282/プロローグ/2-3
衝撃と轟音。
闘技場を揺るがすそれと共に客席へと叩きつけられたニール。
粉塵と砕けた観客席の破片が散らばるのを見て、誰かが呟いた。
――残念だが、これで終わりだな。
納得したように、安堵したように、悔しがるように、辛そうに――感情は呟いた者によって違ったけれど。
しかし、声に出した者たちの中で共通する答えがあった。
それは即ち、連翹の勝利であり、ニールの敗北であると。
なるほど、その分析は非常に常識的なモノであり、正しい。
疲弊しきったところで、転移者の蹴りを防御も出来ずに受けたのだ。ニールという男は防御に特化した戦士でない以上、あれで終わりだと考えるのは当然だろう。
そう、常識的に考えれば当然なのだ。
「まだだ」
耳に届いた誰かの声を打ち消すように、アレックスは呟いた。
あれが、あの少年が、あの程度で終わるはずもないのだと。
「たかだか肋骨が砕け、内蔵がいくつか破裂した程度だろう。なら、動かない理由はない」
「アレックス……無茶苦茶言うね、アンタ。さすがにそりゃ酷だろう」
隣に座る大柄な女性、マリアンは呆れを声に滲ませた。
転移者の身体能力で放たれた蹴り、その直撃を食らったのだ。内臓破裂はもちろん、衝撃で肋骨もいくつかへし折れているように見える――馬鹿か、どう考えても重症だ。とっとと試合を中断して治癒に向かいたいくらいである。
そう、これはあくまで試合であって、殺し合いではない。
だというのにこれ以上、戦いを続けろなどと――それはもはや狂気の所業だろう。
「ああ、無茶を言っている自覚はある」
常識的な回答であり、アレックスもまたそう思う。
どれだけ本気の戦いであっても、これは殺し合いではない。
ニールたちが言うには、たとえ死ぬようなダメージを負ったとしても、無事に生還できるらしいが――だからといって本当に本気で殺すような真似をする馬鹿がどこに居るのか。
本気で戦いつつも、全力の一撃が直撃すればそれで戦いは終わり。治療した後、互いに健闘を称え合うのが普通だ。
「だがなマリアン、よく思い出せ――奴は、グラジオラスは心臓を潰されながらも『騎士に勝てる』と思えば全力で踏み込んで剣を振るうような男だぞ?」
そのような男が、たかが重症如きで足を止めるはずがないだろう。
まだだ、まだ自分は勝利を諦めていないと前進し続ける――それが、ニール・グラジオラスという男だ。
「それは分かってるよ。でも、今はそういう状況じゃないだろう」
それが出来たのは、そのような狂気に身を委ねられたのは、相手がニールよりも格上だったからだ。
騎士であるアレックス然り、転移者とその幹部、そして孤独の剣鬼。誰も彼もがニールよりも強く、けれどそれでも勝ちたいと願い――結果、命をチップにして無茶を実行して来たのだ。
だが、現在戦っている連翹は、実力という面ではニールよりも格下である。
彼女の戦い方もまた、ニールに全力を出させぬように立ち回りながら体力を削るという、剣士としては燃えない代物だ。
ゆえに、ニールはここで詰み。奮起するための燃料が絶望的なまでに足りていないのだから。
ニール・グラジオラスという剣士の素の実力はさして高くはない。決して低くもないが、だからといって本来は騎士と肩を並べて戦えるほどの猛者ではないのだ。
そして今、彼は素の実力のまま追い込まれた。奮起することも難しい。
ならば、もはや逆転の目はない。
「――確かに、剣士としてのグラジオラスならばそうだろう」
マリアンの言葉は正しい。
実際、相手が連翹と同じ実力の誰かであったのなら、ニールの敗北はこの時点で決定しているだろう。
そう――連翹以外であったのなら。
だが、ここに居るのは片桐連翹という少女だ。
「だがなマリアン、グラジオラスは剣士である前に男だ。そして、男という生き物は中々に単純で度し難い生き物なんだ――惚れた相手に良いところ見せたいと思って、無茶をしてしまう生き物なんだよ。私も、最近実感が出来た」
アレックスはそう言って、未だ晴れぬ土煙を注視し――それを見た。
土煙を切り裂くように飛び出す、一つの影を。
「――なるほど、そう来たか」
アレックスは笑う。
ああ、やはりあの少年は――欠片も諦めていない。
勝利を掴み取るため、打ちのめされされながらも考えて、それを気合と根性で実行する。
全ては、剣士として高みへ行くために――否。
全ては、あの日を超えるために。
◇
(頭、痛い……ニール、ほんとに情け容赦なくやったわね)
脳内で悪態を吐きながら、連翹は顔を歪めた。
脳が揺れたのか、思考も少しぼんやりとしている。
だが、それでも連翹は土煙を注視し、剣を構え続けていた。
理由はただ一つ――ニールがあの程度で勝負を諦めるような男ではないと知っているから。
確かに連翹の蹴りは直撃した。肋骨を砕き、内蔵が爆ぜる嫌な感触が靴裏から伝わっている。そしてそのまま客席に叩き込まれた。普通に考えて、もう動けないはずだ。
だが、ニールは普通ではない。
チートな英雄、という意味ではなく――気合と根性、そして狂気で無理矢理に体を動かす馬鹿だから。
最後の一太刀で勝負を決めるのだと心に誓って、今この瞬間にも土煙を切り裂いて来るのがたやすく想像できる。
ゆえに、連翹に油断はない。
土煙が晴れて、倒れ伏すニールの姿を見るまでは気を抜くことなど出来ないのだ。
だから――――
「――――やっぱり、そうすると思ってたわ」
――土煙を裂き、こちらに向かってくるニールの姿に驚きはなかった。
むしろ納得しかない。ああ、やはり貴方ならそうするだろうな、と。
剣を担ぐように持って疾走するその姿を見て、連翹は寂しげに微笑む。
――ニールがそうすることなど理解していた。
――だから、どう対処すれば良いかなど、どう剣を振れば勝てるかなど、たやすく想像出来る。
それこそ、連合軍の皆が最終的に転移者のスキルを完全に受け流せていたのと同じように。
こういう時に頼る技がなんであるのかを理解している連翹が、それを上回ることなんて容易なのだ。
――ニールがどのような想いでこの場に立っているかなど、連翹には想像することしか出来ない。
どれだけ勝ちたいと願ったのかも、同様に。
加害者であり、ニールほど剣に人生を捧げていない連翹には、本当の意味でニールの気持ちは分からないのだ。
だけど、真剣なことだけは理解出来る。
勝ちたい勝ちたい、いいや勝つ――そういう想いを胸に剣を振るっていることも。
だからこそ、本当に自分が勝利して良いのかと思う。
この一太刀を甘んじて受けて、ニールの勝利で終わらせるべきなのではないかと。
「まさか」
――そんな、侮辱でしかない内心を、吐き出す言葉と共に体外へと押し出す。
甘んじて受ける? 馬鹿が、そのようなこと、ニールが望んでいるはずがないだろう。
勝利したいという願いは本物だ、けれど、勝ちを譲られたいなどと思っているはずもない。
ゆえに、連翹が出来ることは、ただ一つ。
最高の一撃を以てこの戦いを終わらせることだ。
さあ、剣を構え、一歩前へ。
ニールの得意技を迎え撃つために、自身の勝利のために。
自分が、そしてニールが納得できるように、やるべきことをやってみせる。
「ごめんね――あたしの、勝ちよ!」
――――力強く踏み込んだ連翹は、全力でニールを迎え撃ち、斬り捨てる。
それは、今の連翹が出せる全身全霊の一撃。
ファスト・エッジに餓狼喰らいを混ぜたようなその斬撃は、ニールの脳天から股下まで――驚くほど軽くニールの姿を引き裂いた。
◇
「違う、これは――!?」
――――ああ、勝ちたい。負けたくない。
未だ土煙の中で立つニールは、連翹の叫びを耳にしながら、今も燃え続けている心の火を燃料にして静かに――けれど素早く行動を開始した。
これは、決して剣士としての想いではない。
だが、決して正気でもない。重症でありながら、それでも前へ進むと、勝利を目指すなどと、こんなモノが正気であるはずもない。
ゆえに、これは狂気。燃える感情を燃料に、溶け落ちた蝋翼は再び固まり、勝利を目指す。
だが、この想いは、この狂気は――一体、なんだ――?
「――模倣、秘剣、虚鏡……ッ!」
静かに技名を呟くニールの心の中に答えはない。だが、体は既に限界を突破して動き出していた。
今、自身の限界を超えさせている狂気は一体どのような感情なのか、ニールにも理解出来ていない。
だが、それでいい。体が動くのであれば、負けたくないという想いが燃料になっているのであれば、何が燃えているのかなど関係ない。そんなモノ、後で確認すれば良いだろう。
だから、今やるべきことは――幻影のニールに剣を振るった、振るってしまった連翹の対処だ。
――――連翹は頑張っている。
強くはなったし、戦うための心構えも出来た。ニールの対策も、十分にしている。
けれど、ああ、けれど――連翹はまだ、戦士と呼ぶには経験が少なすぎるのだ。
その弱点を、連翹は転移者の身体能力を用い、ニールの得意分野を潰す形で埋めた。
その事実と積み重ねた努力は、決して裏切らずニールを敗北寸前まで追い詰めたのだ。心から賞賛を送ろう。
だが――それでも彼女はまだ一端の戦士と呼ぶには不足な見習いでしかない。
(だからこそ――俺程度の腕で放った虚鏡で騙せた)
騎士では初見で見抜かれる。
兵士や冒険者であっても、よほど上手く扱わないと途中で幻影だと気づかれてしまうだろう。
だが、相手が連翹であれば。
頑張ってはいるし、強くなってはいるが、それでも連合軍の皆と比べて圧倒的に戦闘経験が少ない彼女であれば――騙すことは可能だ。
だが、これは賭けでもあった。
もしも連翹が、観客席にニールを叩きつけた時点で自分の勝利を確信していたら。
こちらに背を向け、勝利の余韻に浸っていたとしたら――虚鏡に驚くだけで終わる。その結果、土煙の中でニールがまだ健在であるという事実にも気づいてしまうだろう。
そうなれば奇襲の機会は失われ、最後の一撃は万全な状態で防がれ、ニールの敗北は決定したことだろう。
だが、連翹はニールを信じた。あの程度で敗北を認めるはずがないと。まだ、こちらに向かって来るはずなのだと。ニール・グラジオラスという男はそういう男なのだと信じてくれた。
その警戒が、その信頼が、ニールを勝利へと導くのだ。
「人心獣化流――――」
踏み込む。
砕けた観客席を踏み砕きながら、闘技場へとひた走る。
真っ直ぐ、ただただ前へ。それしか考えない。
一秒でも早く間合いを詰め、斬る。それ以外に必要な思考や行動など、何も、何も、何もない。連翹が反応し、迎撃するのであればそれでも良いだろう。それごと噛み砕く。
雷切を用いて初速から最高速へ。観客席から闘技場に叩きつけられるように着地して、疾走する。
連翹は剣を振り切った姿勢のまま、しかし必死に体勢を整えた。
「――まだよ!」
転移者の身体能力で強引に踏ん張って、強引に剣を引き戻し、強引に再び剣を構える。
技術も何もない、人間を超えた力で行った無茶。だが、そのおかげで構えは間に合った。
もはや回避は不可能。トップスピードに至っているニールに対し、体勢を整えたばかりの連翹では転移者の身体能力に頼っても速度が足りない。
ゆえに、と彼女は剣を構える。
避けられないのなら、耐えてみせると。
(上等だ)
その防御ごと、この牙で喰らってみせる。
「――――餓狼喰らいィッ!」
飛び込むように袈裟懸けに刃を振るった。
イカロスが連翹の黒い刃に噛み合う。悲鳴めいた金属音が鳴り響き、徐々に、徐々に、刃は食い込んでいく。
だが、駄目だ。まだ足りない。勢いが、鋭さが、速度が。
これでは剣を両断することは出来ても、連翹の体を切り裂くには至らない。速度も力も減退し、転移者の体を切り裂くには至らないのだ。
ゆえに、もっとだ。
もっと、もっと、前へ、前へ。
剣が輝く。
力強く帯電する。
それは、無二の剣鬼が使った秘剣。稲妻すら断つと言う名の技。
それを剣に集中し、己の力を振り絞りながら――
「蝋翼飛斬……!」
――叫び、突き進む。
分厚い剣が悲鳴めいた音と共に砕けた。そのまま刃は雷光と共に肩に突き刺さり、胸を引き裂き、腰まで刃を通して両断。そのままニールは体当たりするように体を叩きつけ、上半身と下半身を力任せに分断させる。
踏ん張りきれないニールはそのまま連翹に体当たりするようにぶつかり、そのまま地面を二人で転がった。
音の失せた闘技場内。
その中で、ニールは押し倒すような姿勢で連翹に覆いかぶさるような姿勢で彼女の顔を見下ろしていた。
二人の体が輝く。致命傷を受けた連翹の体が、折れた肋骨が体内のあちこちに突き刺さっているニールの体が、ゆっくりと癒されていく。
――戦いは終わった。
――勝敗は決した。
――ニールの勝利だ。
「俺の、勝ちだ」
連翹の瞳を真っ直ぐに見つめながら、ニールはそんな分かり切ったセリフを吐く。
何か、言いたい言葉があったはずだ。
今も、それが言いたくてたまらなかった。
けれど、それは胸の中で燃えるような熱さで自己主張するばかりで、上手く言葉になってくれない。
「――どうだ、俺はすげえだろ」
だから、心の赴くままに。
どうせ長々と考え込むのは苦手なのだ。ならば、こうやって垂れ流した方が上手く行く。
「ずっと、お前にそういう俺を見せたかったんだ」
それは、一体なぜか。
瞬間、頭をよぎったのはかつての連翹の姿。まともな構え方も知らず、ただただ闘技場で佇んでいた少女の姿だ。
それを、ニールは綺麗だと思った。
黒い髪も、白い肌も、全て全て、だからこそ瞳に、心に焼き付いた。
その想いは、すぐに怒りという激情によって覆い隠されてしまったけれど。
確かに、ずっとずっと、胸の奥底で燃えていた。
――それは、きっと恋と言うのだろう。
そこまで考えて、ニールは「ああ」と小さく呟いた。
自分が何を言いたいのか、胸の中で荒れ狂う感情をどうやって言葉にすれば良いのか、ようやく理解できた。
連翹を真っ直ぐに見つめる。気恥ずかしさなどない。ただただ、この感情を言葉にしなくてはという使命感にも似た感情だけがあった。
「――――初めて出会った時からお前が好きだった。俺はずっと――あの時出会った女の子に、俺の格好良い姿を見せたかったんだ」
不甲斐ない自分では嫌だ、負け犬の自分では嫌だ。
あの少女に、連翹にずっとずっと認めさせたかった。ニール・グラジオラスは凄いのだと、格好良いのだと。
無論、あの時のムカつく女をぶっ殺したいという願いも、また本物ではあるけれど――それは、この瞬間に終わりを告げた。
再会した連翹が少しまともになっていたことと、こうして決着をつけて心に区切りをつけたこと。
それによって、胸の想いは最初の恋心に純化される。
自分が酷く恥ずかしいセリフを吐いている自覚はあった。
だけれど、止まらない。いいや、止めようと思わない。こんな言葉、素面で吐けるものか。
「……あたし、リアル恋愛したことないし、恋愛モノとかだってあんま読んだことないけど、その告白が落第点だってことくらいは分かるわ」
両断された体がゆっくり繋がっていく最中で、連翹は呆れたように言った。
ディミルゴが気を使ったのか現在痛みは無いらしいが、だからこそ自分の体がどうなっているのか理解できてしまうらしい。「うへぇ……」と己の断面図を見て顔を歪めている。
……なるほど、連翹の言葉ももっともだ。
どこの世界に好いた女を叩き斬った挙句、俺は凄いだろうと言いながら告白する馬鹿がいるのか。サイコパスか何かか。
「……悪かったな、自覚はあるっての」
現状を抜きにしたとしてもこの言葉は落第点だ。
自分はとても凄い奴だから好きになって欲しい? なんだそれは馬鹿か、どこの世界にそんなことを言われて頷く女が居るというのか。
これがカルナほどの美男子であれば話は違ったろうが、ニールはどれだけ贔屓目に見てもそれなりといったところ。目つきの鋭さが人によってプラスになるかマイナスになるかなどの要素はあるのだろうが、少なくとも頭に美がつくタイプの男ではない。
その程度の男が、このような最悪な告白をしているワケだ。正直、上手く行きそうな予感がまるでない。
「けど――うん、しょうがないわね。あたしみたいなのを貰ってくれる人なんてそうそう居ないだろうし、ニールみたいなのを貰ってくれる人だってそうそう居ないじゃない」
溜息を吐きかけたニールの背を、連翹の腕が抱き留めた。
こちらを見返す連翹は、照れくさそうに微笑む。
「うん、こんなあたしで良ければ、喜んで」
――こうして。
二人の戦いは終わった。
二年前の春に始まった二人の物語は、この日を以て終結したのである。




