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グラジオラスは曲がらない  作者: Grow
「ありがとう、さようなら」
270/288

267/天を望む


 ――上昇していく。


 空へ空へと、高く高く。

 もっとも、密室――エレベーターの中ではそれを感じ辛いな、とニールはエレベーター内に設置されたモニターに視線を向けた。

 扉の上部に存在するモニターには、3Dでモデリングされたスカイツリーを下から上へ昇っていく映像が流れている。恐らくニールたちの現在地とリンクしているであろうその映像は、冗談のような速度で上へ上へと移動して行っていた。

 だというのに、ニールの体には大きな違和感はない。多少重圧感のようなモノを感じるが、高速で上空へ駆け上がっていることを考えれば不釣り合いな程に感じ取れるモノが少ないのだ。

 

(正直、扉が開いたら地上で、『そんなに早く上まで行けるわけないだろ』って笑われてもしょうがねえよなって思うくらいだな)


 無論、そのようなことをする意味も無ければ、そのようなことをする人たちでもない。

 強いて言うなら連翹が怪しいと言えば怪しいが――彼女もニールが楽しみにしていることでドッキリを仕掛けて笑うような人間ではないだろう。

 ゆえに、真実自分たちは高速で空へ駆け上がっているのだと理屈では分かっている。だが、どうしても心から信じることが出来ていないのは、自分の常識からだいぶ外れているからだろう。

 そりゃあ車や電車といった交通機関は存在しているのは学んだ。それがとても速い、ということも。

 だが、それと塔を登る機能はまた別問題なのではないだろうか――?


「あ、ニールそろそろ着くわよ」

「お――おう」


 連翹の言葉と共に微かな重圧感が薄れていく。

 モニターに映る映像も現在地が地上三百五十メートルであり、更に上部の天望回廊は百メートル上空に存在するのだと示していた。

 一分少し経つか経たないかという速度に、ニールの疑念が微かに膨れる。これならチケットを持ってエレベーターの順番待ちをしていた時の方がずっと長かった。


(まさか本当にドッキリしかけられてるんじゃねえか――?)


 思わず連翹の顔を見つめると、不思議そうに首を傾げられた。

 いや、分かっている。連翹も茉莉も桜大も信じてはいるし信じたいとも思っている。だが、これはいくらなんでも……

 そんなニールの疑念を払拭するべく扉が開き――ニールと連翹は歓声と共に天望デッキ、その窓へと歩み寄った。大勢の人をするりと避け、手すりへと辿り着く。

 すると瞳に映る、玩具のように小さく見える街並み。

 道中、あれだけ大きいと思っていた建造物も指で摘めてしまいそうなサイズに見える。だが、玩具などでは断じて無いと言うように紐のように小さく見える道路を何台もの車が走っていた。 

 

「うわぁなんだこれマジやべえな! つーかあんな速度でここまで来れるもんなんだなぁ!」


 先ほどまでの疑念は完全に吹っ飛び、子供のようにはしゃぐ。

 隣に居る連翹もまた、それを咎めることもなく同じように眼下の街並みを見てきゃいきゃいと笑っている。


「おっほっ、高い高い! タワー系の観光地の話し聞く度に『なぁに高いとこ登っただけでそんなにテンション上げてるの? 馬鹿なの? 煙なの?』とか思ってたけど、実際見下ろすと興奮半端ないわね!」

「お前、ほんっと何でもかんでも斜に構えてたんだな……」

「そうなのよねー、実際のとこ雑音ノイズとかを笑えないくらいアレな奴だったと思うのよね、昔のあたしって」


 ネットでいくらでも見られるんだからわざわざ現地に行かなくてもいいじゃないとか考えててね、とかつての自分を恥じ入るように苦笑する。

 けれど、その気持ちも分からなくはない。茉莉が見せてくれたスマホも、カルナが弄っていたパソコンも、まるで実物をそのまま切り取ったかのような映像を映し出していた。ゆえに、これで満足だ――そう思ってしまったのだろう。

 だが、人間とは五感で世界を感じ取る生き物だ。どれだけ精密な映像であろうと、瞳だけで感じ取る情報量には限界がある。風景など、それが一番顕著な例だろう。

 目、耳、鼻、肌――道中で食したモノを含めれば舌も使って世界を感じ取り、その美しさを心に刻み込む。それが人間であり、旅なのだと思う。

 

「他人とぶつからないようにね――と言おうとしたけど、ちゃんと他人の迷惑を考えられているようで何よりだわ」

「歩いているだけだというのに私たちよりも随分と速かったがな。特別速く動いていたワケでもないというのに」


 自分たちを置いてさっさと行ってしまった二人に呆れるように、心から楽しんでいる二人を見て微笑ましく思うように。

 茉莉は微笑み、桜大は僅かに口元を緩めてこちらに近づいてくる。


「大したことじゃねえよ、ぶつからねえように間合いを維持して移動しただけだ。実際こんなもん素人芸だよ、本職(スカウト)なら走りながらでも避けられる」


 ファルコン辺りなら誰にぶつかることなく、一瞬で窓際まで疾走できたことだろう。

 もっとも、こんな場所で全力疾走したら、ぶつかるぶつからないなどではなく非常に迷惑なことは想像に難くない。

 セーフ、と胸を撫で下ろす。実のところ、エレベーターの扉が開いた瞬間に疾走しかけたのだ。思いとどまって良かった。


「え? ニール、今のってそんな感じのアレなの? 他人に当たらないように急いで行こう、くらいにしか考えてなかったんだけど」

「まあな。お前はもともと俺なんぞより人の動きを視るのが得意なタイプだし、こういう多数の人間を見極めて動くのは俺より自然に出来るんじゃねえかな」


 攻めより守りやカウンターに適正がある、というのがニールの見立てだ。もっと鍛錬を詰めば敵が複数であろうと余裕で斬り結べるだろう。

 もっとも、今の実力で一対多をやろうとすれば順当に数の暴力で叩き潰されるだけなのだが。

 だが、もっと鍛錬を詰めば決して不可能なことではない。それだけの伸びしろはあるとニールは思っている。

 

「そう聞くと連翹も変わったって思うわ。昔はもっとどんくさい感じだったのに」

 

 くすくすと笑う茉莉に「な、なにおう!? ――って、突っかかってみたけど何一つ間違ってない……!?」と物申そうとして自爆している連翹。それを横目に、ニールは再び窓の外に視線を向けた。

 三層から成る天望デッキ、その一番上からの景色。

 天を望む、という言葉に恥じぬ光景に目を奪われる。

 これが夜だったら、眼下の街並みが光り輝いていたのだろうか? 昨夜、桜大が運転する車で移動している最中も、家屋や道に設置された電灯が光り輝いていた。それをこの位置から見れば、星空を見下ろすような感覚に浸れたのかもしれない。


(だが、同じことを考えてる奴は山ほど居るだろうしな)


 それを踏まえてこの時間なのだろう。予約せず、かつある程度スムーズに上まで行けるように、と。

 時間は有限だ。あまり長時間並んだり、すし詰めのような状態で外が中々見られないようでは楽しめない。

 こちらの世界で暮らしているならそれも一興と思うが――ニールたちは明日にはもう帰還するのだ。どうせなら色々なモノを見たいと思うし、連翹には色々な場所で両親と交流を深めて欲しいと思う。

 茉莉が昔を懐かしみ、連翹がそれを恥ずかしそうに聞いている姿を見つめた後、ニールは桜大に顔を向けた。

 

「桜大さん、俺はちっとこの辺りを見に行って来るから、三人で下の方見に行っててくれ」

「連翹に言わなくて良いのか?」

「茉莉さんと楽しく話してるのを邪魔するほど無粋じゃねえよ。それにあんま家族同士の交流に水を差すのもどうかと思うし、天望回廊へのエレベーター前付近なら簡単に合流出来るだろ」


 今日は家族との触れ合いこそがメインであり、ニールはおまけでしかない。少なくとも、ニール自身は心からそう思っている。

 桜大もまた「……まあ、間違いではない」と僅かに連翹の方に視線を向けた後、形容し難い表情で頷く。

 肯定すべきか否定すべきか悩んだ結果というような風に見えたが、その理由は分からない。だが、少なくとも大きな間違いではないのだと確信し、ニールは軽く会釈をして人混みの中をすり抜けていく。

 道中、天望デッキ周辺の景色をモニターに映している機械があったが、子供が群がっていたので断念する。タッチパネルで景色を拡大出来たり、夜景と切り替えたり出来るようだが、そんなこと知るかとばかりにリズミカルに画面をタッチし続けている子供を羨ましく思う。なにアレ、俺も超やってみたい……!? と。

 だが、突然こんな目つきの悪い男が乱入して来たら泣くだろう。誘惑を断ち切るように視線から外すと、今度は別のモノが視界に飛び込んで来る。

 それは、ニールから見てこの場にそぐわないモノであった。

 六枚の板を繋ぎ合わせ、その上に絵を描いたようなモノだ。見た目は美しいとは思うが、単純に時代が違う。

 今までニールが見てきた街並みとは全く違う時空から飛び込んで来たようにも見えるそれは、つい先程入った戦国の店に近しい雰囲気を感じる。

 ならば、これはあえてこうしているのだろう――納得して近づく。


 江戸一目図屏風――説明文にはそう書かれていた。


 墨で描かれた古い絵、それのコピーだろうか。先ほど見た赤い鎧も複製の飾り物であったし、これもそういうモノなのだと思う。

 ニールは心なしか他の場所よりも外人が多いそこに混じって鑑賞する。

 そこに描かれているのは、江戸と呼ばれる街並みだ。今とは違い木々も多く、一番奥には雪を被った大きな山が描かれている。

 ニールは江戸という言葉を知らない。だが、それでもこれがかつてこの世界に存在した街並みを描いたモノだということくらいは理解出来た。


「こっちにもこういう時代があったんだな」

 

 ぽつり、と小さく呟く。

 当たり前のことではあるのだが、これだけ発展した街並みを見せられた後では想像するのが難しい。

 ゆえに、当時の様子が描かれているモノを見れるのはありがたいな――そう思いながら屏風に描かれた街並みを見つめる。

 自分たちの世界で言うところの日向ひむかいの街並みに近い。実際に行ったことはないから、又聞きした情報や港町で流れてくる物品からの想像でしかないが。

 心から想う。


 こんな時代もあったのだな、という驚きを。

 ここから今の街並みまで発展させて来たのか、という感嘆を。

 

 自分が死んだ後の世界もこのように発展し、変質し、遠い未来で今のニールのように変化に驚く者が現れるのだろうか。

 正直、あまり想像出来ない。人間の寿命ではスケールが大きすぎる。

 だが、きっとそうなるのだろうな、という漠然としたまま納得した。

 

(ん……?)


 不意に、視線を感じた。それと共に、全力で近づいてくる気配を感じる。

 一瞬、剣を構えようとし――手に持っているのが刀傘であることと、こんな場所で構えたら邪魔になること、そしてこちらに近づく気配が見知ったモノであることに気づいて体の力を抜いた。


「あ、居た居た! ニールあっちあっち、あっちの方ちょっと凄味に溢れてるわよ! やっぱ高いとこってこうじゃないとね、圧倒的に流石って感じ!」

「俺が言えた義理じゃねえけど、もうちっと正しい言葉使えよお前――つーか、茉莉さんと桜大さんどうしたんだよ」


 茉莉との会話を終えたのか、するすると人混みを避けながら近づいてくる連翹に溜息を一つ。


「二人は置いてきたわ、ハッキリ言ってあたしのスピードについて来られそうにない……いや、冗談抜きで。あれね、『え? このくらい普通だろ?』とか言う主人公の気分を味わえたわ」

「お前が楽しいんならそれでもいいけどよい……で、一体どうしたんだ?」

「ああ、そうそう! あっちあっち、やっぱ高い場所ってああいうのがあるといい感じよねって感じのアレがあるの!」

「ボケて固有名詞の出てこねえ婆さんかお前は」

 

 連翹に先導されながら思わずツッコミを入れる。お前、さっきからあっちとかアレとか感じだとしか言ってねえじゃねえか。

 だが、連翹はテンションが上がっているためかそれに反論することもない。普段ならもっと食って掛かっているだろうに、そんなに面白いモノを見つけたのだろうか。

 疑問に思いながら早歩き気味の連翹を追いかけることしばらく。

 フロア340――天望デッキ下層に辿り着いたニールは、奥に存在する人だかりを見つけた。

 だが、遠目から見た限りでは何もないように見える。さっき子供が弄っていたタッチパネルがあるわけでもなければ、道中見つけたカフェやレストランのようなモノでもない。

 

(いや、あっちの連中、ほとんど足元ばっか見てやがんな)


 床に特殊な模様や絵が描かれているのだろうか?

 そう思いながら歩いていると、人だかりの近くで待機している茉莉と桜大を発見した。

 

「ただいま、ニール捕まえてきたわ!」

「あ、来たわね。グラジオラスくんどうしたの? 連翹、寂しがってたけど」

「ああ、それっすか。だって、俺なんかは後でいくらでも会えるじゃねえっすか。それなら、もっと家族を優先させようと思って」


 回廊行きのエレベーター辺りに居たら迷子にもならないと思ったんで、と説明する。

 それを聞いた茉莉は「あー……」と思い悩むような声を漏らした。


「気を使ってくれてるし、気の使い方も大きく間違ってないわね……桜大さんが上手く引き止められなかったのも納得ね」


 わたしから全部話すワケにもいかないからね、と苦笑する茉莉に疑問を抱くが――まあ自分が考えても無意味だろうと思考を放棄する。

 なぜだか脳内でノーラが『もうちょっと! 考えたら! どうなんですか!』と物申し始めているが、やはりぐだぐだ悩むのは性に合わない。それに、本格的に下手を打ったのなら三人の誰かが諌めるはずだ。ゆえに、いまのところは問題ないはずである。

 

「それよりあっちあっち、ニールあっち行きましょ!」


 そんな思考は、袖をぐいぐいと引っ張る連翹によって遮られた。

 楽しそうで何よりだ、と安堵と僅かな呆れを表情に浮かべながら頷く。


「分かった分かった、分かったから引っ張んな――んじゃ、ちょっと連翹借りますんで」

「ああ、好きなだけ持って行け」

「お父さん、なんかその言い方は腑に落ちないんだけど」


 むっ、と黙り込む桜大を放置して連翹は人混みに直進。ニールは軽く会釈した後に背中を追う。

 多くの人間が集まっている場所であるため、さすがに他人に触れずに移動は出来ない。

 スマホを床に向けて構えている人々の間を移動し、連翹に追いつく。


「ほらほら、やっぱ高いとこに行ったのならこういうのがないとね!」

「いや、だからお前さっきから主語が――うおっ!?」


 怪訝に思いながら下を見て――一瞬、床が抜けたのかと思った。

 だがそれは錯覚だ。ニールは確かに地面を踏みしめている。


 ただ――踏みしめている床がガラスで出来ていたのだ。透明なガラス越しに、遥か彼方に存在するスカイツリーの根本が、他の建造物が、地面が見える。


 ひやり、と。冷たい感覚が背中を走った。

 ほんの少しの驚きと恐怖。だが、それ以上に――面白い、心からそう思う。

 先ほど街並みを見下ろした時と大した違いはないはずだというのに、その風景が足元にあるというだけでこんなにもスリルと楽しさがあるのかと驚く。なるほど、連翹がはしゃぐ気持ちも分かる。これはテンションが上がる。


「――すっげえ、分かっちゃいたがまじで高えな!」


 分かってたけど高っけえなオイと笑いながら軽くジャンプしてみせる。それで何がどうなるということはないが、ちょっと楽しい。子供っぽいと笑いたくば笑え。

 思わず笑みを浮かべていると、その様子を見ていた少年が対抗意識を燃やしたのかニールを睨みながら跳躍をしている姿が見えた。どうだ、こっちは二回ジャンプしたぞ、とでも言うかのように。

 上等だ、そちらから勝負を挑んでくるというのなら受けて立つ。

 ニールは周囲の距離感を確かめ、巻き込まないと確信した瞬間に跳躍! 空中で大きく一回転して着地すると、少年に得意気な笑みを向ける。どうだ、お前にこれが出来るのかよ……? と。

 少年は呆然とニールの姿を眺めた後、悔しげに母親に泣きついていた――完全勝利。

 どうだ、と連翹の方に得意げな笑みを向け――


「ねえニール、危ないし悪目立ちしてるから止めてくんない? つーか子供が真似するでしょ」

「お、おう……悪い……」

 

 ――たのだが、ジト目で睨まれて上がったテンションが急降下。

 少年も母親に「あれは真似しちゃ駄目よ」と言われている。

 これが試合に勝って勝負に負けるということか、悲しい。


「……そ、そんな落ち込まないでよ。わ、悪かったわよ水差して」

「いや、お前の言う通りだしな、謝る必要はねえよ。それに、俺がはしゃぎ過ぎてガラス踏み抜いたら大惨事だろ」

「踏み抜くって……馬鹿ねニール、こういうガラスって見た目以上に頑丈に――? ……ねえちょっと待って、もしかしてあっちの世界基準の力なら十分蹴り砕ける範囲だったりする?」


 強化ガラスとかの強度って結局のところこっちの世界遵守よね? 恐る恐る問いかけてくる連翹の言葉に大きく頷く。


「壊す気でやりゃあ不可能じゃねえと思うんだよな、マジで」

 

 やったところでなんのメリットもないから試す気は皆無なのだが。

 もはや悪目立ちという範疇を超えて捕まるレベルではないだろうか。 

 そんな当人にとっては大真面目な、しかし他の観光客が聞けばくだらないジョークの類に聞こえる会話をしていると、連翹は一歩、一歩とニールから距離を取り始めた。

 

「なんだよお前、さっきまでこういう場所が面白いって楽しんでたじゃねえか」

「……いや、なんというか……安心だと思ってた地面が実は薄氷だった的な恐怖というか、ちょーっと怖くなったとい――」


 がすん、と。

 恐る恐る後退する連翹の前でこれ見よがしに足を上げ、踵をガラス床に叩きつけた。


「――ぅかぁあぁ!?」


 瞬間、裏返る連翹の声。

 硬直していた連翹だったが、周囲から響くくすくすという笑い声に再起動。すぐさまニールに突撃し胸ぐらを掴む!

 

「もおおおお! なんでそういうことするのよおおおお! 怖くなってきたって言ったじゃないぃいいい!」

「いや悪かった、こういうのって相手が嫌がってると無性にやりたくなるんだよな」

「最低な言い草ぁ――ッ!?」


 そう言われても楽しいのだから困る。

 こう、暗闇の中で怖がっている娘の背後から禍々しいうめき声を上げてみたりだとか、高い場所が怖いって言っている娘の前で床を思いっきり揺らしてみたりだとか、そういう子供じみたことを連翹相手だとどうしてもやりたくなってしまう。

 胸ぐらを掴まれながら満面の笑みを浮かべていると、ぽん、と背後から肩を強めに叩かれた。

 

「……グラジオラスくん。そういうことをする男子は沢山いるけど、その子達はだいたい女子に嫌われてたわよ」


 だから止めておきなさい、と。

 悪いことは言わないから、と。

 二人の騒ぎに気づき近づいてきたらしい茉莉が、静かに、けれど絶対の真理を告げるような重い声音で言った。 

 

「そ……そういうものですかね」


 疑問を口にしながら、そういえばと思う。

 子供の頃に故郷で遊んでいた時、今のように女子にちょっかいをかけていたが――確かに男女混合で遊んだ覚えはけっこうあるのに、好かれた経験というのは全く無い気がねえな、と。

 それはもしや、顔とか性格云々以前に全力で嫌われる行動していたからではないのだろうか――?


「私もかつて、そのような真似をしている同級生を蔑んでいた。そのような真似をしていて、女を落とせるはずがなかろう、とな」


 桜大もまた、深々と頷く。

 なるほど、言いたいことは分かった。

 分かったのだが、それ以上に思うところがある。


「――なあ。連翹の妙に斜に構える癖ってよ、桜大さんの遺伝なんじゃねえの……?」


 ぶっちゃけ性格は完全に桜大さん似だよな、と。

 ハッとした顔で桜大に視線を向ける茉莉、即座に視線を逸す桜大。互いに思い当たる節があったらしい。

 

「ああ、うん、そういうとこあるものね、桜大さん。そういう駄目な部分を実力でカバーしてるだけで……」

「否定はせん……せんが、これは自分に似たと喜ぶべきか、そんな部分ばかり似なくてもと嘆くべきか……」

「ねえ待って!? なんでニールに驚かされた挙句にそんなしみじみと駄目な部分を見られなくちゃなんないの!? さすがにあたし怒っていいんじゃないかって思うんだけど!」

「いや、今のは悪かった。ちっとばかし気になってついな」


 きゃあきゃあと喚く連翹をガラス床から押し出す。

 ニールの行動も含めてそれなりに悪目立ちしてしまったが、この手の観光地はハメを外しすぎる者も多いのだろう。幸いなことに、すぐに周囲の視線は逸れていった。

 

「ふんだ、いいわよ。どうせあたしは駄目人間よ。そんなのあたしが一番分かってますよーだ」


 だが、連翹の機嫌はすぐには戻らなかった。

 まあ確かに少しばかりからかい過ぎたかもしれない。ニールたちは天望回廊行きのエレベーターに向かう道中、天望デッキ内のカフェで立ち止まった。


「悪かったって、侘びにあそこでアイスでも買ってくるからのんびりしててくれよ」

「はーん? 何よ、あたしがアイス如きで機嫌直す安い女に見えるっていうのー?」

「なら要らねえのか?」

「……ラズベリーソースかかったやつでっ!」


 超機嫌直してるじゃねえか、安い女だな。

 一瞬脳裏に浮かんだ言葉を飲み込む。さすがに口に出したらブチ切れられるだろう。

 三人で待ってろ、とニールだけカフェの列に並ぶ。一瞬、茉莉が財布を出そうとしたがそれを手で制する。一応、連翹に対するお詫びという名目だ。別の人間に出して貰うのは筋が通らないだろう。

 ゆっくりと進んでいく列の中、ちらりとメニューに視線を向ける。予め連翹が言っていたラズベリーソースのかかったソフトクリーム分の代金を手元に取り出しておく。

 ニールが見た限り、ソフトクリームにスカイツリーの絵が描かれたウエハースが刺さっただけのモノに見えるのだが――甘いモノ好きから見れば違った感想になるのだろうか? もしかしたら質の良いソフトクリームなのかもしれないが、大して甘いモノが好きではないニールが食べても差が分からないだろう。

 というか、だ。ニールはそれよりも――


(くそっ! カフェの癖になんでビールなんて置いてやがるんだ……ッ!)


 ――メニューに描かれた酒類に目を奪われていた。

 なんだこれは、ビール以外にも日本酒、ワイン、カクテルと選り取りみどりではないか。

 こちらの世界ではなるべく外で飲まないようにと誓っているというのに、なぜだろう、先ほどから何度も誘惑されている。世界は違えど人類皆呑兵衛ということか。


 ――案外大丈夫じゃないか? それなりに忙しそうだし、わざわざ確認なんてしないだろ、飲んだってバレやしないさ。


 そんな誘惑の声が脳内に響き渡るが、脳内のニールが餓狼喰がろうぐらいで両断する。というか、仮に飲めても桜大が飲めないのだ。自分だけ美味そうに酒を飲むワケにはいかない。ニールが桜大だったら右手が唸っているところだ。

 小さく息を吐いて心を落ち着かせる頃に、ようやくニール番になった。注文をさっさと済ませると、ソフトクリームを受け取って連翹たちのところへ戻る。

 

「おう、待たせたな」

「いいわよ別に。ニールが急いで早くなるようなものでもないでしょ、あれ」


 そう言ってカップとスプーンを受け取った連翹は、満面の笑みでスプーンを動かす。

 ラズベリーの酸味とソフトクリームの甘みを堪能しつつ、スカイツリーが描かれたウエハースを名残惜しそうにちまちまと食べている。

 その様子を見ていると、普通の女の子に見えた。

 異世界だとか転移だとか、そういうモノと関わりのないこの世界に生きる一人の少女に。

 

「……ねえ、さすがにじっと見られていると食べづらいんだけど」

「おっと、悪い」


 そりゃそうだ、と視線を茉莉と桜大の方に向ける。

 その様子を見ていた二人は苦笑しながらニールを見つめていた。


「なに、相変わらず仲が良いと思ってな」

「そうそう、何度か怒らせてもすぐ元通りになってるし」

「ま、俺もガチギレさせたいワケじゃないんで、その辺りはちゃんと考えてるっすよ」


 少し怒らせたり、少し恥ずかしがらせたり、少し怖がらせたり、そういうのは大好物だ。

 だが、本気で怒らせたり、泣くぐらい恥ずかしがらせたり怖がらせたりというのは、端的に言って趣味ではない。色々な顔を見たいのは確かだが、最終的には笑っていて欲しいと思うのだ。

 その話を傍らで聞いていた連翹が納得したとばかりに頷いた。


「むぐっ、んぐ……つまりこういうことね。『可哀想なのは抜けない』みたいな?」

「お前仮にも女なんだから言い方考えろォ!」


 えー? と不満気な声を漏らしながらソフトクリームを食べる連翹に思わずため息が出る。

 今朝、恥じらう姿を見てどこかが変わったと思ったが、根っこは変わってないなコイツ。


「……つーかお前、俺が全力で頷いたらどうするつもりだよ。その通り、だから毎晩お前にはお世話になってるぜ、ってな」

「はぁん? なに言ってんの? そんなこと言われたら――た、たら……」

 

 小馬鹿にするように笑い――色々想像したのか顔を赤らめながら茉莉の背後に逃走しだした。

 

「に、ニール。そういうこと公言するのは、ど、どうかと思うんだけど……?」

「おう、お前さっき自分が言ったこと思い出せよ馬鹿女」

 

 桜大のアドバイスに従って出来る限り馬鹿女呼ばわりは止めようと思っていたが、今回は言っても誰も文句は言わないだろう。

 いまさら清楚な乙女っぽく振る舞っても色々遅せよ、と指をさして笑っていると茉莉がぺちいん! とニールと連翹の額を強めにはたいた。


「連翹もグラジオラスくんもちょっと黙りましょっか。こういう場でそういうこと喋っちゃだめよ、いいわね?」


 二人とも、もう子供じゃないでしょうと短くも強めに説教される。

 いや子供じゃないからこういうエロ系の話題が盛り上がるんじゃないんすかね――という言葉が脳裏を過るが、さすがに口には出さなかった。絶対更に怒らせるやつだこれ。

 だというのに、連翹はダメージが少ないせいか反省の色は皆無。


「ああ……癖になってんのよ、シモネタ口に出すの――あ、ごめん! ごめんお母さん! あたしが悪かったら、あ、ああー!」


 物理攻撃では反応が薄いと察した茉莉によるソフトクリームへのダイレクトアタック。

 連翹が大事に取っておいたウエハースのスカイツリーが描かれている部分をざくりとかじった。哀れ、スカイツリーは中央付近で断裂、二度と戻ることはないだろう。

  

「ほら、ちゃんと反省しないと残りも全部わたしが食べちゃうからね」

「うう、あたしのスカイツリー……ごめんなさいお母さん」


 悲しげな表情で残りのソフトクリームにスプーンを伸ばし――美味しかったのか表情が悲嘆からどんどん喜色に転じていく。

 やはり甘いモノは正義、女性の味方ということか。あまり頼りすぎると手痛い贅肉(しっぺがえし)を喰らってしまうのだが、それでも数多の女性が頼ってしまう最強っぷりだ。誘惑に弱い連翹が勝てる道理はなかった。

 

「――あの娘が辛そうにしてたら今みたいに甘いモノ上げてね。色々考え込んじゃう子だけど、こういうとこはすっごく単純だから」


 美味しいモノ食べてたらけっこう元気になっちゃうのよ、と笑う茉莉にニールは力強く頷いた。

 

「必ず。さっきも言ったっすけど、本気で泣いたりしてる姿は見たくねえっすから」

「そう。なら安心かしらね」


 そう言って茉莉は微笑んだ。

 その笑みが寂しげだったのは気づかないフリをして、俺に任せろと言うように自信に満ちた笑みを向ける。心配はいらない、そう思わせるために。


「はふ――よし、それじゃあそろそろ本番に行きましょっか!」

「お、食い終わったか――ってか本番ってなんだ。今までは余興だって言うつもりかよ」

「言い方はちょっと悪いけど、その認識で合ってるわ。なにせ、スカイツリーはまだ力を温存してるんだからね……!」

「な――うっそだろ、これ以上強くなるってのか……!?」

「そうよ――あたしは手札の天望回廊行きのチケットを発動! これにより天望デッキのオーバーレイ・ネットワークを再構築! ランクアップ・エクシーズ・チェンジ! いざ降臨せよ天望回廊――!」

「ちいっ……! だが、それを持ってるのはお前だけじゃねえんだぜ――!」

「小賢しい、真の天望回廊使いはあたしだってことを教えてあげるわ――!」


 互いにチケットを指先で構えながら、相手の眼を睨みつける。

 今、真の天望回廊使いを決定する戦いが幕を開けた――ッ!


「……よくあのノリについていけるなグラジオラス。私には難しい」

「あー、慣れてるってのはあるが、こういう時は馬鹿やってた方が楽しいからな」


 しみじみと呟く桜大に半笑いで頷く。

 というか、そもそも天望デッキより上に天望回廊があるのは最初にチケットを買った時に知っていたのだから何一つとして驚く要素がない。そもそも天望回廊使いってなんだ、会話にツッコミどころしかないではないか。

 だが、脳みそを空っぽにしてあれこれ言い合うのもまた楽しいものだ。むしろ楽しすぎて、アルコールが入っていたらもっと際限なく脱線していくことも少なくない。


「ふう――ほんとニールの言う通り。すっごい茶番だけですっごい楽しいのよね、こういうの」


 満足したらしい連翹が「それじゃそろそろ行きましょ」と皆を先導する。

 大して時間もかからず到着し、しばし並んだ後、ニールたちは天望回廊行きのエレベーターに乗り込んだ。


「おっ、連翹天井見ろよ。どんどん上に上がってやがる……ッ!」


 下層から天望デッキへと上がるエレベーターと同じようにモニターは存在している。

 だが、それ以上に瞳を奪うのは天井のガラスだ。

 白いスカイツリーの内側を上へ上へと昇っていく様子を己の目で視ることが出来るためだろうか、上昇する距離は先ほどよりも短いはずなのに天望デッキ行きのエレベーターよりも『上に昇っている感』が強くて楽しい。

 ニールは脳内でスカイツリーの全体図を脳内に思い浮かべ、天望回廊の位置を思い浮かべる。

 今朝、見上げた塔の中で普通の客が入れる最も高い場所だ。


「……そういや、スカイツリーの先端とかには行けねえのかよ?」


 あの天辺に立って街を見下ろしたらすげぇ楽しいだろ、そう伝えるのだが連翹が浮かべる表情は苦笑であった。


「出来ないわよ、というかオープンワールドのゲームの実績集めじゃないんだから……そもそも、あれってたぶん避雷針とかそういうモノで登る場所じゃないわ」

「いや、つってもこのスカイツリーも人が造ったワケなんだろ? なら、人が上に乗ってもおかしくはねえと思うんだが」

「建設業者と観光客を一緒くたにしちゃ駄目でしょ。あれよ、冒険者が入れるからって村人が準備もせずに人工ダンジョンに突っ込んだら死ぬだけでしょ? そして一村人が『自分は実は凄い鍛えてて強いからそのくらい余裕』とか言っても絶対許可しないでしょ? たとえ真実だったとしても」


 ニールはその村人よ、という言葉に『あ、それナルキの女将さんが対応だとか事後処理とかで困るヤツだ』と思い仕方ないと頷く。攻略失敗して死んでも、攻略出来たと主張しても、本当に大丈夫だったのかと検査しなくてはならないらしい。

 なにせ相手は素人だ。最悪のパターンで人工ダンジョンの入り口を破壊して『モンスター全部ぶっ殺した』とか言うやつも居たらしい。モンスターが住みやすい環境を整え、巣の場所を固定化し駆除を容易にするのが人工ダンジョンなのに破壊してどうするつもりだったのか。

 仮にニールが無断で上に登ったら、スカイツリーの警備だとか修理点検だとかを請負っている人が大忙しになるだろう。それはさすがに申し訳ない。

 そんなことを考えている最中に響く、天望回廊に到着したというアナウンス。天井のガラスを見上げると、上昇は停止していた。

 眼前の扉が開き、外に出る。

 天望デッキと比べれば狭い場所であった。側面のガラスに沿うような形で螺旋状の道があり、上へ上へと伸びている。

 白い内壁と清潔な空間、そして地上四百五十メートルという一種の異空間だからだろうか、ニールはディミルゴの神殿を連想した。あそこまで無色めいた白さではないが、本来は人がたどり着けぬ領域という意味では近しいのかもしれない。

 ニールは窓際の手すりに掴まり、街並みを見下ろした。複数のガラスを用いて楕円を描く窓は、手すりから顔を出せばすぐに真下が見えてしまう。これもまた楽しい。先ほどのガラス床とは違う感覚だ。

 瞳に映る風景は、やはり遠い。スカイツリーの近くに存在しているビルがミニチュアのようだ。

 先ほどよりもおおよそ百メートルほど高い位置から見下ろす景色に、ニールは身を乗り出しながら呟く。


「正直に言うと、ここまで高くなるとあんま差は分からねえな――」


 よく見れば先ほどよりも建物が小さく見えるし、目を凝らせば天望デッキ時よりも遠くの街並みが確認出来る。

 だが、素人剣士が練達の剣士同士の実力差を見きれないのと同じように、ニールもまた『なんかさっきより高い気がする』という子供めいた感想しか抱けない。

 抱けない、のだが。


「――けど、それでもなんか楽しいから不思議だよな」

「分かる分かる、周りの環境が変わったからってのもあるんでしょうね」


 エレベーターのガラス天井を見て上に登っているのを実感し、そして天望デッキよりは狭くありつつも綺麗に整えられた回廊という場所。

 それらがニールに『特別な場所に来たぞ』という満足感を抱かせた。

 空を飛ぶ魔法などが存在して、その力でこの高さまで飛び上がったとしてもこの楽しさは得られまい。人間という存在は装飾を楽しむ生き物であるのだから。


「二人とも、どうせ外を見るなら一番高い場所に行きましょう。まあ、こっちの方が人が少なくて見やすいかもしれないけどね」

「いや、それもそうっすね。せっかくここまで来たのなら一番上に行かねえと損っすよ」


 そう言って螺旋を描く道をゆっくりと歩んでいく。

 時折窓の外に視線を向け、流れる川を見て『この街も土の上に建ってるんだな』と当たり前のことに驚き、ゆっくり、ゆっくり、談笑しながら。

 早足で駆け抜けてしまえば一瞬で終わってしまいそうな道だったが、人の多さから――いいや違う、もったいなくて歩む速度は自然と落ちて行く。

 だが、歩き始めれば目的地に辿り着くのは当然のこと。螺旋を描く道は終わり、上階に辿り着く。最高到達点、ソラカラポイントと呼ぶらしい。柱に描かれた星の髪型をしたキャラクターが現在地の高さを教えてくれている。 


「さすがに人が多いわね……ニール、もうちょい前に行きましょ前」

「だな。それじゃあ茉莉さん、桜大さん」

「いや、私たちは少し休んでから行くとする。生憎、私も茉莉もお前たちのように若くはないからな」


 元気な者同士楽しんでこい、そう言って微かに口元を緩める桜大。

 その言葉に隣の茉莉は非常に物申したげな顔をしていたが、小さく息を吐いてニールたちに手を振った。こっちは気にせず行って来い、ということだろう。

 

「そう? じゃあカカッと行ってくるわね! ニールもほら!」

「分かったから走ろうとすんな、さすがに人とぶつかっちまうぞ」


 連翹の襟首を引っ掴みながら、二人に頭を下げて窓際へと向かう。

 人が多くて面倒と思う半面、どこか期待が増していくように感じる。行列が出来る店に並んでいる時のようだなと思う。

 他人の邪魔にならないように間をすり抜け、時に前の人間が移動するのを待ちながら前に進み――ようやく窓際にたどり着いた。

 視界に広がるビルの森。きっと果てはあるのだろうが、こんな高い場所から見ているというのにどこまでも街並みは広がっている。

 それを見て、思う。やはりここは異世界だと。ニールが知る理とは別の理で発展した世界なのだと。

 魔法も無ければニールたちの世界ほど人間が力強くないというのに、どうしてここまで発展できたのだろうと疑問と敬意を抱く。どんな方法があるにせよ、楽な道ではなかったのだろうに。

 

「おー、やっぱ高い高い。あ、そうだニール知ってる? あっちの方に見える紅白の塔があるじゃない? あれって昔は日本で一番高い建物だったのよ!」

「……なあ、連翹」


 不意に、呟く。

 意図して出した言葉ではなく、思わず口から漏れ出した言葉であった。連翹にとってもそうだろうが、ニールにとっても不意打ちだ。


「――本当に後悔はねえんだな?」


 この世界から去ること、故郷に二度と戻らないという事実を。

 連翹が思い悩んだ末に決めたのだから、自分が言うことは何もない。こんなこと問うのは野暮だ――そう、思っていたのだが。

 見渡す限りに広がる人の営みを見て、ニールは思わずそう問いかけてしまった。

 ニールたちの世界も、いずれこんな大都市を生み出すかもしれない。この世界とは別の、けれど同じくらい大きな街並みを。

 だが、それは今ではない。ニールが死んだ後、そのずっとずっと未来に存在する可能性に過ぎないのだ。

 ゆえに、ニールたちと一緒に異世界に行けば、地球に近しい街並みを見ることは二度と叶わない。似たような雰囲気の町を見て、故郷を懐かしむことすら出来ないだろう。

 そう考えると、レゾン・デイトルの転移者たちが元の世界の建物を再現しようとしていた気持ちも分からないでもない。

 自己顕示欲、現地人とは違うという優越感もあったのだろうが、二度と戻れぬ故郷を懐かしんでいたのだろう。

 

「ううん、あたしはきっと何度も後悔すると思うの」


 連翹は即座に、けれど煮え切らない答えを返した。


「だって、どっちも大事だと思ったから悩んだんだから。決断したからってそう簡単に割り切れないわ。知ってると思うけど、どうでもいいことをぐだぐだと考えちゃう人間なのよ、あたしって」


 決断したから、心に決めたのだから、ゆえに迷わないし惑わない。定めた道を真っ直ぐ進み成長していく――そんな人には成れないのだと。

 それはきっと人間として理想的な在り方なのだろうし、とても格好いいのだろうけど。

 くだらないことで一々悩んでいるような人間より正しいのは明白だろうけれど――片桐連翹という人間は、どれだけ成長したとしてもそこまで真っ直ぐには成れないだろう。

 だが、そんな人間だったら、きっと連翹は転移者になど成ってはいなかった。仮にディミルゴに声をかけられたところで、その言葉を跳ね除けて真っ直ぐ生きていたはずだ。

 

 ――だから、と。

 

 連翹は小さく呟き、照れくさそうに微笑んだ。 


「ちょっと悩むくらいは見逃して欲しいけど、後悔やらなんやらで動けなくなってたら思いっきり背中を蹴っ飛ばして。そうしたらたぶん、また立ち上がって前に進めると思うから」

「そんくらいお安い御用だ。むしろお前がやめろっつっても蹴り飛ばすが、後で泣き言漏らすんじゃねえぞ」

「えー、泣き言くらいは大目に見てよ。あたし、ニールみたいに決めたらすぐに全力疾走なんて真似は出来ないんだから」


 ――でも、と。

 ニールを見つめ、微笑む。


「それでも、あたしなりに頑張ってみるわ。貴方が見せてくれた背中に恥じないようにね。こういうのを自分で言うのは違う気もするけど――あたしのこと、長い目で見ててね」

「ああ、剣も人生もまだまだ道半ばだからな。俺もお前もちゃんと成長しねえと」


 理想は自前の実力で無二の剣鬼(オンリー・ワン)に勝利することだが、正直ニール・グラジオラスという男の才能でそこにたどり着けるか甚だ疑問だ。

 だが、だからといって立ち止まる理由にはなるまい。仮に辿り着けずとも歩んだ道は己の血肉になるのだ、ゆえに己のペースで前に進むのみ。

 決意を新たにし頷いていると、なぜだか連翹が不満気な表情を浮かべだした。


「長い目で見ててってどういう意味だと――ああもう、さすがに二度目は言えそうにないわコレ」


 難聴系とか鈍感系主人公にヒロインは何で伝わるように何度も言わないんだって思ってたけどぉ――と顔を手で覆って呟いている連翹の姿に怪訝な表情を浮かべてしまう。

 何か解釈を間違えただろうか。だが、先程までの会話の流れを考えれば、特別間違った回答だとは思えない。

 

 それに――ずっと一緒に居て欲しいという意味だったら嬉しいが、それはさすがに自意識過剰過ぎるだろう。


 連翹の言葉を聞いた瞬間に脳裏を過り、けれどすぐに否定した言葉を思い返し、小さくため息を吐いた。

 男なんてそういう言葉を勘違いして舞い上がる生き物だ、好いた女であれば尚更のこと。

 正直、ニール・グラジオラスという男は女受けする生き方や容姿をしているワケでもなし、ここで変な勘違いをしても気まずくなるだけだろう。


 ――だが、仮に。


 仮に、ニールが思った通りであったとしても――今は、まだこのままで。

 全ては元の世界に帰還し、連翹との勝負を終えた後に。

 現在と向き合い、互いの過去を精算し、未来へ向かう――その時まで。

 自分の言葉に彼女がどう反応するのか分からず、いいや、そもそもどのタイミングでどのような言葉を捧げるのかも未定のままだけれど。

 それでも、今ではないのだと思う。


「なんだ、鍛錬のこと考えてもうへばってんのか? 今からその様じゃ、お前の背中は俺の靴痕だらけになっちまうぞ」

「ああもう、いいわよそういうことで……っていうか蹴り飛ばすって比喩表現だから。ニール、もしかしてリアルにキックぶち込む気じゃないでしょうね?」

「あんま弁舌が立つ方でもねえしな、そっちのが俺が楽だ」


 剣よりはマシだろ? と


「楽だからって理由で女の子蹴り飛ばすの前提に話進めないで欲しいんだけど! そんなんだから女の子の人気全部カルナに取られちゃうのよバーカバーカ!」

「剣を学ぶ奴にはそういう気遣いする意味ねえだろ――ってかなんだよ人気取られるって、どこの誰からだよ」

「え、もちろん連合軍の皆だけど? ニールとカルナの二択なら顔が整ってて表面上気配りも出来るカルナの方に人気が行って、『思ったよりカルナってやべー奴だよね』って思った人が消去法でニールに流れるって感じ? ちなみに、人生は二択じゃなくて選択肢が山ほど存在するから貴方がモテる未来はそうそうないと思うの」

「――ちっくしょう、カルナの奴許さねえ……!」

 

 別段、女にモテまくりたいとは思わないが、身近な同性とここまで圧倒的な差があると流石に悔しく思うのだ。あの野郎、色々爆ぜればいいのに。

 そのような他愛もない会話を続けながら、ニールたちは茉莉たちと合流した。

 後はもう少しゆっくりとソラマチ辺りを見て回ろうかと話しながら、ゆっくりと時間は過ぎていく。


 ――――こうして。


 今日という一日は緩やかに終わりへと向かっていくのだ。

 穏やかな日常から、別れの瞬間へと。

 それは、ゆっくり、ゆっくり、けれど確かに近づいていた。


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