269/最後の夜
それからしばらく、テーブルに座って異世界における連翹の他愛もない話をした。
最近は早起きする習慣が身に付いているが、少し前までは一番起きるのが遅かったこと。
ノーラがさらわれた時、逆ハーレムの演技をして転移者と相対したこと。
アースリュームとオルシジーム、異種族の国を二人で出歩いたこと。
ニールの故郷で剣を手に凛々しく敵と戦ったこと。
などなど――間の抜けたことから微笑ましいこと、そして激しく戦ったことなどを茉莉や桜大に語る。
ニールたちは昔懐かしむように笑い、桜大は興味深そうに頷き、台所で晩ごはんの準備をしている茉莉は柔らかく微笑む――
「ううー……」
――その間で連翹は気恥ずかしそうにしながらジュースを啜っていた。
その気持ちは分からなくもない。ニールが同じ立場だったら「せめて俺が居ない場所でやれよぉ!」と叫びたくなったことだろう。さすがに恥ずかしい。
だが、長らく会っていなかった両親からの申し出だ。連翹の気持ちも分かるが、ここは茉莉や桜大の気持ちを汲みたいと思う。
「……それでニール、本音は違うんだろう?」
「全く違うワケじゃねえが、ぶっちゃけ合法的に恥ずかしがらせられるなんてマジ素晴らしくね? って思……っておい、ナチュラルに心を読むな」
「読まれたくないならもっと表情を誤魔化したらどうかな。僕でなくとも丸分かりだと思うよ」
そんなに内心が顔に出ていたろうか? 不安に思って口元に手を当て――やっべえめっちゃにっこにっこしてやがる、と愕然とする。
めっちゃ表情に出てた、これなら誰でも内心を読める。無論、連翹も。
「おうニール、ちょっと表に出てもらおうじゃない。速攻土下座らせてざまあってやるわ」
「土下座らせてざまあってやるって斬新な言葉遣いだなオイ。悪かったって、ちょっと楽しみすぎた。だから落ち着け、わりと今のお前の拳は凶器だからよ」
立ち上がってシャドーボクシングを開始する連翹の肩を掴んで強引に座らせた。
自分が責められているから有耶無耶にしたワケではない――ほんの少し、そういう部分があったのは否定しないが、それでも全てではない。
なにせ、この世界の人間とニールたちの世界の人間は体の出力が違う。
お遊びの拳とはいえ、下手に茉莉や桜大の脳天に当たったらそのまま気絶――という可能性もゼロではないのだ。
連翹もそれに気づいたのか、しぶしぶといった風に腰を下ろす。
「しかし、戦うか……」
その様子を見つめながら、桜大は先程ニールたちが語ったことを思い出し眉を寄せた。
「娘が剣持って戦うのは嫌か?」
「正直、そう思う部分もある。喧嘩程度ならまだしも、武器を持って戦うとなると不安に思う――この国で暮らしている者の多くは私と同じように思うだろう」
子供の頃の喧嘩ならまだしも、今この国で武力を誇るのはその道のプロかただの阿呆の二択だと語る。
暴力や争いとはどこか遠いモノであり、格闘技などを極めた者たちのショーぐらいでしか間近で見ることはない。そんな中に娘が飛び込んだというのだ、思う部分はもちろんある。
「だが、考えた末に決めた道だ。ならば私があれこれと言うのも違うだろう――しかし、それ以上に思うのは娘如きでどうにかなるのか? という疑問だ」
桜大は連翹を――より正確に言うなら連翹の腕を見つめる。
なるほど、転移前に比べたら随分と引き締まった。努力をしているのだろうと理解でも出来る。
だが、言ってしまえばその程度。
運動系の部活に精を出す学生と大差はないように見えるというのに、これで戦ったりすることが出来るのか。
「そもそも、剣で戦うというのなら鎧などの防具も身につけるのだろう? 私も鎧の重量に詳しいワケではないが、そんな細腕で扱えるモノではないだろう」
その辺りはどうなのだ? と。
桜大は静かに問いかけ、連翹は小さな吐息と共に答える。
「実のところ、お父さんが言ったのはけっこう正しいのよね。だからこそ、どっちにするか悩んだんだし」
この世界に戻るか、あちらの世界で暮らすか。
転移者の規格外を失った連翹は、ここ数ヶ月の間に鍛錬しただけの小娘でしかない。
実際、規格外の効果が無くなった瞬間、連翹は動けなくなったくらいだ。
素人ではないが、しかしまだまだ未熟。無論、ノーラの力を借りれば一時的に規格外を取り戻せるが――そればかりに頼っているワケにはいかないだろう。
ニールは思う。
連翹は決して才能が無いワケではないと。
だが、それは鍛錬が苦痛ではないという意味ではない。反復練習は面倒だし、体力づくりは辛いのだ。その上、努力の方向性を間違えたら辛いだけで身につかず、かといって正しい努力をしたからといって楽になるというワケでもない。
それを乗り越えたとしても、それ以上の鍛錬をした者に、自分以上の才能を持った者に敗北することもある。言葉にしてしまえば、なんとリターンの少ない苦行なのだろうか。
「けど、それでもあっちで生きたいって思ったから頑張るわ。どうしても駄目だったら……連合軍、ああ、あっちで出来た知り合いの人たちに頼み込んで働き口を紹介して貰うかなって思ってる」
実際、自分がどこまでやれるか分からないから――そんな弱気とも慎重とも取れる言葉と共に微笑んだ。
頑張って頑張って、それでも駄目ならその間に築いた人脈に助けを求めよう、と。
「何がなんでも出来るようになる、とは言わないのだな」
「断言した方がいいかな、とは思ったけどね。でも、やっぱりあたし自分にそこまで自信を持てないわ。才能とかも、あたし自身の気力とかも……甘ったれてる、って言われるかもしれないけど」
どれだけ頑張ろうと思っても、途中で折れる未来を想像してしまう。
その時に逃げ道がゼロだと、ニールたちに迷惑をかけるから、と。
その思考は冒険者らしくはないが、しかし必要なモノであった。剣しか道が無ければ、その道が断たれた時にどうしようもなくなってしまう。ゆえに、ツテやコネを作って第二の人生を歩む準備をするのは決して悪いことではないのだ。
(……つーか、耳が痛え)
ニールもまた、何らかの出来事で冒険者の道を、剣士の道を断たれる可能性はある。
だというのに、そういうことを一切考えてない。多くの人間は連翹を臆病と言うかもしれないが、そういう慎重さも生きる上では必要だと思うのだ。
「考えなしでないのならば、私から言うことはない」
「そうなの? 失敗を最初から考えて動くなんて生ぬるい、とか言われるかなぁと思ってたけど」
「その手の熱意は素晴らしいモノだと思うが、それ以外は無意味ということにはならんだろう」
失敗を考えず全力で駆け抜ける無謀な熱意も、失敗した場合を考えて動く臆病な慎重さ。
それらは方向性が違うだけで優劣をつけるモノではない。
「桜大さん、説教臭くなっちゃってるわよ」
「む、そうか……結局のところ、こういう部分が駄目だったのだろうな」
台所から響く茉莉の声に桜大は失態だとばかりに眉を寄せる。
その表情も不機嫌そうに見えるのだから染み付いた癖とは厄介なモノだと思う。出会った当初よりかなり柔らかい対応をしているというのに、表情は厳し過ぎて時々本当に怒ってるんじゃないかと見ていて不安になる。
「大丈夫よ、人生を百年だと思えばまだ半分も生きていないんだから。治そうと思えば治せるわ」
何事も始めるのに遅すぎるということはないでしょう、そう言いながら机の上に料理を並べていく。
白米と生姜焼き、サラダと味噌汁という奇をてらわないラインナップ。だがその中に、赤いソースらしきモノで漬け込んだ白くて細い野菜という他の料理とは若干ジャンルが違うモノがテーブルの中央に置かれる。
「ああ、これかしら? 昔、ラーメンチェーン店に行った時に食べて以来好きなのよね、こうやって漬けたもやしって。おつまみとかは食後に作ろうかなって思っているけど、それまではこれでも摘んでてね」
なんだこれ、という視線に気づいたのか茉莉が伝わったのだろう。小鉢を手渡しながら説明してくれる。
へえ、と試しに軽くつまむ。
あまり好きそうな食べ物ではないが、せっかく説明して貰ったのに手を付けないというのは駄目だろう。
大した期待もせずに噛み締め――瞬間、口に広がるシャッキリとした歯ごたえと辛すぎない辛味。これ一つでごちそうと呼ぶ程ではないが、しかし程よい辛味がとても酒に合う。
酒のアテとは肉と卵、あとはチーズ辺りだと思っていたが――野菜は野菜で悪くないのかもしれない。
「野菜のパワーも侮れねえな……酒にも合うなんて最強かよ」
「野菜って言ったら芋だって野菜じゃないですか? ニールさん、ポテトサラダとかフライとかお店でよく食べてますよね」
「いや、まあ確かにそうなんだが……芋系はなんか別の食い物って感じがしねえか?」
「確かに、ポテトフライを野菜に分類するのはアメリカンおでぶくらいよね」
ジャパニーズおでぶだってポテトフライを野菜とは言わないわ、とこれまた良く分からないことを言い出す連翹。
だが、それを聞いた茉莉の「あー……うん、まあ確かにそんな感じよね」と呟いていた辺り、的の外れたたとえではないらしい。
「いや、それ以外にもピクルスとかもあるじゃないか――っと、ニールは苦手だっけ、あれ」
「食えないってワケじゃねえが、あれって大体酸っぱいしな……お前はああいうの平気だよな」
「ああいうのを食べながらワインを飲むのも美味しいからね――ニールと一緒に居ると、どうしてもビールとかになっちゃうけど」
「別にワインも嫌いじゃねえんだがな、けど疲れた後のビールに勝る飲み物なんぞこの世には存在しねえだろ」
「うむ」
ニールたちの会話を静かに聞いていた桜大が、突如として力強く頷いた。
意識して、というよりは思わずといった行動だったらしく、注目を集めたのは予想外という顔だったが――知ったことか、この波に乗るしかない。
「はっ、どうだカルナぁ! こっちには桜大さんがついた以上、舌戦でお前に勝利の目はねえぞ!」
「いや、僕だってそういう時のビールが美味しいってのは分かるから――というか自分の力でもない癖に勝ち誇るなよニール」
「あたしの親の力っていうチートで勝って嬉しいの?」
波に乗ったらそのまま落下、沈没した。
くそう、と失意のままに生姜焼きと白米を食べる。豚肉と微かに甘みも感じるタレ、そして生姜の香り――それを味わいながら白米を口に運ぶ。
先ほど感じた失意など即座に洗い流され、食事に集中してしまう。男っていう生き物は味の濃い肉と米があれば機嫌など簡単に治ってしまう単純な生き物なのである。
「でも、このもやしって野菜、あっちでは見かけませんよね。高級品だったり、こっち特有のモノなのでしょうか?」
ほろ○いを飲みながらもやしを自分の小鉢によそいながらノーラが疑問を口にした。
「いや、もやしなんて安いモノだし、豆さえあればいくらでも……あれ? 確かに考えてみれば異世界に行ってからもやし料理とかって見た覚えないわね。けっこう現代日本で食べた料理はある癖に」
「一応、存在はしていたらしいよ。確か豆を成長させたモノだよね。武装帝国アキレギアの時代の終わり頃、籠城した戦士がこれに近いモノを食べてたって記録は残ってるけど――それ以降は僕も知らないな。どこかの村で細々と作っているのか、作り方が断絶しているのか……どちらにせよ、他の野菜とは違ってあまり流通はしていないね」
「転移者の人たちが作り方を教えたりしなかったから、そのまま無いまま――って感じなんでしょうか?」
だろうなぁ、とニールは生姜焼きのタレの中にサラダをぶち込みながら頷いた。肉のタレは野菜にかけてももちろん美味いのだ。
それはともかく、もやしとは良くも悪くも添え物という感じであり、わざわざこれの作り方を教えようと思わなかったのだと思う。大陸が食糧不足であったのならともかく、氷の魔法で保存も容易な現代ではメインにはならない以上、転移者の自尊心を満たせなかったのではないだろうか。
連中、最強だとか頂点に成り上がるとか好きだからな――そんなことを考えていると、不意にカシュッ、という音が響いた。缶を開ける音だ。
「ふふふ……やっぱりこっちのほろ○いよりストロング・ゼ○の方がお酒を飲んでる感があって好きですね。ほろ○いだってもちろん美味しいですけど、あれはジュースですよジュース。実質アルコールゼロです」
「ノーラノーラ、缶の表記見たけど、そっちにもちゃんとアルコール入ってる。入ってるから『さっきのはノーカンね』みたいなノリでストロング・ゼ○開けないで」
「ノーラさん、けっこう強いんだよね……それ以上に飲むことがあるから注意が必要なんだけどさ」
「ペースもけっこう早いものねホワイトスターちゃん……カンパニュラくんの方は飲むのけっこうゆっくりなのね」
「勝負でもなければそこまで急いで飲む理由はないですし、少し前に大勝負やったからもういいかな、と。それに冷たい酒はあんまりハイペースで飲むと酷いことになるので……」
過去の失敗を思い出したのか苦笑いを浮かべるカルナの話を聞き、ふと疑問を抱く。
「カルナ。勝負って、ここ最近飲み比べとかやったことあったか? 俺が知った範囲じゃ普通に飲み食いしてただけだろ」
「あ、それなら工房サイカスのドワーフの皆さんと飲み比べしてたってアトラちゃんから聞きましたよ」
「馬鹿じゃねえのお前」
体の造りからしてアルコールの許容量が違うだろ、何をやっているのかこの男は。
「いや、待って欲しい。確かにそう言いたくなる気持ちも分かるよ。けど、『銀髪ノッポはミルクでも飲んでるか?』って酔っ払いドワーフに言われたらこの野郎白黒ハッキリさせてやろうじゃないか杯を寄越せ! って気分になるだろう?」
「気持ちは分かる」
勝負する前から舐められるなど我慢できるはずもない。正々堂々勝負して敗北したのなら納得も出来るが、そうでないなら全力でぶつかるだけだ。
男とはそういう生き物だろう――そう桜大に視線を向けると、彼は大きく頷いてくれた。
「無論だ。馬鹿馬鹿しいと思われようとも、男とは意地とプライドの生き物なのだからな」
「さすが、生きたい道のために生き方も性格も改革した人なだけありますね。僕もまだまだ道半ばだ」
確かに、カルナと桜大は互いに性格を改善したという共通点があった。
そう考えてみるとカルナが桜大に舌戦で負けるのも至極当然と言えるだろう。年齢以上に生き方の先輩であったのだから、まだまだ未熟なカルナがつけ入る隙など見つけられるはずもない。
「男の人って多かれ少なかれそういうとこあるわよねー。大人しそうな人でも、趣味とか何か打ち込んでいるモノとかの話になったら途端に意地っ張りになったり」
「だからって必要以上に争う理由はないと思うんですけどね――んく、ああ……飲み干したお酒の冷たさとアルコールが巡る感じ、いいですよねぇ……この時のために日中お酒飲まずに居たんだと思いますよぉ……」
「……ホワイトスターちゃん、その歳でこんなに飲むのなら将来気をつけましょうね。痛風は男の人が多い病気だけど、女の人がならないってワケじゃないんだから」
「大丈夫ですよ、しっかり体は動かしてますから」
「前よりお腹ふっくらしはじめたのに? ノーラけっこう食いしん坊気質なのにお酒も飲むようになって、更に甘いモノ好きとか、成長期終えたらデブるコースじゃない? ロシア少女みたいに! ロシア少女みたいに!」
「かふっ……」
「ああ、ホワイトスターちゃんがお酒を溢さないように努力しながら咽てる……!? 連翹、貴女も人のこと言えないんだからね? 人のことばっかり言ってるんじゃないの」
「い、いえ……ロシアとかは良く分からないですけど、言ってることは正しいので。ちゃんと節制もしないと……でも、どれを減らせばいいんですかぁ!?」
「あ、節制する前からダメージ喰らってる……」
――意気投合している男たちの横で何をやっているのだろう女性陣は。
なぜ言葉で傷つけ合うのか、どうして争いは絶えないのか、酒さえ飲んでりゃどうでも良くなるし飲もうぜと思う。
酒は結局のところ毒だと転移者が伝えてくることはあるが、知ったことか毒だろうと上手く使うのならそれは有用なんだ――!
「実はねニール、こっちの世界には禁酒法っていう法律を作った国があってね……」
「俺がこの世界のその時代に産まれていたら犯罪組織の門を叩くぞ」
「右に同じく。躊躇いなく魔法の力を貸したんじゃないかな」
「カルナさんもニールさんも何を言っているんですか! そんなことは……ッ! そんなこと……」
即答するニールとカルナ、二人を咎めつつもそちらに心を奪われているのが丸分かりなノーラ。
性格的に秩序寄りのノーラですらこれなのだ、禁酒法時代にマフィアが力をつけたという理由も分かる。
酒って悪影響も大きいけれど利益も大きいからな、と一人で納得しながらスカイツリーの栃木アンテナショップで買った地ビールを飲む。
こちらの世界でたくさん売っているビールより香り高くコクもあって、中々美味い。肉料理を食べている時は缶ビールの方が合いそうな気はしたが、それはそれ。黄金コンビを味わうのも良し、新たな味わいを楽しむのもまた良し。食事と酒はやはり切っても切れない。たとえ霊樹の剣でも無二が使っていた刀でも断ち切ることは出来ないのだーー!
「ねえニール」
でもビールの味自体はこっちのが好きだなぁ……! そんなことを考えていたニールの裾が、くいくいと引かれる。
声の主は連翹であった。
先ほどまでのノリより若干大人しめなことに僅かな違和感を抱くが、そこを問いただす前に口が開かれる。
「お酒、あたしも飲んでいい? あ、飲むにしてもそっちのストロング系じゃないやつね。さっきノーラが飲んでたみたいなアルコール少なめの方で」
「構わねえが、お前いつも飲まねえのに――」
言いかけて、気づく。
連翹が酒を飲まなかったのは、元の世界ではまだ未成年なのにお酒を飲むのは悪いことをしているようだから、というものであった。
あの時はなんとも思わなかったが、今思えばこちら側の世界と完全に切り離されぬよう無意識に引いていたラインだったのかもしれないと思うのだ。
両親が住まうこの世界の理を、僅かに守っている。僅かにだが、自分を元の世界に残しているのだと。
それは意識的なモノではなく無意識的なモノだったのだろう。それを意識出来るほど元の世界に心残りがあったのなら、そもそも異世界転移などしてはいまい。
――だが、連翹はもうここには戻れない。
この世界と決別し、ニールたちの世界に行く。
ならば、こちらの決まりを破るのはある種の決別だ。自分はもうこちら側ではなくあちら側なのだという静かな宣言なのだろう。
「――いや、なんでもねえや。味はどうする?」
「んー、それじゃそっちのはちみつレモンってのちょうだい。あたし的にそれが一番美味しそうに見えるの!」
ニールは何も問わず酒を渡し、連翹もまた深く説明することなく酒を受け取る。
聞くのは無粋だと思ったし、連翹もまたわざわざ話すことは無粋だと思ったのだろう。
「あんま度数は高くはねえが、飲みすぎんなよ。カルナの奴も最初ひでぇ失敗しやがったんだからな」
「平気よ平気、さっきノーラが言ってた理由も分かるわね。ジュースみたいに軽く飲めるわこれ」
注いでやった酒をくいっと一杯。アルコール度数が低い酒とはいえ良い飲みっぷりだ。
ぷっはあ、とお前それ女子としてどうなんだという音を鳴らした連翹は、ずいっと上体を桜大の方に寄せる。
「よぉし、これであたしも晴れてこちら側ね! お父さんお父さんコップが空じゃないの、酌ってやるから神妙にコップを出しやがりなさい……!」
「……ああ、言葉に甘えよう」
「甘えるといいわ甘えるといいわ! あ、お母さんってお酒飲むっけ? あんまり飲んでる姿って見たこと無いけど」
「飲めなくはないんだけど、すぐ眠くなっちゃってね。最低限の片付けを終えるまで飲まないようにしてたのよ。……けど、今日くらいはいいかしらね」
「構わん、皿洗いなど明日に回して寝ると良い」
「……お父さん、気を回してるつもりなんだろうけど、そこは『私が洗っておいてやる』って言うべき場面だと思うの」
「む……」
「いいのいいの、そこまでのことを桜大さんに期待してませんからねー」
「舐められたままでは終われん。茉莉、眠ければとっとと寝ると良い。後のことは私がなんとかしよう」
「……ちょっと嬉しいんだけど、それ以上に不安なのはなんでなのかしらね……?」
「なんだと」
はしゃぐ連翹、微笑む茉莉、渋面なようでいて口元が緩んでいる桜大。
三人の姿を見ながら、ニールは静かにグラスを傾ける。
こちら側の世界における連翹の幸せを、その瞳に焼き付けるために。
連翹がどうしてニールたちの世界に来る決断をしたのかは聞いていない。だが、悩んだ末に選んでくれたことくらいは理解している。
だからこそ、今と同じくらいに――否、それ以上に幸せにしてやらねばならない。
それが、選ばれた側の義務だろう。
(――はっ、なに彼氏面してやがるんだって話だ)
思わず自嘲の笑みを浮かべてしまう。
だが、それでも思ってしまうのだ。
連翹が世界を選んだ理由の中に、ニール・グラジオラスという男が少しでも関わっていてくれたら良いな、と。
二年前――いや、そろそろ三年前――に出会い、勝手に一目惚れしただけの男が何を言っているのやら。あちらがどう思っているのかも分からないというのに、心の中でぐだぐだと、本当に女々しくて仕方がない。
「ねーえぇ! なに黙ってお酒飲んでるのよぉ、キャラじゃないわよキャラじゃあ!」
連翹のことを馬鹿女と言える男じゃなかったな、そう自嘲していると後ろから思いっきり抱きつかれた。
瞬間、香ってくる思いの外女性らしい匂いだとか、後頭部に当たる平たくも微かに自己主張している柔らかい部分だとかを感じ取って、思わず「うおぁっ!?」と素っ頓狂な声を上げてしまう。
「ニールはもっと自信満々じゃないと困るのよあたしが! 劣勢でも自信満々に剣を振って、だってのにけっこう負けて」
「なんだお前喧嘩売って――」
「でも、頑張って頑張って、最終的にどうにかしちゃう貴方が格好いいって思ってるんだから。あんまり沈んだ顔見せないでよ、不安になるでしょ。どうしてもなんか不安なら相談くらい乗るわよ」
「――ああ、いや、なんでもねえよ、うん」
「そうー? まあ、酔っぱらいだものね、互いに。ごめんごめん」
正直、ニール自身かなり上ずった声だという自覚はあった。
だが、初めて酔が回っている連翹を騙す程度には上っ面を取り繕えたらしい――もっとも、連翹だけしか取り繕えなかったのだが。
ノーラと茉莉は微笑ましそうに見つめてくるし、カルナは後で笑ってやるぞと言うようにニヤニヤしている、桜大は安堵したように口角を上げる。
正直、恥ずかしくてたまらない。なんだこの童貞野郎は。娼館に行って経験くらいはしているというのに、その時の経験がまるで役に立ちそうにない。
はあ、と息を吐くと周りから降り注ぐ視線から逃れるように連翹の方に視線を向ける。
なにせ普段から妙なテンションな女なのだ。酔っ払った以上、更に激しいテンションで色々とうやむやに出来るはず――
「……連翹?」
だというのに、連翹はなぜだか黙りこくっていた。
気づけば、連翹の手元には缶が五つ。
飲み干したモノが四つ、半分くらいコップに注いだモノが一つ。
連翹は、コップを握ったまま俯いて動かない。
嫌な――嫌な予感、というか確信がった。
あ、これどっかで見たことあるぞ、と。
初めてがっつり酒飲みまくって大失敗したどこぞの誰かさんと同じ空気だぞ、と。
「大丈夫、大丈夫……待って、ちょっと、おちつける、うん、おちつ――ぅぉぶぇっ……んく、せ、セーフ……」
「……ちょっと待て、明らかにアウトな音したぞ今。なに飲み込んだお前」
女がやっちゃ駄目なことをサラッとやりやがって、と言うニールの方を向いて連翹は微笑む。
普段通りに笑おうとして、引きつりまくった笑みであった。
細かな体の震えも相まって、こみ上げてくる何かと水面下で死闘を繰り広げているのが伝わってくる。だが、どう見ても劣勢だ。敗北の足音が響き渡っている。
「だいじょぶ、だいじょぶ、ちょっと口の中酸っぱいけど、それはきっと今飲んでるのがレモン系のお酒だったからってことで完全論パぅ……ぇ」
「分かった分かった、分かったからトイレまで行くぞ。いいか、ゆっくりだぞ、分かったな? 返事はしなくていいから、ゆっくりとだ、いいな?」
「はぁーん? 何をそんな大げ――、げ……ぅッ!?」
「だぁら言ったろうがぁ! もちっと耐えろぉ!」
連翹を抱えて疾走。家や家具などを破壊せぬよう気を使いながら、けれど可能な限り全速力で。この女、もう口の辺りまで来てる音鳴らしてる――!
リビングを脱出しトイレに突入。抱きかかえた連翹の頭を便座に向け――色々と炸裂した。そう、色々と。酒とか食べたモノとか、本当に色々だ。
間近で響く音に『間に合った』という安堵と『俺、別世界に来てまで何やってんだ』という虚無感が湧き上がる。いや、間に合わなくて掃除を手伝うハメになったのを想像すれば、これはかなりマシな未来ではないのだろうか。
「ぅぇぷぇっ……ぅぅぅううう、ありがとうニールぅううう……ぶちまけるかと思ったぁぁぁぁぁ……」
「あー、まあ、初めてだしな。そういうこともある」
何事も初めてに失敗は付き物だ。それをわざわざ嗤ったりはすまい。
カルナ? あれは互いに距離感を弁えた上だからセーフだセーフ。
出すもの出し切った連翹と共にテーブルに戻り、ふう、と息を吐く。まあ、これで一安心――
「……なんかスッキリしたからもう一本くらい飲めそう! ニール、そっちの白いほろ○い取って!」
「ばっかじゃねえの!? とっくにキャパオーバーだよ、ほらコーラ注いでやるからこっち飲めぇ!」
――反省する時間短ぇ!? コーラをグラスに注ぎながら思ったが、違う。
この女、酔っ払っている。酔っ払って楽しくなって自分の引き際を全く理解出来ていない――!
吐いて気分がマシになったからだろう、苦しさは薄れ楽しさだけが残った今の連翹にまっとうな思考回路は残っていない……!
「えー、コーラは昨日も飲んだしー、お酒、お酒ちょうだいよー。大丈夫、出すもの出してスッキリしてるから」
「出す羽目になったのはもう体が受け付けてねえからだよ。いいから酒以外の飲み物飲んで寝ろ」
「いやニール、ここで退いたらお酒に悪い印象抱いちゃうかもしれないから! そういう感情を飲み干すためにもう一缶! もう一缶!」
「……分かったよ、だがこっちのアルコール度数が低いコーラの酒にしとけ」
「わーい、ありがとニールー」
ニールが差し出したグラスを受け取って、ぐいっと呷る。
その様子を横で見ていたノーラが、そっとニールに問いかける。
「……ニールさん、それって今注いでた普通のコーラじゃ」
「あの様子じゃ黙ってりゃ分からねえよ、ほら」
ぷはー! と凄く美味しそうに、そして楽しそうに飲み干している。これお酒じゃない、みたいな文句は皆無だ。酒だと思い込んで楽しんでいる。
「さっきよりするする飲めちゃうわね。これってもしかしてあれ? 一度戻して強くなったのかしら、ほら瀕死になったらパワーアップ的なあれなのね! ニールニール、もっとなんかないの?」
「うわあ……本当に気づく様子がないですね……」
「だろ? ……待ってろ、今緑茶割り? じゃねえな、麦茶割ってのを出してやるから」
「ありがとー、なんかお茶で割ったお酒ってなんか大人っぽいイメージがない? あたしだけ?」
「大人は大人でもおっさんじゃねえか? ほら、ゆっくり飲めよ」
わーい、と受け取る連翹の横でカルナがぼそりと呟く。
「さすがに麦茶だけじゃ気づくんじゃないかな?」
「ストロング・ゼ○のレモン、それをほんの少しだけ入れたから若干味が違うのは事実じゃねえか? 風味くらいは多少変わってんだろ」
残りを全部自分のグラスに注ぎながら、お酒だーと嬉しそうに九割麦茶を飲んでいる連翹を見つめる。
酒成分は一割も無さそうだが、それでも多少は酒を飲んでる気になってくれているらしい。いや、もしかした今の状態なら、ただの麦茶でも酒として楽しんでいたかもしれない。
初めて飲んだという事実を踏まえてもニールたち三人より明らかに弱いのだ。これ以上飲ませるのはまずい。
だから、しばらくこうやって酒以外のモノを飲ませて落ち着かせよう。
そう思って、桜大のグラスを握って膠着する連翹を――――待て。
「ぅおぶ」
「おい連翹、今何飲んだ?」
「お父さんの、お酒、なんか気になって……半分、貰った」
「待て、道中で買ったアルコール12%の酒だぞこれは……!?」
「スーパーで、ストロング、名前、強そう、勝負と思っ……、……、ぅ」
「どうして勝てない勝負挑んだんだよさっき負けたばっかじゃねえかぁ――!?」
再び連翹を担ぎ、トイレに突入。
俺は本当になにをやってんだ? そんな疑問がニールを苛む。好いた女とはいえ、吐き散らかす姿を見て興奮出来るほど性癖は歪んでいない。
なんだか精神的にとても疲れた。ゆっくり酒を飲んで休もうと思う。
「ふっ、スッキリしたことだし三度目の正直ってことでもう一度勝負――」
「二度あることは三度あるって名台詞思い出しながら茶でも飲んでろ馬鹿女ァッ!!」
さすがにキレたニールを誰も責めることはなかった。
むしろ、茉莉が「ご、ごめんなさいね――家の子が本当にごめんなさいね」と頭を下げたのであった。
◇
あの乱痴気騒ぎからおおよそ二時間。
真っ先に連翹が寝落ちし、その様を見て安堵したニールが机に突っ伏して熟睡。
茉莉はふらふらと寝室に吸い込まれ、ノーラは「わたしも、そろそろ……」と二階の連翹の部屋へと向かった。
「こうして寝顔を見るのはいつぶりだろうな」
くかー、と。
よだれを垂らしながら机で眠る連翹を見つめながら、桜大は呟く。
今、起きているのは桜大とカルナのみ。
桜大は本来は一人でゆっくりと飲むのを好んでいるのだろう。静かにワインを嗜む彼の対面に、カルナは居た。
カルナも少し前のように騒がしく飲むのも嫌いではないが、このように静かに飲むのもまた嫌いではない。元々一人が好きな人間だったのだ、大した会話もなくゆっくりと酒を味わう方が合っているのかもしれない。
「このような経験もない親だ、男に娘を取られても致し方ないのだろうな」
「いえ、さすがにこの歳の娘の寝顔を鑑賞する機会はないと思いますよ。一般的な親でも」
むしろ、父親に勝手に寝顔を覗かれたら怒り狂うのではないだろうか?
そのようなことを言うと、「そういうものか」と桜大は静かにグラスを傾けた。
互いに多くを語る関係ではない。
連翹の友人であるノーラや、連翹が気になる相手であるニールとは違う。連翹の友人という間柄は同じだと言うのに、カルナは連翹の両親とは一番遠い位置に居た。
「桜大さん」
だからだろう。
一番遠いからこそ、この手の話もやりやすいと思うのだ。
「これは完全に不確かな話です。必ずそうなる、とは言い切れない。だからレンさんや茉莉さんには話していないし、話すつもりもないんですよ。無駄な期待を煽ってしまいそうだから」
ですが――と。
自分がやりたいこと、やれると思っていることを語る。
桜大は静かにカルナの瞳を見つめ――ゆっくりと口角を上げた。
「なるほど――期待はせず待っていよう」
それで会話は終わり。
互いに多くを語ることはなく、けれど伝えるべきことを伝えて。
「それでは、僕はこの男を二階に運んでおきます。レンさんはどうします?」
「私がやろう。このくらいは親らしいことをせねばな」
こうして一日が終わる。
この世界での日々は終わりを告げ、元の世界に帰る日がやって来るのだ。




