31/少女の檻
「うう……ん」
快適な目覚め、とは言いがたいですね――と後頭部の鈍痛に顔を顰めながらノーラ・ホワイトスターは思った。
ベッドの中で身じろぎし、衣服の感触に違和感を抱く。部屋着ではなく、いつもの白いローブに薄桃色のケープを羽織った服なのだ。着替えずに寝てしまったのだろうか。
いや、そもそも一体、いつ頃寝たのだろう。大衆浴場に連翹やマリアンと一緒に入り、先に上がったところまでは覚えているのだが、それ以降の記憶がない。
(レンちゃんを待ってる間に寝ちゃったんでしょうか?)
壁に寄りかかって熟睡する自分を想像し、羞恥で顔が赤くなる。あれだろうか、酔っ払って道で熟睡しているおじさんと同じ醜態を晒してしまったのだろうか……!?
だとしたら、申し訳ないことをした。後でお詫びをしないといけない。
そんなことを考えながら上体を持ち上げ――周囲の風景に違和感を抱く。
「……ここ、は?」
連翹と一緒に泊まっている宿の一室――では断じて無い。
薄暗い、洞窟みたいな場所だ。硬い岩盤を無理矢理繰り抜いたようなデコボコとした天井に、最低限平らに均された地面。周囲を見渡すと、窓は無いものの壁に扉が付けられているのが見えた。
「地下の……部屋?」
「おはよう。大丈夫、貴女」
知らない声。
女性の声だ。
慌ててそちらに視線を向けると、ベッドに横たわった女性が、ノーラに微笑みかけていた。見れば、ノーラと彼女、そして空のベッドが二つ――4つ分のベッドが壁際に並べられているのが理解できる。
「寝たままの姿でごめんね。ちょっと、こっちに運び込まれるまでに手傷を負っちゃって」
「あ、いえ。大丈夫です、無理はしないでください」
燃えるような赤い髪と、同じ色の瞳を持った女性だった。布団から出した腕は引き締まっており、ノーラはこの女性がニールやアレックスのような戦士なのだろうなと推測する。
若干釣り目気味な、気の強さと意思の強さを同居させたような美しくも強い顔立ちは、しかし疲労と悔しさで歪んでいた。
「ありがとう。私はキャロル・ミモザ――こんな様で言うのも何だけど……アルストロメリアで騎士をやっているわ」
「あ。わたしはノーラ・ホワイトスターと言います。まだまだ修行の半ばですけれど、神官をやってます」
初めまして! と挨拶しつつも、「あれ? なんかこのタイミングですべきことはコレじゃない気がする」と首を傾げる。
そんなノーラを見て、キャロルはくすくすと小さな笑みを漏らしたが、すぐに表情を引き締めた。
「それで、ノーラさん。貴女は自分がどういう状況に在るか理解している?」
「……いいえ、正直何がなんだか」
こんな場所に泊まった記憶も、泊まりに行く予定もなかったはずだ。
「……あの」
「ごめんね、今はゆっくり説明してる暇はないみたい」
状況を理解しているらしいキャロルに質問をしようと口を開きかけたが、扉を睨みつけながら言うキャロルの言葉に口を閉ざす。
なんだろう、と思い耳を澄ますと、こつんこつんという地面を叩く音が聞こえてきた。足音だ。誰かがここに近づいてきている。
「とりあえず簡潔に言うわ――今から来る男の機嫌を損ねないように注意して」
それは一体、どういうことなんですか?
一体、どんな人が来るんですか。
そんな質問をする前に、扉がノックも無く勢い良く開かれた。
入ってきたのは黒く、そして暗い男であった。
年齡は十五か六くらいだろうか。あまり手入れもせずに伸ばしたボサボサの黒髪と、同じ色の瞳。衣服も黒に統一しており、薄暗い部屋の暗がりにどろりと溶けてしまいそうだ。
四肢は細く、背はそこそこ高いものの若干猫背気味だ。運動が得意なようにも力があるようにも見えないが、長く分厚い大剣を背負いながらも平然と地面に立っている。
「気分はどうだい、我がヒロインたちよ」
両手を広げ、微笑みながらあまり似合っていない気取ったセリフを言う彼。しかし、華やかな印象は皆無だ。
理由は、きっと彼の『瞳』だ。
(なんだろう――すごく、冷たくて嫌な視線)
別段、彼が醜悪な顔立ちをしているワケではない。美男子とは言い難いが、しかし嫌悪を抱くような顔でもないはずだ。
そして彼の微笑みは柔らかく、知らない場所に居るノーラを怖がらせないようにという配慮すら垣間見える。
だというのに――なぜだろう。
自分を見ているはずの彼が、しかし何一つ自分を見ていないように感じるのは。
上手く言語化できない違和感に内心で首を傾げていると、彼はゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
「我の名は――いいや、違う――レオンハルト、そうレオンハルトだ。レオンハルトと呼んでくれ、麗しい乙女よ」
一瞬、東洋系の名を口にしかけ、顔を顰め訂正する。
偽名なのだろうか? そう思いつつも自己紹介されて黙っているのも失礼だと思い、小さく頭を下げる。
「初めまして、レオンハルトさん。わたしはノーラ・ホワイトスター、未だ未熟ですけれど神官をやっています」
「神官、神官か……ふふ、柔らかい言葉遣いのプリースト、いや、見習いならアコライトだな。その美しい桃色の髪といい職業といい、我の好みを的確に撃ちぬいてくれるな、君は」
満足気に頷く彼はこちらに背を向け、くつくつと押し殺した笑いを漏らし始めた。
「長いプロローグだった。ああ――長かった、長かったとも。
奴隷市場では奴隷の分際で我に仕えることを拒否する道理を弁えぬ者ばかり。
冒険者に対し我に相応しい乙女を連れて来いと依頼を出しても、未だに成功した奴が居ない無能揃いだ。
やはり、現地の土人のシステムに頼っていては本懐を果たせん。初めからこうすべきだった」
誰に聞かせるでもなく、ただ自身に酔いしれるように語り続けるレオンハルト。
どうしましょう、この人。
そんな視線をキャロルに向けるが、しかし彼女はノーラの視線に気づかず、ただただレオンハルトに怒りと殺意の眼を向けていた。
「……さあ、ノーラこっちに来るんだ。君は我に見初められた。最強の転移者レオンハルトのメインヒロインに選ばれたのだ。これ程までに名誉なことがあるだろうか?」
いいや、存在するはずがないだろう――と。
くるりと反転したレオンハルトは、まっすぐにノーラを見つめ、微笑みかけた。
――寒気が、した。
レオンハルトは柔らかく、そして温かい笑みを浮かべているつもりなのだろう。
実際、それは間違ってはいない。美男子ではないし、その笑みだけで誰かを魅了することはできないだろうその微笑み。けれど彼が親しい友人であったなら、そんな笑みを浮かべる姿を見て、こちらの心も温まるだろうと思える笑みだ。
だというのに、なぜだろう。彼の微笑みから、一切の温度を感じないのだ。
同じ部屋に居るというのに、分厚い壁を通して相対しているような気さえする。
「ええっと……その、そんな風に評価してくれるのは嬉しいんですけど……その前に、ここがどこか聞いてもいいですか?」
「ふむ、突然過ぎて理解が及ばないか。なるほど、確かに君は目覚めたばかりだ、状況を把握出来ないのも致し方ない」
無知な者に知識を授けるのは転移者の務めだ、と彼は頷きながら言う。
「良いだろう、疑問に答えようではないか。ここは女王都の地下――我がスキルの力を用いて削り、作りあげた地下室だ」
「自分で作ったんですか? ここを?」
「ああ、そうとも。現地の人間が作った場所では、すぐに騎士や兵士にバレてしまうからな。あんな雑魚に見つかろうと返り討ちに出来るものの、しかし一々雑魚の相手をするのも手間だ。我はそこまで暇ではない」
ぎり、という軋む音が聞こえた。
それはキャロルが歯を食いしばった音だ。彼女は両の手を強く握り、内から溢れ出ようとする怒りや悔しさといった感情を必死に抑えている。
そんな彼女の様子に気づくことなく、レオンハルトは微笑みながら説明を続けていく。
「そして君がここに居る理由は――単純だ、我が浚い、君を奴隷として所有したからに他ならない」
「――……え?」
さらり、と。とんでもないことを言われたような気がする。
(き、聞き間違い――ですよ、ね?)
なにせ、自分は起きてから間もないのだ。
まだ眠気が残っていて、彼の言葉を突拍子もない方向に聞き違えてしまったのだろう。
なぜなら、それはそんな笑顔で言うべき言葉ではないし――何よりも、声にも表情にも悪意が見受けられないのだ。
一緒にお茶でもしないか、そういう言葉を難解な言い回しで伝えようとしたため、変な意味に聞き取ってしまった。そちらの方が、まだしっくりと来る。
「――聞き間違いでも、迂遠な表現でもないわ。彼が言ってるのは、言葉通りの意味よ」
呆けるノーラに、キャロルが小さな声で今の現実を伝える。
(……ああ、だからキャロルさんはレオンハルトさんをあんな目で見ていたんですね)
当然だ。正義と秩序を重んじる騎士団の団員にとって、彼の言動は許容できるモノではないのだろう。
自分が違法奴隷として所有されている現状を理解しつつも、ノーラの心は凪いでいた。怖くないわけでも、嫌悪がないわけでもない。しかし、平常心を失うほど心は揺さぶられなかった。
(レオンハルトさんは言っていました。『最強の転移者レオンハルト』と)
つまりそれは――あまり一緒にしたくはないが――連翹と同じ力を持つ者だということ。
理解できない怪物ではなく、自分の友人と同じ存在。その事実が、彼女の心を安定させていたのだ。
もちろん、すごく強い存在で、歯向かえばきっと瞬きする間に倒されてしまうのだろうと思う。それは、女王都への道で連翹が見せたスキルを思い出せばすぐに理解できた。
――けれど、レオンハルトはそれを使わない。
ここから逃げ出そうとしたり、彼に対し酷い暴言でも吐けば別だろうが――それ以外の場合、彼はノーラ・ホワイトスターという少女を殺さない。
いいや、殺せないのだ。
(さっきまで彼が言った言葉からの想像ですけれど――レオンハルトさんは違法と理解しつつもわたしを所有したいから。わたしを魅力的だと思っているから、殺したくないと思っている)
酷く傲慢で自意識過剰な思考に思えて、微かに頬が赤くなる。
田舎の教会の見習いが何を馬鹿なことを考えてるんですか、と自分で自分にツッコミを入れたくて仕方がない。
しかし、それはきっと自意識過剰な妄想ではなく事実なのだろうと思う。
なぜなら、隣のベッドで横たわるキャロルは生きている。アルストロメリアの騎士である彼女が、レオンハルトに歯向かわなかったとは思えない。しかし、彼女は痛めつけられてはいるものの生存しているのだ。
それはきっと、女を手元に置いておきたい、という欲求が強いからだと思う。
「君たち奴隷に不自由な想いなどさせない、我の力でいずれは貴族などよりも良い生活をさせると約束しよう」
だから、我と共に来い――とレオンハルトは言う。
「我だけを愛し、我と共に生きろ。穢れ無き麗しい乙女たちよ」
断られるなどと微塵も考えていない、自信に満ちた笑みを浮かべ、こちらに手を差し伸べている。
それが我慢の限界だったのだろう、ベッドから跳ね起きたキャロルはノーラを庇うように立ち、レオンハルトを睨む。
「何を馬鹿なことを――」
「ふふっ――駄目ですよ、キャロルさん」
――言っているんだ、と。
そう怒鳴りつけようとしたキャロルの言葉を遮る。
「自分だけを見てくれないのが不満なのはよく分かりますけど、レオンハルトさんを困らせないであげてください」
「ノーラ? 一体、何を――」
「自分を上回る圧倒的な強さに心惹かれた、わたしが起きてすぐにそう言っていたじゃないですか。照れ隠しに困らせても、相手には伝わりませんよ」
近所にそんな男の子がいたなぁ。
そんなことを考えながら、理屈を作り、言葉を並べていく。
(レンちゃんが物語の英雄に憧れて演じているのと同じように、レオンハルトさんも憧れた誰かを演じているはず)
少なくとも、ノーラにはそう見えた。
言葉遣いが似合っていないのは、自分の言葉ではなく自分の思う格好良い存在に成りきっているからなのだろう。
なら、やるべきことは簡単だし、吐く嘘を考えるのも容易だ。
(レオンハルトさんが憧れていると思う誰かの姿を想像して、それに合わせる)
そこにリアリティも脈絡も必要ない。
きっと、彼はそこまで考えていない。そうでもなければ、自分で拐った奴隷が、自分を愛してくれるなどと考えるはずがない。思考が短絡的なのだ。
無論、自分が不利になる事柄なら考えを巡らせるのだろうが――都合のいいことなら、きっと彼は考えない。
「えっと、レオンハルトさん。美しい黒髪と、冬の夜空のように澄んだ瞳を持つあなた。もっと、あなたのことを、教えてくれませんか? わたしは、キャロルさんよりあなたのことを知らないんです」
それが悲しいんですよ、と。
内心で演技臭すぎたかな、と思いながらレオンハルトを見つめる。
事実、彼女の言葉は上手くなかった。
小説の登場人物の言葉を音読しているようなものだった。棒読みではなかったが、とてもではないが心からの言葉だとは思えない声音。これで他人を騙すなど不可能だろう。
「ふ――」
そう、本来なら。
しかし、そういった言葉を求め、自分に好意を向けた言葉を発すると信じていた彼は疑わなかった。疑えなかった。だから、騙された。
「ふは――ははははははァッ!
そうだ、素晴らしい、やっぱりぼくは運命に選ばれていたのだ! 誰よりも強く格好良い主人公なんだ!
ざまあみろ、クラスの連中め! ぼくを蔑みやがって、見下しやがって、ちょっと学校の勉強できたり、玉遊びが上手かったりする無能なオスと、それに媚びを売る薄汚いメスどもめ! 孤高なぼくを理解できなかった脳死どもめ!
ぼくはお前らなんかより、ずっとずっと素晴らしい未来を得たぞ! ああくそ、こういう時に自由に世界を渡れないのが不便だな……!
素晴らしく強くて格好良いぼくを見せ、力を示してやったのに! 男を怯えさせ、僕に媚を売り出すビッチ共を鼻で笑えたのに!
……いいや、いいや! あの世界なんてどうでもいい、あそこはぼくのいるべき世界じゃなかっただけだ! 僕は――ここでレオンハルトとして生まれ変わり、誰にも縛られずに生きていくんだ!
ふふ、はは、ははははははははは! はははははははッ!」
誰に聞かせるわけでもない、言葉の濁流。ほとばしる感情をそのままに、彼は口を動かしている。
歓喜に打ち震え、気取った言葉すら消失した彼は、涙を流しながら笑い続けていた。
その姿は滑稽で――けれど、同時に酷く哀れだ。
「ノーラ、ノーラ、ああノーラ……! 愛しているよ、ぼくを――いや、我を愛してくれた君を必ず守り、幸せにするよ、ああ、ノーラ、ノーラ……!」
「……ありがとうございます。レオンハルトさん、わたしの愛しい人」
自分の名前を何度も呼ぶ彼の瞳は、しかし酷く冷たかった。
心はこんなに揺れて、歓喜に打ち震えているのに、ノーラに向けられる感情が酷く希薄だ。
「我を讃えてくれ、我を愛してくれ――ぼくを褒めてくれ、ぼくだけを見てくれ、ぼくを認めてくれ、ぼくを知ってくれ……!」
(ああ――そっか)
その言葉で、ノーラは理解した。
彼はノーラなど見ていない。いいや、そもそも――この世界に存在するありとあらゆる存在を見ていない。
視界には入っているのだろう。しかし、それを鏡のように扱っているのだ。
きっと彼は、ありとあらゆる物と者を見ても、それを理解しようとはしないだろう。それと関わる自分が素晴らしい、あれよりも優れた自分は格好良い――そんな思考にたどり着いて終わるだけなのだ。
だから、ノーラは彼を冷たいと感じたのだ。
彼はノーラやキャロル――いいや、この世に存在する全ての者と物に対して、自分が主役の物語を演じるために必要な人形程度の感情しか抱いていない。
ノーラを拐った理由も、ただ綺麗な人形があったから――恋人の役をやらせるのには丁度いいと思ったからに過ぎないのだろう。
自信満々だったのも当然だ。
簡単に騙されたのも道理だ。
人形遊びの人形が、自分を否定することなどあり得ないのだから。
(ああ、なんて哀れで――嫌な人)
彼の力を求め、愛の言葉を囁く人は出てくるだろう。
しかし、レオンハルトという人間を愛する者は、皆無とは言わないが少数派だ。
けれど彼は、偽りの愛の言葉で満足し、自分は愛されていると自己愛に浸り続けることだろう。
その歪さは哀れではある。
だが、心から同情する気にはならなかった。
(手前勝手な欲望を、力で強要してるだけの人ですから)
試験が終わった後に騎士アレックスとした話を思い出す。
レオンハルトは抜身の刃の如く己の衝動を振り回すような人で、自分勝手な理屈を恥もせず他人に強要する存在だ。
ゆえに、ノーラは抱くのだ。
レオンハルトに対し、畏怖と嫌悪を。好意など、抱くはずもない。
「ええ、あなたは素晴らしい人ですよ、レオンハルトさん」
ああ、だから。
(レンちゃん、ニールさん――カルナさん)
早くわたしを見つけて。ここから連れ出して。
わたしも、出来る限りのことはするから――お願い。




