57/雑音語り
樹の幹を感情のままにぶん殴る。
「糞っ……!」
ストック大森林の浅い部分は、見通しこそ悪いもののモンスターも出ず安全だ。近場の村の木こりや薬師などは、この当たりまでなら冒険者を雇わずに木材や薬草などを集めに侵入する。
カルナが今いるのも、そういった場所だった。
野営地からそう離れてはおらず、しかし木々が視線を遮ってくれる。だからこそ、ここに来たのだ。
焼けるような感情を吐き出すように、がん、がん、と樹の幹を叩く。物に当たっている今の自分が非常にダサいと思いつつも、胸の激情が非生産的な行動を止めてくれない。余計に自分が嫌になってくる。
「く、っそ……男の嫉妬なんて、醜いだけだっていうのにさ……!」
転移者を叩き斬り、夢の階段を一段登ったニール。相棒にして、無二の友人。
そんな彼が成したことを己のことのように喜んでいる自分と、魔法の手助けがなければ何も出来なかった癖にと見下して安堵しようとしている自分がいる。
「情けない姿、見せたくないしなぁ――」
頼りにしている相棒にも、最近よく話す神官の少女にも、何だかんだで優しい転移者にも。
こんな姿は見せられない。
いいや、見せたくないのだ。
ノーラにこんな状態を見せて失望させたくない。
連翹は何だかんだで知り合いには優しいから、こんな状態のカルナを見れば優しくしようとしてくれるだろう――その彼女に、辛辣な言葉を吐いてしまう自分が想像できる。
ニールはカルナの心を察しているだろうし、だからこそ一人でこっそり外に出て行くのを見逃してくれたのだろう。けれど、理解してもらっているのと、無様な姿を見せたくないのはまた別問題だ。
だからこそ、一人で汚泥を吐く。
感情を整理し、また普通に皆と一緒にいるために。
(結局のところ――プライドが無駄に高いんだろうな、僕は)
なんだかんだで自分は優秀だと思っているし、魔法の開発も実践も同年代の誰よりも上だと思っているし、そうなるように努力もしているつもりだ。
ああ、だからこそ――怖いのだ。
無様を晒して失望されるのが怖い。
しょせんこの程度の人間なのだと思われるのが怖い。
一人じゃ何もできない弱者だと思われるのが怖いのだ。
だからこそ、カルナは転移者に負けた後に冒険者になったのだ。転移者と戦い、雪辱を晴らしたいという気持ちもあったが――それ以上に、故郷で知り合いに失望されてしまうことが怖かった。
ゆえに、世間知らずの癖に誰の力も借りずに外に出たのだ。早く、そして速く、故郷から離れたいという想いで。
そういった部分は、対等と呼べる友人たちのおかげで多少マシになった。
しかし、マシにはなったが無くなったワケではない。人間は時間と出会いで変わるモノだが、しかし根本は変わりにくいモノなのだから。
「こんな場所で、一人で何をしているのかな、君は」
だから。
心の汚泥で思考を侵されていたから、近くに誰かがいることに気づけなかった。
「誰――」
だ、と言おうとして、体が硬直する。
――――黒い衣服を纏った男だ。
奇妙な衣服だった。
漆黒の布地に五つのボタンを直線に並べた詰襟の上着。手首付近にもボタンがついているのは、装飾目的なのだろうか。その上に羽織るように、ボロのような黒いローブを纏っている。
ズボンも上着やローブと同じく漆黒だ。そして、僅かに覗く肌は不健康なまでに白い。
「お、ま――え」
覚えている。
覚えている、忘れるわけがない。
『今まで努力してくれてありがとう』
彼の微笑みを覚えている。
『ぼくの踏み台になるために、努力し続けてくれてありがとう』
その醜悪な笑みを覚えている。
『君は何があってもぼくには勝てない、努力なんて無駄な真似をしてるのが証明だ。現に、ぼくは今までそんなことをしたことないのに、神様に選ばれた』
ああ――覚えているとも、一年という時間が経過しても、鮮烈な記憶は薄れるモノではない。
こいつは、自分を破った転移者だ。
自分を叩きのめし、あざ笑った男だ。
「一年ぶりくらい、かな。まさか、こんな風に再会するとは思わなかったけれど」
魔導書に手をかけ、男を睨む。
男はしばし無言だったが、やがてようやく思い至ったと言うように「ああ」と呟いた。
「あの時の魔法使いか――いや、忘れていたわけじゃないんだけれど、容姿がだいぶ変わっているから分からなかった。ガリガリなインドアガリ勉っぽかったのに、こうも変わるなんてね」
「お褒めに預かり光栄――とでも言えばいいのかな」
「別にいいよ、大して褒めたつもりもないし。それに、どうあってもぼくが格上なのは揺るがないだろう?」
ふざけるな、と怒鳴りつけたいところだが、しかし彼の言葉は覆しようのない事実でもあった。
こんな近くで、前衛の援護も無しに相対している以上、カルナはこの男にとって動きの鈍い小動物でしかない。足で踏み潰せば、ぶちりと潰れて殺せてしまうような、そんな存在なのだ。
「ああ、安心してよ。ぼくは君を殺すつもりも、ましてや戦うつもりもない」
「……へえ、それは安心だ」
信じられるか、と罵りたいところだが、それをしたところで事態が好転するわけでもない。
ゆえに、落ち着いた素振りで応対する。
体からじわりと冷えた汗が出てくるが、それは気づかないフリをしておく。表面だけでも取り繕えば、中身など勝手についてくる。
「それで? 一体僕に何か用なのかな。各個撃破が目的なら、スキル一発で殺せるだろ、君は」
「雑音語り、今はそう名乗っているよ。呼び方は雑音語りでも、親愛を込めて雑音でも構わないよ」
明らかな偽名――というか人名ですらない単語を名乗られて思わず顔を顰める。
「そう怖い顔をしないでくれ。平々凡々な名なんて、今のぼくには合わないからね。相応しい名を名づけただけさ。洗礼名とかそういう奴だよ、きっと」
宗教なんてさっぱり分からないけどね、と笑う雑音語りは自然体で、カルナのことを警戒しているようには欠片も見えない。
油断して! と怒りに任せて詠唱をしたくなるが、すぐに潰されるのは火を見るより明らかだ。
(だから――僕にできることは、会話を長引かせること)
長時間自分が戻らなければ、ニールたちが疑問に思い探してくれることだろう。場合によっては、騎士や他の冒険者も。
実際、自分たちは複数人でとはいえ転移者を倒している。ならば、時間を稼ぎ人を集めることで、雑音語りを名乗る転移者を倒すことも――
「――弱かったとは思わないかい?」
不意に、雑音語りが問うた。
「神様から力を賜り、最強の種族となったぼくら転移者――それにしては、君たちを襲った三人は弱かったとは思わないかい?」
くつくつと笑いながら、雑音語りはカルナの顔を覗きこんだ。
「当然だろう? 伝説の剣やら最強の武器やらはね、相応しい持ち主が持つから最強なんだよ。そこらのボンクラが使っても、大した力を発揮出来やしない。力っていうのはね、選ばれた人間が使って初めて真価を発揮するものさ」
奴の表情が形作っているのは嘲弄。
ああ、貴様らはそんなことも分からないのか? と上から見下す笑みだ。
「連中はね、レゾン・デイトルの穀潰しなんだ。二年近くこの世界に住み、プライドを肥大させつつもまともに戦った経験もない廃棄物。口だけはデカイが劣等も劣等だ。そんな無能は処断するに限るけど、下手に処断しまくると小心な優秀な者まで怯えてしまう。だから――」
「……僕らにぶつけて、殺させたわけだ」
趣味が悪いね、と吐き捨てる。
別に、あの転移者たちが勝とうが負けようが、雑音語りはどちらでも良かったのだろう。
なにせ、勝てば自分たちに歯向かう小うるさい現地人を抹殺できるし、負けても無能が死ぬだけだ。どっちに転ぼうと損はない。
「冒険者なんかは仕事を委託してくれるんだろ? なら、これだって仕事みたいなモノさ。ゴミ掃除という名のクエストだよ」
「……クエストっていうのは報酬とセットなんだけどね、これじゃあタダ働きだ。それとも、何か報酬を用意しているのか?」
用意しているはずないだろう、と思いながらも問いかける。
「もちろんさ」
しかし、雑音語りはカルナの思考に否を突きつけた。
怪訝な顔をしていると、彼は両手を広げ――
「カルナ・カンパニュラ――君をレゾン・デイトルに迎え入れたい」
――微笑みながら、そんな意味の分からない事を言い放った。
「それは……どういう意味かな」
「言葉通りの意味さ。さっきの戦い、遠目ながら見させてもらったよ」
いやあ素晴らしかった、と雑音語りは手を叩く。
「身体能力強化――バフの魔法。あれは、この世界にはなかったものだ。神官の奇跡に似たようなのはあるらしいけれど、あれはあそこまで劇的に力を増強するモノじゃない」
そして、それはぼくらには絶対に使えないモノだ――と。
転移者は強い。
頑丈で、状態異常を防ぎ、発声するだけで達人の技を放てるスキルを持っている。
だが、言ってしまえばそれだけなのだ。
新たな何かを創造するのに転移者の力は無意味だし、治癒だって使えない。
「ぼくらはこの大陸を――いや、この世界を制覇する。勇者の秩序だとか正義の騎士団とか、そういうくだらない連中を踏み台にし、純粋な実力主義の理をこの世界に定める」
それを実現させるためにも、その世界で生きていくためにも、実力ある現地人を囲う必要があるんだ――と、雑音語りはカルナの顔をじっと見つめながら語る。
(――こいつ)
寒気がする。
生理的嫌悪とは別の、極寒のような寒気だ。
こんな近くで会話しているというのに、どこか遠くから見下されているような感覚。物語の登場人物が、自分たちを観察する絶対優位者と出会ったら、こんな嫌な気分になるのではないだろうか。
「……ふん。まさか、そんな話を受けると思っているのか」
それをひた隠しにして、カルナは瞳を尖らせる。
お前は自分にとって必要な駒だ、などと悪感情を持つ相手から言われて喜べるはずもない。
しかし、雑音語りは自分の誘いが断られる可能性など存在しない、とでも言うように笑みを浮かべたまま――その言葉を口にした。
「思っているよ。だって君、このまま騎士団や冒険者と一緒に居ても、大して活躍なんて出来ないだろう?」
ぎちり、と。
心がきしんだ。
「――……なに、を」
ふざけるな、とでも。
そんなことはない、とでも。
これから活躍してみせる、とでも。なんでもいい。
思いついた言葉で、即座に反論すれば良かった。いいや、反論するべきだった。
出来なかったのは、自分の中にそういった感情があったから。
その通りではないか? そう思ってしまったから、口も、頭も動かなかった。
雑音語りは微笑む。
信愛する友人と出会った時のように、しかし獲物を見つけた猛禽のように。
「転移者は強いけれど、強力な魔法の直撃を喰らえば怪我くらいするよ。だからこそ、転移者にとって詠唱を潰すのは戦闘での最優先事項だ。ああ、断言しよう――君はこれから、誰かに姫のように守られながら、華々しく戦う仲間の姿を見つめていることしか出来ない」
「――黙れ」
傷口を塩まみれの指で広げられている気分だ。
一人で処置した精神の傷を、無理やり広げられる。
「詠唱を精霊に聞かせるという性質上、暗殺者のように奇襲をかけるというのも不可能。ゆえに、一人で小便もできない子供のように、誰かの手を借りないと君は何一つ出来ない。仲間の力に頼るのではなく、依存しないと何もできなくなる」
カルナの痛みを探すように、なぶるように、言葉は連ねられていく。
ぎちぎち、ぎちぎち、傷が広げられ、痛みとともに悪感情が流出していく。
(落ち着け、落ち着け、カルナ・カンパニュラ。ここで心を乱しても、何のメリットもない……!)
分かっている。
そんなことは、分かっている。
しかし、分かっていても感情を止められるモノではないし――図星というのは、何よりも心をかき乱すモノだ。
「君はその他大勢として終わり、朽ちる。何も出来ずに、何も成すことも出来ずに」
「だま、れ――ぇ!」
血液が沸騰した。
相手の良いように感情をコントロールされている、なんてことは理解している。
しかし、理解していても御せぬからこそ感情であり、激情なのだ。
バックステップで距離を取りながら詠唱を行う。
「我が求むは鋭利なる――」
「だから」
追随するように雑音語りが地を蹴り、カルナに肉薄する。
速いと思う間もなく、ドン、と腹部を強打された。
自分で跳んだ速度の倍以上で吹き飛ばされながら、口から空気と血液と吐瀉物を吐き出す。
「どうあっても、君じゃ転移者には勝てないんだよ」
近くの木に叩きつけられて停止。苦痛の中、呼吸を整えながらなんとか立ち上がろうとする。
けれど、既に雑音語りはカルナの目の前に居た。彼は追撃をせず、ただ見下ろし、見下し、けれどどこか優しげな表情で微笑みかける。
「これが現実さ。虎が強いのは、鍛錬したからでも戦術を学んだからでもない、虎だから強いんだ。転移者もまた同じさ。よっぽどの劣等ならまだしも、ね」
違う、僕らは勝てる――そう言えれば、そう信じられればどれほど楽であり、幸せだったろう。
しかし、理解出来る。理解出来てしまう。
相手は今、スキルを使っていなかった。接近し腹を殴る――ただそれだけの行動ではあるが、自分の意思で体を動かした。
カルナは格闘などは素人のためよく分からないが、技術的には拙いのだろう。
けれど、それでも十分脅威なのだ。
これが戦士なら、未熟な技術を見抜いて反撃なり回避なりが可能だったかもしれない。
しかし、カルナには無理だ。魔法を使える状況まで持っていけば狙い撃つことは可能だろうが、しかしそこに届かない。
「けれど、ぼくらと共に歩めば、君は力を発揮できる」
そっと手を差し出し、彼は微笑む。
「君は転移者と敵対しない限り、優秀過ぎるくらい優秀だ。もっと研鑽を詰めば、レゾン・デイトルでも評価されるだろう。カルナ・カンパニュラ、ぼくはね、君のような優秀な人間が無駄に潰されることを望んではいないんだ」
甘い、甘い言葉。
カップに注がれたコーヒーの中に、溢れるほど角砂糖を入れたような――顔を顰める程の甘さだ。
(僕――は)
だが、それを払いのけることがカルナには出来なかった。
喉が乾いて乾いて仕方がないところで、「ここに水がある」とコップに満たされた液体を見せられたようなものだ。
甘言だ、そんなのは理解している。
雑音だ、そんなのは理解している。
けれど、その言葉は自分の弱さと小ささを知ったカルナにとって、どうしようもなく魅力的で――
「――カルナさん!」
――だから。
もし、このまま一人で雑音語りと話し続けていたら、彼の思惑通りにレゾン・デイトルに向かっていたことだろう。
聞き慣れた少女の声と共に飛び出したのは、鈍色の甲冑を纏った大男だった。彼はカルナと雑音語りの間に割りこむように跳び込むと、勢い良く剣を薙いだ。
「おっと……残念」
それを軽々と回避しながら、雑音語りは笑う。
剣で自分を斬りつけられなかったことか、カルナをこちらに引き込めなかったことか――おそらく両方。雑音語りは笑みを崩さず闖入者に視線を向ける。
「カルナさん、大丈夫ですか!? 今、治癒しますから――」
兵士に僅かに遅れて来たノーラが、カルナの傍らに駆け寄り治癒の奇跡を使う。腹部や背中の痛みが、ゆっくりと引いていく。
「やれやれ、兵士と見習い神官如きがぼくの邪魔をしないで欲しいんだけどね」
「ハン、敵に邪魔しないでくれって言われて邪魔しねえ馬鹿はいねえよ。……それより、久しぶりだな」
兵士は――ブライアン・カランコエは剣を構え、怒りに満ち満ちた形相で雑音語りを睨む。
しかし彼は、構えもせずにブライアンの言葉を柳に風と受け流す。
「生憎と、雑兵如きの顔なんて覚えていないんだ。一体どこで――」
「だと思ったぜ。けどよ、一年ぐらい前、女王都で大蔓穂って奴と会ったことくらいは覚えてんだろ?」
「――ああ、そうか。あったな、そういえば」
しばし考え込んでいた雑音語りだが、ようやく思い出したらしく頷き――
「君は、あの無能と共に居た兵士か」
即座にブライアンが剣を振るった。
重く、けれど鋭いその斬撃は、しかし背後に軽く跳ばれただけで回避されてしまう。
ブライアンの踏み込みが浅かったわけでは断じて無い。転移者の身体能力に任せたバックステップで、一瞬で間合いから離れられたのだ。
「さっきの会話、聞こえてたぜ。テメエは、あの時もこんな風にあいつの心を乱しやがったのか!」
「人聞きの悪い。ぼくはただ彼の心に小さな雑音を混入させただけさ。その雑音に意味を与え、暴走したのは彼の心が弱かっただけだろう」
まさか、ぼくの言葉のせいで暴走したから彼に罪はないと言うつもりじゃないだろう? 雑音語りはそう言って嘲るように笑う。
「いや。どんな行動も、最後に決めるのは結局自分だ。だから――どんな理由があろうと、あいつは悪党だ。そこは絶対に揺るがねえ」
けどよ、と。
ブライアンは、笑う雑音語りに剣を突きつけ、叫ぶ。
「煽って、そういう道に進ませようとした奴に、罪がねえわけでもねえよ――!」
「煽動罪ってやつか――くだらないな。ぼくらにそんな法など無意味なのに。最強のぼくらを、そんな法律で縛れるわけないじゃないか」
「縛られますよ」
治癒を終えたノーラが、腰に刺した棒を抜いてカルナを庇うように立った。
「強い何かがなんでも出来るなら、人間なんてこの大陸で生きていません。断言します。貴方たちが人間として社会に溶け込まず、ただ欲望のままに暴れるだけなら――いずれ貴方たちは倒されます」
凛とした声音で言い放ったノーラだが、微かに震える腕と足が隠し切れない怯えを表している。
――彼女は未熟ではあるが、愚かではない。
相手が自分を瞬殺できると理解しているから、体が震えるのだ。
――しかし、愚かにも似た勇気を持っている。
相手が自分を一瞬で殺せる相手だとは理解していて、なおここで無言で縮こまっていることを良しとしなかった。
「見習い神官風情が戯言を。ならばぼくも断言しよう。このチートがある限り、ぼくらは現地人なんて脆い存在に負けやしないとね――さて、少し長居し過ぎたかな」
戦闘音やブライアンの叫びが耳に届いたのだろう、複数の足音がこちらに向かってきている。
雑音語りはこちらに背を向けて歩き出した。
「待て、逃げるのかテメエ!」
「逃げる? まさか。僕がなぜ君たち如きに逃げなければならない」
振り向いた雑音語りは、挑発するようにこちらを手招く。
「勝利というのは劇的であればあるほど心に刻まれるモノ――レゾン・デイトルまでおいで、雑魚ども。そこで蹴散らし、蹂躙し、騎士だとか勇者の秩序だというくだらないモノを全て打ち砕いてやるからさ。ああ、カルナ。君はいつでもこちらに来ていいよ。優秀な現地人なら、ぼくらの配下に相応しいからね」
そう言って、奴は去っていった。
誰も追わなかった。
いいや、誰も追えなかった。
下手にここで勝負を挑んでも、蹴散らされるのは目に見えていた。だからこそ、感情を抑えてここに留まった。
「僕、は――」
結局。
結局なにもやれなかった。何も出来なかった。
拳を握る。強く強く。苦しさや悔しさを耐えるために。
(僕より経験も実力もないノーラさんはあんな風に立ち向かえたのに、僕は――なんて、無様だ)
恐怖に耐え、真っ向から立ち向かった彼女に比べ、自分は良いようにあしらわれ、しかも裏切りに心惹かれていた。
何より、
(……僕より経験も実力もない、か)
無意識に思い浮かんだ言葉は、彼女を下に見たモノで。
結局のところ、現地人を見下す転移者と大して変わりないのだ。
それもまた、カルナの心を重くさせる。
「カルナさん、まだどこか痛いんですか?」
「……いいや、大丈夫だよ。ありがとう、ノーラさん」
だから、心配そうにこちらの顔を覗きこんでくるノーラの顔をまともに見られない。真っ直ぐ見返したら、自分の小ささに死んでしまいたくなる。
瞳を逸らしながら立ち上がり、足音の方に向かおうとする。迷惑をかけた分、ちゃんと謝罪をして役に立たないと――
「待ってください」
ぐいっ、と。ローブの裾を掴まれた。
「……何かな、ノーラさん。もう怪我とかはないし、皆のところに戻りたいんだけど」
「ブライアンさん、先に合流しておいて貰っていいですか? わたしたちはもう少し、ここに残りますから。もちろん、さっきの人が戻ってきたら叫ぶなりして助けを求めるので、ご迷惑でしょうけど……」
「大丈夫だ、任されてやるよ」
きっとオレもそうするべきだったんだろうしな、と。悔やむように呟いたブライアンは、背を向けて足音の方に向かっていく。
「どうしたんだい、ノーラさん?」
正直、皆に迷惑をかけたのだからこれ以上無駄な時間を費やしたくないのだ。
だというのに、ノーラはカルナの胸元を掴み、真っ直ぐこちらを見つめて動いてくれない。
「そんな酷い顔をして、だっていうのに何でもない風を装って――どうした、はこっちのセリフですよ。どうしたんですか、カルナさん」




