1/ニール・グラジオラス
――転移者という連中が現れるようになって、一体どれほど経つんだろうか。
剣を素振りながら、ニール・グラジオラスはそんな益体もないことを考えた。
今年十七歳になる彼が物心ついたころには、すでに当たり前に存在していた。
歴史書にもそれらしき人物が書かれていたりするが、当時は今よりずっと人数が少なく、今のように何人も当たり前に存在するようになったのは最近になってのことなのだとか。
――チキュウという場所から訪れた異邦人にして、英雄であり悪魔。
技術は無く、知識もない――時々例外で凄い知識をもたらす者も居るらしいが――だというのに無双の武力を持つ絶対存在。
剣を棒きれのように扱っても現地の剣士を圧倒し、『スキル』という名の能力で武術も魔法も練達の技を扱える規格外の存在たちだ。
その上、なぜだか知らないが彼らは数年で姿を消す。
昨日まで無双の実力で皆を率いていた転移者が、ある日を境にどこかに消える……なんてことはよくある話らしい。
ふざけた話だ、と思う。
なんの努力もしてこなかった奴が、突然才能だけを振りかざし大暴れし、自分こそ最強でありお前らは塵芥だと笑い――引っ掻き回すだけ引っ掻き回して消える。
傲慢で、無責任な連中だ。
そんな連中に屈したくないと思うのは、力を振りかざす圧制者に対する怒りなのか、それとも溢れた才能に対する嫉妬なのか。
それはニール本人も、よく分かっていない。
分からない、けれど。それでも確かな思いはある。
「あんな連中に――負けてられるか」
全身に力がみなぎる。汗にまみれた裸の上半身、その筋肉が隆起し力を発揮していく。
振る、振る、振る。
剣を、刃を、自分の分身を。
斜めに振り下ろす、真横に薙ぐ、縦に斬り下ろす、下から斬り上げる。
流れるように、けれど一撃一撃に己の全てを叩き込む心持ちで。
真冬の極寒の空気は、すでに数百は刃で切り刻まれた。鍛え上げた肉体は汗にぬれ湯気を放ち、ズボンは汗を吸いじっとりと湿っている。茶の頭髪は額にべったりと張り付いて気持ちが悪い。
だが、まだ足りない。
延々と素振っていた剣を止め、中段に構え一呼吸。
――切り込む。
剣を振り上げ、疾走。
眼前には何もない――いや、有る。居る。仮想の敵が、こちらに向けて武器を構えている。
その敵はニールの攻撃に合わせ、刃を突き出してきた。攻撃の瞬間に生まれた隙を狙う、神速の刺突が胸に向かって突き進む。
――避けられは、しないな。
横に避けるには前のめり過ぎるし、刃の下をくぐるのは論外だ。イメージの相手はニールよりも小柄なのだから。
なら、飛び越える? 一発は避けられても、その後の追撃で沈む。
ならば、やることは一つ。
(疾く、疾く、疾く疾く疾く、剣を振り下ろす!)
全力を剣に、けれど無駄のない、音にすら迫る斬撃を!
振り下ろす。冷たい空気を刃が断つ。無駄な力を抜いた、疾く、そして鋭い一撃。
――だが、それよりも先に空想の刃がニールの胸を刺し貫いた。
「ぐ――く、っそ」
空想の小柄な相手は――かつてニールが敗北した転移者はニールの姿を心底不思議そうに眺めていた。
――何度やっても結果は変わらないのに、なんでそんな無駄なことを?
と。
「……クソッタレ」
刃を鞘に収め、ドンと地面に座る。
まだだ、まだ、二年前のあの女に届いていない――――
「おーおー、ニール君まーたやってるねぇ」
不意に投げ落とされた声に、視線を上げる。
「女将さん」
宿の二階の顔を出しているのは、三十代前後の女性だ。
穏やかな森を思わせる深緑のポニーテイルが風に撫でられゆらゆらと揺れ、大きな瞳は澄んだ海の蒼さを満たしている。
これでシャツとズボンなどではなく、ドレスでも着ていれば貴族のお嬢様――というには、さすがに歳が厳しいか?――に見えそうなモノだが、いたずら小僧にも似た表情がそのイメージを破壊している。
「まぁ日課なもんで。鍛錬ってのは一日休めば――」
「取り戻すのに三日は掛かる、だろう?」
何度も聞いたよそんな話、とカッカッと豪快に笑う。
「朝飯の用意は出来てるから、とっととその汗を落としてきな」
「献立は?」
「コーヒーとパン、それにベーコンとサラダ……」
ニイ、と女将さんが笑った。
「スクランブルエッグさ」
「オッケーすぐ超綺麗さっぱり汗落として来る――!」
超スピード超ダッシュ超速攻!
頭上から落ちてくる「慌てなくても大丈夫よー」という声を右から左に流しながら、井戸へと疾走。猛スピードで水の入った桶を取り出し、頭から体に叩きつける。
「っぷぁー!」
頭を左右にぶんぶんと振り回し水気を取りつつ、もう一杯の水を得るべく桶を井戸に落とし、カラカラと滑車を回す。
水の張った桶を取り出し、中を覗き込む。
そこに映るのは十七年の間苦楽を共にしてきた自分の顔だ。所々跳ねた短めの茶髪に、大きくも鋭い眼、浮かぶ表情は歓喜に満ち満ちている。
笑みに固まったままの顔に水を叩きつけ、鍛錬中に得た嫌な気分を洗い流す。
さあ、今日も一日が始まる。
◇
冒険者の宿は普通の宿と違い、近くの冒険者ギルドと提携し冒険者を支援してくれている。
冒険者割引であったり、酒場兼食堂に貼りだされたクエストであったり、ギルドにわざわざ寄らずとも宿だけで用事が済む場合が多い。その分、宿で受けた依頼の報酬はいくらか宿に収めなくてはならないが、拠点として長く留まるなら他の宿に泊まるよりずっと安上がりだ。
また、冒険者の宿の主人は元々冒険者だった者が大多数であり、昔の経験からクエストが冒険者の実力でクリア可能か判断してから受けさせてくれるためにギルドで直接自分の判断でクエストを受けるよりずっと生存率が高い。
もっとも、冒険者なんていう一歩間違えばゴロツキ一直線の連中が集まってくるため、乱闘騒ぎは後を絶たないわけだが。
「ああァ!? テメェなんだともう一度言ってみろォ!」
「ハァア!? なんでお前がそんなに怒り狂ってんだ!?」
そして、ニールが拠点とする宿『黄色の水仙亭』も例外ではなかった。
爽やかな朝の空気をかき消す大音声。しかしニールは女将特製スクランブルエッグとベーコンをパンに載せて食いながら、「オメェら卵料理を前にしてよく喧嘩とかしてられんなー」と思考していた。
よくあることだ、気にしても意味がない。
それより卵である。
一口食べると、卵のふわふわとした感触と良い感じに焼けたベーコン、そしてカリカリに焼けたパンの感触が同時に味わえる。どれも絶品だが、やはり一番は黄色い王様、たまご様だろう。
卵ってマジスゲェマジパネェ。どんな料理にでも合うし、どんな料理に使っても美味い。が、やはり素材の味を生かした料理が好きだ。
スクランブルエッグ筆頭に、目玉焼き、卵焼き!
東洋の島国である日向では主食の米の上に生卵をぶちまけて食う卵かけご飯もあるが、あれも素晴らしい。ニールはあれで醤油という調味料に目覚めたくらいだ。
「ほらほら、どうしたんだいお前さんたち。暴れるんなら外でやりな!」
思考を卵に集中させていたために気づかなかったが、まだ口論は続いていたらしい。見かねた女将が厨房から叫ぶ。
「けどよ女将、先に喧嘩売ってきたのはコイツだよ?」
「アアァ!? 喧嘩売ったのはそっちだろォが! 女将さんのこと三十路のババアとか言いやがって!」
「事実だろうが! 三十路行ったらどんな奴もババァハウアアアアアアアアアアアェェエエエアアアアアオオオオオゥゥゥゥ――!」
閃光と共に突き刺さった。
飛来したおたまが、股間に、勢い良く。
元冒険者で、かつ武装は弓だったらしい女将の、誤差もためらいもない見事な金的攻撃だった。
シン――とした静寂と共に、同業同性連中が自分の下半身を抑えた。恐怖に縮み上がる息子をそっと守るように。
一部の奴が崩れ落ちてピクピクしている男を心底羨ましそうに見ているが、なんだろうアレは。
まあ、それはともかく。
「女将さーん、スクランブルエッグもう一個くんねー?」
誰よりも早くメシを食い尽くし、誰よりも先に席を立ち、誰よりも早く厨房の女将さんに皿を差し出した。
そう、今はスクランブルエッグだ。他は瑣末。皆が凍っている今なら、誰よりも先におかわりができるという論理的思考……!
女将はケラケラ笑いながら皿に卵を盛ってくれた。
「ニール君はぶれないねぇ本当に」
「長剣のように真っ直ぐ生きる、ってのが俺の信条なモンで」
「ところで、あたしのことどう思う?」
「三十路のおばさんなのに凄い美人だよな」
皿を受け取りながら、皆が見えてるトラップを気づかず思いっきり踏み砕く。ついでに飛来したまな板が股間に突き刺さり、彼の息子たちも砕かれそうになった。
どしゃあ、と崩れ落ちるニール。しかし、その両手だけはしっかりと皿を支えている。
「す、スクランブルエッグの皿は……守りきった!」
内股で立ち上がり、親指を立てる。
やりきった、俺はやりきった、そんな言葉が聞こえてきそうな達成感に満ちた声音だった。
辺りから「ああ……うん」「そっか……うん、まあ、よかったね?」とか冷めた声が聞こえてくるが、彼には関係ない。
ニール・グラジオラスはやりとげたのである――
「あ、その卵没収ね」
「ごむたいな!」
皿を奪われ、もう一度崩れ落ちた。
「……あいつ、金的された時よか、卵没収された時の方が苦しそうな顔をしてやがったよな」
「なに言ってんだ、いつものことだろ」
「確かにそうだな!」