253/お風呂/女
車輪が回る。
車道を駆ける。
太陽が堕ち、夜の世界と化した世界を自動車が疾走していく。
車道に設置された明かりや家屋から漏れる明かりでニールたちの世界よりも明るいとはいえ、昼間と比べれば明らかに暗い道を駆け抜ける車の速度は昼間よりも疾かった。
「な、なんか速いんですけど――だ、大丈夫ですかっ、これ……!?」
「この程度なら問題ない。他の車の速度と比較すれば理解出来るだろう」
明らかに茉莉が運転していた時よりも速度が出ている――そんな不安に対し、桜大はハンドルを操りながら淡々と呟く。
その言葉は恐らく事実なのだろう。速いは速いが、他の車と比較してみればやや速いといった程度。この運転に慣れてしまえば、茉莉の運転は酷く遅くのたのたとしたモノに感じたことだろう。
初めて車に乗った時は分からなかったが、茉莉が運転が得意ではないというのはどうやら事実であったらしい。
「わたしはちゃんと法定速度の範囲で走ってましたよー。時々、後ろから煽られたりするけどね」
慣れないなりにちゃんとやってるわよ、と助手席の茉莉が不満げに言う。
不満げに唇を尖らせる様は、どことなく連翹に似ていた。
「……それにしても、こういう銭湯なんて久しぶりね。前に行ったのはお風呂場の改装工事の時だったかしら」
尖らせた唇を緩めて、茉莉が懐かしむように言った。
事の発端は、おおよそ十分ほど前のことだ。
◇
「――風呂屋に行くぞ」
夕食後。
なんとか一人前は平らげた桜大は、テーブルの上で手を組みながら言い放った。
「あら、晩ごはんにお酒を飲まないからどうしたのかと思ったけど、運転する気だったのね。……でも、どうして――?」
「親しくもない他所の男を脱衣所に連れ込めるか。私は男を見張っておくから、お前は連翹とそちらの娘の相手をしておけ」
不機嫌そうに言い放っているが、風呂場の現状を考えると必死に茉莉を風呂場から遠ざけようとしているのが分かって、少し微笑ましい。茉莉を寝かせた後、連翹がシャワーで洗い流したらしいのだが――「臭いが脱衣所まで広がってるから、トイレの芳香剤置いてきたわ。雀の涙だと思うけど」と言っていたのを思い出す。一体、どうしてこうなってしまったのか。
そんなことを考えたのが悟られたのか、桜大に無言で睨まれた。九割お前の責任だろう馬鹿者が、と。
だが、一割くらいはニールたちを信じずそういう行動に踏み切らせた自分のせいだと考えているのか、言葉巧みに茉莉を風呂場の家事から遠ざけようと舌を回している。
「それに、異世界云々は信じたがお前たち自身を信用はしていないからな。ゆえに最低限の監視はしたいが、一人一人の入浴を監視するのは手間だ。ならば、公共の場に放り込む方が良い。私たちの目を盗んで悪事を働くようならば、それこそ警察に突き出せばよかろう」
「はあ、そうなの――まあ桜大さんがそう決めたのなら、それでいいのかしら……?」
そこまで危険視しなくても良かろうに――そう言いたげな茉莉だったが、自分自身がその辺り甘い自覚があるのか最終的には頷いたのであった。
◇
――なるほど、異論はない。
桜大の言い分は建前も本音も頷けるモノだと思う。
そう、異論はないのだが――
(……俺ら二人で桜大さん相手とか、ぶっちゃけ厳しくね?)
ちらり、とカルナに目配せする。同じようにこちらを見てきた彼の表情は普段通りに見えて、しかし不自然に口数が少ない。
出会い頭に叩きのめされたためだろう、若干苦手意識を抱いているように見える。
ニール自身はさして悪印象は抱いていない――というか、なんだかんだで妻や娘を心配しているのが伝わってくるため好感を抱いているくらいだ。
だが、それはそれとして、話しやすいか話し辛いかと問われればどう考えても後者なワケであり――正直な話、三人になってどんな会話をすれば良いのか全く見当もつかない。
(カルナやるから茉莉さんか連翹、どっちでも良いからこっちに分けてくれよ。それでバランス取れるだろ……)
口に出したら連翹に「馬鹿なの? 死ぬの? むしろ殺すけど?」などと言われそうなことを考えてしまう。
無論、無茶な要求だということくらいニールも理解しているが、それはそれとして自分たちの難易度が高すぎると思う。
「――人数比はバッチリよね、うん」
「おう、俺の目ぇ見て言ってみろお前」
努めてニールやカルナと目線を合わせないように努めている連翹の横顔を睨み――溜息を吐いた。
悩んでも仕方がない。下手に取り繕っても全部見抜かれる可能性が高い以上、完全に素でぶつかる他ないではないか。
それはそれで桜大は不機嫌になりそうだが……仕方ないと割り切るしかない。
少なくともニールはこういう時に上手く立ち回る技術は皆無だし、カルナはカルナで経験差で桜大に敗北している。今更取り繕ってどうなるモノでもないだろう。
「着くぞ。さっさと降りる準備をしろ」
淡々と、そしてどことなく不機嫌そうな声音で言った桜大はハンドルを切って駐車場に車を駐車する。
表情も相も変わらず険しいまま。茉莉と会話している時も表情が変化していないのを見る限り、喋り方も表情も全て普段通りなのだろう。
(……俺らはともかく、茉莉さんや連翹にはもうちっと柔らかい対応してもいいだろうに)
連翹が苦手意識を持っていた理由も分かってしまう。
愛情があるのは確かなのだろうし、連翹もそれを根っこの部分で理解しているのだが――それはそれとして怖いと思う部分があるのだろう。実際、再開してから今まで、連翹と桜大の会話は茉莉と比較して少なすぎる。
それでも何度か話しかけているのは異世界で自信を得たからか、それとも転移前と同じでは駄目だと奮起しているからなのか――それはニールには分からないけれど。
だが、彼女なりに前に進もうとしていることは伝わってくる。
(なら――出来る限り後押ししてやるか)
連翹の一歩はニールから見て小さなモノであり、勇気と呼ぶには弱々しいモノであったが――それを否定はしない。
血が繋がっていても全く別の人間になるのだ、他人のニールと連翹が出来ることが違うのも道理であろう。
停車する車から降りながら、ニールは一人頷いた。
連翹が居ない状態で桜大と話せるのは、ちょうど良かったのかもしれないな、と。
◇
――基本的に、この世界で見る建造物は縦に高く横に狭い。
ノーラたちが住んでいる世界では建築技術の限界から一部の例外を除き大きな建物は少なかったけれど、この世界は土地の限界からこじんまりとした建物が多いように思える。
けれど、何事にも例外はあるということらしい。今ノーラたちが居るここ――スパと呼ばれるらしい大衆浴場は、元の世界で見たモノよりもずっと広く豪華に見えた。
複数用意されたお風呂に、マッサージ施設。風呂上がりに楽しむリラクゼーションルームや食事処など、ただの大衆浴場にしては設備が充実し過ぎではないかと思うくらいだ。そんなに色々必要なのか、と思ってしまう。
(ああ、でも。こっちでは普通の家にもお風呂はあるんですよね)
ならば、ここは生活としての場ではなく娯楽の場に近いのだろう。
自宅でも料理は食べられたとしても美味しいお店でご飯を食べたら嬉しいし楽しいのと同じだ。普段よりもグレードが高いモノに触れるのは楽しいし、ドキドキする。
「けど――大丈夫なんでしょうかね、あっちは」
脱衣所で服を脱ぎながら呟く。
男女が分かれている以上は致し方ないことではあるのだが、桜大の相手を男二人に任せるのはどうかと思ってしまう。
特にカルナとの相性は最悪だ。カルナは表面上は好青年のように見えるが、内面は非常に自分勝手な男であるとノーラも知っている。
無論、大切な人に対しては情が深いのだが――逆に、大切な人以外はどうでも良いと思ってしまう人なのだ。そしてカルナにとって桜大は、現状大切な人ではない。
「んー、大丈夫じゃない? 詐欺師じゃないって信じて貰えたワケだし、お父さんもわざわざ喧嘩売りには行かないわ」
カルナだってわざわざ険悪な雰囲気を作ろうとはしないでしょ? とスカートを脱ぎながら連翹は言う。
顕になる脚を見て、少しだけニールがセクハラする気持ちも分かる。さすがに同性に欲情などはしないものの、肉感がありつつも決して太くないフォルムは確かに綺麗だなと思うのだ。
「……どうしたのノーラ、塔でも立てたの?」
「ごめんなさい、ちょっとわたしにはその言葉の意味が分からないというか……」
「じっと見られてるからキマシタワー的なアレとか、転移の影響でなんやかんやあって股間に汚れたバベルの塔でも建設されちゃった結果なのかなとか、そんな疑問?」
「疑問に疑問を返さないでください。……というか、なんか最近レンちゃんの言葉の意味が分かってきて嫌だなぁ……」
「ノーラ酷くない?」
酷くないです当然です、とキッパリと言い放つ。
女性なのだからもっと慎みを持てばいいのに――ノーラは溜息を吐いた。
ノーラとてそこまで口うるさく言うつもりは毛頭ないのだが、「異世界が存在する、魔法が存在する、イコールちょっとしたキッカケで生えるって的確な推理よ? けど、あたしとノーラの場合、どっちが竿役になるのかしら……」などと言っているのを見るとさすがにどうかと思うのだ。それは頭の悪い妄想だろう。
そしてこんな時はちゃんと親が止めた方が良いと思うのだが――そういえば茉莉はどうしたのだろう、先程から喋っていないが。
疑問を抱いたノーラは下着を脱ぎながら視線を横に向ける。
すると、着替え途中の茉莉がじい、と連翹を見つめているのが見えた。
「……試着の時も思ったけど、前よりずっと細く引き締まった感じになってるのね。なんかモデルさんみたいに、細く靭やかって感じで……」
前はもうちょっとふっくらしてたでしょ? と連翹のお腹を興味深そうな表情を浮かべながら擦る。ひゃわ、という声が連翹の口から漏れた。
「ちょわっ、冷たくすぐったいからストップストップ! 同性だってセクハラは犯罪だってなんかで聞いたことがあるんだけどぉ!?」
「つまりレンちゃんはもう犯罪者ですね、面会には行きますのでちゃんと罪を償ってくださいよ」
「うわあ、なんかとても墓穴った感がある!?」
当然である。女性に対して汚れたバベル云々はもう直球でセクハラだろう。隠語にすれば良いって話などでは断じて無い。
「んんっ! ……けど、モデルとかそういう方向性ならもっと背丈が欲しいのよね。けど、お父さんもお母さんもあんま大きくないからもうあんまり伸び無さそうで残念」
確かSの字ポーズがお洒落に見えって漫画で読んだ気がする! と会話の流れを強引に断ち切り、下着姿のままポーズを決める連翹に「今やっても恥ずかしいだけですよ」と小さく笑う。
笑いながらも、茉莉が言った言葉は間違いではないかもしれないな、と思った。
細身で体の柔らかさを阻害しない程度に引き締まった体は、なるほど、相応の場で着飾ってポーズを取れば異性の視線も同性の視線も集められるかもしれない――黙っていれば。
「そこら辺は諦めなさい、どっちの家も純日本人体型なんだから。ちゃんとくびれてるだけ今風よ」
「くびれ、っていうより下半身が大きいだけな気がするのよね……どうせ大きくなるなら胸が大きくなればよかったのに」
唇を尖らせながら己の胸を寄せようとする仕草を見ると、そういう未来は無さそうだなとも思うのだ。
見た目だけならともかく、仕草や表情が幼くて子供っぽさの方が強くなってしまう。黙ってキリッとした顔をしていれば、それなりに大人びて見えるだろうに。
「……ん? なにノーラその視線、無駄な努力してるわねプークスクスとかそんな感じ? その圧政に抵抗するわよ、拳で」
そうやって突然シャドーボクシングを始める辺り、本当にそういうところですよ、と言いたくなってしまう。
「違いますってば。それに大丈夫ですよ、きっと。まだ若いんですからレンちゃんも成長するはずです」
「慰めの言葉ありがとう。ところでノーラ、あっち見て欲しいんだけど」
ぴしいっ、と。
脱衣の最中である茉莉を指差した。
年齢を考えれば十分若々しい彼女の姿は、しかしあまり女性的な部分が自己主張していない。連翹に比べて肉付きは良いが、スタイルという意味では平均以下だろう。
なるほど、血筋だこれ。
「どう? 成長する未来が見えた?」
「……げっ、現状よりは、少しぐらい成長するんじゃないですか? ……ええ、たぶん」
「『現状より』、『少しは』に加えて『たぶん』なんて付け加えてる時点でその未来を全く信じてないでしょノーラぁ!」
肩を捕まれがっくんがっくんと揺さぶられる。
普段のじゃれ合いの延長であるがゆえに文句は言わない――
「おおおっ、見て見てお母さん、こうやって上下に揺するとすっごい揺れるんだけど……!」
「ちょ――レンちゃん、これけっこう痛いんですけど……!?」
――のだが、さすがに勢いを加速されるのは困る。とてもいたい。
その言葉に連翹は「揺れると痛いって本当なんだ……」とショックを受けたと言いたげな顔をしているが、どうして加害者側がそんな被害者面をしているのか。
反撃してやろうと思い立ち腕を伸ばして――けれど相手には揺さぶれる胸が存在しないことに気づき断念する。
(これが貧乳回避ならぬ貧乳防御……! 胸はちっちゃい方が防御性能は高いんですね――!)
なら、大きい場合は攻撃力が高いのだろうか? 一体どんな意味での攻撃力なのだろう? あれか、異性特攻効果とかだろうか。
「おっ、よく分かんないけど、なんか喧嘩売られてない? 超喧嘩売られてるような気がするわ、あたし」
「こら。いい加減にしなさい連翹、ホワイトスターちゃんを虐めないの」
こつん、と連翹の後頭部に軽いげんこつが当てられる。
衣服を脱ぎ終えた茉莉が、右手を突き出しながら小さく溜息を吐いた。
「それに大きかったら大きかったで面倒らしいわよ、もっとも見ての通りわたしにそんな経験なんてないから伝聞でしかないけど」
「あー……ニールのお母さん、胸大きすぎて料理の時に手元見えないとか言ってたわね……」
「ちょっと待って、なんかわたしが想像してた苦労と次元が違い過ぎるのだけど……って、あれ? 連翹、グラジオラスくんのお母さんと挨拶してるの?」
「うん、少し前にね。と言っても、宿に泊まったらたまたまニールの家だったって感じなんだけど。後で知って超びっくりしたわ」
お父さんもお母さんもいい人だったし、弟もいい子だったわよ、と微笑んで答える。
その言葉に、茉莉は普段の柔らかな笑みではなく、わくわくとした表情を浮かべた。大人らしい落ち着いた雰囲気が抜けたためだろうか、若返ったように見える。
それも当然だろう。あの表情は恋話で盛り上がる少女のようであったから。
「まあ、そうなのそうなの! 楽しそうで良かったし、何よりホッとしたわ。わたしは挨拶に行けそうにないし」
「お母さんなんかテンション高くない……? それより、早くお風呂行きましょ。このままじゃ風邪引くわ風邪!」
だが連翹はそんな雰囲気を察していないらしく、軽い足取りでお風呂を目指しとたとたと歩き出した。
追求されて恥ずかしがっている――ワケではなく、自分の発言が恋話に繋がっていると欠片も理解していないのだろう。
それも致し方ないことかもしれない。転移前は小学生――確か六歳から十二歳までだったか――の間は友達が居たが、それ以降はほとんど一人だったという。実際、自宅にあったテレビゲームも転移前に近いのは全て一人で遊ぶモノばかりだった。
だから年頃の友人同士で誰々がどんな人を好いている、みたいな話で盛り上がることも無かったのだろう。
そして何より、連翹自身その手の話に欠片も興味を抱いていない。彼女がちょくちょくと話してくれたこちらの世界の創作も、語ってくれるのは剣と魔法や特殊能力で戦うお話ばかりだ。恋愛モノなど皆無であった。
(……ニールさん、どうするつもりなんでしょうね)
頭に浮かぶのは異性の友人。
彼もまた連翹と同様にそういう思考が脳みそに入っていないタイプではあったが――ここ最近は自覚があるように見える。
けれど、見えるだけで大したアプローチをしていないため、連翹は恋愛云々? なにそれ外人? 歌? という有様だ。ニールのことを憎からず思っているのは確かだと思うのだが。
「……まあ、その辺りは本人たち次第ですね――茉莉さん、わたしたちも行きましょうか」
「ええ、そうしましょう。まったくあの子ったら、もっと少女漫画とか薦めるべきだったのかしら……? あの子、そういうの女々しくて嫌いとか言うのよね……」
互いに顔を見合わせ困ったように――けれど微笑ましいモノを見たというような笑みを浮かべながら、連翹の背を追う。
すると現れる広い浴室に複数の浴槽。
大小様々な、そして種類もまた様々な湯船は透き通ったモノもあれば白く濁ったように見えるモノもある。
「よーし、それじゃあちゃっちゃと洗って入っちゃいましょうか!」
「駄目ですよレンちゃん、ちゃんとしっかり洗わないと。特に髪はちゃんとやらないとすぐ痛むんですからね」
放っていたら体も洗わず入りそうなテンションの連翹の手を握り、洗い場まで連行する。
面倒くさそうな抗議の声を漏らしているが、残念ながら聞く気はない。今はまだ若いから大丈夫でも、ずっとこのままだと十年後には髪も肌も痛みまくっているはずだ。
連翹にシャワーの使い方を聞きながら頭を洗い――備え付けのシャンプーの泡立ちっぷりに戦慄する。
備え付けでこれなのだから、専用の店で買えばもっと髪に優しいシャンプーや石鹸が手に入るのではなかろうか。
「ご、ごめんなさいね、家の子が」
ああでも、持って帰ったところで使い切ったらそれまでですし――そんなことを考えながら連翹の頭をわしゃわしゃと洗っていると、隣に腰掛けた茉莉が申し訳なさそうに言う。
「いいえ、もう慣れちゃいました。それに、レンちゃんの髪の毛ってサラサラしてて洗ってると気持ちいいですし」
だからこそ余計に粗末に扱うのが許せない――せっかく綺麗なモノを受け継いだのだから、丁重に扱うべきだ。
ニールやカルナは強くなるには日頃の積み重ねが必須だと言っていたが、容姿だって同じ。後で欲しいと思っても手遅れな以上、無理にでもこうやって手入れしてあげた方が良いだろう。
シャワーで泡を流したら、後はそのまま任せる。連翹とてそこまで子供ではないのだから、さすがに体まで丹念に洗うなどという真似はしない。女友達どうしてそこまでしていたら、それこそ先程の塔云々みたいな話になってしまうだろう。
自身の髪の毛を丹念に洗い、ゆっくりと体を洗う。
簡単に泡立ち汚れをかき消していく石鹸の威力に感嘆しつつ、一部の転移者がノーラたち現地人を土人と蔑んでいた理由も少しだけ理解出来た。あの手の発言を肯定する気はまるでないが、しかしこちらとあちらの文明は差が大きすぎる。魔法や奇跡というこちら側にないモノも踏まえても、まだまだノーラたちの世界は発展途上なのだと感じた。
無論、だからといってこちらの世界に跪き崇めるような真似はしない。あちらはあちらで、こちらはこちらだ。ノーラたちの世界もいずれ、様々な技術の蓄積を経てこちらと同じような――または全く別の方向性で文明を進化させていくことだろう。
「ふう……」
頭からシャワーを浴び、泡と共に思考を押し流す。
こちらの世界に来て色々考えることはあるが、しかし今はもっと楽しむべきだと思う。
髪の毛を邪魔にならないように軽く纏めながら周囲を見渡す。すると、連翹が一つの湯船を指差しながら瞳をキラキラと輝かせていた。
「ノーラ見て見て! なんか凄い水泡とか勢い良く流れるお風呂とか面白そうなのあるから一緒に入りましょ! お母さんはどうする? なんか入っただけで健康になっちゃいそうな雰囲気がするわよこれ!」
「落ち着きなさい連翹、そういう側面はあるけど最終的には当人の生活習慣よ、健康っていうのはね。……まあそれはともかく、わたしはゆっくり浸かりたいからあっちの温泉と同じ成分が入ってるっていう方に行くわね」
「あはは……それじゃあわたしはレンちゃんと一緒に行きますね」
茉莉が言った温泉風の湯船も気になるが、連翹は一人だと寂しがりそうだし、何よりノーラ自身も泡と水流の湯船がとても気になっていた。
仮にあちらの世界で同じようなことをするとなれば、魔法使いが絶えず水流を作り出さねばならないだろう。実現自体は可能だと思うが、ノーラのような一般人には絶対手が届かない。
「そう。なら二人とも楽しんでちょうだい」
未知の体験に対するワクワク感が顔に出ていたのだろうか、茉莉は微笑ましいと言うように笑うと小さく手を振って温泉風の湯船へと向かった。
設置された手すりで体を支えながら流れる湯船に入る。脚に感じる川の流れに逆らっているかのような抵抗感に新鮮な驚きを感じながら、ノーラはゆっくりと横たわった。
「温かい川とかがあったらこんな感じなんでしょうか?」
湯船の中の体をお湯でマッサージされているような感覚。思わずはふうという声が漏れる。
その様子を見て「なんかちょっとおっさん臭いんだけど」と笑われるが、まあ今回ばかりは許そうと思う。風呂上がりにビールとか欲しいなぁと思ってしまう現状、全く反論できそうにないから。
「しっかし、今頃ニールたちはどんな話をしてるのかしらね。いや、そもそも男三人永遠無言タイムっていうお風呂の中で心が凍えるような状況になってるかも」
「……ええ、まあ確かに。話し辛そうな相手だなぁ、とは思いますね」
片桐桜大という男性の姿を思い浮かべた。
悪い人ではない、とは思う。
思うのだけれど、和やかに談笑できるタイプではないのも確かだ。
仮に桜大が女性だったら、ノーラも今頃は会話に会話に困っていたかもしれない。
それに――
「レンちゃんにとってもそうみたいですしね」
桜大と再開してからしばらく経っているのに、再開を喜び合うことも、突然失踪したことに対する叱責もない。
無論、互いに無言だったワケでもなく、会話は何度かあった。
が、本当にそれだけ。
互いに、どの程度まで踏み込めば良いのか悩んでいる――そんな風に見えた。
「んー、頑張って話そうとは思ってるけど、中々ね」
流れる湯に深く、頭だけ出すくらい深く深く沈み込みながら、連翹は呟いた。
「昔のあたしは、ぶっちゃけ話しても無駄だろうって決めてかかってたから。お父さんが仕事頑張ってるのは知ってるし、時間作って遊びに連れてってくれたことも覚えてる。けど、なんか下手なことを言って怒らせそうで、あんまり相談とか出来てなかったのよね。実際、その頃のあたしの悩みって別の誰かから見れば些事だったし、当時のあたしにだってその自覚はあったもの」
小さい悩みだと、甘えてると、そのくらいは理解してるわ――ぱちゃぱちゃと掌で湯船を弄びながら連翹は小さく呟く。
「けど――だからって自分で改善することはなくて、誰かに相談して助けてもらうこともなくて、頑張っても意味ないって言い訳して怠惰に沈んでいたの。余計にちゃんとしろって怒られて、苦手意識が強くなっちゃったのよ」
ノーラは何も言わない。
甘えてる、とか。
贅沢な悩みだ、とか。
そういう想いが全くないと言ったら嘘になる。とっくの昔に両親を亡くしているノーラだから、余計に。
だが、それを口に出すことはない。結局のところ悩みなんていうモノは個人がどう思うのかが重要なのであって、他者目線で重さを測ったところで意味がないのだから。
もちろん、今の連翹がかつてと同じように怠惰に沈むというのなら何かしら口を挟むが――
「……けど、頑張らないとね。ここでちゃんと動かないと、なんのためにこっちに来たのか分かんなくなっちゃう」
――今の彼女は、それでは駄目だと奮起出来る人だから、ノーラが言うべきことはない。
もちろん、どうしても父親と意見が合わなくて家族から離れるというのなら手助けをするが、今はそれ以前の問題だ。そもそもちゃんと話さなければ、意見を交わさなければ、何も始まらないではないか。
ゆえに、これから彼女は父と、桜大と語らうのだろう。
失った時間を埋めるために、決断するために。
「レンちゃんは――どうするんですか?」
主語はあえて言わなかった、いいや、言えなかった。
ここに残るのか、自分たちと一緒に帰るのか――いいや、これはノーラの目線の話か。
連翹に取って帰るのはこの世界であり、残るのはノーラたちが住まう世界だ。里帰りをしている現状でも、それは覆らない。連翹が生まれ育ったのはこちらなのだから。
だからこそ、ノーラは上手く問いかけることが出来なかった。
もしも自分が連翹のように別世界に転移して、そこで友人を作り――こうやって元々の世界に戻る機会に恵まれたら、一体どちらを選ぶのだろうか?
想像しても答えは出ない。
答えが出たとしてもそれはあくまで想像であって、正答などでは断じて無い。
そんな状態だからか、「一緒に来て」とも「家族と暮らした方が良い」とも言えず、はたまた別の言葉を投げかけることも出来なかった。
ノーラの曖昧な問いかけを聞いて、連翹はゆっくりと天井を見上げる。
「――正直、分かんない。……もっと屑親だったら、悩む必要なんてなかったのにな。異世界系の話で現実世界の家族が出ない理由が分かったわ。とっても面倒くさいもの、これ」
真っ当な両親を速攻で忘れて異世界で遊び呆けるとか親不孝にも程があるだろう――本当に、自分のことながら嫌になるわ、と。湯船に浸かりながら連翹は溜息を吐いた。
そんな親不孝が、幸か不幸か――否、とても幸運なことにもう一度両親と出会うキッカケを得た。
悩む時間、両親との再開、選択する権利。本来なら二度と取り戻せなくて当然のそれを、この手に掴んだのだ。
ゆえに今は幸福で、この悩みも祝福なのだろう。
「……ん、だから、こういう時ぐらいちゃんと向き合わなくちゃ」
――連翹は思う。
正直に言うと怖いし、どの面下げてこれからのことを話すのかとも思う。
けれど、ここでちゃんと前を向かないと、異世界に行こうが日本に残ろうがずっと後悔し続けることだろう。
そして何より――背中を押してくれたニールに申し訳が立たない、と。
ニール。
ニール・グラジオラス。
大切な仲間で、驕り高ぶった連翹が傷つけてしまった人。
彼が面と向かって連翹に頼み込めば、転移と残留のどちらであっても頷いたことだろう。
だが、ニールはこちらの世界に来てから一度もそのようなことを言っていない。
俺に寄りかかるな、自分で考えろ――そんな風に厳しく、けれど優しく突き放すように。
「――けど、それはそれとして今は楽しみましょ! ねえねえノーラ、あっちの扉の先に露天風呂もあるみたいだけど一緒に行かない? あ、お母さん。お母さんはどうする?」
勢いよく立ち上がった連翹を、湯船に浸かる茉莉は「あんまり騒いじゃだめよ」と釘を指した後、小さく首を左右に振った。
「もうちょっとこっちに居るわ。わたしのことは気にせず二人で楽しんでいらっしゃい」
「そっかー……よしっ、ノーラ行きましょ! 考えてみれば温泉街では色々あって入りそびれてたのよね。ちょっと楽しみ!」
「あ、ちょっと待ってくださいレンちゃん! あんまり急ぐと転びますよ!」
他人の迷惑にならない範囲で駆け出す連翹の背を、ノーラは茉莉に一礼した後に追いかける。
その背中を小さく手を振って見送った茉莉は、深く、深く深く湯船に浸かり――小さく息を吐いた。
「――別れ、ね。昨日までのことを思えば、贅沢な悩みなんだけれど……」
茉莉の言葉はノーラと連翹に届くことなく水面を揺らし、消えて行った。




