242/自動車
――ニールは異世界という言葉の意味を、理解しようとは努めていた。
連翹の言う世界がどのような場所なのか、どんな形をしているのか、足りない頭なりに想像していたのだ。
幸い、材料はあった。レゾン・デイトルの町並みを小奇麗にしたモノが転移者たちが住む世界の町なのだろう、と。
その想像は決して外れてはいなかった。
こちらの世界に転移してすぐに窓から覗いた町並みは想像よりも乱雑でありながらも整っていた。偏執的にまで空き地を潰して家屋を建てていることに驚きはしたが、予測の延長線上だったのだ。
だが――
「……こいつは予想外だったな」
さあ乗って乗って――茉莉にそう言われ、車輪の付いた箱に押し込まれて数分。ニールは溜息と共に呟いた。ニールと同じように後部座席に座るカルナとノーラも、リアクションの大きさに差はあれど似たようなモノだ。違うのは、運転席に座る茉莉と、助手席に座っている連翹だけだ。
重低音を響かせながら舗装された道を走るそれは、どうやら自動車というらしい。茉莉が下部にある板を軽く踏みつけると、馬車などよりずっと速く、揺れずに地面を走り抜ける。
それだけなら、まだ良い。非常に便利で珍しい道具が異世界には存在するというだけだ。感心はするが、そこまで驚きはしない。
ニールの予測を大きく上回ったのは、そんな道具が量産されているということ。
茉莉が運転する自動車の前後、そして隣の道――車線と呼ぶらしい――に何台も何台も存在し、多種多様な人間がそれを操っている。
無論、道を歩いている人間や、二輪の乗り物を操る人間も居る以上、この国に居る全ての者がこれを扱えるワケではないのだろう。きっとそれなりに高価なのだろうな、と思う。
そう、あくまでそれなりに。
それはつまり、大金持ちで無くとも頑張れば手が届く範囲の存在であるということ――その事実に、ニールは驚いた。
「こんな場所じゃ買える服も限られてるし、遠出しましょうか。晩御飯の準備をしないといけないから、いきなり東京近辺――こっちの首都には行けないんだけどね。ごめんなさいね」
先程まで青い光を放っていた物体が黄色、赤とその色合いを変えると、茉莉は静かに車の動きを停止した。車の前を、人間たちが待っていたとばかりに横断して行くのが見える。
「……いや、俺らは土地勘ねえんで、案内してくれて助かってます。……つーか、ここらって『こんな場所』って呼ばれる程度の場所なんすね」
「そうねぇ。地元を悪く言うつもりはないし、普段の買い物に困るほど田舎じゃないんだけど……でも、若い子のお洋服を買ったりするにはちょっとねぇ……」
近所のスーパーは卵の安売りが多くて助かるんだけど――という言葉に立ち上がりかけ、カルナに肩を押さえつけられる。
「中学校時代、帰り道にあるコンビニで立ち読みするくらいが外での楽しみだったしねー。少し足を伸ばせば古本のチェーン店はあったけど、新刊売ってるような店はイ○ンの中にあるちっちゃい場所しかなくて、結局密林様に頼ってたわ」
「ええそう。連翹、どんどん頼む癖に自分じゃ片付けないから、ダンボールを回収に出すの毎回大仕事だったのよねぇ。ちゃんと潰して纏めておいて、って言っても後でやるからって言って、結局やらないのよね」
「う……ご、ごめんなさい」
「いいのいいの、今となってはいい思い出よ」
視線の先で赤い光が途絶え、代わりに青い光が点灯する。茉莉は再び板を足で押さえつけ、車は独特な音を鳴らしながら前進する。
「僕としては密林様って言葉に興味があるんだけど、それは一体どういうモノなんだい? まさか、こんな町中から密林まで行くワケじゃないだろうし」
カルナが窓の外を興味深そうに眺めながら言う。
その仕草はお上りさんそのものであったが、しかしそれを止めることはニールにもノーラにも出来ない。カルナほど露骨ではないが、二人とも流れていく風景が新鮮で、ついつい窓の外に視線を向けてしまう。
その様子が子供っぽかったのか、あるいはカルナの質問がおかしかったのか、はたまたその両方か――茉莉はくすりと小さく笑った。
「ああ、ごめんなさい。実のところ色々半信半疑な部分はあったんだけど、本当に何も知らないんだなって思って」
「密林っていうのは通販――ととっ、家に居ながらでも好きに商品を注文できるお店よ。頼んだら家まで届けてくれるの。あたしはそれで本とかゲームとかを良く買ってたわ」
「――なにそれ凄く羨ましい。自室で魔法の研究しながら新しい参考資料を買えるとかここは楽園かな?」
「ほんとほんと、密林さまさまってワケ。けど、これがあんまり便利なもんで普通の本屋さんがけっこう潰れちゃってるのよね。近所の本屋さんも転移前に潰れてたし――ねえお母さん、あそこって今どうなってるの?」
「ああ、あそこ? 連翹が出てってから少ししてコンビニになってたわよ」
「え、そうなの? ……コンビニは便利だけどコンビニばっかになっちゃうのもねー」
談笑しながらも車は目的地へとひた走る。
別に、物凄く速いというワケではない。実際、ニールが全力で走れば抜き去ることも不可能ではないだろう。
だが、ニールにはこの人数を運びながら同じ速度で走ることは出来ない。
何より、この自動車という乗り物はまだ本気を出していない気がした。
信号機や道から現れる歩行者のせいでそこまで速度を出せてはいないだけで、邪魔者の居ない直線であったのならもっと速度が出るのだろうか。
繁栄した町に、優れた技術。
それに感嘆すると同時に、異世界に憧れる転移者の気持ちが少しだけ理解出来た。
(――だいぶ走ったってのに、ずっとずっと人里だ)
空き地らしき場所はあったが、地面には土地の所有者を示す看板が突き刺さっている。建物が建っている場所もそうでない場所も、全て誰かの所有物なのだろう。
見渡す限りの場所に誰かの手垢が付いているのだ。
ここには冒険者という職はきっと必要とされていないように思えた。
見渡す限りが町である以上モンスターと戦う機会は無く、それどころか獰猛な動物と戦う機会もあるまい。
剣一本で成り上がる――そのような余地が皆無。だからこそ、町での暮らしに馴染めなければドロップアウトする他ないのだ。
(町から離れて山で暮らせ、とはさすがに言えねえしな)
ニールとて一つの町を拠点とする冒険者である。休日はそこで食事をし、遊び歩いたりもする。町が齎す恩恵を享受しているのだ。
それを突然、冒険者は人工ダンジョン内に篭ってモンスターを狩り続けていろなどと言われても困る。
そしてそれは、きっと転移者とて同じなのだろう。
いいや、戦う術を持っていないのだから、ニールなどよりもずっと選択肢は狭い。
だからこそ求めた、未だ未知が残る世界を――剣一振りで成り上がることが出来る異世界を。
「……その結果がアレじゃあ同情する気にもならねえがな」
「どうかしましたか、ニールさん? さっきから黙ってますけど」
「いや、悪い。なんでもねえよ」
訝しげに問いかけるノーラに心配すんなと首を振る。
そうだ、ある程度内面を理解したところで、暴れまわる転移者どもを許してやる気にはならない。
どんな理由があれど、嫌われるような真似をした者を、憎まれるような真似をした者を許してやる義理はない。
ディミルゴが言っていたように、彼らは元の世界に馴染めなかった癖にニールたちの世界に馴染もうとしなかったのだ。嫌われて排斥され、憎まれ剪定されて当然と言えよう。
「グラジオラスくん、もしかして酔っちゃったのかしら? もうそろそろ着くけど大丈夫? 車停めましょうか?」
「いや、酔いとかは全然問題ないっすよ。ただ、色々物珍しくて考え込んじまって」
「考え込むぅ? どうしたのよニール、熱でもあんの? それとも考えすぎて知恵熱出てるの? 鶏が先なのか卵が先なのかって命題に近いモノがあるわねこれ」
「珍しい自覚はあんが、考え込んだだけで病気疑われるのはさすがに心外だぞお前ぇ!」
「いひゃ、いひゃいいひゃいいひゃい! おはあひゃん! ひーふが! ひーふがいひめふ――!」
「はいはい、連翹もグラジオラスくんも運転中は暴れないでねー」
背後から両頬を引っ張られながら助けを求める連翹を、茉莉は微笑みながら受け流しながら巨大な建物の中に車を侵入させる。
そこは鉄とコンクリートで建造された骨組みのような建物だ。壁はほとんど存在せず、住居としての役割は果たせそうにない。
そんな奇妙な建物の入り口で、茉莉が機材から出てくる紙を受け取ると、入り口を塞いでいた棒が移動し車を招き入れる。
内部には複数の自動車が停まっているのが見えた。どうやらここは自動車を止めるための建物らしい。
茉莉は白い枠内に自動車を停めると、車から絶えず響いていた重低音の元を停止させた。
「よし、っと。駅前でも平日のお昼前ならそれなりに空いてて停めやすいわね。あんまり運転は得意じゃないから、びっちり車が停まってたら擦っちゃいそうで怖いのよね」
あはは、と笑いながら茉莉は扉を開き、連翹もまたそれに続く。
「……っと、こうだな」
その二人の様子を見ながら、ドアノブらしきモノを引いて扉を開け、反対側のノーラも同じようにして外に出た。
ふう、と大きく息を吐く。
特別疲れることはしていない上に馬車よりずっと快適だというのに、ずっと座っているとそれはそれで疲れると思ってしまう。人間、なんだかんだで不満を抱いてしまう生き物なのかもしれない。
「お疲れ様。大丈夫? 気分悪くしてないかしら」
「いや、俺らは全然問題ねえっすよ。つーか、すんません、俺らだけ楽しちまって」
「はい、ありがとうございます茉莉さん」
「いいのいいの、わたしも時々運転しないと車に乗れなくなりそうだとは思ってたから。使わない技術はすぐに錆びついちゃうのよねー」
茉莉は微笑みながら気にするなと言うように首を振る。
ちなみに――最初、連翹は「急ぐワケでもないし電車使いましょ。のんびり歩けばすぐよ」などと言っていたのだが、それにダメ出しをして自動車を走らせたのが茉莉だった。
彼女が言うには、「服を応急処置しているだけだし、あんまり外を歩くのもね。それに、たぶん駅で皆戸惑うから、こっちの方がいいと思うの」とのことだ。
道中、走る電車とやらを見かけたが――なるほど、確かになと思った。駅で戸惑うという話はまだ分からないが、あんな大勢の人間が乗っている乗り物にお登り三人組が入れば否が応でも目立ってしまっただろう。
(それに、窓越しに見ただけだが、それなりに学べたしな)
旅の恥はかき捨てとは言うものの、だからといって恥をかきたいワケではない。
それに、自分たちならまだしも連翹や茉莉に恥をかかせたくはないのだ。
転移者たちもあれで苦労してたんだな、と伸びをしながら考えていると、連翹がじっとこちらを見つめていることに気がつく。
「どうした連翹、こっちの常識的にまずいことでもやっちまったか?」
「ううん、今んとこは別に。そうじゃなくて、なんかニールの敬語って珍しくて新鮮だなー、って。ものすごーく砕けちゃって別物感満載だけど」
「……俺だってなんか違うなとは思ってんだが、やっぱ違うか?」
「うん、下っ端のチンピラがボスに対して使う言葉みたい」
そう言ってコロコロ笑う連翹を睨む。
戦友のように一緒に戦う戦士や気心の知れた相手ならばともかく、普通の目上の相手になら敬語くらいは使う。
もっとも、慣れていないので酷く雑になってしまっているが、こればかりは一朝一夕で身につくモノではないだろう。
「いいのいいの、そんなに堅苦しい場でもないんだし。あ、でもお父さんが帰ってきたらもうちょっと頑張って欲しいわね。あの人、そこら辺うるさいんだから」
「ぜ、善処します……」
思いっきり顔が引きつるのが自分でも分かった。
正直、かなり自信がない。
冒険者なんだし多少礼儀作法が駄目でも良いだろ、とか。
相手だって冒険者なんぞそんなモノだって思っているだろ、とか。
そんな言い訳をして、まともに学ばなかったツケを支払う時が来たようだ。
ぐうう、と唸るニールの横顔を微笑ましそうに見つめていた茉莉は、「あっ」と何かに気づいたように声を上げた。
「そういえばカンパニュラくんはどうしたの? まだ車から降りてないみたいだけど……体調でも悪くした?」
「……そういえば、さっきから全然喋っていませんでしたね」
具体的に言えば密林云々の話ぐらいからずっと沈黙を保っている。
もしかしたら本当に気分を悪くしたのだろうか。確かに自動車は快適だったものの、独特の臭いと初めて感じるタイプの揺れに吐気を催したとしても不思議ではあるまい。
茉莉が心配そうな表情を浮かべ自動車を除き込み、ニールたちも背後から様子を伺うと――
「……火と風を感じる――つまりは爆発か? それが常に発動し続けているような……それでどうしてこんな鉄の塊が動くんだ? 熱……いや、爆風で何かを回している? だとしてもそれをどうやって制御――」
――なんか凄まじい速度で文字を書き連ねるカルナの姿があった。
それはもう凄い勢いで。この動きを止めたら死ぬぞと言わんばかりの腕と指の動きで白かったページを一瞬で真っ黒に染め上げていく。
あら……、と驚き半分呆れ半分の声を漏らす茉莉の横から身を乗り出したノーラは、カルナの魔導書をむんずっと掴み奪い去る。
「はーい、カルナさーん、没収しますねー」
「そんな、無体な!」
「無体じゃありません。ほら、皆もう外に出てるんですからカルナさんもちゃんと動いてください。色々気になるのは分かりますけど、それはもっと後にしましょう。茉莉さんだって待っているんですから」
その言葉に渋々と自動車から降りて来るカルナ。言われていることは正論だと思いつつ、それはそれとしてここに留まって延々と考察を続けたいのだろう。
もっとも、そんなことをするのはここまで運転してくれた茉莉に失礼だと理解しているのだろう、すぐさま上っ面を取り繕って頭を下げた。
「……ところで茉莉さん、これってどういう仕組で動いているのかって分かります?」
下げた、のだけれど――色々諦めきれていないのかそんな質問を投げかける。
その姿を見てニールは思わず苦笑してしまう。冷静になって考えれば普通の主婦である茉莉が複雑な道具の構造を説明出来るはずもないと分かるだろうに、思った以上に物珍しさにテンションが上がっているらしい。
「えっ、ええー、いや、それをわたしに聞かれても……あっ、そうだ、ちょっと待ってね」
困惑していた茉莉は、閃いたとでも言うようにカバンから小さな板を取り出した。
黒色の板の周りを金属光沢のある銀で囲ったモノだ。リンゴの絵が刻まれたそれに何の意味があるのかと疑問を抱いたが、すぐにそれは氷解する。
「……板が光った?」
正確には、先程まで黒一色だった部分に突如として発光と共に猫の絵が浮かび上がったのだ。
茉莉は慣れた動作でそれを操作し、浮かび上がった複数の四角形――その一つを指で触る。
すると、即座に板の絵が切り替わる。複数の四角形の絵が並んだ場所から、デフォルメされた猫たちが庭の遊具で遊んだり、一回り大きな猫が餌をたらふく食ったぞと言いたげな顔を晒している絵に――
「あ、ごめん、違ったわこれ。ついいつもの癖で」
「ねっ、ねこ○つめって……あたしが異世界行く前からやってなかった? さすがに飽きてこない……?」
「最近はもう習慣になっちゃってね。けど、けっこうやってるのに忍者のねこさんの写真が撮れないのよねぇ、もう宝物貰っちゃってるのに一度も姿が見れてないのよ」
一体いつ来てるのかしら……、などと言いながら猫たちの絵を切り替えて別の絵を浮かび上がらせる。
(……ん? これは――)
白い背景に文字や絵が置いてあるそれを見て、ニールはディミルゴが見せた『作家になろう』を連想した。
無論、デザインは全くの別物だ。中央にG○ogleという文字が存在し、その下部には灰色の線で区切られた楕円形と虫眼鏡らしきマークが存在している。
茉莉は楕円形の内側に指を載せる。瞬間、ずらりと並ぶ『ねこ○つめ レア猫』『ねこ○つめ しのぶさん』『ねこ○つめ しのぶさん 会えない』という文字に、連翹が生暖かい視線を茉莉に向けた。
「……こほんっ、と、とりあえず調べてみるから――あ、良かったすぐに出て」
それが恥ずかしかったのか、わざとらしく咳をしながら指を動かす茉莉。だが、すぐにその表情に安堵の色を浮かべる。
「どうぞ、カンパニュラくん」
「ええっと、どうも……?」
「ああ、そっか。スマホの使い方が分からないのね。ええっと、こう、指ですいー、ってスライドするの」
困惑するカルナの横から文字や絵が浮かび上がった板――スマホというらしい――に指を押し付け、上下に滑らせるように動かした。
すると、するすると絵と文字がスライドして行く。
その結果、出てきたのは車を動かすための道具――ディーゼルエンジンと呼ばれるモノを説明している文章だ。
「……要するに窓みてぇなモンか?」
背後から覗き込みながら、ぼんやりと呟く。
家屋の窓から外を眺めるように表示された文字を読み、必要に応じてその位置をズラしている――そんなイメージ。長い説明文を手のひらサイズで読むための工夫なのだろう。
「あ、動画もあるのね……それはまた後でね。Wi-Fi繋がってない場所だもの、ここ」
赤い四角の真ん中に右向きの白い矢印がついている部分は触らないでと言う茉莉に、カルナはどこか上の空な様子で頷く。
「……凄いな、こんなにすぐ情報が出てくるんだ。よし、帰る時はこれを買えば――」
「ごめんねカンパニュラくん、それってインターネットっていう仕組みが必須だから、たぶんあっちに持って帰っても使えないのよ」
「ならそのインターネットとやらも買うしかないね……!」
「カルナが家電量販店で「インターネットください」って言うお爺さんみたいになってる……」
呆れたように笑う連翹を見る限り、インターネットを購入するという物言いは酷く間抜けな物言いだということは理解出来る。
だが、ニールたちにはそれがどうおかしいのか理解出来ない。
この世界に住まう者なら常識レベルのことなのだろうが、そもそもその常識の外で暮らしてきたニールたちにはそれがどう間違っているのかさえ理解出来ていないのだ。
(……ああ、だから真っ当に馴染もうとする転移者にも規格外は必要不可欠だったんだな)
ディミルゴも言っていたことだが、自分が似たような立場になってようやく実感できた。
突然現れた常識知らずがその世界で順応するというのは、並大抵の努力では実現不可能なことだ。
感じ方が違う、考え方が違う、常識が違う――そんな世界で剣無しで日銭を稼ぐなど、ニールにはどうすれば良いのか分からない。
だからこそ、杖が必要だった。
新たな世界で常識を学びながらゆっくりと歩くために、学ぶ前に死んでしまわないように。
ニールは最初にその理屈を聞いた時、随分と甘いんだなと思ったが――いざ、自分が転移者の世界に来て実感する。
なるほど、こんな場所になんの予備知識も力も無しに放り込まれて、まともに生きていける自信はないな、と。
「はい、とりあえず後で見せてあげるからこれでおしまいにしましょうね」
世界の差を実感している最中、エンジンの説明を熟読し始めたカルナから茉莉はスマホとやらを奪い去る。
「いや茉莉さん、このサイズなら歩きながらでも十分読める――」
「歩きスマホは危ないから駄目。特にカンパニュラくん背が高いんだから、気をつけないと誰かの足踏んづけちゃうわよ」
女の子にぶつかったらカンパニュラくんは大丈夫でも相手が怪我するわ、と。
そう言って茉莉はスマホを片手で握りしめながらにこりと笑う。
「それに、スマホなんて帰ってからでも使えるからね。とりあえず今は服とかを買い揃えないと」
そう言ってスマホの表面をまた黒色に戻し、カバンに戻す――その瞬間、微かな振動と共にスマホがうっすらと発光した。
『片桐桜大
二十時までには必ず帰る。それまで用心しろ』
茉莉は一瞬その文字を目で追った後、柔らかく微笑んでカバンの中にしまうのだった




