47/熱意
医学が発展していないのも、成り手が少ないのも、この世に神官の奇跡が存在することが原因である。
傷を癒し、欠損した部位を再生させ、乱れた精神を落ち着かせる力を持つそれがあれば、大半の人間は救えてしまうのだ。
便利であり、それが存在するからこそモンスターが闊歩するこの世界で人間が生きて行けるのだろう。
しかし、だからこそ神官の奇跡で癒せない症状は、イコール不治の病となることが多い。
「もっとも、厳密には医者が診れば問題ない場合が多いらしいけど……技術を持ってる人が少ないからね」
「そうですね。その数少ない人間も、女王都などの人が多い街に行ってしまいますから」
北の首都、女王都リディア。
東の港街、港街ナルキ。
西の都市群にも、それなりに大きい町にならいることもある。
そのため、患者を馬車で運べばなんとかなる場合は多い。
もっとも、大体は医学がマイナー過ぎて患者とその家族が存在を知らなかったり、症状が悪すぎてベッドから動かせないなどの要因で治療を受けられず死んでしまうのだが。
(まだまだ発展途上の技術だしね――そういや昔、輸血とかいって血が足りない人に他人の血を入れる手段の研究をしたけど、何分の一かの確率で患者が死ぬギャンブルにしかならなかったって話を読んだな)
宿の一室で、カルナはノーラと共に医学書を読み込んでいた。
ニールは朝早く騎士修練場に向かっているので、ノーラを部屋に招き入れて一緒に勉強しているのだ。
男の部屋に連れ込むのはどうかとも思ったが、この時間は連翹がまだ寝ている。さすがに、寝ている女性が居る部屋に男が入り込むのはマズイだろう。兵士に通報されてしょっ引かれたって文句は言えなさそうだ。
小さな一室の小さな机で、身を寄せ合うように一つの本を読む。そんな現状に少し心臓の鼓動が速くなるけれど、それ以上に目の前に存在する本に対する好奇心が強かった。
「……というか思ったより難しいな、これ。応急処置のやり方なんかはまだ分かるけど、ううん」
幸い解剖図などは鮮明に描かれており、食事時に見ると気分が悪くなる程だ。カルナが開発中の身体能力強化の魔法は、これによって一気に進んでいる。
だが、それ以上に内容が難解過ぎる。未知の分野のため、固有名詞の半分も理解できない。
とりあえず何度も読み返し、繰り返し使われる単語の前後の文から内容を想像し、また読み返す。意味が通るのなら、たぶんこれが正解なのだと思うのだが――
「古語を翻訳してる気分になるなぁ……いや、あっちの方が慣れてるからまだマシか」
「あれ? カルナさん、古語読めるんですか?」
身を乗り出して聞いてくるノーラに、視線を逸らしながら「まあね」と頷く。
狭い部屋の中にある小さな机を二人で囲んでいるのだ。体は必然的に近くなるし、がばりと身を乗り出されると、服の隙間から胸元を直で覗けそうな気がして精神的に色々とまずい。
じっくり覗きこんだら谷間ぐらい確認できないかな、とか。
むしろ鎖骨を撫でるように服の中に手を突っ込んでみたい、だとか考えてしまう。
前者はまだ言い訳は出来そうだが、後者は完全に犯罪だ。
ごほん、と一つ咳払いをして思考を切り替える。
「魔法使いなら必須技能だよ。研究の時に魔法王国トリリアム時代の書物を読むことも多いからね」
現代語に翻訳されている本もあるし、普通に魔法を扱うだけなら古語を読む必要はない。
だが、新たな魔法を研究したり、失伝した魔法の復元などを行う者には当時の魔導書を読み込むのは必須だ。
(今の時代、当時に比べて魔法使いの質は落ちているからね……)
この時代の魔法使いが不真面目なわけでも、体質的に魔法を扱う力が劣化しているわけでもない。
だが、大陸を支配していた大国が全力で研究を支援していた当時と今の時代を比べると、環境的にどうしても見劣りしてしまうのだ。
当時の資料が完全な状態で残っていれば、研究を引き継ぎ、もっと上にステップアップしていたのだろう。
しかし、魔王軍の襲撃で王都が焼け、重要な書類は焼け落ちるか大陸中に散逸してしまったため、多くの魔法技術が消滅した。
「当時は手をかざすだけで水が出る管とか、火事の心配のない調理器具とかがあったらしいんだけどね。もっとも、ニールとかみたく、あんまり魔法に適正のない人を度外視した物品だったようだけどさ。
なんかこういう当時の資料見ると心躍るんだよねえ。当時の生活を想像したり、今の技術で何かしら再現できないか考えてみたりとか!」
「ふふ、カルナさん楽しそうですね」
いつの間にか拳を握りしめて力説していたカルナに、ノーラがくすくすと微笑ましそうに笑った。
(くっ、なんか妙に恥ずかしいぞこれ!)
絶対これ広場で遊んでいる子供に向ける大人の笑いだよ! と心の中で叫びながら、しかし外見は冷静に取り繕って小さく息を吐く。
僅かに赤くなった頬は、ゴリ押しして誤魔化してしまえばいい。こういう場合、下手に恥ずかしがった方が目立ってしまうものだ……たぶん。
「……ごほんっ、えっと、古語の話をした時にけっこう食いついてたけど、興味あるの?」
「あ、それなんですけど……これを読んでみたくて」
言ってカバンを探ったノーラは、一冊の古い書物を取り出した。
へえ、と呟きながらページをめくる。表紙は削れて元が判別できないものの、中身は紙の状態が若干悪い程度だ。状態が良いとは言わないが、読めないほど悪くはない。
「教会で見つけた本なんですけれど、知り合いに古語を読める人が居なくて。それに、魔導書の類でもありませんから魔法使いも買い取ってくれなくて」
「まあそうだろうね。今、魔法を学ぶために古語を習得している人の方が多いから、魔法に関わらないとなれば需要もないか」
当時の娯楽小説を集める好事家などは存在するものの、圧倒的に少数派だ。
どこで売れば高値がつくかも分からないし、そこらで安く売ろうにも古語で書かれたボロボロの本など需要がない。売っても子供の小遣いにもならないだろう。
(まあ、僕は嫌いではないんだけどさ)
文章の端々に当時の文化が見て取れて、これが書かれた当時はどんな時代だったのだろうと思いを馳せるのが好きだ。
もっとも、大枚を払ってその手の本を買いたいとは思わない。しかし、自由に読めるなら読みたいと思う程度には好きなのだ。
どれどれ、と最初のページを開き内容を読み込んでいく。
「『我の予想を超え、人間の勇者となった少女に親愛を。この想いが色褪せぬよう、我は彼女を記録することに決めた』――イライアスやセルマが書いたもの、じゃないな。リックはそもそも文字を読めなかったらしいし除外。
というか随分と詳しく勇者リディアの幼少期についてとか書かれてるから、どのみち勇者パーティーの三人じゃ書けないか。
じゃあ、親――は早死してるから、勇者になったとか書きようがないよなぁ。なら誰かが伝聞で――いや、そもそも勇者リディアが居た村は王都から距離が近かかったせいで魔族に見つかって、焼かれてるしなぁ。セルマくらいしか居ないよね、当時のリディア知ってるのって」
「カルナさん?」
何かが聞こえたような気がするが、いい具合に楽しくなってきたのでシャットアウトしておく。
大丈夫。モンスターが出る場所でもない限り、思考に没頭しまくっても問題ないはずだ。なにか忘れているような気もするが、たぶん後でどうとでもなるだろう。
「じゃあ、創作? 魔王を倒して後、リディアについて知りたがっている大衆にそれっぽく仕立てあげた本を売り捌く――いや、あの時代にそんな余裕あるかなぁ。そもそも当時、一般市民の識字率はそんな高くなかったらしいし、そんなことしても無駄な気がするし……
いや、書き出しに『人間の勇者』って部分があるから、著者は人間じゃないのかな。そもそも著者が人間だったら、わざわざ『人間の』なんて書かないだろうし。じゃあ著者はエルフやドワーフとか……なんだろ、それもしっくりとしないな。そもそも、あの時代互いに生き残るのに精一杯で、他種族との交流なんて無かったはずだし。
……ダメだな、情報が少ない。もっと先まで読めば分かるんじゃ――――ああ、くっそ、魔導書とかと違ってスラング混じりで分かり辛いな。でも、これはこれで単語の意味を想像する楽しさがあって中々――」
「えいっ」
「――おぶっ!」
こんっ、と後頭部に固いものをぶつけられた。おそらくは本のカドだ。
勢いこそあまり無かったものの、後頭部に対する打撃と完全な不意打ちは中々ダメージが大きい。
叩かれた部分を擦りながら下手人の方に視線を向けると、少し不満そうな目でカルナを見つめるノーラの顔があった。
「……あっ」
「自分の世界からお帰りなさい。完全に存在を忘れてた、って顔ですねカルナさん」
「えっと……ただいま、そしてごめんなさい」
朝帰りした旦那みたいな返しだな、と思いながら頭を下げる。
もういいですよ、とノーラが小さくため息を吐く。
「それで、何か分かりました? いえ、さっきからブツブツ言ってるのを聞いてると、まだ分からないことだらけだとは思うんですけれど」
「そうだな――とりあえず、これを著者の彼はリディアのことが好きだってことは分かったかな。それが冒頭に書いてあったように親愛なのか、それとも異性としての愛なのかは分からないけど」
「彼――男の人なんですか?」
「じゃないかなぁ? 程度で確信じゃないけどね。……でもこれ、リディアのこと詳しすぎて読んでて若干引くんだけど。創作じゃなかったら、ストーカー日記か何かじゃないのかって思うくらい」
ただ、文章を読む限りは性的な対象として観察しているようには思えない。
また、そういった人種特有の自分にとって都合が良いように事実を曲解しているようにも読めないのだ。
リディアを褒め称えているものの、失態は失態でしっかり書き残している。俯瞰した視点でリディアを見つめて、良い部分も悪い部分も認識しながら『リディアは凄い女だ』と結論付けていように思えるのだ。
「あと、この本を書き始めたのは魔王討伐以降だろうね。当時のリディアと勇者リディアを比較するような文章がいくつも序盤だけでもけっこうあるし」
おそらくだが、著者は後世の人間にリディアの素晴らしさを伝えるためにこの本を書いたのだろう。人間の記憶など、世代を重ねれば重ねるほど風化するものだ。
実際、この著者がリディアについて書き記した時代ではリディアの偉業は現実にあったこととして大衆に認知されていたのだろうが、今は伝説と化しどこか非現実染みて来ている。
魔王大戦があり、人間という種族が滅亡の危機にあったという知識はあるが、どうも現実感が希薄なのだ。
今でもそうなのだから、カルナが老人になる頃には、勇者リディアの伝説などお伽話と化してしまうだろう。彼女とその仲間たちが生み出した秩序はいずれ風化し、劣化していく。表紙の削れたこの本のように。
それは、その時代を生きた英雄とそれを知る人間たちにとっては悲しいことなのだろう。
けれど、エルフのように長い時を生きられる種族ではない人間は、どうしたって限界がある。古く、使われない知識は薄れ、新たなモノに置き換わる。
だがカルナは、それが人間の限界であると理解しつつも、同時に人間の強さでもあると思うのだ。
古いモノを永遠に蓄えておけないからこそ、新たな何かを求め発展する。それが人間という種族の欲望であり、他の種族に打ち勝ってきた強さなのだと。
しかし、それでも。
それでも、忘れ去られるのは悲しいから――その風化の速度を緩めるようにという想いがこの書物にはあるのだと思う。
「……その想いも、新たに生まれた文字のせいで読まれもしないんですね」
「せい、っていう言い方はどうかと思うけどね。大陸の人間のほとんどが読み書き出来る現状は、素晴らしいことだと思うし」
時間の流れとは、良くも悪くもそういうものだろう。この本の著者は間が悪かったと言う他ない。
「ねえ、カルナさん。暇な時で良いですから、わたしに古語を教えてくれませんか?」
「別に構わないけど――もう少ししたら西に向けて移動するんだよ。途中で体力が持たなくなるんじゃないかな」
「それは――」
頭ではきっと分かっているのだろう。
自分は特別他人よりも頭の回転が速いワケでもなければ、睡眠時間を大幅に削って色々な勉学に手を伸ばせるほどの体力もない。
無茶だ。他に目を向けている暇があれば、今自分が学んでいることを完璧にすべきだ。
正論だ。けれど、正論で納得出来ずに無茶や愚行をするのもまた、人間である。
カルナはふう、と小さくため息を吐いた。
「仕方ないね。体の負担にならない範囲でなら、出来る限り手を貸してあげるよ」
呆れたような口調。
しかしそれとは裏腹に、カルナの表情は楽しげだった。
女に自分の得意分野を教えられるから――などという即物的な思考ではない。
もしも、ノーラが男であろうと、この会話の流れならカルナは今と同じように楽しげに笑っていたことだろう。
(無茶に愚行。それが嫌いなら、ニールなんかと一緒に冒険者やってないさ)
無理だと理解しつつも諦めきれないその熱意。
カルナは、その熱を感じるのが好きだ。他人の熱を感じれば感じるほど、自分の胸の中にある熱もまた轟々と燃えるのを感じるから。




