252/夕食
「……あら? どうしたのグラジオラスくん? ……というかわたし、なんで寝てたのかしら……?」
正座しながら延々と桜大に説教され、頼りになる味方は全員桜大に与するという絶望的な状況の中、ようやっと茉莉が目覚めてくれた。
正直とても助かる。正座という姿勢によって両脚が痺れに痺れてもはや感覚など皆無だ。今すぐにでも脚を広げて楽になりたい。
「ええっと、確か――お風呂場で……」
「ちょっと精神的な疲れが出ちゃったみたいですね。ごめんなさい、色々ご迷惑をおかけして」
額を抑えて思い出そうとする茉莉へ、すかさずノーラが駆け寄り申し訳なさそうに頭を下げた。
風呂場での惨状を誤魔化すための言葉であったが、その言葉はきっと間違っていない。
突如として戻ってきた娘、それと一緒に現れた謎の三人組。彼らが真っ当な人間かどうか見定めながら、表面上はにこやかな笑みを浮かべて買い物をしていたのだ。
疲労が貯まらないはずもない。
まあ、それだけなら倒れることもなかったろう――ニールの自傷からの大量流血を見ていなければ。あれはもう完全にトドメだった。
「起きたか。調子が悪いようならまだ寝ていろ」
「いいえ、お昼寝――というには遅いけど、寝ちゃったから元気になったわ。待ってて、お鍋温めてくるから」
「そうか、好きにしろ」
ええ、好きにするわ――そう微笑んで台所へ向かう茉莉を見送ると、桜大はニールたちに視線を向けた。
「机に座れ、グラジオラスお前もだ。お前らが言う異世界について話を聞こう」
「分かりました――ほらニール何やってんだよ、早く立って」
「ま、待て、わりとマジで脚がやべえ……なんか全く感覚が……」
両手で体重を支えながら、ふーふーと荒い息を吐く。
自由になった脚に血が流れる感覚。もうしばらく待てば普段通りに戻りそうなのだが、今は下手に体重をかけたり触ったりしたら痺れて酷い目に合う――
「へい、ターッチ!」
――だっていうのに。
痺れた両脚を思いっきり触りやがったこの女は一体なんなのか。
「あがっ、ぐ、ぎぎっ、何しやがるこの馬鹿女ァ――!」
「とても隙だらけの脚だったからね、つい、うっかり」
フローリングでのたうつニールを見下ろし、「ぷーくすくす、産まれたばっかの子鹿みたいー!」と笑う馬鹿女。どうしてくれようかこいつ。
今すぐにでも飛びかかってやりたいが、脚の感覚が無さ過ぎてそれも難しい。痛みならいくらでも我慢出来るのだが、この棒のようになってるくせに痺れの自己主張だけは激しい現状では疾走など出来るはずもなし。出来ることは、くそう、と恨み言を漏らすだけだ。
「随分な呼び方で娘を呼ぶのだな、お前は」
壁に手を突きながらゆっくり起き上がっていると、こちらを睨む桜大と目線が合った。
やべえ、と思う。確かにこの物言い、親御さんが聞いて良い印象はない。
「あー、いや、これはなんつうか……」
「まあいい、客観的に見て馬鹿なことをしたのは娘の方だ。許そう」
慌てて弁明しようとするニールの言葉を遮り、早く座れと言うように顎をしゃくる。
ようやく調子が戻ってきた脚で立ち上がると、距離を取って笑っていた連翹の頭を叩きつつ椅子に座る。
「えっとっすね、俺らは――」
「その前に――グラジオラス、お前は普通に喋れ」
出鼻を挫くように、桜大は鋭く言い放った。
「敬語とは敬う言葉と書き、相手に対し敬意を表すモノだ。それは伝わらねば意味がなく、そしてグラジオラス、お前の雑な物言いでは何も伝わらん。ならば、喋りやすいように喋れ。そちらの方がまだマシだ」
そんな言葉遣いでは馬鹿にされてるようにしか思えん、と。
言い回しは腹立たしかったが、ぐうの音も出ない真実であったので言い返すことも出来ない。一度真剣に言葉遣いを学んだ方がいいな、と心から思う。
「ああ、分かったよ。正直、まともに扱えてねえのは自分で分かってたからな」
「……お前のような若造に全く敬語を使われないというのも、これはこれで腹立たしいな」
「どっちにすりゃいいんだよお前ぇ――!」
思わず立ち上がって叫んだニールを見て、桜大はにやりと笑う。
その笑みを前に、ニールは言葉にならない声を漏らしながら椅子に座る。
先ほどからどうも上手く噛み合わない。攻めれば退かれ、退いたら攻められる――そんな戦い方を言葉でやられているような気がする。
風呂場の時のように度肝を抜かせられたらニールが主導権を得られるのだろうが、それ以外でどうやっても上手くやり込める未来が見えない。
「……まあ、いい。少なくとも先程までの場末のチンピラ紛いの言葉遣いよりはマシだ。我慢してやるから説明しろ」
――それはそれとして腹が立つ。
剣を使えば一発で制圧できる実力差なのだが、だからといってここで剣を抜いて脅すワケにもいかない。それこそ場末のチンピラの所業ではないか。
ニールは一度大きく息を吐き、ゆっくりと語った。
自分たちがどのような場所で暮らしていたのかを、
転移者という存在を、
片桐連翹との出会いを、
レゾン・デイトルへ向かう旅路とその戦いを、
そして、創造神との出会いを、
カルナやノーラに補足して貰いながら、これまでの道程を説明した。
桜大は何も言わず――連翹との出会いと再開についての部分だけ、静かに眉を顰めていたが――聞き入っていた。
「――馬鹿げた話を、そう言いたいところだがな」
全てを語り終えた後、桜大は腕を組み、眉を寄せたその瞳でニールを――正確に言えばニールの右手首を見つめた。
見せつけるようにひらひらと動かしてやると、桜大の額のシワが更に深くなる。
桜大は深く、深く深く息を吐いた。
「ひとまず、信じよう。少なくとも私にお前たちの言葉を否定する材料はない。仮にお前たちが詐欺師だったとしても、ここまでするのならリターンの大きい相手を騙すだろう。私などではなくな」
嘘だ、デタラメだ、馬鹿げた話だ――そのように切って捨てたいという感情もあるのだろう。
だが、どれだけ馬鹿げた結論であっても、最後に残ったのがそれであったのなら真実なのだ。
「娘から搾り取ったから次は私たちを――とも考えたが、それにしては娘の血色が良い。下手をすれば運動不足だった家出前よりも健康的なくらいだ」
娘を洗脳し、三年近く健康的な生活を送らせ、その後に両親たちを騙して財産を得る?
随分と遠大な計画だ。コストが掛かりすぎるしリターンも少なすぎる。ここまでやるなら金持ちを騙すか、複数の世帯を纏めて騙さなければワリに合わないだろう。
そして――切り落とした右手が再生する姿と、最初に見せられた氷の蝶。
それらを桜大を騙すための仕掛けと考えるのは難しい。
現代科学で再現可能なトリックであったとしても、特別高給取りでもない一般家庭を騙すパフォーマンスとしては過剰だ。費用対効果が全く釣り合っていない。
「無論、私たちの誰かに恨みを持つ者の犯行と考えれば可能性はゼロではないが――生きている以上、全く恨まれていないなどとは言わんが、そこまで深く恨まれる覚えもない。ゆえにこちらの可能性も低い」
ゆえに、異世界云々という馬鹿げた話が一番可能性が高くなる。
無論、言葉だけであれば全く信用出来なかったが――ニールが手首を切断し、それを奇跡で繋ぐという場面を直視した。ゆえに、馬鹿馬鹿しいと思いながらも信じざるを得ないのだ。
そして何より――
「お前たちは茉莉に金をせびらなかったようだな。あれは甘い女だからな、ある程度信じさせてしまえば財布など簡単に開いただろうに」
――そう、ニールたちは金銭を求めなかった。これがニールたちを信用する大きな要素なのだという。
詐欺師が人を騙すのは何の為だ? 基本的には金の為、もしくは若い女の体を利用するためだろう。
じろり、とこちらを睨む桜大に、ニールは即座にテーブルに手を突いて頭を下げる。
なるほど、信じようと思ったタイミングで思いっきり別の疑惑を浮上させたのだ。そりゃあ怒る。
カルナからの蔑む視線を感じるが、お前だってもっと巨乳だったら似たような真似してただろと反論したい。
「……その件に関しては、まあ良い。いいや、決して良くはないがお前の反応を見ていれば理解出来る。年相応な欲求に忠実なだけだとな」
それはそれとしてもっと抑えろ、と睨まれる。何一つ反論出来ない。
だが、弁明するなら誰彼構わずにセクハラめいたことはしていない――セクハラがそもそもアウトだろ、と言われたらそれまでだが。
ちらり、と台所で鍋を温めつつサラダを作っている茉莉に視線を向けた。
その姿が――レゾン・デイトルで崩落と相対した時、微かに思い浮かんだ夢とダブる。
ニールの都合の良い妄想と目の前に居る茉莉は全く別物であったが、しかしどちらも今の連翹にはない成熟した色香があって、つい無意識に体が動いたのだ。
「――なるほど」
茉莉に視線を向けたのはほんの一瞬。
そのはずだったのだが、内心を察せられてしまったのだろうか。険しい眼を向ける桜大の表情に、微かに別の感情が浮かび上がった。
それは納得であり、困惑であり、そして強い安堵。
咄嗟にそれらを感じ取れたのは、近距離で相手の殺意や敵意を読み取ることに慣れたニールだったからだろう。カルナたちは恐らく気づいてはいまい。
だが、その感情の意味がなんなのか――そこまでは理解できなかった。
「それよりも、だ。金をせびらなかった件は良いとして、お前たちはどうやって買い物をした。まさか、私たち以外の者から奪ったワケではあるまい」
話題を変えつつ、恐らく彼が一番気になっている部分を問いかけてくる。
「ああ、それはこれよ、これ。見てて」
「――――ああ」
問いかけに元気よく応答する連翹だが、それに応える桜大の反応に微かなタイムラグがあった。
言葉を選んで、悩んで、結局当たり障りのない言葉に落ち着いた――そのような印象を抱く。
もっとも――そのように思い悩んでいた表情は、空っぽの財布からばさり、と万札が出現するという現象によって砕け散ってしまったのだが。
「……記番号はどうなっているんだ、これは」
――魔法や手首の切断、そこからの奇跡を見せられた時よりも驚きと困惑の眼差しを向けたまま、桜大は財布から一万円札を抜き取った。
そして、何やら明かりに向けて透かしてみたり、自身の財布から同じく一万円札を取り出し感触を確かめてみたり、額に深いシワを刻みながら何やら色々と試している。
「なるほど、偽造防止の仕組みか。確かにただの紙にしては手が込んでいるとは思っていたけれど……」
「えー? そんなの考えて無かったわ……新しく刷る前に割り込んだり、ドブとかに落ちちゃって使えなくなったのを使ったりしてるんじゃないかしら?」
さすがに普通に使っただけで警察に捕まるようなモノを渡さないでしょ――と連翹が言う。
それが事実だと裏付けるように、桜大は顔を顰めながら一万円札を連翹に返却している。
(ま、色んな道具を簡単に複製しちまえるような神だしな。そこまで下手なモノを渡すワケがねえか)
少なくとも、沢山使えば足がついて捕まる――そんな代物でなくて何よりだ。
そんな風に安堵しているニールとは裏腹に、桜大は頭痛に苛まれているかのように顔を歪め、額に掌を押し当てる。
「……悪意を以てばら撒けばインフレに出来るな、これは。お前たちが言った神とやらはこちらの世界の仕組みを『知って』はいるが深く『理解』はしていないと見た。種全体と一部の個人には興味があるが、種が作り出したシステムなどは大して興味を抱いていないらしい」
少なくとも私は関わり合いになりたくない――絞り出すように言い放つ。
「あー、分かります。とても」
カルナが乾いた笑い声と共に肯定した。
なんというか、種の繁栄と個々人の頑張りくらいしか興味が無さそうだ。
数多に存在する生き物を小説に見立てて、気に入った者を主人公として観察する――そんなイメージ。細かな舞台設定などは全部読み飛ばすか流し読みするかしているのだ。
ディミルゴがズレているのは俯瞰視点だからというのもあるが、そういう部分も大きいのかもしれない。
「難しいお話は終わったかしら? それじゃあそろそろご飯にしましょうか」
――会話が途切れるタイミングを待っていたのだろうか。
トレイに人数分の器を載せて来た茉莉は、皆の前に食事を並べていく。
「やった、カレーとか超久しぶりでテンション上がるわ……! あっちにも似たようなモノはあったけど、似て非なるモノばっかだったし」
「そういえば聞いたことはあるかな――転移者が頑張って再現しようとしたけど失敗したとかなんとか」
瞳を煌めかせながら白米にどろりとした焦げ茶に近い色の液体――なんだろう、あんかけ?――がかかった食べ物を受け取る連翹。
カレー、という食べ物は一応聞いたことはある。
ニールの父も断片知識だけで作り、結果コクと辛味が美味しい肉と野菜がたっぷり入ったスープみたいなモノを出してくれた。ニールは新手のビーフシチューみたいだと言いながら美味しく食べたのだが、作った本人は全く満足できなかったようで店に出ることはなかったのだが。
あの時は理由が分からなかったが、目の前のこれを見れば父が満足できなかった理由も分かる。あれはあれで美味しかったけれど、しかし目の前のモノとは全く別物だ。
「ま、食ってみりゃ分かるか――いただきます」
スプーンでルーと白米をすくい、そのまま口へ。
その瞬間、ニールは味がどうだとかそういう思考すら置き去りにしてスプーンを動かし、また口へと運んでいく。
進む。どろりとした質感のそれが白米と上手く絡み合ってスプーンが進みまくる。
具材の野菜もルーと馴染み、普段大して美味しいと思わないニンジンやジャガイモなどもひょいひょいと食べてしまう。濃厚でほんのりと辛味を感じるルーは単品では自己主張し過ぎなのだろうが、白米と野菜という存在が上手い具合に口の中で味を調整してくれている。
そして焼き目がつきながらもしっかりと煮込まれた一口大の鶏肉――これもまた良い。ルーや白米を差し置いて主役を名乗っても良いくらいだ。
もも肉って本当に男の心を魅了するよな、と思いながら噛みちぎる。しっかりと焼かれて肉汁が逃げ出さないようにして煮込まれたこの味は素晴らしい。肉月に旨いとかいて脂! まさしく、肉の旨さとは脂の旨さだと思う。
「あ、ついでにゆで卵とか作ってみたけど、誰かカレーに入れたい人居る?」
「マジで!? 至れり尽くせりかよ……! 貰います貰います、超貰うっすよ」
どうしようこれ、結婚したい――!
カレーとゆで卵如きで好感度が天元突破し始めてるニールの内心を知ってか知らずか、にこにこと微笑みながら器にゆで卵を載せてくれる。
薄味の白身、そして卵の旨さがぎゅっと詰まった黄身の部分。それらがカレールーと邂逅することによってより旨味が複雑化していく。こうなってはもはやニールの語彙能力などで表現出来るはずもなく、ただただ無心でスプーンを口に運んでいく。
「息子がいたらこんな感じなのかしらね……あら? 桜大さん、どうしたの? スプーンが進んでいないようだけれど」
わいわいとスプーンを進める皆とは裏腹に、付け合せのサラダをちまちまと食べている桜大に茉莉が疑問を投げかける。
「ああ――いや、色々と考えることがあってな」
「そう? ……ああ連翹、あなたはちゃんと食べてる?」
「もちろん、あ、おかわりしてもいい?」
首を傾げながらも連翹のおかわりをよそいに台所へ向かう茉莉を見送った後、桜大はニールたちにそっと顔を近づける。
「……お前ら、あの後でよく入るな」
――ああ、よく見れば微かに顔が青い。
言われればそうかもしれない程度だが、しかし確かに顔色は悪くなっていた。
もっとも、記憶が飛んでいる茉莉はともかく、ニールたちはノーラや連翹を含めもくもくとカレーを食しているのだが。スプーンが進んでいないのは桜大だけだ。
案外繊細なんだなぁ、と思いかけ――いや、と浮かんだ思考を否定する。
こっちでは突然野盗に襲われたり、人工ダンジョンで制御出来ないモンスターに攻撃されたりすることはないのだ。
ゆえに、流血とはもっと小規模なモノ。
四肢が切り落とされるような怪我は普通に暮らしていれば絶無なのだ。
気持ち悪くなっても致し方ないのかもしれない。
桜大は小さく溜息を吐き――
「お前たち男二人はともかく、そちらのホワイトスターと――連翹、は大丈夫なのか?」
――微かに、言いよどむような声音と共に連翹へと視線を向けた。
それは一瞬のことだったが、自信無さげで、弱々しく、先程までニールたちが相対した人物と同一人物とは一瞬思えなくて――
「わたしは――まあ、あのくらいなら。旅をする前だって、教会で怪我人を診たりはしてましたし」
「皆はそういうのに耐性あるし。かくいうあたしも、あの程度ならまあ大丈夫になったからね」
モンスターの血から徐々に慣れてったのよねー、と言いながら新たによそって貰ったカレーにスプーンを突っ込む。
「……そうか、ならいい」
桜大は短く、しかし淡々と頷いた。
ほんの一瞬だけ見えた弱々しさなど、存在しなかったとでも言うように。




