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グラジオラスは曲がらない  作者: Grow
「ありがとう、さようなら」
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271/ありがとう、さようなら


 行きよりもだいぶ遅めの速度で帰宅すると、連翹、桜大、ニールの順でシャワーを浴びていく。

 こういう時に元の世界のありがたみを感じる。温かいお湯ですぐに汚れと汗を洗い流せるのは強い。冬ならまさに最強だ。下手なチート能力よりずっと有能だと思う。

 やはり日本は豊かで便利だったんだな、と思いながら桜大と交代した連翹がリビングの座り始めた頃。茉莉も起床し、それに合わせてノーラも降りて来て朝食の準備を手伝い始めていた。


「昔は起こしにいかないとずっと寝ていたのに、本当に早起きさんになったわね」

「こうなったのはけっこう最近のことだけどね。あっちの世界でもよく昼前まで寝てたりしてたし」

「ええ、ですからわたしがよく起こしに行ってましたよね。最近はそういうことがなくて安心ですけど、少し寂しくもあるんですよ」

「分かるわ、手のかかる子が成長したことは嬉しいけど、それはそれとして世話出来なくなったことが寂しいの」

 

 ですよね、そうよね、と二人で笑い合う茉莉とノーラ。少しばかり居心地が悪い。母親が二人に増殖したような気分だ。

 むう、と気恥ずかしさを感じながら砂糖を入れたコーヒーを啜る。

 そうこうしている間に桜大がシャワーを浴び終え、それからしばらくしてまだ半分寝ぼけ眼のカルナがリビングに来る。

 

「随分と眠そうだな、カンパニュラ」

「むしろ僕より遅かった桜大さんが普通に起きていることに疑問を抱くのですけど」

「ニールとあたしの鍛錬一緒に来てたものね、超早起きだったのよ」

「……待って、桜大さん何時間寝てるんですか?」

「おおよそ二時間だな。……無論、普段からこのような睡眠時間ではないがな」


 その言葉にカルナは「ああ」と納得したように頷いた。

 連翹はその言葉の意味に気づかず――努めて気づかないようしながら――二人に「一体、何時に寝たのよ。あたし途中で力尽きたから覚えてないのよ」と気だるげに問いかける。

 

「だいたい、二時頃だったかな……? そのぐらいまで、ずっと飲んでましたよね」

「あら、なにそれ二人とも実は仲良し的な感じ?」

「いや、互いに黙って飲んでいただけだ。会話などはほとんど無かった」


 なにそれ傍から見たら超空気重そう。

 銀髪長身のイケメンと強面のメガネが黙ってサシで飲み合う姿を想像する。なんか闇の住人同士が非合法の取引している現場のようだ。さながら現代に生きる魔術師とインテリヤクザ、科学と魔術が交差する系の物語が始まってしまいそうだ。


「けど、我が家って部分が残念極まりないわね。どうして二人は闇系のバーとかで飲んでないの?」

「連翹、お前は何を言っている」

「そもそもバーに闇も光もないと思うけど」

「は? なに言ってんの? 陽キャがキャッキャウフフしたり『あちらのお客様からです』とかやりだすのが光系。強面で無口なマスターが仕切ってて、客全員なんか後ろ暗そうなオーラ出してたり黒服着てたりするのが闇系でしょ?」


 知らないけどきっとそうだと思う。

 そもそも未成年だしバーなんて良く分からない。とりあえずバーテンダーとやらがお酒をシャカシャカかき混ぜてカクテルを錬成するタイプの居酒屋さんなんじゃないの? と連翹は思っている。

 でも、知らないけれどそういう雰囲気には憧れる。こちらも同じく黒服を着て寡黙なマスターが出してくれた酒を飲みながら、『……光が強いほど、闇は色濃くなるものね』と妖艶に微笑むロールプレイとかしてみたい。


「……少なくとも私は闇系とやらに行こうとは思わんな」

「バーの皮をかぶった犯罪者のたまり場だよね、それ」


 二人から全力でダメ出しを食らった、解せぬ。

 後ろ暗い雰囲気の店とお酒のコンビって最強ではないか、マスターから『久しいな、毒婦』といった風に不穏な二つ名で呼んでくれるのならなお良い。


「仮にそんな店があったとしても、お前の場合は酒飲んでへらへら笑ってるだけだろ」


 毒婦どころか迷い込んだ子羊にしか見えねえよ、と。

 頭髪に微かな水気を残したニールが呆れ顔でリビングに来た。

 

「……待って、そんな子羊を貪ろうとする黒服たち。そいつらを軽く捻って微笑むあたし、なんか物語に出てくる新たな敵キャラの登場シーンみたいじゃない……!?」

「いいのかよ敵で、物語的に考えりゃ死んじまうじゃねえか」

「大丈夫よ、美少女キャラならなんやかんや辛い過去とか不憫な生まれ設定を垂れ流した後に主人公に優しくされてハーレムにインする流れだから」


 益体もない会話。

 意味などなく、それでも楽しいから続けてしまう。

 ニールはそれに付き合いながら微かに顔を歪め、しかしすぐに普段どおりに振る舞った。

 連翹はその意味を理解しつつも、けれど今は、今は気づかなかったフリをして笑う。

 そんな会話を続けている間に時間は過ぎ、朝食の準備は終わる。茉莉の手によってカリカリに焼かれたトーストと目玉焼きとベーコン、そしてサラダとコーンポタージュがテーブルに並べられた。それから少し遅れ、ノーラがコーヒーポットとカップを持ってくる。


「それじゃあ、いただきます」


 茉莉の言葉と共に、皆が朝食に手をつける。

 ニールは真っ先にトーストの上に目玉焼きを載せ、醤油とマヨネーズをつけながら美味しそうに食べている。

 カルナは静かにコーヒーを啜り、ノーラは小さく息を吐きコーンポタージュを冷ます。

 連翹は茉莉に出してもらったジャムをトーストに塗り、はむっと一口。目玉焼きは醤油と一緒に単品で食べようと思う。

 

「お、いらねえの? なら俺が貰うぞ」


 だというのに横から目玉焼きを掻っ攫おうとする魔の手(フォーク)を、連翹は箸で受け止める。ちい、とニールが舌打ちをした。


「下段ガードで固めたあたしに隙はなかった――ってかニール、あたしが後に取ってるの分かっててやらなかった?」

「まあな、しかしお前迎撃上手くなったな。前のお前だったら気づいてもそのまま盗られてたろ」

「え? そう? まあ、あたしも成長しているっていうか――待って、流石にそれじゃ誤魔化されないから」

「ちっ、駄目だったか――!」

「はいはい、連翹もグラジオラスくんもおかわりくらい焼いてあげるから喧嘩しないの」


 この男、どうしてくれようか――そう思った矢先、ため息まじりの茉莉が二人の会話に割って入る。


「ありがとうございます茉莉さん――いや、それはそれとして、他人の皿に盛り付けてある料理って自分のモノよか美味そうに見えるじゃないっすか」

「最低なセリフ言いやがってるわねこの男ぉ……!」


 けど、ちょっとだけ理解出来るのが悔しかった。

 せっかくだからニールから奪ってやろうと思ったが、この男もうすでにサラダとコーンポタージュが半分ずつくらいしか残っていない。

 仕方なくサラダをもしゃもしゃと食ってやったら、とても怪訝そうな目で見られた。確かに連翹もサラダが特別好きなワケではない。なぜ、わざわざ他人の皿から奪ってまで食べているのだろう……?

 

「……もう少し静かに食べられんのかお前らは」

「ニールはもちろん、レンさんも食事の時はいつもこんな様子なので仕方ないですよ」

「ですよね、二人とも楽しそうで」

「そうか……なら、いい」


 騒ぎすぎて怒られるかと思ったが、予想に反して桜大はそれ以上は何も言わなかった。

 ただ、口元を微かに緩めるのみ。何か尊いモノを見た、そう言うように。

 それから――おかわりで来たニールの目玉焼きを奪おうとしたり、逆に連翹がおかわりした目玉焼きとトーストを根こそぎ奪われたり、さすがに茉莉に怒られたりしながら朝食は終わった。終わってしまった。

 

(……いや、けっこう食べたはずなんだけど))


 別に、まだお腹が空いているというワケではない。 

 むしろ普段の朝食に比べたらたくさん食べた方だ。

 だというのに、終わってしまったと――終わらないで欲しいという想いがあった。

 

「さて、と。そんじゃ連翹」


 無意識に考えないようにしているのだろうか? 疑問を抱いたタイミングで、ニールが口を開く。

 気負いのない、普段通りの声。だというのに、どこか厳しい響きがあった。優しくはするがこれ以上は甘やかさないぞ、言外にそう告げられたようだ。


「……ん、どうしたの?」


 嫌な予感がしたが、それでもなるべく普段通りに笑う。

 その様子に、ニールは微かに伝えづらそうに言い淀んだ。

 珍しい。ニールなら言うにしろ言わないにしろサックリと決めてしまうイメージがあったのだが。

 しばしの間。ニールは頭を軽く掻いた後、連翹を真っ直ぐに見つめ――



「いつ頃、元の世界に戻るつもりだ?」


 

 ――そう、問いかけた。

 ぞわり、と背筋が凍える。

 それは恐怖ではなく、後ろめたさ。夏休みの宿題があることを理解しつつも放置し続けて、他人からどこまで終わっているのかと問いかけられたかのように。

 驚きはない。だって、いつか問いかけられるのは理解していたから。分かっていながら、現実逃避するように益体もない会話を続けていたのだ。


「別に急かすつもりはねえが、だからってこれ以上泊まるワケにもいかねえだろ」


 元の世界で待っている皆にも、茉莉や桜大にも迷惑だろうと。

 その言葉は正論そのもので、反論などあるはずもない。事実、そのくらいのことは連翹とて考えていた。

 考えていながら、朝起きてからずっと目をそらしていたのだ。

 決断した、自分で決めた、だからこそ実行せねばならない。そんなこと、百も承知なのだけれど二の足を踏んでしまうのだ。

 出来ればもう少しここに居たいと思うし、叶うなら世界同士が常に繋がってしまえばいいのにとさえ思ってしまう。そんなこと、不可能なのは理解している癖に。

 

「そ、そうね……なら、今日の昼食でも食べ終えた辺りがいいんじゃないかしら?」


 だから、問題を先送りにしてしまう。

 けど、そうだ、それがいい。

 それまでゆっくりして、昼食時は先程のように楽しく食事をして――


「――それで、やはり夕飯を終えた後が良いと言うのか?」

 

 静かに、けれど強い声音で桜大は言う。鋭い眼光を、真っ直ぐに向けて。

 

「連翹、どれだけ引き延ばそうとも別れは必定だ。お前がそれを決断したのだからな」


 必要があって留まるのなら良いだろう。

 何か目的があり、それを達成していないというのならこのようなことを言わない。

 だが、今の連翹は解決策も改善策もない癖に問題を先送りしている。後に回せば回すほど辛くなるのは、理解しているはずだろうに。


「でも……」

「これ以上は未練だ――どちらにとっても」


 家族や友人とずっと一緒に居たい。

 なるほど、当然の感情だ。それを否定できる人間など存在しないだろう。

 だが、その想いが重りになってはいけない。

 絆という名の鎖は頑強な交流の証であり、文字通りに縛り付けて固定するモノにしてはならないのだ。


「迷うのは構わん。だが、自分が決めたことくらいはやり遂げろ――そら、さっさと荷物を纏めに行け」

「……うん」


 返す言葉もない。

 実際、これ以上引き伸ばしも満足な別れなど訪れないのは連翹も理解していた。

 だけど、別れが必定というのならそれを引き伸ばしたいと思う。先に伸ばせば伸ばすほど、決断する時が辛くなるだけだろうに。

 

(こういうところ、ほんとに変わらないわね)


 規格外チートを得たことによって自信を持ち、友人たちとの交流を経て昔の片桐連翹からずっと真っ当な人間になったと思う。

 が、やはり根本部分は中々変わらないらしい。

 俯き肩を落とす連翹の肩に、そっと掌が載せられた。男のごつごつとした手、ニールの手だ。

 

「行くぞ、連翹」


 短い言葉と共に軽く背中を叩く彼に向けて、一度だけ頷く。自分で踏み出すのが苦手だからこそ、こうして背中を押して貰えるのはありがたい。このくらいは甘えていいだろう。

 立ち上がり、皆と一緒にリビングの外へ出る――その瞬間、思わず後ろを振り向く。

 桜大は努めて真顔を浮かべているように見え、茉莉は悲しげでありながらも小さく微笑んでいた。

 それから目を逸らすように二階へ。ニールたちは和室に、連翹たちは自室に。

 こちらの世界に合わせて衣服を脱ぎ、異世界に合わせた装備を身につける。セーラー服と鎧をかけ合わせた装備に、こちらの世界でこれを着るとコスプレをしているようだなと思った。

 そして、剣。

 現代日本でこんなモノを晒して歩いていたら通報間違いなしの肉厚な刃物を腰に差すと、否応なく別の世界に行くのだと実感できてしまう。

 隣に立つノーラも、また。

 白いローブと薄桃色のケープだけならまだこちらの世界でも順応出来るかもしれないが、右手の霊樹の篭手と胸で揺れる十字聖印は異物でしかない。

 はあ、ふう、と大きく息を吸って、吐く。

 落ち着かない鼓動と気持ちを少しでも落ち着けながら自室の外へ。

 

「お、ちゃんと出てきたな」


 すると、自室前の廊下で待っていたニールが笑う。

 カルナは居ない。もう既に下に向かっているのだろう。

 

「うん――それじゃ、行きましょっか」


 それ以上の会話もなく、ゆっくりと階段を降りる。

 何を話せば良いのか分からなくなっていたし、どのようなことをすれば良いのか分からなくなっていたから。

 ただ、足だけは止めぬよう。

 前に、前に。

 そして、どれだけ遅く歩こうともそう広くもない家だ、リビングになどすぐにたどり着く。

 

「ようやく来たね、靴の準備はしておいたよ」


 床の一部に新聞紙を敷き、その上に四人の靴が並べてある。


「僕ら四人が並ぶには玄関は狭すぎるし、だからといって外で転移したら大騒ぎになるだろう?」


 だったらここしか場所はないだろう、と。

 カルナの言葉に頷き、新聞紙の上で靴を履く。

 その間、ちらりと両親の方に視線を向けた。

 二人は何も話さない。いや、何を話せば良いのか分からなくなっているのだろう。連翹と同じように。

 リビングでは靴を履く音だけが響き、それもすぐに途絶えた。

 残ったのは沈黙。

 だからこそ、脳内に響き渡るそれは嫌に大きく響いた。

 

『ふむ、もう戻るのだな」


 ――獣の唸り声がする、虫の羽音が響く、ゴブリンやコボルトといった言葉の通じないモンスターの言語が紡がれていく。

 無数の生き物が自己主張する音が乱雑に混じったそれだが、しかし連翹には『人間の男性の声』に聞こえる。創造神ディミルゴの声だ。

 

『なに、すぐさま飛ばすような真似はせん。愛子の心の機微を理解しているなどとは言わぬが、想像は出来るのだから』


 ゆえに好きなタイミングで念じろ、と。

 こういう部分は少しありがたい。どことなくズレたところを感じるが、それでも彼なりに最大限配慮してくれているのが伝わってくる。

 恐らく、そういう部分が欠落していたら邪神まったなしだったんだろうな、と連翹は小さく笑みを浮かべる。現状でもけっこう色々どうかと思う神様なのに、それさえ無くなったらただの災厄発生装置だ。

 連翹は小さく頷くと、じっと茉莉に、桜大に視線を向けた。

 真っ直ぐ、真っ直ぐ、決して逸らさぬように。最後なのだから。


「わたしは――」


 その想いが伝わったのか、茉莉は絞り出すように声を出した。


「わたしは、連翹が帰ってきてくれて嬉しかったわ。グラジオラスくんたちとの会話で、またどこかに行くんだって思って、それは悲しかったけれど――それでも」


 そうであったとしても、元気な姿を見せてくれたことは嬉しかったのだと。

 茉莉はそう言って微笑む。悲しげに、けれど心から嬉しそうに。


「私は、お前があちらの世界に行って良かったのだと思う」


 桜大もまた、口を開く。 

 口元に自嘲の笑みを浮かべながら、けれど真っ直ぐ連翹を見つめて。


「結局のところ、私はお前と上手く接することが出来なかった結果が転移とやらであり、今なのだろう。だからこそ、私は『ここに残れ』などと言う資格などあるまい」


 結果、自分が居ない場所で娘は成長したのだ。

 現状は普通に会話できているから父親としての責務を果たしているなどと言えるはずもない。


「言えることはただ一つ、これからもあちらで上手くやれ」

 

 言うべきことはそれで終わりだ、そう言うように桜大は口を閉ざした。


(あたしは――)


 最後に何を言えば良いのか、どのように言えば良いのか。

 分からない。分からない。分からない。どんな言葉でも間違いなような気がするし、場違いなような気もする。

 悩んでも頭はこんがらがるばかりで、冴えたアイディアなどは出ることはない。

 だから。


「お父さん、お母さん」


 だから、心の赴くままに。

 後でもうちょっと上手い言い回しがあったのではと思うかもしれないけれど。


「ありがとう、さようなら」


 こんな駄目な家出娘を迎えてくれてありがとう、こちらで過ごす日々は楽しかった。

 そう、心から微笑んでみせたのだ。


     ◇


 ――そうして、連翹たちは光の粒子と化して消えて行った。

 桜大と茉莉の前から、家の中から、いいやこの世界から。

 時空を越えた四人の姿はもうどこにもない。幻のように、空想のように、そもそも最初から存在しなかったのではないかと思えるほどに。

 娘とその友人が滞在した痕跡は残ってはいるものの、それだけだ。数週間も経てば名残も消えて、この出来事が本当か嘘か分からなくなるのだろう。

 

「帰っちゃったわね」


 静かに茉莉が呟く。

 その声に寂しさも悲しさもない。けれど、その感情が無いワケではないのだろう。

 きっと、まだ実感が薄いのだ。新幹線や飛行機に乗るのを見送ったワケでもなく、目の前から消え失せたのだ。現実感が薄くても致し方あるまい。


「さて」


 静かになった家の中、桜大はカバンから書類とタブレット端末を取り出した。


「桜大さん?」

「金曜は同僚に仕事を押し付けてしまったからな」


 その分、月曜から真剣に働かなければならない。腑抜けている暇などないのだ。

 

「けどそんな、今すぐにやらなくても――」

「それに、だ」


 おずおずと物申す茉莉の声を遮りながら、桜大は口元に笑みを浮かべる。


「娘が未来を見据え決断したというのに、私たちが過去を嘆いてばかりはいられまい」


 ――この数日は幸福な日々であった。

 突如として消え去った娘、もう二度と出会えぬのだろうと半ば諦めていた連翹との再会。

 最後に出会った時よりも若干体が成長し、それ以上に心が成長していた姿には安堵と悔しさを抱いたモノだ。

 

(全て、全て、私には出来なかったことだ)


 転移と規格外チートという力。

 環境の変化と借り物とはいえ自信を得たこと。 

 それらがあってこそ、ニール・グラジオラスという男とその仲間も連翹を変えられたのだとは思う。

 だが、仮にその場に片桐桜大という男がそこに居たとして、連翹を上手く導けただろうか? 答えはきっと否。歯車はまるで噛み合わず、互いに空転するだけだ。

 

「そして、これは可能性でしかないが」


 それでも何か言いたげな彼女に、桜大は茉莉の目を真っ直ぐ見つめる。


「一度このようなことがあったのだ、同じことが二度と起こらんとは断言出来んだろう」


 仮にその時が訪れたとして、腑抜けた姿は見せられまい。

 そう言って、視線を手元に戻す。その様子を呆然と見ていた茉莉だったが、すぐに笑みを浮かべた。


「そうね、そうかも。……けど珍しいわね、桜大さんがそんな根拠のないことを言うなんて」

「……私は異世界とやらを知らんからな。私が不可能だと思ったことも、あちらでなら可能であるという可能性もあるだろう」


 僅かに言葉を濁しながら、桜大は作業を開始した。

 久方ぶりの家族との交流は終わり、日常に帰還する。

 胸の中に寂しさと悲しみはあったが、しかしそれ以上の幸福があった。ほんの数日とはいえ、もはや取り戻せないと思ったモノと触れ合えたから。

 だから、思う。

 連翹も、娘もまた、このように想い幸福に暮らして欲しい――と。


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