270/朝
ぱちり、と連翹は瞳を開いた。
地味に頭を苛む鈍痛に顔を顰めつつ、ベッドから降りる。微かなうめき声を出しながらベッドの隣に敷かれた布団に視線を向けると、上体を起こした状態であくびをしているノーラと目が合った。
「おはようございます、レンちゃん。体の調子はどうですか?」
「うー……良くはないけど、悪いと言い切るほど悪くはない、って感じかしら」
若干頭は痛いものの、それだけだ。吐気も無ければ気だるさもない。
「そういうノーラこそ大丈夫なの? あたしより強いお酒けっこう飲んでたじゃない」
「大丈夫ですっ。一昨日はほんの少し失敗しましたが、美味しく楽しく飲むように心がけていますので!」
ぐっ、と拳を握ってアピールする彼女に連翹は安堵の微笑みと苦笑が混じった笑みを浮かべた。
後半の記憶はあまりないのだが、ストロング缶の他に道中に買った地酒とかも色々味わっていたはずなのに、どうしてここまで差があるのだろう。連翹などほろ○いを三缶ほど飲んだ辺りで頭がおかしくなって死んでいたというのに。
(……いや、違う。違うわあたし。なんかもっと色々飲んだ覚えがある)
コーラサワーとか麦茶ハイだとか、後なんか桜大が飲んでいた強いお酒。
それを飲んで――いいや、それ以前に、何かやらかしていたような気がする。
じわり、と汗が滲む。
ゆっくりと復元されていく記憶と汗は完全に比例していた。
「……ねえ、ノーラ。若干記憶が曖昧なんだけど、あたしってなんかやらかしてなかった……?」
いや、きっと夢だ。
ニールに抱きかかえられた記憶と、なんか色々口からぶちまけた記憶が同時に浮かび上がっているが――うん、たぶん後者は関係ない。きっと夢だ。
「えー……どうしましょう、これわたしが黙っててもニールさんによってバラされる流れですよね……」
視線を逸しながらぼそりと呟くノーラの姿に、連翹は蘇った記憶が全て真実であると確信する。
そう、好意を自覚した相手に抱えられてトイレに連れ込まれ、その人物が隣に居る状態で胃の中のモノをえれえれと吐き出したという事実に――!
「……あ、やだ、どうしようなんか唐突に死にたくなってきたわ。というワケでさようならノーラ、また来世」
「え、待っ……!? ちょ、レンちゃん落ち着いて落ち着いて! 大丈夫ですよ、そのくらいでニールさんは嫌ったりしませんから!」
窓枠に足を乗せる連翹の背を、ひしっと抱きとめるノーラ。だが、離して欲しいと思う。
せめてこの気持ちに気づく前なら笑って流せたというのに、ドラゴンに対する竜殺しの剣のようにメンタルに大ダメージを与えている――!
ノーラを振り切って頭から落下してやろうと決心しかけた辺りで、こんこんと部屋のドアをノックする音が響いた。
「おう連翹、起きてるか? つーか、鍛錬行ける体調かよお前」
「あ、ニールさん入っていいのでちょっと助けてください! レンちゃん昨日のこと思い出して色々ダメージがあるみたいで……!」
「あ? いや、そのダメージは甘んじて受けさせとけよ。どんなことだって痛みがなけりゃ覚えねえだろ」
「痛み通り越して致命傷なんですよぉ今ぁ! いいから助け、あ、駄目ですってレンちゃん……!」
ノーラの拘束から脱し、足に力を込める。
さあ、今こそアイキャンフライ。すぐさまゴートゥーヘル。転生したらカンストステのオッドアイ美少女になってちやほやされたいと思う……!
「やめろ馬鹿」
「ぐへえ――!?」
跳躍した瞬間ニールに襟首をひっつかまれ、思いっきり首が閉まる。カエルが潰れたような声が漏れ出した。
ニールはそのまま子猫を運ぶ親猫のように連翹をベッドに運ぶと、はあとこれ見よがしにため息を吐く。
「気持ちは分からんでもねえが、とりあえず落ち着け。これ以上親不孝してどうすんだお前は」
言いたいことは理解出来る。
無論、連翹とて別に本気で死にたかったワケではない。
規格外の強化こそないものの異世界人の頑強さはあるのだ、脳天から尖った鉄柵なんかに突き刺さりでもしない限り死にはしないだろう。
だが、これはそういう考えとは全く別の部分からの衝動なのだ。脳天からカラフルな『死にたい』という文字が吹き出して発光しているような気になってくる。
「うぅううう……ニールごめんんん……けど二回目やらかした後の行動を思い出すと、ホント即座に死にたくなるのよぉ……」
「ああ。さすがに二回やらかした直後に三回目をやらかそうとした時はマジでキレたが――けどま、やっちまったもんは仕方ねえよ。あのカルナでも吐き散らかしてやがったんだ、誰だって多かれ少なかれそういう失敗はあるもんだ」
だから気にはしても引きずるな、俺も気にしてねえしよ――そう言ってニールは笑みを浮かべた。
(……こういうとこ、上手いというか、素だからこそというか)
カルナやノーラ辺りが似たようなことを言っても、「ああ、気遣ってくれてるんだろうなぁ」と思ってしまうが、ニールの場合そういう部分は少ない。
彼とて気遣っているのは気遣っているのだろうが、それはそれとして本気で気にしてないのだろうなと思えるのだ。だからこそ気分が落ち着く。相手がここまで気にしてないのだから、自分が引きずる意味はないなと思えるのだ。
「誰だってって言うけど……ニールもなんか失敗したことあるの? ……ああ、そうだノーラごめんね。朝から迷惑かけて」
「いえ……わたしも迷惑かけたことがあるので。人間、適量が一番ですよね……」
あはは、と乾いた笑い声を漏らすノーラ。一体いつ、誰に迷惑をかけたのかは知らないが、真顔から響く笑い声が触れてはならないと教えてくれる。うん、誰だって秘密にしておきたいことの一つや二つはあるものだ。
若干まだ沈んだ気分のまま、ゆっくりと立ち上がる。
その対面でニールは「あー……」と昔懐かしみながら苦笑いを浮かべた。
「故郷の自警団の集まりでガンガン飲んだあげく、テンションのままに料理と酒を追加注文しまくってな――金が足りなかったもんで師匠に土下座して建て替えて貰った」
なまじ酒に強くて延々と飲み続け、更にアルコールで食欲も倍増。
酒と料理で倍ドン、冒険者になる前のニールの財布では到底払える金額ではなかった――そのようなことを言ってニールは苦い笑みを浮かべた。
誰かが一言告げてくれればなんとかなったのかもしれないが、一回失敗しなくては学ばないだろうというのが師匠の教えだ。
「『どこかで気持ち悪くなるか吐くかで止まるかと思っとったが、お前さん勢いが全く衰えなくてな』って苦い顔で言われたぜ。あん時はマジで申し訳なく思ってな、余裕ある内にストップかけようと心に誓ったわけだ」
「強い人も大変なのね……」
強くても弱くても悩みは尽きない。
酒とは、まさしく世界の縮図である。
「けどニールさん、晩御飯にお酒飲むとすぐに寝ちゃいますよね」
「酒には耐えられても夜の眠気には耐えられねえんだよ。基本朝方だしな、俺」
そう言って笑うニールの顔に眠気は皆無。冬の早朝という薄暗くて寒い世界に順応しまくっている。実は前世は鶏だったりするんじゃないだろうかこの男。
「それはそれとしてだ。鍛錬は行けそうか? 無理そうなら休んでろ」
「ううん、このくらいなら大丈夫。あたしもノーラも着替えるからちょっと外に出ててね」
「――――おう」
間があった。
何かを、色々具体的な何かを想像したらしい間であった。
身の危険を感じたらしいノーラが布団で盾を作る。
「なんですかその間。言っておきますけど、覗いたり部屋に乱入したりしたら、わたしは許しませんからね。レンちゃんじゃないんですから」
「そうそ――ねえ待ってノーラ、その言い草だとあたしは覗かれてもオッケーって聞こえるから。痴女の類になっちゃうからぁ!」
「事故なら眼福って思いながら見るが、わざわざ嫌われてまで覗かねえよ。じゃ、俺は下で待ってるぜ」
三人居ないのに姦しい女たちをそのままに、ニールは宛てがわれた和室に戻る。
扉がしっかり閉まるのを確認すると、連翹はじとりとした目でノーラを睨んだ。
「……というかノーラ、何であたしは覗かれてオッケーみたいな風になってるの? あれなの? 貧乳は名誉男性だから実質同性だろって暴言?」
「わたしはむしろ、さっきの会話だけでそこまで飛躍させるレンちゃんが怖いんですが――けど、実際相手がニールさんなら問題ないでしょう?」
「はあ? なに言ってるのよ、そういう時はあたしだって怒るわよ」
当然でしょ? と髪の毛を整えるノーラを見つめる。
恥ずかしがりつつも蹴り飛ばして、思いっきり怒って、その後に鍛錬して朝ごはんを食べるのだと思う。美味しそうなモノを食べてたら奪ってやるくらいはする。
「ええ、そうでしょうね。けど……そうですね、その相手がニールさんではなくカルナさんやアレックスさん、ファルコンさん辺りだったらどうです?」
むっ、と。
パジャマを脱ぎジャージ――昨日とは別のモノだ――を着るため下着姿になりながら呻く。
そう、たとえばこの状態で突如、ノーラが例に出した男性が現れてこちらをじっくりと鑑賞したりしたら――
「……あ、やっばい。なんかすっごい恥ずかしいしキレ散らかしそう」
瞬発力もありそうだが持続力もありそうだ。
少なくとも蹴り飛ばしてこの話は終わり、で済ますのは難しい。食い物如きで誰が許すかそんなに安い体じゃない。
最低でも一週間くらいは口聞いてやるものかと思う。
「ほら、そういうのは特別な相手だからこそ許せるものなんですよ。……いえ、よくよく考えたら特別な相手だってそう簡単に許すのはどうかと思うんですけれど」
自分の髪の毛を整え終えたノーラは、連翹に歩み寄って髪の毛にくしを通し始める。
なるほど、そういうモノなのか。
納得したわと頷き――あれ? と思う。
「え、なに、ノーラ気づいてるの……?」
己の寝癖を整えるノーラの横顔を驚愕の面持ちで見つめる。
ニールが特別な相手だとか、そういうことをノーラに喋った記憶はないというのに。
なるほど、これはつまり――
「異世界転移の影響で読心能力のチートに目覚めた的な流れね……! もしかしてあたしもなんか特別な力に目覚めたりしてるの!?」
「なんにも目覚めてませんから。というか、レンちゃんと一緒に居て気づかないワケがないんですよねぇ」
口を出すべきかどうかけっこう悩んだんですよ、とノーラは苦笑する。
それほどまでに分かりやすい言動だったのだろうか。正直、あまり自覚はない。
だがそれは、傍から見て分かりやすすぎる行動を素で繰り返していたということであり、さすがに恥ずかしくなってくる。
「待って……それ、ニールも?」
はい終わりですよ、と動きやすいように髪を纏めてくれたノーラに、恐る恐る問いかける。
気づかないはずがない、ということは一番近くに居た異性であるニールもまた気づいているということになるだろう。
そうだとすると、気づいた上で女の友人のような対応をし続けていたということになるのか? 異性として見られないから、友人の立ち位置をずっと維持していたということに。
へこみかけた連翹だったが、ノーラは苦笑の色を濃くし、乾いた笑い声を上げた。
「あはは――幸運なことになのか残念なことになのかは判断が難しいけど、度し難いことに気づいている様子はないので安心してください」
地頭はさして悪くないのだから、もっと考えてくれたらいいのに……寝間着を脱ぎながらぼそりと呟くノーラ。なんというか、デリカシーのない男子の噂話をする女子クラスメイトみたいな空気だ。
連翹は下着姿のまま半笑いを浮かべ、一応ノーラに物申す。
「の、ノーラ? あれでちゃんと良い所はたくさんあるから、ね?」
「分かってますよ、ちゃんと。……分かってはいるんですけど、時々この人ほんとどうなんだろうと思うこともあるんですよね」
それは分かる。
とても分かる。
連翹はフォローを放り捨てて頷いた。
見た目よりは常識人寄りだと思うし、裏表の少ないオープンな人柄は見ていて安心出来る――が、オープンはオープンでもオープンスケベよねと言いたくなる時も多々とある。
けっこう面倒見も良いし悪い人ではないのだが、対女性の距離感を盛大にミスっている感じは否めない。
「でもまあ、一つのことに打ち込んでる姿は格好いいし」
なにより、その背中に憧れる。
天才ではなく、選ばれた誰かでもなく、ただ自分が選んだ道を進んだ結果、転移者の王を打倒した彼。
何事もあまり長続きしなかった質だから、余計に憧憬してしまう。
取り出したジャージを着込み、腰回りのゴムを執拗に確認してから大きく頷く。
だからこそ、こういう毎日の積み重ねをサボってはならないのだと強く思うのだ。
「よし、それじゃあ行ってくるわ」
「はい、行ってらっしゃい」
ノーラに手を振りながら扉を開け、自室と同じく二階にある和室を覗き込む。
既にニールは一階へ行ったのだろう。部屋の中には熟睡したカルナが居るだけだ。
ゆっくりと扉を閉め、そのまま階段へ。まだ寝ているだろう茉莉や桜大を起こさぬよう静かに移動してリビングへ。
「お待たせニールー……と、お父さん?」
リビングに居たのは、ジャージ姿になったニールと動きやすそうな格好をした桜大であった。
足音で気づいていたらしいニールが背中を向けながら右手を挙げ、扉を開けた音で気づいた桜大が「なるほど、元気そうだ」と頷いた。
「どんな風に鍛錬してんのか気になったらしいぜ。つっても、ここじゃ剣を振れねえからいつも通りじゃねえんだが」
「それでも空気くらいは感じ取れるだろう。なに、私も混ざろうとまでは言わん。近くで軽く体を動かすとするさ」
構わんだろう? そう言ってこちらを見つめる桜大に頷く。
一緒に居る時間が増えることに否があるはずもない。本当なら鍛錬も止めてただ喋るだけの方が良いのかもしれないが――今は普段のままで。
最近は朝に体を動かすことに慣れてきたから、というのもある。だがそれと同じくらい、下手に普段と違うことをしてしまうと上手く喋れなくなる……そんな予感があったから。
「うん、それじゃあ行きましょっか」
「おう。桜大さん、近場の公園まで走るけど大丈夫か?」
「問題ない。常日頃から運動をしているワケではないが、それでもそこらの同年代よりは鍛えている」
見くびるなよ、そう言うように口角を上げる桜大。
――それから五分後。
体を温める程度の、そしてこちらの世界の住民に不審がられない程度の速度で走り公園にたどり着いた三人であったが。
「……桜大さん、あんま体力ないのな」
「は――これでも……この歳にしては……マシな方だ……」
アスリートなどではない以上、細くて軽く走れるだけで十分運動は出来る方だ、と息も絶え絶えな声で物申す。
途中まで普通に付いて来ていた桜大だったが、途中から能面のような無表情で脂汗を多量に流し始めたのだ。娘にあまり無様な姿を見せないようにと思っているのかもしれないが、ぶっちゃけ表情が変わらなすぎて不気味だと思う。
「むしろ……お前たちが……異常だろう。駅伝の選手か、何かか……」
「……あー」
もしかして、『こちらの世界の人間が走る速度』という想定が狂っていたのだろうか。
確かに連翹は元々運動をしていなかったため、元の世界で走る速度など分からない。だから昨日、対面から走ってくる男を確認して『ああ、あの人より遅いしこれでオッケーね』とチェックしたのだが――
(……考えてみれば、その人かなりガチで走る感じだった気がするわね)
今になって思うのだが、その人を基準にしちゃ駄目だったのではないだろうか?
――あ、駄目だこれ完全にミスってる。
目立たないようにと他人に合わせようとしたら、合わせた人が学園一番の実力者だったとかそんな感じ。平穏に暮らすため目立たないように頑張ってるのに、色々と裏目に出まくってる系主人公になった気分だ。
あちゃー、と天を仰いでいると訝しげな顔をしたニールが歩み寄ってくる。
「俺アスリートとか分からねえんだが、つまり、どういうことなんだ……?」
「村一番の剣士同士で実力を競おうとしたら、なぜか自分以外の剣士が全員騎士だったみたいな感じ?」
「むしろ息も絶え絶えぐらいで済んでる桜大さんがすげぇよ」
恐れおののくニールに頷く。別に体を動かす仕事でもないのに、よく並走できたものだ。
「……まあ、あれだ。男ってのはプライドがあっから」
なにそれ。
フォローするような物言いに首を傾げるが、ニールは気にするなと言うように手を振る。その背後では、桜大がようやく再起動し立ち上がろうとしているところであった。




