251/片桐桜大
片桐桜大。
連翹の、父。
その人物は、決して戦士の体つきではなかった。
肥満体であるとか、やせ細っているというワケではない。この世界の人間の平均値――それよりやや引き締まっている、といった程度。
鍛えていないワケではないが、それは戦うためために鍛えているワケではない。仮に戦えば、ニールに剣がなくとも、そして相手に武器があったとしてもニールが勝利することだろう。
だが――ニールは欠片も油断など出来なかった。
ニールの目線よりやや舌に位置する細められた鋭い眼が、桜大の視線が、言葉などよりずっと明白に告げていたからだ。
――お前たちが何者かは知らん。
――だが、退かんし媚びることもせん。
――薄汚い欲望で汚れた畜生であれば、どのような手段を使っても豚箱に叩き込んでやろう。
気迫があった、決意があった、必要となれば殺意すら向けることだろう。
それだけではニールには決して叶わぬだろうが、それでも一瞬、気迫に飲まれた。
戦士ではないが、遊んで暮らしていたワケでも、競い合っていなかったワケでもない。ニールの牙が剣であるように、彼の牙は他者との交流にあるのだろう。
その鋭さに実体がない、などと甘く見ることなど出来るはずもない。事実、少なくともこの一瞬、ニールは確かに気圧されたのだから。
だが、すぐに踏みとどまる。
彼から見てニールたちは非常に怪しいのだろうが、言ってしまえばそれだけだ。
こちらに後ろめたいことなど何もないのだ、ならば後は語らうのみ。
(ん? ――あれは)
桜大を観察している最中に、ニールは違和感を抱いた。
違和感の元は懐。そこに何かを仕込んでいる。
財布やスマホの類ではないことをニールは瞬時に察した。それがなんなのかまでは分からないが、恐らく武器のようなモノだろうと思う。
ぴくり、と桜大の右手が動く。
いざという時にすぐ掴めるように――そんなことを考えている素人の動きだ。
ノーラと連翹は気づいている様子はない。カルナは――ニールほど正確には理解していないが、何か隠し持っていることくらいは察しているようだ。
(……なるほど、茉莉さんが車で語ったのと似たようなモノか)
仮にニールたちが悪党で、連翹を利用してここに来たとしたら――会話の途中で力づくで何かしようとしたらのならば。
その時に動くべきなのは女の茉莉や連翹ではなく、夫の、家長の自分であるのだと。
だからこそ、道中で何か武器になるものを買ってきた。戦いに慣れてはいないが、けれどいざという時は自分がやらねばならぬ、と。
「……とりあえず、初めましてっすかね……あー、桜大さん?」
「日本語は達者なようだが、まるでチンピラだな、お前は」
ふんっ、と苛立たしげに息を吐かれた。
あー、と背後で連翹が「そりゃそうなるわ」と言いたげな声を漏らす。だが、今回ばかりは反論できそうにない。この手の言葉遣いを軽視過ぎた結果が今なのだから。
「彼が失礼しました――貴方が連翹さんの父親ですね。初めまして、カルナ・カンパニュラと申します」
ニールには任せられないと思ったのだろう、微笑みながらカルナが前に出る。
礼節として完璧とは言い難いのだろうが、それでもニールと比べれば百倍マシだ。
だというのに、桜大のまなじりはニールの時以上に釣り上がる。
「カルナと言ったか。上っ面だけだな、お前は。これなら、そこのチンピラの方がまだ真っ当だ」
カルナの頬が引きつる。
怒り、ではない。恐らく完全に図星を突かれたから。
カルナは決して善人ではない。必要があればいくらでも非道な、外道な行為を躊躇わず行える人間である。
そんな男が人間社会に溶け込めているのは、外面を取り繕った方が衝突しなくて楽だから、そして自身が大切だと思った相手と敵対しないためだ。
ゆえに、初見の相手など基本的にどうでもいい――そんな、相手にあまり興味を持っていないくせに微笑んでいるカルナが怪しくて仕方がないと桜大は睨めつける。
「――ふん」
桜大は小さく息を吐き、視線をノーラに向ける。
「……そこの二人よりは話せそうだな。奇抜な髪色の女、名は?」
「あ、はい! ノーラ・ホワイトスターって言います。お邪魔してます、レンちゃ――連翹さんには色々とお世話になってます」
視線を向けられ、慌てながらも頭を下げる。
瞬間、桜大の警戒心が僅かに弱まるのを感じた。
女だからか? と一瞬考え、すぐに違うなと思い直す。
瞳は今だ細められたままで、気を抜いた様子は見受けられない。
最低限客人として礼節を弁えているということと、こちらを欺く気配がないということを察した程度だろう。
「……そうか、こちらも娘が世話になっているようだ」
くすりとも笑わず、頬を緩めることすらなく、言葉だけで淡々と「これからも仲良くしてやってくれ」と言う。ノーラが微笑みながら頷くと、ほんの僅かに頬を緩めた。
ノーラの礼節も完璧とは言い難いが、別に畏まった場でもなし、何より男二人よりはマシだという判断だろうか。
確かにニールは素直に言葉を伝えようとはしたが、さすがに言葉が無茶苦茶過ぎた。
カルナは最低限取り繕ってはいたものの、『面倒だけどここを乗り切ろう』という思考を見抜かれたために評価が低い。
「――それで、異世界から来たなどと言っている者はどいつだ」
ぐるり、とニールたちを見渡しながら言う。
分かりきっていたことだが、異世界という存在を一欠片も信じている様子がない。
それも致し方ないことなのだろうな、と茉莉の反応を思い出しながらニールたち三人は挙手する。
ノーラまで手を上げている事実に、桜大の顔が苛立たしげに歪んだ。
唯一、ギリギリまともの範囲に入れていた娘まで頭のおかしいことを言い出したことに苛立っているのだろう。
そんな様子を見て、カルナは小さく嘆息すると右手で魔力を編み始めた。
「これに関しては見てもらった方が早いかな――『我が望むは風に舞う氷の蝶、ひらひらと舞い踊る氷華と成りて我が世界を彩れ』」
論より証拠、というのは茉莉の時にも感じたことだ。
雪の結晶が連なったような、儚い蝶が氷の鱗粉を散らしながら桜大の周囲をふわふわと舞い踊る。
「なるほど。このような真似が出来るのだから、自分はこの世界の住人ではないと。異世界から来たことの証明であると、お前はそう言っているのだな」
「ええ、そうです――信じて貰えたかな?」
にこり、と自信に満ちた笑みを浮かべる。
これでようやく納得しただろう、と。
桜大はカルナを真っ直ぐと見つめ――
「――馬鹿か貴様は、誰がそのような世迷い言を信じる」
――ぐしゃり、と。
氷の蝶を握りつぶし、吐き捨てるように言った。
「……おかしいな、少なくとも僕は実感しやすいように実践してあげたつもりなんだけど」
「化けの皮が剥がれているぞ。……確かに私にはどのようなトリックを使ったかは分からん。だが、『このような真似が出来るから自分は異世界から来た魔法使いである』、などと……論理の飛躍にも程が有るだろう」
笑顔のまま、けれど取り繕った外面に小さなヒビを入れるカルナを、桜大は侮蔑するような眼差しで見つめる。
「少なくともそこの娘が嘘を吐いていないのは実感した、娘と仲良くしているというのも、事実なのだろう。だが、だからといって異世界などという世迷い言の全てを信じろと? それが通るなら、新興宗教の狂信者が語る言葉も全て真実だろう」
冴え冴えとした桜大の眼がカルナに向けられる。
お前が騙し、歳の近い娘を利用して連翹を誑かしているのではないか? と。
騙すつもりのない同年代の友人をあてがい、先程の魔法とやらを見せ、カルナを『ファンタジー異世界から来た魔法使い』と信じさせたのではないか?
異世界云々が真実であるという世迷い言より、ずっと説得力があるのではないか?
「いえ、僕は――」
「……それに、先程から貴様は説得というよりも、『さっさと黙らせたい』と考えているように見える。丸め込めない、面倒だ、そんな思考が透けて見えるぞ、詐欺師」
外面を取り繕っただけの悪党だろう、と。
カルナの口元が歪む。苛立ちで、怒りで。
――この僕を詐欺師如きと同列に扱っているのか、この男は。
言葉にこそしてはいなかったが、十中八九似たようなことを考えているだろうと確信する。
(やべえ、カルナとの相性が最悪過ぎる……!)
彼の観察眼を前にすればカルナの外面の良さなどむしろマイナスだ。
そして、見抜かれた際に桜大が言っている言葉――それなりに長く付き合っているから理解できる、なにも間違っていない。
カルナは決して悪党ではないが、だからといって善人でもない。
何の先入観も無い状態でカルナと桜大が出会えば、内面を見抜かれようとここまで剣呑な空気にはならなかっただろう。
根っこが悪辣な人間であっても、秩序に従い暮らしている者もいる。犯罪を犯さない限り、内心がどうであれ尊重して過ごすべきなのだ。桜大とて、それくらいは理解しているだろう。
――だが、今の彼の前には連翹が居る。
――三年近く行方をくらませていた上に、『異世界から戻って来た』などと言って異国人を連れて家に戻ってきた娘が。
桜大がニールたちを怪しむのは当然であり、今も腹の中で何を考えているのか必死に探っているはずなのだ。
そんな彼にとってカルナという人物は――異世界云々と娘に色々と吹き込み、魔法が使えなどと嘯いている見目が良い詐欺師。そのようにしか見えないのだろう。
顔立ちが整っているのも、表面上礼儀正しく振る舞っているのも、現状全てが逆効果だ。
そして今、カルナが怒りのせいで外面取り繕うのが面倒になって来ているのがニールにも伝わってくる。
そして桜大もまたその苛立ちを見抜き、余計に疑いを深くしている――悪循環にも程があるだろう。
このままカルナを矢面に立たせていても桜大がニールたちを『詐欺師カルナとその被害者たち』だと結論付けるか、カルナが桜大に『それじゃあ身を以て僕の魔法を味わってみろ』と攻撃魔法を使うだけだ。ゆえに、とっとと交代すべきなのだが――
(けど、魔法使えねえ俺がどうやって納得させるんだって話だしな)
――剣士であるニールには、その手段がなかった。
異世界、別の世界であり異なる理を有する場所。
それを納得させるには、先程カルナがやったようにこちらに存在しないモノを――魔法を見せるのが一番だ。そのアプローチは決して間違ってはいない、そうニールは思う。
モンスター討伐と同じだ。倒したモンスターの一部を持って帰るから、討伐の証拠を提出するから報酬が貰え、その後に酒場で語る武勇伝に信憑性が出るのだ。証拠が無ければどれだけ口が上手かろうとホラ吹きの疑念は完全に払拭できない。
だが、桜大はカルナに対して猜疑心を抱いてしまっている。今からどのような魔法を使ったところで、納得させられるだろうか。正直、厳しいだろう。
ならば、ニールやノーラで可能な手段で何かを行うべきだ。
連翹に頼るのは最後の手段にしておきたい。猜疑心が高まっている今、下手に連翹に助けを求めたら『親を騙すために娘を利用し始めた』と詐欺師扱いが決定的になってしまう。
ゆえに、剣士のニールと神官であるノーラで、何か説得の材料を出さねばならない。
だが、この世界の住人に『ニールたちは異世界から来た』と納得させる材料は何がある?
どんどん険悪になっていくカルナと桜大を見つめながら、ニールは必死に頭を巡らせる。だが、慣れない真似をしているためか、ちっとも役立ちそうな案が出てこない。
(ああ糞、転移者と斬り合ってる方がずっと楽――いや、そうか、それだ)
現実逃避気味に頭の中に浮かび上がった転移者たちとの戦い、それを見てピンと来た。
これだ――これなら自分たちが異世界から来たと説得する材料になる。
そして、ニールは少なくともカルナよりは疑られていない。
ゆえに、真正面からぶつかって、真っ直ぐに目を見て、実行すればいい。
こそこそと内心を隠しながら喋るのは完全な悪手だ。その手の会話が一番上手いカルナが完全に追い込まれているのだ、ニールなどが同じことをやっても討ち死にするだけだ。
「……茉莉さん。なんか汚してもすぐに洗い流せる場所ってないっすかね」
ふう、と。
大きく息を吐いて心を落ち着けた後、問いかける。
ニールたちや桜大から離れた場所に立って様子を伺っていた茉莉は、「え?」と不思議そうな声を漏らす。
それはこの流れで自分に話しかけることはないだろうと思っていたからであり、ニールの言葉の意味が理解出来ないことであろう。
「いや、さっきので納得しないんなら俺がなんとかしようと思って――けど、ここでやったらカーペットとか家具とか汚しちまうんすよ。それは申し訳ないんで」
「う、うーん……それなら、お風呂場とかかしら。何をするか知らないけど、そこならすぐ水で流せるから」
――自宅に風呂あんのかよ、なあ連翹、お前実はすげぇお嬢様なのか?
そんなことを言いそうになって、ギリギリで押し留める。
さすがに今そのようなことを言っている場合ではない。早くある程度の信頼を得ないと、こっちの世界の自警団などに捕まる。
「ちょっと待ってくれニール、今は僕がこの男を説得――」
「友人の親父相手に『この男』とか言っちまうぐらい熱くなってる癖に説得とか無理だろ、上っ面九割剥がれてんぞお前」
そもそも鬱陶しい、どうにか黙らせてやろう、内心でそんな風に考えてる奴が説得とか無茶だろう――そう言ったらカルナが悔しげに眉を寄せた。完全に図星だったらしい
「仲間の内心を察するのは良いが、それを口に出して良いのか? 私の心証は先程から悪化の一途を辿っているのだがね」
「むしろ、今こそこそ隠す方がまずいんじゃないっすかね」
そもそも、あちらが疑っているのは娘のためだ。
娘が明らかに怪しい集団を家に招いたから警戒しているだけなのだ。
だから、腹の中を探られるのは当然。ゆえにノーガードで向き合う。
(――そもそも、連翹との旅に恥ずべきことはねえからな)
信じ難かろうが知ったことか、これが自分たちが歩んだ道だ。
胸の内の想いを視線に乗せて、真っ直ぐ桜大を見つめる。
「……それで、どうするつもりだ」
視線が交錯した、数秒後。
多少は信頼を得られたと思って良いのだろうか、桜大が問いかけてくる。
「まず、さっき茉莉さんには言ったんすけど、ここじゃ部屋を汚しちまうんで風呂場に――つーか、本当に自宅に風呂なんてあるんすか? 外から家見たっすけど、そんなスペースなくねえっすか?」
「付いて来い」
短く告げ、先導する。
リビングの壁に立て掛けていた霊樹の剣を掴み、それを追う。
廊下を少し歩き、玄関近くに設置された扉を開ける。
そこが、どうやら風呂場のようだった。
といっても、ニールが想像したモノの半分以下の広さで――けれど人一人が体を洗い入浴するには、あるいは大人と子供の二人ならば十分なスペースに思えた。これだけ省スペースに造られているというのに、狭苦しさがあまりない。
(なるほどな、こんな感じに発展していったワケだ)
元の世界では薪や魔法を用いて湯を沸かすため、多量の薪を用意できたり魔法使いを雇える金持ちでもなければ個人用の風呂場など用意することなどできなかった。
ゆえに、大衆浴場や屋敷に設置された金持ち用の大型の風呂しかなかったが――ここではもっと別の手段で湯を沸かし、また敷地の少なさからコンパクトになっていったのだろう。根本的な文化の差を感じる。
「それで、どうするつもりだ?」
見慣れない設備につい辺りを見渡していると、不機嫌そうな声音が意識を現実に引き戻す。
「とと、悪い。んじゃあ――桜大さん、とりあえず一緒に風呂場に入って握手してくれねえっすか」
「……意味が分からんな、お前は何をしたい?」
「とりあえずこっちの人間に対して一発で別世界だって認めさせるには、これが一番だって思うんすよね」
怪訝な顔をする桜大に右手を差し出す。
しばし、掌を注意深く観察していた桜大だったが、何もないことが分かったのか訝しげな顔のままニールの手を取った。
「俺の掌の感触が、今握っているのが血の通った人間の一部だってことは分かったすよね」
「ああ、そうだな」
それが一体どうしたのだ? と。
本気で意味が分からない、といった表情を浮かべる桜大の前で鞘から霊樹の剣を抜き放つ。
一瞬体を強張らせた桜大だったが、霊樹の刀身を見て「……木刀?」と安堵と怪訝の感情を吐露する。
「ちょ、ちょっと、グラジオラスくん……!?」
野菜の皮むきの最中に霊樹の剣について説明していたので、茉莉が慌てて声を上げる。
だが、今は制止されるワケにはいかない。
「ノーラ、治癒頼むぞ」
ノーラを真っ直ぐに見つめた後、抜き放った刀身を己の手首に押し当てた。
「ちょ――!? ニールまさ――」
「せい」
連翹の驚愕に対し、ニールの掛け声は冗談のように軽い。
そして、すとん――と。
根菜を切れ味の良い包丁で切るような手軽さで、桜大と握手したままの右手――その手首が斬り落とされた。
コンマ数秒の間を開けた後、切断された手首からおびただしい量の血液が吹き出す。
しっかりと着込んだ服を汚しちゃまずいな、と切断面を即座にバスタブに向ける。ばしゃばしゃ、と注がれる赤黒い液体。
「――――な」
桜大はしばし自分が握るニールの右手を、そしてだくだくと血液が吹き出す切断面を交互に見比べ――
「――――なにをしてるこの大馬鹿者がぁ――!」
――理解が追いついた瞬間、大音声で怒鳴りつけた。
「異世界などという大馬鹿者だとは思っていたが、まさか突如とし自傷する類の大馬鹿者だとは思わなかったぞ、脳みそをどこに置き忘れて来たのだお前は! 連翹! 早く救急車を呼べ! 私は――タオルで縛る程度でどうにかなる傷だとは思えんが、ええい、やるしかないか……!」
ああ、やはり彼は良い人だ――ニールは慌てふためきながらも止血の準備に取り掛かる桜大という男に好感を抱いていた。
突然自宅で自殺されても困る、という気持ちももちろんあるのだろう。
だが、それと同じくらい『なんとかして助けねばならない』と咄嗟に考えているのが見て取れる。根が真面目で、善良――やはりこの人は連翹の親なのだなと実感した。
だからこそ、詐欺師に騙されている娘をどうにかせねばと思ったのだろうし、一番怪しいカルナに敵意を向けていたのだろう。
「いや、血で汚れるんでやめた方がいいっすよ。それより桜大さん、ちょっと俺の右手返してくれないっすかね? あんま時間置くとノーラが大変なんで」
なあ、ノーラ? と。
そんな声をかける前に桜大の手からニールの右手をぶん取ったノーラは、ニールを睨めつけながら近寄ってくる。
「ああもう! ニールさんは本当になんというか、本当に本当に本当に……! というかなんでそんなに平気な顔をしてるんですか!? 痛いでしょうこれ!?」
「いや、無二の時と比べりゃ手首切断される程度はかすり傷だろ」
一秒の間に骨は砕けるわ血管は千切れるわ肉が破けるわ――そんな痛みがほぼ全身を駆け巡った状態で剣を振るったあの時と比べれば、たかが手首一つ斬り落とした程度むしろ軽症と言えるのではないだろうか?
止血や治癒の奇跡を使えば死なない程度の傷だ、何も問題はない。
「あの無茶と比べたらなんだって軽症ですよバカぁ――! それに大前提として、止血や治癒をしないと死ぬ傷っていうのは世間一般で言えば大怪我ですよ……!」
そして響く怒鳴り声。本当に、本当に反省してくださいよ、という言葉を瞳に込めながら。
解せぬ――ワケではないが、こればかりは仕方ないと許して欲しい。
なぜなら、ニールはこれこそこちら側の世界の住民たちに『自分たちが異世界の住人』であることを納得させる最良の方法だと思ったのだから。
「馬鹿かお前たち、喋っている場合か。とりあえずまず腕を縛り――」
「創造神ディミルゴに請い願う! 失われ行く命を守る力を、癒しの奇跡を!」
説明する時間も惜しい、と桜大の言葉を遮ってノーラが祈りを捧げる。
瞬間、暖かな光が右手首の切断面を優しく撫でた。
出血の勢いが鈍っていく。だが、ノーラはまだ道半ばの神官だ。このまま完全に止血することも、右手を復元することも不可能。
ゆえに、ノーラから手渡された右手を切断面に押し付けた。触れ合った切断面で骨が、神経が、筋肉が、肉が繋がっていくのを感じる。
時間にしておおよそ数十秒から一分。ニールは桜大に見せつけるように、切断された右手の指を動かして見せた。
「なんだこれは。確かに私は触れたぞ……」
先程自分が握っていた切断された右手。
それが現在、ニールの右腕と完全に繋がっているのを見て、桜大は呆然と呟いた。
まやかしの類ではない。風呂場に満ちた血液の臭いが、先程まで手首の切断面から血液が吹き出していた情景が事実であったと証明している。
「気になるんならもっかい握手してみます?」
「む、そうか、ならば――」
「あ、あ、ちょっと駄目です、駄目ですってば! わたしの技量じゃこんな短時間でくっつけるだなんて――ああ!?」
桜大と握手した瞬間、めりめりという音と共にくっつきかけた手首が、肉が、骨が、筋肉が、血管が断裂する。ぶしゅう、と吹き出す血液。
うおっ……!? と桜大が素の声音で驚愕の言葉を漏らす。
「ああもう! なんでこうニールさんは両親から貰った体を大事にしないんですか! 剣士だからだとかそういう意味じゃなくて色々粗末に扱い過ぎですよ、そろそろ本気で反省してください!」
再び祈りを捧げ治癒の奇跡を発動する。
今度は先程のように失血死の危険がないからなのか、ゆっくりと祈りを捧げ、ゆっくりと傷を癒やしていく。
「……これは、いや、しかし」
その様子を――切り裂かれた腕が燐光に包まれ、ゆっくりと修復されていく情景を見て桜大は驚愕と困惑の声を漏らす。
「右手だけじゃ仕込み臭い、ってんなら四肢のどこでも同じこと出来るっすよ。……ああ、けどさすがに首は勘弁。ノーラの腕前じゃたぶん、繋ぐ前に俺死ぬんで」
なんなら自分で斬り落とします? と言ってイカロスを手渡そうとしたら、ノーラに「いい加減にしてくださいッ!」と怒鳴られた。
なんだろう、未だかつて無い勢いでノーラに怒鳴りつけられている気がする。
(まあ、自分でやっといてなんだが、ノーラが……つーか神官なら怒って当然だろうしな、これ)
けれど、腕を切り落とした代償として十分過ぎるほどの成果を得た。
現地の人間に現実感を与えつつ、非日常を突きつけることに成功したのだ。
(――カルナ自身が疑られてる状況だったしな、だからこそ魔法は逆に嘘くさく見えたワケだ)
それはあまりに現実感がない状況であったから。
実感出来ない良く分からないモノを前にして即座に信じるワケにはいかなかった。詐欺師かもしれないと疑っている相手なのだから、なおさらだ。
なぜなら、連翹も茉莉もニールたちを信じてしまっているから。もし相手が本当に詐欺師の類であったのなら、最後に桜大を丸め込んでしまえばやりたい放題出来てしまう。
ゆえに、簡単に信じるワケにはいかない。
相手が善人であれ悪人であれ、疑って疑って疑らなければならないのだ。
だからこそ血を見せ、右手を繋ぐところを見せた。
どれだけ平和な世界だと言っても、まさか人間の血を一度も見ていないなどということはないだろう。多量の流血は現実的な危機として実感出来るだろう。
こちらの世界には神官の奇跡が存在しない以上、四肢の切断は問答無用の大怪我だ。こちらの医療技術とやらがどこまで発達しているのかは分からないが、今まで戦った転移者たちの反応を見れば、どれだけ低く見積もっても軽い怪我ではないことくらいは分かる。
だが、目の前で腕を切り落として奇跡で繋ぐ程度では信じて貰えないかもしれない。カルナの魔法のように、手品などと言われる可能性があった。
だから握手をし、斬り落としたのが本物の腕であると触覚で信じさせ、目の前で斬り落としたのだ。
触感が、ニールの右手の重みが、そして漂う血の臭いもある以上、これが桜大を騙す嘘だとは思えないはず。
「……ねえ、ニール。二つくらい言いたいことがあるの」
何かに気づいたノーラが「ああ!?」と慌てて風呂場から退出して行く最中に、連翹が憮然とした物言いで問いかけた。
ノーラの行動が気になったが、憮然とした顔でこちらを見つめる連翹から視線を逸らせない。
「まず一つ、今日のお風呂どうするつもり?」
びしり、と。
ごぽごぽとニールの血液を排水していくバスタブを指差した。
「あ? ……洗い流せば良いんじゃねえの?」
「こんな血の臭いプンプンのお風呂とか御免なんだけど! エリザベート・バートリーとかじゃないのよあたしたち!」
――なるほど、確かに。
連翹が水が出る縄のようなモノ――ホースと呼ぶらしい――で風呂場の血液を洗い流し出したが、しかし充満した血液の臭いだけは消せない。
一応、換気扇という空気を入れ替える仕組みはあるらしいが――
「換気扇つけたらご近所さんから通報不可避なのよね、風呂場で死体の解体でもしたのかって話よコレ。ほんのちょっと窓とか空けて消臭剤とか使えば、まあワンチャンあるかしら……? けど、あたしなんで久々に帰った自宅で死体処理してる殺人鬼みたいなことやってんだろ……」
「……あー、すまん。そこまで考えてなかった。……臭い篭ったらまずいんなら、庭でやりゃ良かったか?」
「それもう完全通報案件だからぁ! 右腕切り落とす姿をご近所に公開とか、炎上系Y○uTuberだってやらないわよッ! ……とまあ、それはいいわ。ううん、よくはないし今日のお風呂どうしようって思うけど、それはまあ後回し」
一番重要なのはね、と。
連翹はそっと、脱衣所の床を――いいや、そこに存在しているモノを指差した。
ニールは訝しみながらもそちらに視線を向け――
「お母さん、気絶しちゃったんだけど」
――なんということでしょう、そこには口から泡吹き、ノーラに介抱されている片桐茉莉さんの姿が!
「ちょ、茉莉さーん!? え!? つーかちょっと待ってくれよ! 女って毎月血ぃ見てんじゃねえか! セーフじゃねえのこのくらい!?」
「ねえニール、流れるようにシモネタに繋げないで欲しいんだけど」
「違ぇよ、女の方が血に耐性あんだろって話だ! 蔑むような目で見んじゃねよ!」
「何事にも限度というモノがあるわこの馬鹿者がぁ! 私とて気を張っていなかったら同じように気絶していた……ッ! ええい、とりあえずお前は運ぶのを手伝え! 連翹、お前はリビングに布団を持って来い! 場所は前と変わっとらん!」
お前は腰の方を持て、とテキパキと指示されたので言うとおりに動く。
正直、女一人程度なら片手で担げるが――さすがにそこまで信用されていないだろう。
桜大の指示に従い、腰を支えるように持ち――
(あ、ふとももとか尻とか超やわい……)
――衣服越しに伝わる感触を思わず堪能してしまう。
連翹より若干肉がついているが、男目線ではそこまで太っている感じはしない。むしろ、僅かに油断した体の柔らかさは、中々素晴らしい――
「……ほう、本当にいい度胸だなお前は」
――びきびき、と。
額に血管を浮かび上がらせた桜大がニールを睨んでいた。
当然だ、ニールだって桜大の立場だったらキレる。超キレる。
「……す、すんません、つい連翹と比べちまって」
連翹はもっとほっそりとしているというか、年相応の張りがあるというか、胸はさほど大きくはないが尻とかふとももとかはちゃんと肉ついててさわり心地が良かったなというか。
「――その話は後でじっくり聞こう。逃さんぞ」
あれ、連翹についての話も桜大にとって完全にアウトじゃねえか? そう思ったが、もはや後の祭り。
墓穴を掘るどころか掘るためのショベルで脳天を叩き割るレベルの自殺っぷり晒してしまった。
しまった、どうしよう、この窮地をどうやって切り抜けようか――
「お父さん、あたしこいつにスカートめくりとかされたことがありまーす」
――ざくり、と連翹から裏切りの一撃が叩き込まれる。
「……小学生だって今時はせんぞお前」
怒りよりも呆れの方が強くなった、と言いたげな視線を向けられるが、なにも反論出来ない。
ちらり、とこちらを眺めているカルナとノーラに目線で助けを求める。やばいやばいやばい、これ一人じゃどうにもならねえぞ――と。
「いや、僕にフォロー求められてもね。正直、僕が桜大さんと話して現状が改善する未来が全く見えないし」
自分じゃあ力になれないよ――などと言いながら『安全圏から阿呆っぷりを叱られている姿を見るの超楽しいです』という感情を隠すこと無く表情に浮かべていた。この畜生め。
カルナは頼りにならない。なら、この場で一番なんとかしてくれそうなノーラなら――
「ニールさんは一度レンちゃんの親御さんに怒られた方がいいと思っていたので、これは良い機会だと思いますよ」
だから安心して色々叱られて来てくださいね、と満面の笑みで言い放つ。
味方が皆無であるという事実にニールは絶望した。
どうしてこんなことになったのだろう、ニールは時々連翹にセクハラめいたことをしたり、先程の茉莉でつい魔が差したり、その程度のことしかしてないではないか――!
(あ、やっべえ、まったく言い訳できねえ自業自得っぷりだこれぇ――!?)
全くこの程度ではなかった。
思い返すとけっこう色々積み重ねていた、どうしよう。
日頃の行い、ここに極まれり。旅で積み重ねたのは戦闘経験や思い出だけではなかったというワケだ。
――少し前に連翹との旅に恥ずべきことはない、などと思ったが。
実のところ、けっこう恥だらけだったのではないだろうか? 無言で怒りのオーラを発する桜大の背中を追いながら、ニールはそのようなことを考えるのであった。




