。勝手に突っ走りやがって、探したぞ馬鹿女」
――居よう、と。
そう、思っていたのに。
この男は、どうしてこうも空気を読んでくれないのだろう。
所々跳ねた茶色の短髪に、鋭い眼。そして転移者である連翹に馬鹿女だとか不敬極まりない言葉を投げかけるのは、一人しかいない。
ニール・グラジオラス。宿場町でノーラと共に出会い、彼女のついでについてきた異世界の剣士。
「お前、隠れる技術がまるでなってねぇな。ドワーフやエルフばっかのアースリュームで、しかも旅人も観光客も居ねえ住宅街突っ切りゃ目立つに決まってんだろ。ちょいと聞きこんだらすぐに大体の場所を特定できたぜ」
無言で視線を逸して『話しかけるな』というオーラを出しているというのに、この男はそんなこと知るかとばかりに近づいて、どかりと隣に座った。
「……なによ、なんか用なの?」
普段通りの口調で話しかけたつもりだったが、しかし自分が思っていた以上に鼻声で。
思わず咳き込んで誤魔化したけれど、しかしワザとらし過ぎてニールにも気づかれただろう。
「用がなきゃわざわざ探さねえよ。それとも何だ? 用がないと君と会っちゃいけないのか、みてえな臭いセリフでも期待してたのか?」
脳みそに花でも植えてんのかよ、と笑うニール。ぶん殴ってやろうかと思った。
出来なかったのは、無様が極まった顔を見せたくなかったからだ。視線を逸らしたまま、無言を貫く。
「んで、いつまでそうやってるつもりだ? つーか、ぶっちゃけだ。泣いてどうにかなる感情ならいいが、黙って泣いててどうにかなるもんなのか、お前が怯えて泣いてる原因ってのは」
「……うっさいわね、どうやってあたしが怯えてるって証拠よ。疑わしきは罰せずっていう名ゼリフを知らないわけ?」
「雷にビビって布団に包まってるガキみてえに体震わせてる癖に、なに言ってやがんだお前。寝言は寝て言えよ馬鹿女」
普段と全く変わらない言動に苛立ちが募っていく。
別に優しくして欲しかったわけではないが、けれどもう少し配慮してくれてもいいのではないか。
「なによ、なんにも知らない癖に……」
「そりゃ、別世界の奴の心なんざ簡単に察せねえわな。どんな悩みがあるなんて話された記憶もねえしな、馬鹿じゃねえの?」
ハンッ! と。
ニールが嘲弄するように鼻で嗤った。嗤った。嗤った。
「分かってもらう努力もしてねえくせに、なんにも知らない癖に、なんて馬鹿女ここに極まれりだな。俺はお前の母ちゃんでも父ちゃんでも、ましてや兄弟でもねえんだぞ――もう一度言うが、馬鹿じゃねえの、お前」
自分の中で色々なモノが引きちぎれる音を聞いた。
それは堪忍袋だったり理性だったり見栄だったり、とにかくこの世界における片桐連翹を演出していた全て全て全て。
「ぁ――あああああああ!」
黙れだとか、やめてだとか、うるさいだとか、死んじゃえだとか、どうしてそんなこと言うのよだとか――それらの言葉が混ざりに混ざって言語が崩壊し獣じみた叫びに変質する。
混迷する頭とは裏腹に、体は自分を馬鹿にし嗤ったニールに対して敵対行動を開始していく。
立ち上がり、拳を握り、振るう。技術も何もない、駄々っ子じみた攻撃だったが、しかし転移者の身体能力で放たれるそれは生半可な巨漢の拳打を凌ぐ威力を秘めている。
「――動きが見え見えだぜ、馬鹿女。ほら、俺はここだぞ、ちゃんと見えてるか?」
しかし、それを軽く回避したニールは、挑発するように手招きしている。
「ああっ、あああ、ああああっ!」
それに苛立って、突っ込んでまた拳を振るった。
しかしそれもたやすく回避され、それどころかつき過ぎた勢いに踏ん張りきれず、顔面から無様に転倒してしまった。
視線を感じる。上から見下ろす、ニールの視線だ。
ああ、きっと笑っている、きっと嗤っている、きっと哂っている。片桐連翹という女を嘲笑っている。
顔を上げなくたって、分かる。きっとニールは転移者の癖に無様に転倒して起き上がろうともしない自分を嗤っている。そうに決まっているのだ。
涙が、出てくる。とまらない。それと一緒に、なんで自分はこんなに弱くて脆いんだろうという思いが湧きだして止まらない。
「なに……よっ。嗤わないで、見下さないでよ――アタシを認めてよ」
普段なら武器はなくても、魔法系のスキルでニールを吹き飛ばすことくらいは出来ただろう。
しかし、先程の話が連翹から『転移者』という衣を剥ぎとってしまった。他人が怖くて、他人の心の中が怖くて怖くて、知り合いの誰も居ない世界で強者であることを望んだ脆い少女の姿がさらけ出されたのだ。
普通の転移者なら、話だけでここまで揺らぐことはなかっただろう。
しかし、連翹は二年前、闘技場で同年代の剣士に傷をつけられた。それによって、転移者であるという絶対の自信に亀裂が入っていた。それが、先程の話で一気に広げられ、奥底の柔らかい部分が露出したのだ。
無論、時間が経てば転移者であるという過剰な自信が彼女を覆い隠してしまうだろう。
だが、今この瞬間だけは――
「ったく、ちょっととはいえようやく喋りやがったか。……おら、立てるか連翹?」
――その柔らかい部分に、手が届く。
「え、あ……?」
見上げたニールの顔に、連翹を嗤う色合いは皆無だった。
いや、笑みは浮かべている。ホントしょうがねえなコイツ、と呆れつつも微笑んでいるのだ。
無論、さわやかな笑みとは程遠い、少年めいた笑みではある。
「正直、俺はあんま女の気持ちなんざ分からねえけどな」
でも、だからこそ裏が無いように見えて。
「少なくとも、そこそこ仲良い奴を無駄に嗤って見下すようなこたしねえぞ。馬鹿なことやらかしたら、さっきみてえに全力で馬鹿にしてやるけどな」
だから、少しだけ。
話してみようかな、と思ったのだ。
◇
その後、連翹はニールに語った。
こちらに来る前に感じてた想いと、転移者になったことによる自信と万能感、そしてそれを傷つけた二年前の剣士の話を。
恐らくだが、彼との戦いが今の片桐連翹を決定づけたのだと思う。
そうでなければ、この世は全て自分を輝かせる舞台装置だと思い、女王都で出会ったレオンハルトのように暴走するかレゾン・デイトルに入国していたことだろう。
「――」
「……ねえ、どうしたのよニール。聞いてるの?」
「ん? ああ――いや、ちょっと予想外でな。意図したことじゃねえけど、刃は奥の奥まで届いてやがったんだな、って思ってな」
連翹に説明するというより、自分の心に浮かんだ感情を整理しているような言葉。
正直、何がなんだか分からないが、しかしちゃんと聞いて考えてくれているのならそれでいい。
せっかく恥ずかしさやら無様さやらを我慢して胸の内を語っているのだ、これで聞き流されてたら真剣に怒るし真面目に殺す。
「……けど、随分と無駄なこと考えてんだな、お前」
「――貴方に相談したあたしが馬鹿だったわ、ぶっ殺してやるからそこ動かないで」
「いや、別におちょくってるワケじゃねえよ。他人が自分を笑うことなんざ、どっかの秘境で一人で暮らしでもしてねえ限り、どうあっても回避不可能だしな」
だってそうだろ? とニールは言う。
「そもそもだ。絶対の力があれば他人に笑われないなんて理屈それ自体、完全に破綻してるじゃねえか。だって俺、レオンハルトは強いと思ったが、ずっと『馬鹿じゃねえのこの弱虫』って思ってたしよ」
――それは。
それは確かにその通りで、言葉に詰まってしまう。連翹だってあの時、自分の演技に簡単に騙された彼を下に見ていた――見下していたのだ。
「……そりゃ、あたしも多少思ったけど。でも、仮にそういった感想持った奴を――」
「全部排除したら理想郷の完成、ってか? 内心が分からなくて怖いつってたのはどこのどいつだよ。結局のところ疑心暗鬼になって賞賛の言葉を信じられなくなるか、レオンハルトにおけるノーラみたいな反発心抱いた奴が出て裏切られるのがオチだろ」
ニールの言葉は刀剣のように逃げ道を両断する。
それが恐ろしくも、真っ直ぐ叩き斬るような言い方に引き込まれていく。むき出しの刀身の輝きめいた言葉に不純物はなく、だからこそ連翹は反論することも出来ず、また反論する気にもなれなかった。
(なんというか――飾り気のない長剣みたいで)
斬ることに特化したそれのように、相手の心に自分の考えを届けることだけを、ニールは必死にやっているのだ。
それがありがたいと思うのと同時に、こいつ今まで女の子にモテた経験ないでしょうね、と確信する。優しい嘘を全否定して真っ直ぐ切り込むスタイルは、村娘や町娘に好かれる要素がない。
けれど、今はそれがありがたい。下手な優しさで取り繕われると、内心で何を考えているのか不安になってしまうから。
「でも、じゃあどうしたら良いっていうのよ」
しかし、その伝えてくれた言葉は、連翹の望みを不可能だと断定していて。だから、怖い。
結局のところ、地球もこの異世界も人間が人間であるということには変わりなくて、力の有無関係なく他人は、もしかしたら身内だって自分を見下すし笑うかもしれないのだ。
「簡単だろ、内心で笑われることがあっても、それでも一緒に居たい誰かを見つけりゃいいだけだ」
心の中に溜まりだした黒い泥を、さっと網で掬ったように。
ニールがこともなげに言い放った。
「そりゃ、他人がどう思ってるかは知らんし、俺の駄目な部分を嗤い蔑むこともあるだろうとは思うけどな。
けど、俺は謙虚な癖して自信家なカルナが好きだし、まだまだ一緒に冒険してえと思ってる。
レゾン・デイトル行きのクエスト前に別れたが、よく泊まってる冒険者の宿に馬鹿な二人組が居てな、そいつらともこのクエストを成功させたら一緒に酒を飲みてえ。
お前にとっちゃ、ノーラがそうなんじゃねえか?」
「でも、ノーラだって心の中でどう考えてるか分からないわ」
もし、先程出会った転移者の男の言うとおり転移者の力が消滅したら、彼女は受け入れてくれるだろうか。
利用価値が失せた、と失望されるのではないだろうか。そんな人ではないと思うし、思いたいけれど、心の中にある不安に理屈など関係ない。もしも、という言葉があるかぎり心の奥底で根を貼り続ける。
「なら、相手に見限られないように頑張りゃいいだけだろ?」
だってそうだろ、とニールは言う。
「俺はカルナを無二の親友だと思ってるが、そいつはあいつは『転移者と戦い勝利したい』っていう夢を共有していて、かつ自分にとって大切な魔法に関して全く妥協してねえからだ。
もちろん、性格だとか一緒に居て楽しいからってのもあるけどな。でも、そういう姿が好きだ、ってのも大きいからな。
もしもあいつが魔法とか色々と全部諦めて日銭稼ぐ冒険者になっても、友人関係は続くとは思うが、たぶんすげぇがっかりすると思う」
なら、後は簡単だ。
相手にやられて嫌なことを、やらなければいい。
大切な友人のために、自分もまた相手の大切な友人であれるよう努力し続けること。
その人に嗤われてるかも、見限られるかも、ではない。
その人に嗤われない、見限られない人間であろうとすることがきっと重要なんだ――とニールは語る。
「他人が嗤うのは止められねえけど、嗤われたくない誰かに嗤われないように生きることなら出来るだろ、少なくとも俺はそう思う。
ま、散々語ったがこれは完全に俺の主観だからな。連翹に合う考え方かどうかはまた別問題だと思うが……少なくとも、街の隅で震えているよりはマシな考え方だろ、きっと」
「……ん、そうね。ありがと」
立ち上がり、ぐいぐいっと顔を拭う。
確かにニールの言葉は彼の主観であり、連翹が全て自分のモノに出来る理屈ではなかった。
連翹の言葉を聞き、一応同じ目線で理屈を構築してくれたが、しかしニールは根本的に見ず知らずの他人の目が気にならないタイプだ。だからこそ、他人に嗤われても良いが、身内にだけは嗤われないように、と結論を下した。
けれど、連翹の場合はどうしたって他人の目が気になってしまう。身内に嗤われるのが一番辛いが、しかし他人に嗤われるのだって十分に辛い。
(けど実際、ここで燻ってても何も変わらないからね)
理屈は借り物で、すぐに連翹の心をどうにか出来るモノではなかったけれど。
それを纏って強くなろうと一歩進むことくらいは出来る。
それはしょせん、上辺を取り繕っただけかもしれない。しかし、上辺だけでも取り繕ってそれを演じ続ければ、いずれは本物になるはずだ。狂人の言動から生まれた、あの黄金鉄塊の騎士のように。
◇
家屋の屋根に立ち、ニールと連翹を見下ろす者が居た。
斑の赤色のフードパーカーに、同色のショートパンツを履いた小柄な少女だ。
アースリュームの循環する大気でパーカーの裾が揺れ、中からじゃらりじゃらりという金属音が響いている。
「――バッカみたい」
彼女は視線の先で行われていた会話を断片的に聞き取り、吐き捨てるように呟いた。
「そう簡単に変われたら、人間誰も苦労しないっての」
呟く彼女の体から、臭いがする。
錆びた鉄めいた臭いが、全身にべったりと張り付いているのだ。
「勧誘するつもりだったけど、今は無理そうね。無駄に熱血ぶっちゃって、恥ずかしいったらありゃしない」
屋根から屋根へと飛び移り、少女は移動する。
その身体能力は達人の域だが、しかし少女の体は細く、とてもではないがそんな力を発揮できるとは思えない。
「ま、いいわ。レゾン・デイトルまで来る頃には、その熱だって冷めてるでしょ――」
そう、彼女は転移者。
返り血で斑の赤色に染まったフードパーカーの裾を靡かせながら、彼女は疾走し、消えていった。




