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グラジオラスは曲がらない  作者: Grow
「ありがとう、さようなら」
262/288

259/疑問と朝食


「そういうワケなんだが――なんか心当たりねえか?」

「うん、まあ、色々と言いたいことはあるけれど、まずは一つ」


 帰宅し、連翹を先にシャワーを使わせているニールは、起き上がったカルナに先程の件を相談していた。

 普段通りのセクハラだというのに連翹の対応が大きく変化していたこと、それを前にしてどうすれば良いのか分からなくなって来たということを。

 未だ眠そうなカルナは、小さくあくびをした後、半眼でニールを睨む。


「……どうしてその相談、僕に振ったんだい。もっと適任者が居ると思うけど」

「桜大さんに相談は出来ねえし、かといって茉莉さんにもな。じゃあノーラに、とも思ったんだが」


 そうとも、この手の相談ならカルナよりノーラの方が向いているだろうとは理解している。

 無論、セクハラした件について説教はされただろうが――悪いことをしたのは事実である以上、怒られて当然だろう。それから逃げるつもりはない。

 そう思ったから先程リビングに顔を出し、テーブルに座っているノーラに声をかけようとしたのだが――――



「……ああああ、お味噌汁が染みるぅ……ありがとう茉莉さぁぁん……」



 ――――なんというか、その、二日酔い後の味噌汁がなんでこんなに優しく五臓六腑に染み渡るのだろうか? みたいな顔をしていて。


「……正直、その姿を見ると相談する気になれなくてな」


 辛そうだしのんびりさせてやろうという気持ちはもちろんある。

 だがそれと同じくらいに、二日酔いの中で飲む味噌汁の美味しさに目覚めている姿を見てしまうと、その、なんだ。


「なんっつーか、ほら、あれだ……相談する相手として正解なのか? っていう疑問が湧いちまって」

「あー、うん、そっか、ちょっと気持ちが分かった」


 ニールたちも日向ひむかいに近い港町ナルキで冒険者をやっていた身だ。

 輸入された日向の料理を宿の女将が出していたため、多量に酒を飲んだ後の朝に味噌汁を飲んだことはある。風味が独特だが酒びたりになった体を程よく癒やしてくれる感があったことも理解出来るのだ。

 だが、それはそれとして、その仕草が女子らしいかとか、この手の相談する相手に相応しいかと問われたら、首を傾げる他ないのである。


(なんだろうな、ストロング・ゼ○飲みまくってああなったからか、どうしても残念なイメージしか思い浮かばねえんだよな)


 ストロング・ゼ○を掲げ、こちらに向けて見せびらかすノーラの姿を思い出すと、どうしても女性関係の相談をする相手として適切ではないように思えてしまう。

 無論、今までの行いを見る限り、多少のマイナスがあったとしても相談相手として適しているのはノーラだろう。

 けれど、だからこそ『大丈夫かよノーラ』みたいな感情を抱いている状況で相談してしまうのは失礼だ。相談するからには、ちゃんと相手を信じるべきだろう。


「ま、たまにはいいかな。それで? ニール、君はどう思ったんだい?」

「……なんかがっつり涙目で恥ずかしがる連翹って珍しいし、嫌われない範囲でもっと虐めてぇなと」

「最低だなぁ君は! 真面目に相談に乗ってやろうとした僕の気持ちを返せよ!」


 欲望のままに言い放った言葉にカルナが即座に罵声を浴びせる。とても解せる。ニールがカルナの立場だったら速攻で頭を叩いているだろう。


「いやしかし待ってくれよカルナ。俺の意見も聞いてくれ」


 確かに延髄反射で出てきた言葉であったが、だからこそ真実の一端もある。


「確かに最低な物言いだった自覚はあるぜ。だがよ、物語の濡れ場だって初手から女が全裸で出来上がってるよりも、恥ずかしがりながら脱ぐのを眺めたり、むしろこっちが脱がせて恥ずかしがらせたりする方がエロくて読んでて楽しくね?」

「とてもわかる」


 真顔で頷き、互いにシェイクハンド。完全に心が通じ合った瞬間であった。

 やはり男は一皮むけば狼。そして狼とは群れを成すモノ。つまり男はエロスという群れに住む共同体。

 

「秘されてこそ、というよりも秘匿しようとする言動とかが一番素晴らしいよね。極論、全裸でも局部を必死に隠そうとする姿が……うん、良いよね」

「ああ、いいな……」


 人類は同じ種族同士で争いを続けて来た種族である。

 その強い欲望から、他の種族よりも諍いが起こりやすいのだろう。

 だが、諍いを起こすのが欲望であるならば、互いに理解し合うのもまた欲望の力。

 そう、二人は今、欲望エロスによって分かり合えたのである―――――!


「――ハッ!? いや待って、待って欲しい。この会話で何一つ問題が解決していないぞ……!?」

「やっべえマジだ!? くそ、誰だか知らねえが汚え真似をっ……!」


 危なかった、と額の汗を拭う。

 何一つとして建設的な会話をしていないというのに、全てが丸く収まったみたいな空気になっていた。一体何者の仕業だというのか……!?


「――二人が派手に脱線しただけだからね。謎の第三者が誘導したみたいな空気を出すのやめましょう?」


 響く第三者の声。女性の声だ。

 ニールとカルナは即座にそちらに頭を向ける。

 

「ああ、言っておくけれど、別に最初から盗み聞きしようと思っていたわけじゃないわよ? 連翹がシャワー終わったのに、グラジオラスくんが中々降りてこないから様子を見に来たの」


 そこには、部屋の外からこちらを見る片桐茉莉の姿。

 なんだろう――戦闘能力は欠片もないはずだというのに、腕を組んでこちらを真っ直ぐ見つめるその姿に威圧感を感じた。


「さて……と。とりあえずグラジオラスくん正座。カンパニュラくんは……うーん、まあいいわ。会話の内容はどうかと思ったけど――まあ男子高校生くらいの年齢だと思えば、むしろ自然かなとも思うし。ただ、もっと声を抑えるようにしましょう」

「す、すみません、気をつけます……」

「……あの、だったらなんで俺は?」


 エロ会話で盛り上がってしまったのはカルナも同じだというのに、この差は一体なんなのだろう?

 その言葉に、茉莉はにこりと――けれどどこか威圧感のある笑みを浮かべた。


「ジャージがずり落ちるのを指摘せずずっと眺め続けて、その上、涙目にさせたって聞こえてきたけど? わたしの空耳かしら?」

「マジすみませんしたぁ――!」

 

 即座に正座、すぐさま土下座。

 親御さんに対して何一つ言い訳出来ない大馬鹿野郎は最高速で最上級の謝罪を繰り出した。


「よろしい。言い訳しなかったし、それで許してあげましょう。それじゃあグラジオラスくんとカンパニュラくん、早く下に降りちゃって」

「あ、ありがとうございます……」


 なんだろう、この居心地の悪さと罪悪感は。

 いや、元々こういう反応の方が正しかったのだとは思う。そのくらいの自覚はある。

 けれど、今までは軽いセクハラ程度ならどうとでもなるノリで過ごしていたため、どうも上手く馴染めない感があった。

 着替えを持って一階へ降りる。

 茉莉とカルナと別れたニールは、そのまま脱衣所に入りジャージを脱ぎ洗濯カゴに放り込む。

 全裸になると風呂場に入り、シャワーからお湯を出す。この風呂を使うのは初めてだが、幸い昨日スパに行った経験もあって問題なく操作できそうだ。

 頭から熱いお湯を被りながら、その心地よさに息を吐く。

 大気が冷たいこの季節、鍛錬後にお湯で体を洗えるのはありがたい。元の世界では井戸や川の水などを使っていたため、なおさらそう思う。

 

「……で、お前は何やってんだよ連翹」


 上半身だけ脱衣所の方に向け、半眼で睨む。僅かに開いた扉の隙間から顔を覗かせる連翹とばっちり目が合った。

 隠形が下手くそ過ぎて背中に突き刺さる視線が丸分かりだ。何やっているんだろうこの女、役割が逆だろうに。


「……いや、なんというか、さっきの報復?」

「下着と全裸じゃ釣り合ってなくねえか?」

「それ言ったら全く恥じらっていない以上、恥ずかしかったあたしとは釣り合い取れてないんじゃない?」

「……なるほど、つまりは引き分けだな」


 適当に言いながら汗を洗い流す。

 

 わざわざ隠すつもりはない。こんな体を見たところで何が楽しいのかは分からないが、見たければ好きなだけ見ればいいだろう。

 だが、「腕とか脚、随分引き締まってるのね」だとか、「背筋? ってやつもけっこうガッチリしてるんだ。マッチョ体型っぽく見えなかったのに」だとか、「お尻固そう……」だとか、感想を述べるのは止めて欲しい。さすがに少し恥ずかしいし、落ち着かない。

 ……というか、ここまでやられるとニールも似たような品評をせねば割に合わないのではないのだろうか? 

 さすがに全裸になれとは言わない。下着姿か、もしくはスカートたくしあげるだけで十分過ぎるほどに十分だから。大丈夫、十分評論できる。

 そこまで考えて、魅力的な未来だがたぶん実現しないだろうな、と溜息を一つ。


「なあ、さすがにお前そろそろ――」


 シャワーを止めて体全体を向ける。

 

「ぴっ」


 瞬間、なんか鳥類めいた珍妙な鳴き声と共に硬直し始めた。

 なんだ? とは思ったが、さすがにこのまま全裸のまま突っ立っていると風邪を引きかねないので脱衣所の扉を開け、連翹の体を掴んで脱衣所の端っこに押し込む。

 同じポーズで固まってる連翹をそのままに、ニールはタオルで体を拭き、着替えを開始する。

 

「ぴあっ、ふあああ……!? なんか、なんかぶらぶらってしてたんだけど……!?」

「そりゃそういうもんだしな」


 ようやく再起動した連翹に何言ってんだお前、という視線を向ける。

 着替えを終えたニールは大きく溜息を吐いた。

 

「つーか、お前どうしたかったんだよ。さすがにああも品評されると居心地が悪かったが、別に恥じらうことはなかったぞ」

「そのね……もし小さかったら『やーい! お前の息子、ショートソードー!』って馬鹿にしてやろうかなとか思ってたの」

「魔族の生まれ変わりか何かかよお前ぇ……ッ!?」

 

 悪鬼の所業過ぎて恐れおののく。もし本当に小さくてそれ言われたら心が折れかねない。

 

「それで、実際はどうだったんだよお前。さすがにショートソードじゃねえだろ。バスターソードとまでは言わねえが、ロングソードくらいはあったんじゃねえの?」

「じ、じっくり鑑賞なんて出来るはずないでしょ!? 馬鹿なの!? 死ぬの!?」

「今現在馬鹿なのも死ぬのも、覗きに来た上で被害者面かましているお前だと俺は思うぞ」


 偶然風呂場でエンカウントしたというのならまだしも、堂々と覗きに来た分際でなにを言っているのかこの女は。

 だけど当の本人は、そうだけどぉ、と連顔を逸しながらもじもじとしている。


(……連翹は連翹で、なんか上手く噛み合わない感じがあんのかね)


 距離感や接し方に対する戸惑いは、ニールよりも変化した連翹の方が大きいのかもしれない。

 少し前までの連翹にわざわざ見せびらかしたことは無かったので比較は出来ないが、仮に何かの拍子に晒してしまったとしても今のように恥じらわなかった気もする。多少恥じらいはするかもしれないが、それはそれとして「プラプラさせて間抜けな姿ね! プークスクス!」くらいは言ったと思うのだ。

 だというのに、今の連翹は恐る恐るといった感じでズボンの股間部へチラチラ視線を送っている。なんだその反応は、初な生娘かよと言いたくなる。


「つーか、そんな隅っこでおろおろしてんじゃねえよ。ノーラが味噌汁飲んでたし朝飯の準備はだいたい終わってるはずだからとっとと行こうぜ」

「さっきここに突っ込んだのニールじゃない」

「それから動かなかったのはお前だぞ、連翹」


 まだ微かに赤い頬を膨らませる連翹の背中を軽く叩きながらリビングへ向かう。

 

「すんません茉莉さん、遅くなりました」


 テーブルには、既に桜大とカルナ、ノーラが座っていた。ノーラの方は気分が落ち着いて来たのか、顔色が随分と良くなっている。

 台所でごはんを装っていた茉莉は「それは構わないのだけど」と言って連翹に視線を向けた。


「連翹、呼んでくるとか言ったわりには遅かったわね。どうかしたの?」

「ああ、それで風呂場まで来てたんすね。……そんな素振りは一切せずに覗きしてやがったんすけどね、こいつ」


 指差して言うと、茉莉は「あはは」と愉快そうに笑う。


「まあ、そういう冗談はともかく、連翹、呼びに行ったのなら話し込んでないでちゃんと要件を伝えないと――」

「いや、お母さんごめん。実はニールの言うとおりだったりしたりしなかったりするというかー……」


 言いにくそうに人差し指同士をちょんちょんと合わせる連翹に、茉莉の笑みが固まった。


「――え? グラジオラスくんの話、冗談じゃなかったの? といういか、ねえ? 何やってるの連翹?」

「えっと――さっきの意趣返し的な?」

「肉を切ろうとしたら骨まで断たれたみてえな感じだったけどな、お前」

 

 いや、ニールは反撃する意図が皆無だったために、肉を切ろうとしたら勝手に転んで頭を打ったというべきだろうか。

 どちらにしろ間抜けなことには変わりない。むう、と黙り込む連翹の姿にニールはけらけらと笑いながら椅子に座る。

 既に朝食の準備は完了していたらしく、椅子の前には料理が並べられていた。

 白米に味噌汁、そして鮭と卵焼き。テーブルの中央には納豆がネギと卵が混ぜられた状態で置いてある。

 

「揃ったな。では、いただきます」


 連翹と茉莉も椅子に座ったことを確認し、桜大が宣言する。

 ニールは早速、卵焼きに軽く醤油をつけて一口。しっかり火が通り、しかし中央部がとろりとした味わいにニールは楽しげな笑みを浮かべた。


「つーか、なんだこの豪華な朝食。連翹、こんなに料理上手な家族が居たのになんで習っとかなかったんだよ」

「いや、グラジオラス君、そこまで持ち上げられても……ねえ連翹、あっちでは本当にちゃんとごはん食べてたの?」


 褒められて嬉しいけれど、この程度でここまで言われても――そんな喜び半分、連翹に対する心配半分、そんな複雑な表情を浮かべる。

 

「うん、ニールはまあ、なんというか、肉とか卵とか出たらそれだけで評価基準がゆるゆるになるっていうか……ほら、昨日のカレーだってそんな感じだったでしょ?」 

「あー、確かにゆで卵あるって言った瞬間、凄く楽しそうにしてたわねグラジオラスくん……」


 得心が行ったとばかりに頷く茉莉。 

 だが、卵だけでこの評価になったと思われるのは心外だ。

 

「確かに卵あるだけで嬉しいってのは事実っすけど、それだけで言ったつもりはねえっすよ。他の料理もしっかり手を加えてるじゃないっすか」


 納豆に関しては詳しくないので茉莉が作ったのか買ってきたのかは分からないのだが、それでも鮭や味噌汁などはちゃんと料理しているはずだろう。

 そう熱弁すると、茉莉は後ろめたそうな表情を浮かべ視線を逸した。


「うん、その、ちゃんと考えて褒めてくれたのは分かったんだけど――ごめんね? 本当に申し訳ないんだけど、その鮭ってグリルで焼くだけでいいやつなの。味噌汁だってダシと味噌溶かしてネギと豆腐入れたくらいで……わたし、卵焼き作って納豆を卵とネギ入れてかき混ぜたくらいだったりするのよ」

「なんだそれ超便利――いやけど、朝から米を炊くのも時間がかかって大変じゃないっすか」

「それもごめんね、洗米した後にセットしたら自動で炊けちゃうのよ」

「こっちの世界すげえ――!?」

「本当よね、そっちの話を聞いてるとわたしが随分と楽してるんだなって思うわ」


 魔法や奇跡よりこっちの方が便利なのではないだろうか? ニールは訝しんだ。

 というか、もしかしてこっちの世界の料理って凄い楽なのではないだろうか? 火の調整も簡単に出来るようだし、実のところニールの方が料理人として優れている可能性も――


「いえ」


 そんなニールの思考を遮るようにノーラが首を横に振る。


「どれだけ便利になっても手間は手間ですから。朝早くにごはん作るのって実際、面倒ですしね」

「……だな」


 ノーラの言葉に自分の浅慮を恥じながら頷く。

 石の刃でモンスターと戦っていた頃に比べ、鉄剣が自由に使えるようになった今の剣士はかつての剣士に比べて楽をしている――などと言えるはずもない。どちらも戦うということは、命を奪い合うという本質は変わらないのだから。

 便利な道具が増えればやれることが多くなる、自他共に求める結果のハードルが上がっていく。どんな便利なモノを有していても、それは変わらない。

 

(さっきの考えは、転移者の考えを逆にしただけだな。なんて間抜けだ、俺は)


 自分たちの方が苦労しているのだから、楽をしている相手より格上だ――なんだその思考は、衰えきった老人の世迷い言か何かか。

 力があるから、苦労したから、便利な道具を使ったから他者に認められるワケではな断じて無い。

 どんな名剣であろうとも、悪戯に見せびらかし振り回すだけの凡愚が担い手では宝の持ち腐れにしか見えないだろう。使い所を理解し、必要な時に必要な力を引き出せばこそ、道具の価値は活きるのだ。

 仮にニールが台所に立ったところで、剣の輝きに魅せられた凡愚の如き末路しか辿れないだろう。

 

「特に、カルナさんは朝は弱いですし、どんな便利な道具があっても朝食の用意なんて出来ないでしょう?」

「ああ、やっぱり矛先がこっちに向いたか……」


 先程から無言で鮭と白米を食べていたカルナが失敗したと言うように顔を歪めた。

 そして誤魔化すように頬を掻き、視線を茉莉へと向ける。


「まあ、そんな感じで――出来ない人間は便利な道具を使っても出来ないので、そう卑下するモノではないと思いますよ。実際、美味しく頂かせて貰っていますし」

「それでもなんか褒め殺されてる感じになっちゃうわね。でも、うん、ありがとう」


 照れくさそうに髪を弄りながら言う茉莉に安堵しつつ、ニールは視線をテーブル中央に向けた。

 そこに存在するのは納豆と呼ばれる存在だ。器の上に取り箸が置いてある。

 名前と概念だけはナルキに居たころ宿の女将から聞いてことがあるのだが、実物を見るのは初めてであった。

 

(……マジで糸引いた豆を使ってんだな)


 食べられないワケがない。

 食べられないようなモノであれば、茉莉が食卓に出すワケがないではないか。

 それも卵とネギと一緒にかき混ぜた、というのは先程の茉莉の言だ。そう、卵が入っている。ゆえに、食べてみようかとは思うのだ。思うのだが……

  

(要はカビを利用したチーズの親戚じゃねえか……って頭じゃ分かってんだがな)

 

 やはり食べ慣れていないモノだからだろうか、どうしても二の足を踏んでしまう。これなら、昔一人でアースリュームに行った時に食べた鉱石喰らい(オーレ・イーター)の丸焼きの方が手を伸ばしやすかった。

 だってどう見ても腐ってるだろこれ、いいや、でもせっかくなんだから一口くらい――


「あ、納豆でしたっけ? 貰いますねー」


 ――そんな風に悩んでいるニールの前で、ノーラは何一つ気負うことなく自身の白米に納豆をたぱあ、とかけた。

 

「チャレンジャーだなぁノーラぁ!?」


 思わず出た叫びにノーラは首を傾げる。


「だって、せっかく見知らぬモノがあるのに、食べないのって勿体無いじゃないですか……」

「いやまあ、言いてえことは分かるけどな」


 胃の調子も完璧に戻ったのかもりもりと納豆を食べ始めるノーラを見て、微かに口元を引きつらせる。

 

(――食に関しちゃ俺以上に冒険者だな、ノーラ)

 

 だが、前衛として後衛に先陣を切らせてしまうのは情けないにも程がある。

 覚悟を決めたニールは致命傷にならぬように少量の納豆を白米の上に載せて、そのまま口に運ぶ。

 瞬間、広がるねばねばとした豆の感触と独特な臭い。

 だが、幸いなことにニールは嫌いではなかった。卵とタレが混ざった味わいは白米にとても合うし、混ぜられたネギの食感がアクセントになっていて心地よい。

 唯一、納豆そのものの臭いが苦手だが、それさえ覗けば十分美味しく食べられる。

 

「けっこう美味えな、これはもうちっと入れても良かったかもしれねえ……ん?」


 残った白米に更に納豆をかけていると、ふと違和感を抱いてノーラの手元に視線を向ける。

 そこには納豆をかけた直後にもりもりと食べた後から、あまり消費されていない納豆の白米の姿があった。談笑しつつゆっくりと消費はしているものの、これはつまり。

 

「……ノーラお前、自分で処理に困ってるな?」

「え? ……い、いやいや、まさか……あはは」


 美味しく頂いてますよー、と微笑むノーラだが、瞳が完全に泳いでいる。

 冒険したはいいが、臭いや食感などが好きではなかったのだろう。米の消費速度が先程の半分以下だ。

 確かにノーラは冒険することにためらいは無いのだろう。だが、冒険の結果必ず成功を収められるはずもなく、むしろ失敗の方が多いのが現実だ。

 そしてノーラの冒険は完全に失敗している。

 

「なら俺が貰ってやるよ、茶碗をこっちに――」


 よこせよ、と。

 そう言おうとした瞬間、ノーラの横から連翹の手が伸びた。

 速攻で茶碗を奪い取った連翹はそのまま中身を一気に掻き込み、ノーラの手元に戻す。

 

「え、いやー? ごめん、ニールの話聞いてなかったわ。なに? ノーラのお茶碗貰おうとしてたの? ごめんごめん! ごめんね!」


 いきなりどうしたお前――という視線に気づいたのか、連翹がわざとらしく明るい声音で言う。

 その最中、なぜだかノーラの茶碗とニールの口元を交互に見つめ、微かに頬を赤らめたり、何やってるんだろうと言うように顔を覆いだしたりしている。挙動不審にも程があるだろう。


「……いやまあ、いいけどよ」


 苦手なんだったら貰うぞ、程度の考えだったので連翹が食べてしまっても問題ないといえば問題ない。

 実際、炊いた米はまだあるのだし、ニールがおかわりすれば良いのだ。

 だが、理由が全く分からない。納豆を食べたいのならノーラの茶碗を強引に奪わずとも、白米をおかわりすれば良いのだから。

 つまりこれは、ノーラの茶碗がニールの方に行くのを防いだということになるのではないだろうか?

 だとすれば、理由はきっと――


「なるほどな……けどよ連翹、ノーラが食った茶碗で飯食ったとしても、お前の胸がノーラみてえに大きくなったりはしねえぞ」

「――待ってニール、どういう思考回路でそういう言葉が出てきたのか聞かせて貰いたいんだけど」


 ――ニールの言葉にしばし固まった連翹は、その後にこりと微笑んで問いかける。

 右手はぎゅうと握りしめられ、下手なことを言おうものなら全力でぶん殴るわ、という意思がオーラと化していた。

 

「あ? 胸の大きな女が口つけた飯を食べたら自分も大きくなるかも、ってトチ狂ったんじゃねえのか――ってうおぉっ!?」


 ひゅごう、と先ほどまでニールの頭があった場所を通り抜ける連翹の拳。

 なんだこれは、解せぬ、ニールは確かに正解を導き出したはずなのに――!?


「……この手のことに詳しくない私が言うのもなんなのだが」


 静かに朝食を食べていた桜大が、ことりと茶碗をテーブルに置き、厳かな声で言った。


「そんな私から見ても今のは完全に自業自得だ、諦めろ。そしてもう少し頭を働かせて察してみせろグラジオラス」

「いや、んなこと言われてもぶぅっ……!?」


 理不尽ではなく己の過失であることは理解したが、何をやらかしたのかさっぱり理解出来ないままニールの頬に拳が突き刺さった。

 浮き上がったニールはテーブルから飛翔。テレビ付近に置いてあったクッションの上に顔面から墜落。ふかっ、とした感触と共にニールは停止した。

 加減されていたのだろう、落下地点もそうだが頬もあまり痛くない。ゆっくりと起き上がると、もう溜飲が下がったのか、食事に戻る連翹の姿が見えた。


「連翹。一応聞きたいのだが……ああ、今更お前の決意に水を差すワケではないが――それでも聞くのだが、あれで良いのか?」


 鋭い眼をニールに向ける桜大。

 顔合わせた当初なら睨まれていると思ったかもしれない視線の鋭さだが、瞳の鋭さは完全に素だ。睨むとか怒るとかいう要素は皆無で、むしろ呆れているのかよくよく見ると眦が下がっている。

 連翹はその問いかけに連翹は「あー」と頬を掻きニールの双眸を覗き込むように見た。


「いやね? あれで剣を振ってる時は百倍キリッとしてるのよ? 今よりずっと格好いいんだから」

「……グラジオラスくん、この言葉を聞いて何か思うところは?」 

「そりゃ剣士が剣を使ってる時に格好いいのは当然じゃないっすか。連翹も剣士の良さが分かって来たようで何よりだ」

 

 正直に言うと、連翹に格好いいと言われて嬉しい。

 油断すると今すぐガッツポーズを決めたくなるくらいだ。

 だが、剣士としての格好良さと異性としての格好良さを一緒くたにしては駄目だろう。

 下手に大喜びしようものなら、一体何を勘違いしているのかと思われるだけだ。

 そんな、ニールとしては常識的な思考をしているつもりだというのに、茉莉はとてつもなく察しの悪い馬鹿を見るような眼差しでこちらを見てくるのはなぜなのだろうか?

 

「……まったくもう、剣とか剣士とかの話になるとこれなんだから」


 連翹は若干がっかりしたように溜息を吐きつつ、微笑ましいとでも言うように笑みを浮かべた。

 そんな二人の様子を見た茉莉は、呆れ半分、懐かしさ半分といった風に息を吐く。


「……あー、なんというか。『わたしは彼の良さを分かってる』、みたいな感じになってるのねー。わかるわかる、わたしもそうだったわ。こんなところは似なくても良かったのにね……」

「待て茉莉、それでは私まで駄目なように聞こえるだろう。いや、私が駄目だという言い草は許そう、遺憾ながら事実だからな。……だが、かつての私も現状のグラジオラスと比べられる程ではないと思うが?」

「高校時代、付き合う前のバレンタインデーで勇気を出してチョコ渡した後の第一声が『正気か貴様、とっとと保健室で休め』だったの、わたしは忘れてないわよ。頭がおかしくなった見たいな顔してたわね。ええ、ええ、あんなに怒ったのってたぶんアレが最初で最後だったんじゃないかしら」


 勇気を出して手渡して返ってきた反応が喜びでも拒絶でもなく、『お前頭大丈夫?』という言動。

 なるほど、それはキレる。

 ノーラが桜大を蔑むような眼差しで見つめ、桜大が「まあ待て」と手で制した。


「茉莉もホワイトスターもよく考えろ。客観的に考えて私に手作りのチョコレートで愛情を表現するなど、もはや何かの刑罰だろう。今はまだ働いているからまだしも、当時の私はただの学生だ。特別裕福な家の生まれでもなかったため、遊ぶ金も雀の涙だ。である以上、私などに贈り物をするなど全く以て無意味という他ないだろう」


 普段から顰めっ面で、かつ脆弱な自分や理不尽な他者に怒っているような男であったから。

 桜大はそのような自分を曲げぬ男に憧れ、そうなるように努力したのは事実ではある。だが、異性に好かれるはずがないという自覚もまた有していた。これほど絡みにくい男もいないだろう。

 おまけに、学業と趣味の読書、そして上級生に絡まれた時に対抗するためのトレーニングばかりしていたため、バイトもしていなかった。遊ぶ金目的で近づく相手ですらない。

 ゆえに、本命の相手に渡せず、カバンの中に放置するよりは他の誰かに渡した方が良いと悩んだ結果頭が誤作動を起こしたか、もしくは友人同士の罰ゲームの二択。桜大は真面目にそう考えて発言したのだ。

 その結果――普段穏やかだった茉莉の堪忍袋の緒がぶちりと引きちぎれたワケなのだが。


「ああもう、なんでこう貴方は自信満々に見えて、こうも自己評価が低いのかしらね……」

「当然だろう。かつてと比べればだいぶマシな人間になれたと思うが、それでも完璧には届いていない。それどころか自分の無知や愚かしさを突きつけられ、どうして上手くやれなかったのかと悩むことばかりだ」


 一歩一歩前に進み、少しずつ成長はしている。

 だが、成長すればするほどに他の未熟な部分が目立ってくるのだ。目指した完全無欠な鉄の男には指先すら届いていない――桜大は自嘲するように笑うと、視線をニールに向けた。

 己の未熟さを遥かに年下の男に指摘されたばかりだからな、そう呟くように。


「……ねえお母さん、さっきの話すっごく初耳なんだけど。お母さんから見て昔のお父さんってどんな感じだったの?」

「自他ともに厳しい優等生かと思えば、先輩でも先生でも真っ向から立ち向かう人。端的に言って怖い人だったわ。調子に乗っているって上級生にボコボコにされて学校を休んだと思いきや、復帰した当日にリベンジマッチをやらかして不良の先輩たち共々停学。先生にとっても怒られてたのだけれど、『私を舐めた連中を叩き潰せたのなら、停学如き問題になりません。安い取引でしたよ』とか言って余計に怒らせてたりね。素直に謝れー、って」


 ごめんなさいとか、申し訳ありませんでした、などと言えば良かろうに、下手に出るのが許せなかったのかあの言動だ。

 無論、社会人になってからはだいぶ丸くなった――というか、社会人としてその精神性では駄目だと悟り大学生活の中で己の尖った部分を全力で丸くしたというべきか。

 連翹が「え? あれで?」みたいな表情を浮かべるが、茉莉は大きく頷いた。


「昔がナイフみたいな人だったら、今は鞘に入ったナイフみたいな人、なのかしらね。切れ味はそのままで、けど切るべきタイミングは選ぶようになったっていうか」


 まあ、だからといって子供だった連翹からすれば鞘に収められたとしても鋭いナイフだ。怖がるのも致し方がない。

 努力はしている、改善もし成功もしている。だが、全力で研ぎ澄ました桜大という存在そのものがかつての連翹には恐ろしくて堪らなかったのだ。


「そんなんだから授業態度は真面目なのに先生たちに嫌われて内申点が下がりに下がって推薦で大学に入れなくなったり、その癖に三年で一気に学力上げて自力で志望大学に合格したり、仲が悪かった先生に『見る目が無かったな』ってドヤ顔決めて言い争いになったり」

「ねえお母さん、どうしてそんな人に近づいたの? お父さんを悪く言うつもりはないけど――いやごめん、やっぱけっこう悪く言っちゃうわコレ。ぶっちゃけ、顰めっ面で我が強くて怖い男でしょ、当時のお父さん」


 文武両道で喧嘩も強い、というのは確かに男の魅力ではあるだろう。

 だが、それは遠目で見ているから映えるモノじゃないのかと連翹は問いかける。レディコミのオレ様系ヒーローなんて、現実に居たら絶対近づきたくないじゃないか、と。

 

「ああ、それはね。高校生の頃の出会いが切っ掛けなの」


 ふふ――と小さく、けれど確かに楽しげに茉莉は微笑んだ。

 

「当時のわたしは、制服が可愛いって理由だけで家から遠い学校を選んだから一人暮らしをしてたの。でも環境の変化のせいかしら、体調を崩しちゃって。それでも入学式くらいはちゃんと出ようと思って出席したら、式が終わって自分の教室に辿り着いた辺りで力尽きちゃってね。入り口付近で立てなくなったのよ」


 そんな時に近づいてきたのが桜大であったのだという。

 厳しい顔をした少し小柄な少年が、真っ直ぐ茉莉の元へ歩み寄り――


「ああ、あれね! 大丈夫かって助け起こしてくれた結果、優しさを知るみたいなイベントが――」

「『高校生にもなって体調管理すら出来んのかお前は、そのような場所で蹲られても他人の邪魔だ』って見下されながら睨まれたの」

「――お父さん、実はかなりあかん人だったのでは?」

「自覚はしている」

「最初、心配してくれるのかなって思ってたから『大丈夫ですから、ちゃんと一人で動けます』みたいなことを言おうとしてたんだけど、そのセリフで頭の中が真っ白になっちゃってね。ほら、驚きとか怒りとか、そういうので」


 ノーラの眼差しが先程から鋭い。

 カルナは藪をつついて蛇を出さぬよう静かに味噌汁を啜りながら空気化に努めている。

 ニールは他人の恋愛模様などにあまり興味がないため、白米をおかわりしに行っていた。


「けどわたしが動けないのを理解すると『仕方ない、私が片付ける』って」


 むんずと茉莉を掴んで、担いで、ずんずんと廊下を直進し保健室へ。

 状況の変化について行けずおろおろとしている茉莉を放置して、桜大は教室に戻ったのだという。


「保健室に連れてってくれたことに感謝すれば良いのか、あの物言いに怒れば良かったのか、当時のわたしには分からなかったわ。けど、体調が良くなって教室に戻ったら、クラスの女子たちはみーんな後者側で、だからついわたしはフォローに回っちゃたのよね」


 逆にクラスの女子たちが前者が多数だったら、感情のままに嫌っていたかもしれないわ――そう言って茉莉は懐かしむように微笑んだ。

 ――なんだろう、その状況が目に浮かぶ。

 酷いだとか最低だとか言って騒ぐ女子たちの中で、「け、けどね? あの人はちゃんと保健室に連れてってくれたから……」とフォローをするものの、だからってあの物言いはないと即座に潰される若い茉莉の姿が。 


「当時はむしろそれを歓迎していたがな。『女にうつつを抜かすのは弱い男だ』……そんなことを本気で考えていた時期だった。遠ざかってくれるのなら、敵対してくれるのならむしろ喜ばしいと。全く、愚かしいにも程がある」

「ああ、一種の中二病みたいな感じなのね……恋愛なんぞにうつつを抜かしている凡愚どもと私は違う、みたいな?」

「……否定はせん」


 苦虫を噛み潰したような顔で頷く桜大に、連翹と茉莉がくすくすと笑う。

 これが別の誰かだったら思春期の失敗で済んだのかもしれないが、桜大は言動に見合った成功を収めた。収めてしまった。

 脆い(弱い)金属(自分)を鍛えに鍛え、鋭い(理想の)(自分)に仕立て上げることが出来たのだ。だが、鍛え上げた刀刃(人格)は幼い娘を相手取るには()過ぎた。

 けれど、捨てられなかったのだろう。

 鍛えに鍛えた刃を、己が信じる無二の剣を。


「そんな人だったからフォローしつつも怖いなー、とは思ってたのだけどね。でも、良くよく観察して見ると、自分の心を支える柱が、そういう『自分が思う強い自分』しか無いように見えて――それは太くて頑丈に見えたけど、折れる時は一気にへし折れてしまいそうに見えて」


 怖さはあったが放っておけなくなった、と。

 少し照れくさそうに笑う茉莉に対し、桜大はただひたすらに無言で押し通す。

 

(――親子なんだなぁ)


 先程の茉莉の言葉に、かつての連翹を思い出す。

 転移者に成って与えられた規格外チートという力、それを柱に自信を確立していた姿を。

 努力で得たモノと、突如与えられたモノ、その違いはあれど自身が信奉する力に頼り切ってしまう在り方はまさしく親子と言うべきか。

 

「っと、ごちそうさまっす」


 やはり人間、上辺だけでは分からないことが多いな――そんなことを考えながら朝食を食べ終える。

 立ち上がり、自分が使った食器を片付けながら連翹に視線を向ける。

 

「それじゃ、そっちはそっちで楽しんで来い。俺らは俺らで楽しんでくるからよ」


 後は親子で思い出づくりに励め、と背を向け台所に向かう――その瞬間、服の裾をむんずと掴まれた。


「うおっ!? っと、なんだよ連翹? 別に片付け忘れてるモノはねえだろ」


 危うく手に持った食器を落としそうになったためか、少しばかり口調に棘が混じる。

 別に悪戯するのは構わないが、こういう割れ物を運んでいる時などはどうかと思う。茶碗を割ったら申し訳ないし、何よりも破片が散らばって危ない。

 だが、連翹はほとんど無意識だったのか、ニールの言葉にきょとんとした表情を浮かべ――ようやく自分の手がニールの裾を掴んでいることに気づく。


「え? あれ……いやその、なんというか、あれよ、あれ。うん、ニールはこっち側の方がいいんじゃないかって、そんなことを思ったりするのよ」

「何言ってんだお前。そっちに俺が混ざっても邪魔でしかねえだろ」


 家族水入らずの場に割って入るなど無粋にも程があるだろう。

 連翹自身、その理屈は分かっているのか反論はしない。けれど、彼女の手は裾を掴んだまま離れない。

 我儘な、そして寂しがりやな少女のような仕草に違和感を抱くが、しかしそれでも毅然と言い放つ。


「なあ、なんか用事があんなら元の世界に帰――」

「ああ、それなら丁度いい! 僕もニールはそっちに押し付けたいと思ってたところなんだ」


 瞬間、ニールの声をわざとらしく遮りながらカルナは微笑んだ。

 だが、その笑みは楽しげというよりも愉しげで、何か悪巧みをしているかのように見える。

 怪訝に思いながら反論しようとするが、カルナはそれを手で制しながらニヤリと笑う。


「二人っきりな空間にわざわざ異物を入れる趣味はないよ。だからといって一人にするのも不安だしさ。なら、そっちにニールを受け入れて貰った方が安心だよ」

「お前が言うかよ、お前が」


 こちらの世界に関して精通しているなど口が裂けても言えない以上、その物言い自体は正論だ。

 だが、それはお前も同じだろうと睨みつけるのだが――そんな圧力知ったことではないと言うように相棒は笑みを崩さない。


「確かに、僕だって完璧じゃないし間違う可能性はあるけど……その辺りはノーラさんと補い合えば良いさ。最悪、無知な観光客ってことで押し通すよ。だけど、ニールの場合、悪目立ちしたら警察――こちらの兵士や自警団みたいな連中にしょっ引かれるだろう? 見た目からしてさ」


 荒事が得意ですって体つきで、かつその目の鋭さだしね、と。

 そう言われると、正直ぐうの音も出ない。

 そして何より今朝、思いっきりオートバイを追い抜く速度でランニングしようとしたり、思いっきり踏み込んだ結果アスファルトに足跡が刻まれたことを思い出すと、余計に反論の余地が無くなってしまう。

 無論、好き好んでトラブルを起こす気は欠片もない。

 だがそう思っていても起こるのがトラブルというモノだろう。

 

「……まあ、理屈は分かるが、だからって茉莉さんや桜大さんに迷惑かけるワケにもいかねえだろ」

「あら、わたしたちは大丈夫よ。ねえ、桜大さん?」

「……ああ。このくらいの我儘、聞いてやってもバチは当たらんだろう」


 茉莉が楽しげに、桜大は小さく抑えるように微笑み、頷いた。

 この状況で「やっぱり俺一人で行く」というのも、逆に失礼だろう。そういうことなら、とニールは茉莉と桜大に頭を下げる。

 

「すんません、それじゃあお世話になるっす。……つうワケで連翹、今日はよろしく頼む。今朝みてえになんか妙なことやらかしそうだったら止めてくれ」

「……うん、うん! 全く仕方がないわねえ! こうも引っ張りだこじゃあ一人の時間も作れないわ!」

「現在進行系で引っ張ってんのはお前だよ、そろそろ裾から手ぇ離せ」


 掴んでいることすら忘れているらしい連翹の右手をぺしぺしと叩きながら、ニールは溜息を吐くのであった。


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