256/答え
ニールたちが二階に行った後、リビングに包まれたのは静寂であった。
無論、無音ではない。キッチンで二人分のお茶を用意している音や、家の外から響く雑音、二階から微かに漏れる話し声など、むしろ雑多なくらいだ。
けれど、それでも。
会話がない、という意味では確かにこの場は静寂であった。
(――ええっと、どうやって口火を切ろうかしら)
元気だった?
何も言わずに家を出てごめんなさい?
咄嗟に思い浮かんだ言葉は、どうも違う気がする。
ちらり、と桜大の方に視線を向けると――むっつりとした表情のまま、連翹を見つめて動かない。
それを見ると、どうしても上手く話せないのだ。他愛もない話ならなんとかなるが、こうやって面と向かってしっかりと話そうとすると、どうしても固まってしまう。
その理由は、きっと連翹の中にある苦手意識。
父親に対して『嫌い』などと言うほど悪感情を抱いてはいないが、しかし下手に突っついたら破裂してしまいそうな、張り詰めた風船を前にしているような緊張を感じるのだ。
「――あちらでは」
けど、ずっと黙ってるワケにはいかない。
そう思って口を開きかけた瞬間、桜大は不機嫌そうな声音で問うた。
「どうだった。ちゃんと食べていたか」
「……うん、まあ。皆に釣られて前より食べるようになったと思うわ」
「そうか」
「うん、そう」
ぎこちない会話だな、と連翹ですら思う。
錆び付き、油を差していなかったブリキのオモチャが、ぎちぎちと音を立てて動いているような感じだろうか。不格好極まりない。
「そっちは、その、どうだったの?」
「私はともかく、茉莉は食が細くなったな。ああも楽しそうに食事をしていたのは久々に見た」
確かに、再開した瞬間――いつも通り、居なくなった連翹の部屋を掃除しに来た茉莉の姿は、精神的に疲弊しているように見えた。
当然だろう、突然一人娘が何も告げずに蒸発したのだ。自分の意志で居なくなったのか、何か事件に巻き込まれたのか、それすら分からない状態で。
思わず視線を茉莉の方に向けると、彼女は『気にしないでいいのよ』と言うように笑みと共に首を左右に振った。
瞬間、ざくざく、と臓腑に針を突き立てられているような感覚。罪悪感という針が、情け容赦無く連翹に襲いかかる。
「その――ごめんなさい」
「自分の意志で出ていったのだろう? なんの為に謝る、罪悪感から逃れるためか? それほどまでに辛く思うのならば、最初から家出などするな、馬鹿者め」
ぐうの音も出ない、とはこのことだろう。
客観的に見ても主観的に見ても、片桐連翹という女は家族を捨てて力に酔いしれていた愚か者なのだ。
そんな女が今更、こうやって顔を出したのだ――辛辣な言葉を投げかけられて当然だろう。
「だからお前は――……いや、違う。このようなことを言いたいのではない」
だが、桜大は顔を歪め、頭を左右に振った。
自分で自分が嫌になる――そんな表情を見て、連翹は意外に思う。桜大はこんな表情もするのだな、と。
連翹の記憶に刻まれているのは、むっつり顔と怒った顔ばかりであり、そして何より言動に自信が満ち満ちていた。こんな自信無さげな、言ってしまえば弱そうな表情を見た覚えは、正直あまり――
(ああ、そういえば――)
――いいや、あった。
記憶が曖昧だが、幼稚園とか小学生低学年くらいの頃に桜大に怒られて泣いている時に、そんな表情を浮かべていたような気がする。
けれど、小学校高学年になる頃には、中学生になった頃にはそのような姿など一度も見たことが無かった。
日常会話はめっきり少なくなって、時々成績や生活態度のことで怒られたりしたくらい。時々何か話しても、その会話がキッカケで説教に移行することも少なくなかったため、連翹も自然と桜大と喋ることはなくなった。
「……まず何よりも最初に、言うべきことがあった」
ふう、と。
小さく息を吐いて、桜大は連翹の瞳を真っ直ぐ見つめる。
「よく帰ってきた連翹。こんな私だが、お前の帰宅を喜んでいるのは真実だ」
そう言って、不格好に微笑んだ。
笑い慣れていないのが一目で分かる、下手くそな笑み。だがそれでも、そこに込められた想いだけは確かに伝わって来た。
「……うん、ただいま。お父さん」
微笑み返すと、未だに怖かった父が少し小さく見えた。
桜大の身長はさして大きくないということや、連翹の身長が伸びたということではない。昔は、もっともっと大きくて凄くて――そんな雰囲気を感じ取っていたから。
だけど、今目の前に居る人は見たままの大きさだ。
眼鏡越しに覗く瞳が鋭くて怖く見えるのは相変わらずだが……その辺りは正直、ニールが剣を振るう時の鋭さの方がよっぽど怖い。
(――普通の人だなぁ)
そんな感想が胸の中に浮かび上がる。
昔は、もっともっと完璧で、そして怖い人に見えた。
自分とは違う人、そんなイメージすら抱いていたのだ。
けれど、異世界で色々な人と交流したからだろうか、善人とも悪人とも、どちらとも言い切れない人とも出会ったからだろうか。桜大が少し怖いだけの普通の人だと思えた。
その事実に安堵と羞恥の感情を抱く。
話の通じない相手などではないという安堵と――そんなことすら気づいていなかった過去の愚かしさに対する羞恥を。
過去の自分は色々なことを勝手に決めつけて、勝手に傷ついて、勝手に悲しみと怠惰に沈んでいた愚か者だったというのを強く強く実感する。
その癖、力があればなんでも出来る、誰にも嗤われない完璧な自分になれるなどと思っていた。ディミルゴが目をつけたのも当然だ。ニールとの出会いが無ければ力に酔いしれ、都合の良い部分だけを見る外敵と化していたはずなのだから。
「……かつての私は――いいや、今も、だな。お前が何を考え、何に傷ついていたのか皆目見当もつかない愚か者だ。嗤いたくば嗤えば良い、お前にはその権利がある」
ゆっくりと、絞り出すように桜大は語る。
ことり、とテーブルに置かれた茶で唇を湿らせながら、少しずつ、誤解されぬように。
「結局のところ、私は父親として落第なのだろう。理解していたつもりだったが、お前と歳の近い男に叱咤されて、より強く実感した。私は、愚か者だ」
「……ううん、馬鹿で愚かなのはあたしよ」
じくじくと膿んだ傷口を眺めているようだ。その傷が己の無力さゆえのモノなのだと呟く姿も相まって、見るに堪えない。
だって、その傷を負わせたのは他ならぬ連翹なのだから。だというのに、悪いのは自分だ、自分が愚かなのだと自嘲する姿を見せられて黙っていられるはずもない。
「相談もなにもせず、勝手に未来に絶望して、逃避して、異世界で強くなれるって聞いたらこっちの世界のことを全部忘れて承諾しちゃって」
これが自分ではどうしようもない――召喚や転生だったのなら言い訳も出来ただろう。
だが、創造神は確かに連翹の意思を問うた。こちらの世界に来るか否かを、選択肢として提示したのだ。
それに一も二もなく飛びついた愚か者が片桐連翹という女――なるほど、ディミルゴが使い潰せる外敵要員として声をかけた理由も分かる。とんでもないロクデナシだ。
「いいや、私がもっと気軽に相談できる良き父であったのなら、このようなことにはならなかった。お前が気に病むことではない」
「それ言ったら、勉強も手伝いもせずゴロゴロしてばっかの癖に、お父さんは顔合わせると怒るから嫌だなんて思ってたあたしの方がどうかと思うの。今になって思うと、お父さん何も間違ったこと言ってなかったもの」
楽しく遊んでいる最中にいきなり怒られたりしたら、確かに怖いと思うし嫌な気分にもなる。
だが、怠けに怠けていた連翹という娘に説教の一つもしないのは、それはそれで父親として失格だろう。
ゆえに、悪いのは連翹だ。父の説教を怖がり、しかし己の態度を是正しようともしなかった怠惰な愚か者なのだ。
「いや、私の同僚には正しく子を叱り、けれど仲良く暮らしている男もいた。それが出来なかった私は、ただ睨みつけて辛辣な物言いを投げかけることしか出来ない私は、やはり――どうした?」
違う、悪いのは自分なのだ――そんなことを大真面目に語る桜大に、小さく吹き出してしまう。
だって、さっきから互いに似たようなことばかり言っているから。
相手が悪いのではない、悪いのは自分だ、愚かな自分の責任なのだ、と。
きっと互いに根幹部分はマイナスの感情を溜め込むタイプであり、かつ自罰的な人間なのだろう。あの時ああしていれば、あの時あんな風にしたばかりに、自分が、自分のせいで、と。
本当に根っこのメンタルばかり良く似ていて、何もこんな場所が似なくてもと思ってしまう。
「ごめんね。あたしもお父さんも、こんなに違うのに似てるんだなって思ったら、つい」
茉莉が出してくれたお茶を啜って、訝しげな目で見つめてくる桜大に向け弁明する。
「少し安心したの。昔はもっと完璧で凄い人だって思ってたから――正直、なに話してもくだらないとか言われそうな感じがあったし」
いつもキリッとしていて、何があろうと揺るがずに真っ直ぐに立っている人。
だからこそ連翹のように気弱で揺らいでばかりの人間とは対極の存在であると、そんな風に決めつけていたような気がする。
自分などよりずっと凄い人だとは思っていたけれど、だからこそどんな悩みを吐露しても鼻で笑われてしまいそうで。
そして何より、中学生になってから辺りからは叱られる以外にはあまり話しかけられることもなかったので、イメージがそれで固定されてしまった。父がどのような人間なのかアップデートする機会がなかったのだ。
「……私は完璧などではない。むしろ真逆だ。そうでありたいと思った気弱な弱者が私という存在だったのだから」
桜大は語る。
昔は――小・中学生くらいの頃は、もっともっと気弱で、自分に自信が持てない男であったと。
特別いじめられたりするほど孤立はしていなかったが、しかし自ら進んで交友を広める度胸もない。そんな、スクールカーストの平均値をやや下回る程度の存在であったのだと。
「だが、このままでは駄目だと思ってな。この先、私が真っ当に仕事をして働く未来が全く見えず、両親に直談判した。『転校し、環境をリセットしたいんだ。このままでは僕は腐るから』、と」
僕? と思わず桜大の顔をまじまじと見つめる。
なんとも似合わない一人称だ。連翹は咄嗟にそう考えて、いいや、と首を振った。
恐らく、当時の桜大には似合っていたのだろう。気弱で自分に自信が持てない片桐桜大であった頃ならば。
「無論、最初は相手にされなかった。ちょっとした嫌なことから逃げているだけだろう、とな。だが、それから毎日毎日、本気で頼み込んだ。甘えるなと叱られても、これ以上甘えたくないから頼んでいると産まれて初めて反抗してみせた。……そんな風に繰り返している内に、ようやく両親が折れてな。実家に戻ると、両親には未だにその時の話をされる」
あの時までは可愛らしい僕ちゃんだったのにね、とな。
そう言う桜大だったが、連翹にはどうしてもその可愛らしい僕ちゃんという言葉と桜大という個人が一致しない。
だが――その部分もまた、一緒だった。
連翹もノーラに、昔はもっと内向的で大人しかったと言っても、あまり想像出来ないという表情をされた覚えがある。
過去と現在は地続きの道ではあるが、現在の道に合流した人は過去の道程を知る術がないから。
連翹にとって桜大は性格がキツめで真面目な父親であり、ノーラたちから見た連翹は転移者の力で自信をつけて色んな人とハイテンションで話せる娘なのだ。
昔はどんな人間で、どのような経験で変化したなど、話を聞かねば分かるはずもない。
「だから、『お前もいずれそうなるだろう』と思っていた。私程度が出来たのだ、お前に出来ぬはずもない。ある時期を境に奮起し、私に真っ向から立ち向かい要求を叩きつけてくるのだろう――心から、そう思っていたのだ」
「……ごめん、転移しなかったとしてもそんな未来はなかったと思うの」
だってお父さん怖いもの、と苦笑する。
仮に桜大と同じように奮起し、勇気の火を胸に変わるために環境を変えたいと口に出したとしても――一発怒鳴られたら胸の火は簡単にかき消されてしまったはずだ。
だが、当時の桜大はそのようなことを欠片も考えていなかったのだと思う。
連翹と同じように根っこの部分で自信がないからこそ、『当時の自分でさえ出来たのだから、娘も大丈夫』と思い込んでしまったのだ。
「あたしは結局、易きに流れやすいタイプだからね。お父さんなら、仮に創造神が突然神殿に呼び出したところで、規格外持って転移しようなんて考えないでしょ?」
「いいや――正直、お前が力に惹かれた気持ちも分からなくはない。当時の私も努力せずとも力が、自分を変える手段を明示されたのならば、それに飛びつきかねん」
「……意外ね。お父さんなら、取ってつけたような力で何が出来るというのか、この大馬鹿者――みたいなことくらい言うと思ってたけど」
「結局のところ、与えられた力であろうと掴み取った力であろうと、問題はそれで何を成すかだろう。今の私とて、これで職に就いていなければ、無意味に威圧感があるだけの中年の愚者に過ぎん」
どんな力も、それはキッカケに過ぎない。
問題はそれを使ってどのような道を歩むのかだ。
地球でも圧倒的な権力を持っていようとも、それを傘に威張り散らすような人間は嫌われるし、見えない所で陰口を叩かれ嗤われる。
地球人も、異世界の住民も、規格外を有した転移者も何も変わらない。結局のところ、誰かに好かれるのも嫌われるのも、当人の行いの結果に過ぎないのだ。
「ゆえに――考えた結果ならば、どちらを選ぼうと否定はせん。お前が何を考え、何を成したいのか、真剣に考えたゆえの結論であれば、な」
こちらを真っ直ぐに見つめながら、桜大は言った。
異世界に行くのか、こちらの世界に残るのか、考えて決めてみせろと。
(――ついにこの話題が来ちゃったか)
考えていなかったワケではない。
覚悟していなかったワケでもない。
この世界への帰還を決意した瞬間から、絶対に答えを出さねばならないと思っていた。
だが、いざ自分の中で答えを出そうとすると背筋が凍り、口の中が乾いていく。手が小さく震えて、今すぐこの場から逃げ出したくなる。
可能な限り答えを出す時を引き伸ばしたいと思いながら、それでは駄目だとも強く強く思う。
「――あたしは」
瞳を閉じ、呟く。
瞼の裏に投射されるのは、連翹が思い描く『たいせつなモノ』。
頭の中で思い浮かぶのは、『留まる世界を選んだ結果に訪れる未来』。それをなるべく客観視したモノ。
正直に言えば、『たいせつなモノ』は異世界の方が多い。
暮らしていた時間は地球の方が長いけれど、異世界では様々な出会いがあり、様々な経験があった。小娘の人生の厚みなんてたかがしれてるとは思うけれど、それでも甘ったれた片桐連翹に少しの勇気が芽生えさせてくれた時間なのだ。大切だと思うし、感謝もしている。
だが、だから異世界に――と決めるのはどうなのだろう?
連翹は地球では真面目に生きていなかった。だから異世界の方にたいせつなモノが多くなるのは当然の帰結だろう。
しかし、連翹はまだ若い。地球に残りしっかり勉強し、大学を出て就職する道が閉ざされたワケではない。
そんな風に真剣に生きたのなら、異世界と同じように様々な出会いがあるのではないだろうか? 異世界で得たモノばかり見て、新たに得る可能性を見ないというのも違うだろう。
それに――異世界に行ったとして、今まで通りに過ごせるだろうか?
連翹の規格外は制限時間も残量も、どちらも残り僅か。つまるところ創造神に電池を外されるか、電池切れを起こすかというワケで、どちらにせよ規格外はまともに使えないだろう。
無論、剣の鍛錬はした。
戦いにも慣れてきたと思う。
だが、その全てはまだまだ見習い程度。ただの片桐連翹になった時、それを上手く活かせるだろうか? 少なくとも、すぐに活かせはしないだろう。
(きっと、転移者じゃないただの片桐連翹にとって過ごしやすいのは、生きやすいのは地球なんだと思う)
これから積み重ねて真っ当に生きていくのなら、どう考えても地球に行った方が良い。
こちら側には学ぶための教材、施設が潤沢に存在し――勝手に家出した身で心苦しくはあるが、一人前になるまで親の庇護を受けられる。その間、親孝行も出来るだろう。
対し、異世界は学ぶ場所という面では地球には劣る。ニールやノーラは子供の頃に教会で読み書きなどを教わったそうだが、それ以上となるとカルナのように自分で書物を集めて独学で学ばねばならない。
友と別れるのは辛いが、自分の未来を真剣に考えれば異世界よりも地球の方がずっと良い環境なのだ。
――ゆえに、地球に残ればいい。
幸い、カルナがディミルゴに願った資金チートもある。それを学費や教材費に充てれば、途中で怠けさえしなければなんとかなるはずだ。
無論、色々と想定が甘い部分があるかもしれないが――それは桜大や茉莉に相談すれば良い。腹を割って話した結果、今はもう桜大に対して抱いていた微妙な想いもないのだから。
なるほど、これで確定だ。
連翹は一人頷いて、それを言葉にしようと口を開き――
「――――」
――しかし言葉は声にならず、胸の中で漂ったまま。
嫌だ、とか。
違う、とか。
そんな想いが言葉を紡がせてくれない。
心臓は心の中にある強い感情に気づけと言うかのようにどくどくと脈打つ。
(あたしは――)
大きく息を吸って、こうも激しく自己主張する感情が何なのか、ゆっくりと自分の胸に問いかける。
海の底に沈んでいくように、奥へ奥へ。
水泡の如く吹き出してくる大切に想っているモノを、『これではない』と確信して進んでいく。
奥へ奥へ、
底へ底へ、
数多くの思い出を避けて、自分の中にある強い想いを探し――
最終的に残ったのは、一人の剣士の背中。
――飢えた狼のように荒々しく先陣を切る、少年の姿を見た。
ああ、と思わず笑みが浮かんだ。
強く強く、激しく明滅する思い出――それは、ドワーフの国、アースリュームでのこと。
規格外が無くなるかもしれない、そう偶然出会った転移者に言われた時のことだ。
あの時はただただ、怖くて怖くて怖くて、片桐連翹という女の価値はそれしかないと思っていたから、恐ろしくて堪らなかった。
けれど、心のどこかでこんなモノは寝言だと、ただの弱音だと理解していたのだ。
だって、地球でも異世界でも、規格外無しで生きている人間は才能の有無関係なしに多い。真っ当に生きている人にとっては、度し難い弱音だろう。
――でも、あの時。ニールは向き合ってくれた。
なるべく連翹の立場で想像して、どうすれば良いのか考え、話してくれたのだ。
真っ直ぐに、連翹のことを考えて。
……今思い返すと、連翹はあの時に『落ち』ていたのかもしれない。
連翹の弱音を、転移者であることが全てと思っていた弱い女の嘆きを、真っ直ぐに受け止めてどうすれば良いのか真剣に考えてくれたことが。
それが、『こんな弱音を相談しても無意味だ』と、『他人に嗤われるだけ』と決めつけていた連翹の心に、静かに染み入ったから。
出会い頭に叩きつけた剣で傲慢になりかけていた心を叩き潰した彼は、ひび割れた心にゆっくりと浸透していったのだ。連翹に気づかぬ内に、けれど確かに心の奥底まで。
それを理解すると、心から納得した。
(ああ、確かにこれは嫌だ、違うって思うわ)
自覚してしまうともう駄目だ。
誰が一番大切か、そう思うとどうしてもニールの姿が頭に浮かんでしまう。
ゆえに、先程考えていた理屈は頭から蒸発した。確かにそちらの方が正しいのかもしれないけれど、嫌だ、その選択はしたくない。
無論、想いを伝えていないのだから、ニールが連翹をどのように想っているかなど分からない。蛇蝎の如く嫌われている可能性はさすがにないだろうが、だからといって異性だと思われているのかどうか、どうなのだろう。一欠片も自信が持てない。
だが、それでも。
それでも連翹は――
「――あたしは、あっちの世界で生きていきたい」
――ニールが居る世界で生きたい、そう思うのだ。
この想いが受け入れられるかどうかなど関係ない。もっと別の誰かが好きだと言われても、それは仕方ないと頑張って割り切ってみせよう。
友人のままでも構わない。彼と同じ世界で暮らしたいのだという想いが溢れて止まらない。なんて重い女だ、と他人事のように笑ってしまいそうだ。
「別に、日本に不満があるとか、お父さんやお母さんと一緒に居るのが嫌ってワケじゃないの。ただ――」
慌てて弁明する連翹の背中を、茉莉がそっと抱きとめた。
「大丈夫、分かっているわ。それにね、正直そうなるんじゃないかって思っていたの」
だってね、と。
茉莉は嬉しそうに、けれど寂しげに微笑んだ。
「昔から趣味が男の子っぽいのに男の子と混ざって遊べない子だったもの、あなたは。それがあんなに気の置けない関係になってるんだもの、『そういうこと』なのかしら程度は察したのよ」
カンパニュラ君もそうだけど、それよりグラジオラス君の方が互いの距離が近いように見えたの――そんな言葉に、思わず頬が朱に染まる。
正直、自覚するまでは異性の友人の中では一番親しい人、くらいの認識だったが……見る人が見れば一発で分かってしまうらしい。
ならばきっとノーラ辺りも察しているだろう。そう仮定すれば、時折こちらに向ける生暖かい眼差しに説明がつく。ついてしまう。そんなに分かりやすい行動をしていたのだろうか。
「――連翹。お前はそれで後悔はないのだな」
妻と娘のじゃれ合いを見つめながら、桜大は静かに、しかし毅然とした態度で問いかける。
半端な考えを口にしたのならこのまま一喝してくれよう、とそんな想いが伝わってきた。
だからこそ、連翹も真っ直ぐ見返して――首を左右に振る。
「……ううん、たぶんこれから何度も後悔すると思うわ」
選択肢を一度選んでしまったら選ばなかった方は無価値――まさか、そんなはずがあるワケがない。
どちらも価値があると思ったから戻ってきて、どちらも失いたくないと思ったから悩んだのだ。たった一度の選択で迷いを振り切れる程、片桐連翹という少女は強くない。
だからこそ、これからも選ばなかった未来に思いを馳せることもあれば、地球に残してきた両親のことを想い涙する日もあるだろう。
だが、それでも――
「それでも、決めたことだから」
その上で、連翹は異世界へ行く。
そう、心に決めたのだ。
迷いながら、後悔しながら。それでも――と。
「そうか――ならば、私から言うことは何もない」
言って、桜大は表情を緩めた。
力の抜けた自然な笑みで連翹の決意を真っ直ぐに受け止める。
――ここに、ニールたちが居たら。
その笑い方が、どことなく連翹を連想させると――そんなことを思ったかもしれない。
「子とはいずれ巣立つモノ――それが遅いか早いかの違いに過ぎない。悩み抜いて出した結論であれば尚更だ」
私も悩み、考え、それを親に叩きつけたよ――そう言って、昔懐かしむように微笑む。
「ありがとう――でも、色々と不安はあるんだけどね」
歩むべき道は決めた。
だが、その道中の障害に対する恐れは無くならない。
心に決めたけれど、本当にやっていけるのだろうか、そんな想いもまた連翹の胸の中にあるのだ。
それに何より――
「――ニールはあたしをどう思ってるのか、こればっかりは本人に聞かないと分からないしね」
想いが届かなくても同じ世界に居たいとは思った。
でも、どうせなら互いに想いが通じ合うのが最善だろう。
けれど、同時にそこまでの幸福を望むのはどうかと思ってしまうのだ。
ニールたちと友人になって、こうして家族に別れを告げることが出来た。この時点で片桐連翹にとっては望外の幸福なのだ。
だから、それ以上を望んでしまうのは我儘に思えてしまう。
「――」
だが、連翹が打ち明けた不安を聞いて、背中を抱く茉莉も対面の桜大も黙り込んでしまった。
緊張感や緊迫感のある沈黙などでは断じて無く、むしろこれはノーラが時々頭を抱えている時と同じ雰囲気のような気がする。
くすり、と茉莉が笑みを漏らす。
「――本当に、そういう所はよく似ているのね」
「……どうだかな」
茉莉がおかしくて堪らないと微笑み――桜大は仏頂面で黙り込む。
連翹は、両親の態度を見て一人首を傾げるのであった。




