254/お風呂/男
――――単純に超気まずい。
衣服を脱ぎ、体を洗い、湯船に浸かる。言葉にすればただそれだけだというのに、ニールにはもっともっと様々な出来事があったような気がした。そうでなければこの体感時間はおかしい。なんかもうスパとかいう大衆浴場に来てから既に二、三時間くらい経っているような気さえしてきた。たぶんまだ三十分も経過していないだろうに。
その間、ニールたち三人の会話は事務的なモノ以外は一切存在しなかったのに、である。いいや、だからこそ、と言うべきか。
衣服はここにしまうだとか、鍵はどうするだとか、シャワーなどはどう使うのだとか――そんなことを淡々と話され、頷くくらいで。なんというかとても気が休まらない。
(俺も女湯に行きたかった……)
女の裸が見たいという理由以外でこんなことを考える日が来るなんて、ニールは想像もしていなかった。
湯船に浸かっている今も、会話らしい会話はない。
だからといってカルナと共に別の風呂に行くのも、全力で避けているように見えるし、どうかと思うのだ。だが、このまま無言で一緒に居るのはさすがに気まずい。超気まずい。
「……」
ちらり、とカルナに目配せする。
どうすりゃいいと思う? そう問いかけたかったのだが――
「――カンパニュラ」
ぎろり、だとか。ぎょろり、だとか。
ニールが目線で問いかける前に、桜大は鋭い眼差しを向けながら口を開く。
「……ええっと、なんでしょうか?」
「遅くなったが、これだけは言っておかなくてはならないのでな――先の件はすまなかったな」
恐る恐る、という風に顔を向けるカルナに、桜大は静かに頭を下げた。
「剣だの魔法だのと――娘はその手の物語を好んでいた。ゆえに、当初の私はお前を信用する気は皆無だった。そういう娘を騙す詐欺師だと決めてかかっていたからな。頭の固い愚者と罵っても良い」
「――思うところが全く無いワケではないのですけど」
しばし考え込んで、カルナは首を左右に振った。
「ですが、この世界を見て回れば桜大さんが言いたいことも分かります。この世界にはエルフは存在しない――精霊を感知する存在が皆無である以上、魔法など発展するはずもないのですから」
ニールたちの世界の魔法は、元々エルフの専売特許であった。
精霊を感知でき、彼らに娯楽を捧げることによって魔法という技術を使っていたエルフがいたからこそ、人間もまた精霊という存在に気づけたのだ。エルフというお手本があったからこそ、自分たちには見えぬが精霊という存在がいるらしいぞ、と思えた。
そこから人間にも魔法が使えるようにと研究が進んだからこそ今があるのだ。
この世界は大前提である精霊を感知する種族という存在が欠落している。ゆえに、魔法など発展するはずもない。見えぬモノを、存在すら知らないモノを利用する方法など産まれるはずがないのだ。
「なので、今はそこまで怒ってはいません。……それに、『この魔法の腕なら問答無用で異論を封殺出来る』などと思いあがってた僕の方が客観的に見て愚かしいでしょう」
茉莉には上手く行ったから調子に乗っていた、とカルナは自嘲気味に笑った。
異世界でも己の魔法で上手く行った。やはり自分は天才だな、と。
成功に胡座をかき、説得する努力を怠った。これは愚かと罵られても反論できない――そう言ってカルナは苦笑した。
「――でもお前、桜大さんが謝らなかったら内心でキレたまんまだったろ」
「……なんのことかな?」
笑顔で誤魔化すカルナだが、ニールは知っている。
この男は自分の得意分野で下に見られたら、どんな理屈があろうとキレる。普段ならともかく、魔法、魔法使いに関わる事柄であれば煽り耐性は瞬時にゼロになるのだ。
その仕草で桜大も察したのか、再度深々と頭を下げた。
「すまんな、色々と頭を悩ませる要因が多く、後回しにしてしまった」
「ああ――うん、まあ、それは仕方がないと思いますよ」
二人の眼がニールに向けられる。
あれか、浴槽血みどろ事件のことか。確かに、あんな狭い場所で大量流血したら臭いがこもると考えるべきだったかもしれない。
「……けど、今考えてもあれは最適解だったと今でも思うぞ。外でやったら駄目だって連翹の奴も言ってやがったし、まさか台所のシンクでやるワケにもいかねえだろ?」
トイレはトイレで皆を集めるには狭すぎる。
ゆえに、狭いながらも洗面所と隣接している風呂場が広さとしても後処理の面倒さとしても最適解だったのではないかと思うのだ。
「その理屈は分かる。だが、前もって言ったのなら茉莉を逃がすことくらいは――」
「今から手首を切り落とすんでいい場所教えてください――んなこと言ったら頭の心配するだろ、絶対。頭おかしい奴だって思われたら何やっても説得出来なくなんだろ」
「――……なるほど、道理だな。悪かった」
「まあ、突然嫁さん気絶させたんだ、色々言いたくなる気持ちは分かるから構わねえよ。俺だってこっちの人間がこんなに血に弱いのを知ってりゃ茉莉さんリビングに待機させてからやってたからな」
腹の中身垂れ流すワケでもなし、あの程度なら平気だろう。女は男より血に強いし、桜大はメンタル強そうに見えた。なら、ニールだけが少し痛いのを我慢すれば全て丸く収まる――その程度の考えでやった結果があれだ。気絶していたのを見た時は本当にびっくりした。
結局のところ、カルナに対する桜大の反応も、茉莉を気絶させてしまったニールの所業も、互いに対して無知であったから起こったことなのだと思う。
ゆえにこれ以上互いに追求したところで意味はない。両者ともに気をつけながら次に繋げれば良いのだ。
「それで、念のために聞いておくが右手はもう大丈夫なのか?」
「問題ねえよ、切断してすぐに繋ぎ直したからな。冷たくなる前なら僅かな違和感もねえ」
ばしゃ、と湯の中から右手を出す。よく見れば切断面が見えるものの、神経や骨、筋肉などはもう完全に接続されている。
冷たくなってもよっぽど状態が悪くなければ繋げるし、駄目だったとしても最悪一から生やせば良い。
だから一々心配すんなよ――そう言いかけて、やめた。
こちらの人間にとって、体の部位が欠損するのは今後の人生すら左右しかねない大怪我だ。アースリュームで出会った青年を思い出せば、桜大が心配する理由も理解出来る。なら、満足するまで見せて安心させた方が良いだろう。
「ちなみにカルナの脚も吹き飛ばされちまったんだが……今はこうしてちゃんと回復してるだろ? たかだか腕一本落ちた程度は軽症だ、心配してくれるのは嬉しいが、そこまで言われる程の大怪我じゃねえんだ」
「……ホワイトスターが治癒しなければ死ぬ怪我は重症だ、と叫んでいたが」
「その辺りは前衛剣士と神官の意識の差ですね。こっちの世界にだって戦いを生業にしている人間は居るでしょう? その人間と桜大さんが思う軽症は、同じ世界であっても認識にズレがあるはずですから」
治るから問題ないという理論は確かにおかしいのですが、しかし頻繁に傷つく人間が一々大慌てなど出来ないんですよ――銀の長髪を纏めながらカルナが補する。
カルナが言った通り、戦う人間である以上、傷つけることも傷つけられることにも慣れていく。
相手も剣で斬られたら痛いだろうな――などと考えながら戦えるはずもないのだから、それも当然の話だろう。
戦いに慣れれば慣れるほど傷に鈍感になり、相手を傷つけることに躊躇いがなくなっていく。剣士として洗練されて行き、真っ当な倫理観から外れていくのだ。
ノーラから見たニールは酷く鈍感な馬鹿野郎なのだろうと思う。そんな男を見捨てず友人として接してくれるのだから感謝の念が絶えない。ニール・グラジオラスという男は本当に仲間に恵まれたと心から思う。
「慣れ、か。なるほど、理解した。……その上で問うが、娘はどちら側に居るとお前は思う?」
「あ? あー……連翹の場合、そこら辺曖昧なんだよな」
襲ってくるような相手ならば。
こちらを殺しに来るような相手ならば、彼女はためらうことはない。
「敵対する以上は倒す、倒さなければならない相手――そんな風に脳内で眼前の敵を『人間』というカテゴリーから『モンスター』というカテゴリーに再定義し直している感じ、というべきかな」
「……娘が好きなRPGのようなモノか。戦闘になってしまえばもう倒すべき相手だ、と」
ゲームを好んでいるからこその割り切りの良さなのかもしれないな、と眉を寄せながら桜大は呟く。
こちらの世界はだいぶ平和である以上、娘が他者を傷つけること、殺すことに馴れているという事実に思う所があるのかもしれない。
「けど、敵から戦意が失われたらあいつは戦えねえな。よっぽど腹立たしい相手なら別なんだろうが、泣きながら許しを請う相手を叩き切れるメンタルじゃねえな」
要は相手を人間と思えるか否か、なのだと思う。
連翹と初めて出会った時も、彼女はニールを同じ人間だと認めてはいなかった。だからこそ容赦なく剣を振るうことが出来たし、だからこそためらうことなく心無い言葉を吐くことが出来た。出来てしまったのだ。
――だからこそ。
ちゃんと相手を人間だと思える片桐連翹という少女がこちらの世界に留まったところで、致命的な悪影響は存在しないはずだ。
無論、最初はこちらの世界とあちらの世界の差で違和感もあるだろう。だが、数年も暮せばすぐにそんなモノは消え失せる。
そして何十年後かに、かつて異世界に行ったことを懐かしむ――そんな未来も、決して夢物語ではない。
連翹はニールのように剣で誰かを傷つけることに鈍感になっていないのだから。この世界で平和に、平穏に、剣を捨てて幸せに暮らすことが出来る。
その未来を想像すると、少しばかり胸が痛くなるが――彼女がそれを選んだのなら、それを止める権利をニールは有していない。
「――娘は」
そんな会話をしていたからだろうか。
ぽつり、と桜大は呟いた。
「娘は、どうするつもりなのだ?」
喧騒が遠くなった気がした。
代わりに、近くの音だけが――桜大の声だけが明瞭に耳に届く。
「念のために聞いておく。お前たちはこちらに残るつもりなどないだろう?」
「ああ、当然だ」
カルナと会話した時に強く実感したが――この世界に自分の居場所は、剣士ニール・グラジオラスの居場所は存在しない。
観光するだけならこの世界はとても過ごしやすい所だ。叶うなら、もっと時間を掛けて色々なモノを見て回りたいとも思う。
――だが、それだけだ。
立ち寄った観光地を終の棲家に選ぶ人間が稀であるように、ニールもまたここでずっと暮らそうとは思えない。
どれだけ過ごしやすかったとしても、剣を振るえない世界など息苦しすぎる。
そんな場所にずっと暮らしていたら、いずれニールは窒息してしまう――あの凄まじい剣鬼がそうなってしまったように。
「その上で聞く。娘は、どちらを選ぶと思う?」
友人であるニールたちと共に異世界に行くのか――
家族の茉莉や桜大と共にこの世界に留まるのか――
「……桜大さん、それを俺に聞いちゃ駄目だろ」
――その問いかけに、ニールは苛立った。馬鹿かお前は、と。
なんでそんなことを、出会ったばかりのニール・グラジオラスという男などに問いかけているのか。
異世界という存在は信じて貰えたかもしれないが、まだまだ人間としてニールという男が信頼されているとは思えない。
だというのに、なぜ真っ先に自分などに問いかけた? その問いを投げかけるに相応しい相手は居るだろう。
「あいつがこっちに残るにしろ、俺らと一緒に完全に異世界に行くにしろ、それはあいつが悩んで決めることだ、断じて俺じゃねえ。俺が語ったところで、それは俺の願望でしかねえよ。連翹の答えじゃねえ」
叶うなら一緒に異世界に来て欲しいとは思っている――がそれはニールの願望だ。連翹が決めた道ではない。そんなモノを押し付けたら、連翹もニールも後悔する。
助言が必要ならしてやるつもりだし、手助けが必要ならやってやるつもりだ。だが、この件に関してニール・グラジオラスという男は主体的に動かないように心がけている。片桐連翹という少女にとって、かつて叩きのめし、嘲笑ったニールという男の発言は重すぎるから。『ニールが言うならしょうがない』と思ってしまう可能性があるから。
「連翹の考えが知りたきゃ自分で聞いて、連翹に残って欲しかったらちゃんと面と向かって言葉にしないと駄目だろうが」
連翹は両親に会うために戻って来たのだ。
だからもっと沢山話すべきだと思うし、互いの考えをちゃんと知るべきである。
その会話の最中に「残って欲しい」と、「これからはずっと一緒に暮らそう」と言うのも自然な流れだろうと思う。家族の会話だ、ニールが口を出す気など欠片もない。
無論、その後に不安だからニールに聞くというのなら理解は出来る。だが、本来もっと話しかけるべき相手を放ってなにをしているのかこの男は。
ニールの言葉に、桜大はバツの悪そうな表情を浮かべて――
「……私は、その辺りが上手く出来ん」
――ぽつり、と。
弱々しく呟き、天を仰いだ。
「見ての通り、人より小柄でな。薄ぼんやりとしていれば舐められる、下に見られる、気弱な弱者に思われる。子供の頃の私はまさしくそういう人間で、けれどそれが嫌だったから、決して退かぬと決意して前に出た。私よりガタイが良かろうが、私より弁舌が立つ相手であろうが、立ち向かい、経験を積み、理想とする私に向かった。それは決して間違いではなかったと思う。事実、子供の頃などよりずっと肝も座った、体も心も鍛え上げられた」
舐められるのは嫌だ、下に見られるのは嫌だ、気弱でどう扱っても反抗してこない人間だと思われるのは嫌だ。
だから覆した。
それはニールが理想の剣技を求めて鍛錬するのと同じように、彼もまた理想の自分を求めて――強くて怖い男のように成りたくて自分を鍛え上げていたのだ。
「良く顔が怖いだとか言葉も態度も威圧感が有るなどと言われるが――それらは私にとっては祝福だ。弱い自分を克服し、心身に強い自分が刻み込まれたという証明であったから。蔑みを込めてそう言う者も居たが――だからどうした、私は望んでここに至ったのだと胸を張ったとも」
その気持ちは、正直とても理解出来る。
求めるモノのために鍛え続け、その果てで手に入れたモノなのだ。他人にあれこれと言われたところで、その輝きが色褪せることなどありえない。
けれど、桜大は自嘲するように「だが――」と言いながら嗤った。
己を、片桐桜大という男の愚かさを。
「私はこういう生き方に親しみ過ぎたらしい。心身に刻まれたからこそ、咄嗟の言動は威圧するようなモノばかりだ」
弱く見られたくない、情けなく見られたくはない、強くて怖い何者かに成りたい。
その願いは長い時間をかけた末に成就し、心身に刻み込まれた。
だからこそ、心身に刻まれたからこそ、そう簡単に使い分けることが出来なかったのだ。憧れた理想は、既に自分自身であったから。
「子を成す頃には、子の前ではもっとらしい父として振る舞えるかと思ったが――愚かだった、甘い考えだった。威圧し続けて来た私が、自分の子供を前にしたからといってすぐに変われるはずなどなかったというのに。私自身がどれだけ時間をかけて変わったのかを考えれば、すぐに気付けたはずだというのにな」
人は変われるが、簡単には変われない。
結局、桜大は長い時間をかけて変化させた自己の延長線上でしか連翹と向かい合えなかったのだ。
「些細な注意でも萎縮させてしまう、休日などに遊びに連れて行ってもどこか私の顔色を伺っている節があった。何か妙なことを言って私を怒らせやしないか、とな」
分かっていた、理解はしていた、改善しようとも思った。
けれど、何年もかけて確立した自己を瞬時に使い分けられるほど器用ではなく――結局、上手くいかなかった。
結果、連翹の前に現れたのはいつも不機嫌そうな顔でこちらを威圧してくる絡みづらい父親だけ。
「だから――大部分を妻に、茉莉に任せた。あいつは甘いところはあるが、少なくとも私などよりは信頼関係を築けている。ならば、躾けなどが必要な場合を除き、妻に任せようと思った。私が不慣れな真似をして台無しにするよりはずっと良い」
――ああ、と思う。
正直、桜大と連翹はあまり似ていないと思っていたが――
「何より――そこまで立派な人間ではないと、失望されるのが怖い。しょせん私の外面は後付の鍍金だ、それが剥がれた時、どのように思われるのか」
――その言葉は、かつて連翹が漏らした弱音に似ていた。
規格外という強い力に頼り切っていて、もしも突然それが失われたらどうしようと肩を震わせていた連翹。
その姿が、築き上げた強い男のイメージに頼り切っていて、それが剥がれた時どう思われるのか不安だという桜大と重なる。
「……やっぱ親子なんだな」
――繊細なところも、自分の強みに縋ることも、恐怖に縛られることも。
この二人の根本は良く似ている。
だが――似ているからこそ、噛み合わなかった。
どちらも自分の中で勝手に結論を下して、相手がどう思っているのか不安で聞き出せなくて――結果、どちらも上手く話しかけることが出来なかった。
ちゃんと隣接すれば噛み合う歯車も、互いに接触しなければ噛み合うはずもない。からからと空転するばかりだ。
「その不安なら問題ねえ。そもそも、あいつは自分の弱さで大馬鹿やらかした馬鹿女だ。そんな自分自身を棚の最上段に上げて、嗤ったり失望したりするワケがねえ」
連翹は決して完璧な女ではないし、それどころか弱くて愚かな女だろう。
だが、己が弱くて愚かであると片桐連翹は自覚している。
そんな彼女が、相手の見せた弱さにネガティブな感情を抱くとは思えない。むしろ、自分だけでは無かったのか、と安堵するだろう。
「つーかよ、もしあいつが『こんなのがあたしの親だとかガッカリ』だなんて言いやがったら俺に言えよ、どの口でほざいてやがる馬鹿女つって顔面ぶん殴ってやるからよ。その後、ノーラやカルナの前に引きずって説教した後、もう一度桜大さんの前に放り投げてやっから」
剣呑なことを言いながら、しかしそんなことにはならないだろうと確信していた。
転移したばかりの頃の、転移者の規格外に酔っ払っている時ならば、喜々として嘲笑ったろうが――今は違うと断言できる。
始まりは容姿を見た時の一目惚れであったが――今は、片桐連翹という少女の全てに心奪われているからこそ、そう思った。
「ま、俺がぐだぐだ言っても信用できねえかもしれねえが――それならなおさら、本人と話して確かめりゃいい。色々失敗してるあいつだけどよ、根っこはちゃんと良い奴だから信用してやってくれよ」
先程のニールの言葉とて、しょせん連翹の言葉ではない。
彼女のことはよく見ているという自負はあるが、しかしだからといって全てを見抜けているはずもなし。
だが、他人の言葉とはいえ、心の準備をする手助けくらいにはなるだろう。
「――」
しばしの間、ニールの言葉を反芻するように瞑目した桜大は、微かに表情を緩めニールに視線を向けた。
「――すまんな、全てとは言わんが、迷いが失せた」
「構わねえよ、こっちは色々迷惑かけてる立場だ、この程度の手助けならお安い御用だ」
「そうか――連翹も、中々良い男に好かれたようだ」
公然の事実であるとでも言うかのように、桜大が放ったその言葉に、思わず固まる。
瞬時に脳内に浮かび上がる言い訳、誤魔化し、話の腰を叩き折る手段――だが、そのどれもが桜大に対して有効であるとは思えない。
結局、正直に「そ、そいつはどうも」と言う他無かった。
「し、しっかし――さ、さすがカルナを手球にとった人なだけあんな。ちゃんと隠してただろ俺」
言葉にはしていなかったはずだし、普通の友人として接していたはずだろう?
だというのに、こちらを見る桜大の眼は他愛もないミスを犯した子供を見るような目で、ふっと小さく笑った。
「隠していた? 何を言っている、馬鹿者め。お前の行動を見ればよほど鈍くなければ誰であろうと察せられる。十中八九、茉莉も気づいているぞ」
「うん、だろうと思うよ。ノーラさんとか女王都の時点で感づいてたしね、聡い人だったり色恋沙汰に興味がある人なら簡単に気づけたんじゃないかな」
うっそだろオイ――と思わず声が漏れる。
茉莉や桜大はともかく、ノーラが感づいたという頃は自分自身ですら自覚していなかったというのに――どのような奇跡を習得すればそんな真似が出来るのだろう。
「なぜあんな肉付きの悪い年増女などの体を触ったのかと思ったが、単純に娘と似ているからということだろう。顔立ちは似通っているからな」
「いや、茉莉さんはちゃんと美人だと思うぞ、その辺りはちゃんと訂正させてくれ。つーか桜大さん、謙遜とはいえ自分の妻をそういう風に言うのはどうかと思う」
謙遜だとは思うが、さすがにちょっと行き過ぎじゃないか? 茉莉が聞いたら怒るんじゃないのか? そう思って思わずツッコミを入れてしまう。
「――そうか?」
その疑問符は「お前が気にしすぎているだけだろう」に聞こえるが、実際のところ「え? 本当に?」なのだろうなぁ、とニールは判断した。桜大の本質に少し触れたから分かる、この人威圧感で鎧っているけれど内面はけっこうスキがある。
たぶん、性格やら雰囲気やらが怖くて面と向かって色々指摘する人がいないのだろう。
家計が傾いているようには見えないので仕事は上手く行っているのだろうが、だからといって色々と相談したり、誰かに相談したりすることが得意なタイプには見えない。仕事の失敗は自分で矯正し、誰も指摘しない人として駄目な部分はそのまま放置されてしまっているのだろう。
気合と根性で成長出来るが、他者との交流は仕事以外では得意ではない――彼はそういう人間なのだと思う。
茉莉は茉莉で「しょうがない人ね」と受け入れてしまっている感もあって、なおさら現状に固定されてしまったのだろう。結果、気が弱かったらしい過去の連翹と全く噛み合わない人間の出来上がり。
もうちょっとどうにかならなかったと思う反面、キッカケがない以上は変わるはずもないだろうなと納得も出来る。
ニールとて、今回のように礼儀作法などがまるで出来ずに困るという経験が無ければ、改善しようなどと考えなかったろう。それまで無くても上手くやれてた――少なくとも当人はそう思っている――のだからなおさらだ。
「そうか――そうか」
「自覚が出来たのなら問題ないと思いますよ。自分の至らなさに気づくことが成長のキッカケですから」
肩を落とす桜大にカルナが笑いかける。
最初こそ桜大に対し苦手意識や敵意を抱いていたカルナだが、自分の無力を認め前進する人間を嫌うような人間でもない。
相手のことを知り、互いに尊重しようとする意識さえあったのなら、皆が仲良くなれる可能性があるのだ。
(――つっても、それが一番難しいんだけどな)
実際、桜大も連翹の父という肩書が無ければ、会話することなく離れて行った可能性が高い。
仲良くなれる可能性があるからといって、全ての人間に対してその可能性を試そうなどと思えるはずもないだろう。時間も、誰かと接する機会も有限なのだから。
「世話になった礼だ。グラジオラス、一つ忠告しておいてやろう」
ざばあ、と。
湯船から立ち上がった桜大は、ニールを見下ろして告げる。
「お前の馬鹿女という物言い――今は娘も受け入れて上手く回っているようだが、いずれ嫌悪感が出て来るだろう。だが、使い続けていると体に刻み込まれるぞ」
私の顔や言葉のようにな、と。
彼は冗談めかした物言いで笑みを浮かべた。
「いつか嫌われたくなければ、今のうちに是正しておけ。歳を重ねれば重ねる程、若い頃からの癖は直らんモノだからな」
「……分かった、なんとかしてみる」
「ああ、そうすると良い」
そう言って、困惑と安堵の入り混じった笑みを浮かべ、こちらに背を向けた。
それは夕食時に、少しだけ見せたモノと同じ。
あの時は理解出来なかったが、今なら理解出来る。
それは、自分の娘がそういう歳頃なのだと自覚したゆえの困惑。
それは、娘が異世界に行ってしまったとしても支えてくれる相手がいるという安堵。
「……つっても、どうなるかなんざ分からねえんだがな」
連翹がどちらの世界を選ぶのか、そしてそもそも連翹がニールを異性として興味を抱いているのかも。
全て、全て、ニール・グラジオラスという男には答えが出せそうにはなかった。湯船に頭まで水没し、答えが出ないくせに膨れ上がる思考を追い出そうとする。
「まったく君は、片方はともかくもう片方は――いや、これを僕が言うのは野暮にも程があるか」
そんな最中、カルナが苦笑しながらそう呟いたのだが――幸か不幸か、それはニールの耳に届くことはなかった。




