241/片桐茉莉
――部屋の前で待つこと、おおよそ十分ほど。
ニールたちは一階のリビングへと案内されていた。
真冬だというのに温かい部屋で、天井の隅辺りに設置されている白い器具が暖かな空気を放っている。部屋の中央近くに設置されたテーブルは木製で驚くべき部分はないが、座った場所からよく見えるように大きな黒い板が設置されている。連翹の部屋の机にも置いてあったような気がするが、あれはなんなのだろう。
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに大したおもてなしも出来なくて」
周囲をきょろきょろと見渡している途中。
かちゃり、と目の前にカップが置きながら女は――連翹の母は微笑んだ。
その瞳が微かに赤いことは指摘しない。どんなことを話していたのか、問うことも。
「ああいえ、僕らが急に来てしまったので」
「ご、ごめんなさい、連絡も無しにいきなり……」
「いいのよ、ええっと……ホワイトスターさんだったかしら?」
頭を下げるカルナとノーラの姿に、「気にしないで」と首を左右に振る。
ニールはそんな中、連翹の母の顔を見つめていた。
細身の体に黒い髪。眠たげな瞳と柔らかい雰囲気のせいか初見では判別出来なかったが、こうしてじっくりと見てみると連翹に良く似ている。
一度そう思うと、彼女の姿と連翹の姿がダブる。脳内で人妻となった連翹の姿が浮かび上がり、なんだか酷く落ち着かない。
「……? ああ、ごめんなさい。もう大丈夫なの」
そんな風にじっと見つめていたためだろうか、彼女は不思議そうに小首を傾げ――得心が行ったとばかりに瞳を拭う。涙の痕を見ていると思われたのだろうか。
そんな仕草が、連翹に似ているのに彼女とは別の色香を有する連翹の母を、ニールは「ああ、いえ、別に、そういうワケじゃなくて――」としどろもどろに言葉を紡ぎ――
「ふんっ」
「がっ……!?」
――瞬間、隣の席から放たれた肘が脇腹に突き刺さる。
幸い鎧に阻まれて大したダメージはなかったが、不意の一撃に体が傾ぐ。
「人の母親の顔なにじっと見てるワケ? あれなの? 人妻フェチとかそういうのなの?」
「……いや、別にそういうのじゃねえよ」
まさか母親と連翹を重ねてみてた、などと言えるはずもない。視線を外して小さく呟く。
そんな様子を見て、連翹の母はくすりと笑った。楽しそうに笑う顔がまた連翹とよく似ていて、どきりとしてしまう。
「色々言いたいこと、聞きたいことはあるけど……それでも元気そうで良かったわ」
花のように微笑む彼女の姿に、連翹の部屋の前で呟いた言葉のように乾いた響きはない。
心底嬉しそうに連翹を、そして連翹が絡むニールたちを見つめている。
その姿を見て、連翹は後ろめたそうに顔を背けかけて――真っ直ぐ母の顔を見つめた後、頭を下げた。
「さっきも言ったけど――ごめんなさい、お母さん。何も言わずに出ていって」
「そんなことはどうでもいい――とまでは言えないけど、今はいいの。帰って来てくれた、それだけで」
その言葉に、連翹は微かに顔を歪める。
悩んでいるのだろう――今までのことをどう話すべきか、話した後にどうするべきか。
元の世界に戻ってどのような行動をしようとも、最後に与えられるのは無慈悲な二択だ。
即ち、ここに残るか、否か。
「それで――ええっと、グラジオラスさんたちは、娘のコスプレ友達ということで良いのかしら? ……というか、その格好でここまで歩いてきたの……?」
連翹の母は、ノーラの篭手、ニールの鎧と剣、カルナのローブや鉄咆を順番に見てから訝しげに問うた。
だが、コスプレとはそもそも何なのか。
言葉の意味は理解できないが、彼女から見て珍妙な格好だと思われているということだけは理解出来た。
「確かに鉄咆は珍しいかもしれないけど……何か奇妙な点でも? ええっと――」
「ああ、ごめんなさい、自己紹介もしないで……茉莉、片桐茉莉よ。娘がお世話になっているみたいね」
そう言って連翹の母は――片桐茉莉はぺこりと頭を下げた。
その様子を見ながら連翹は「あー……」と忘れていたと言うように顔を覆う。そうだった、忘れていた――そんな風に。
「……まあ、確かに。こっちでこの格好とかないわね。篭手を外せばギリギリノーラが外歩けるって感じかしら」
「いや、別に俺らは特別奇抜な格好してるワケじゃねえだろ?」
連翹の物言いに、思わず反論する。
ニールは冒険者の剣士らしい装備だし、特別華美な装飾をしているワケではない。霊樹の剣は珍しいだろうが、鞘に収めている以上は普通の剣と変わらないだろう。
カルナも彼自身が言った通り、確かに鉄咆を腰に吊るした姿は珍しいかもしれないが、それ以外は魔法使いらしいローブを着ているだけだ。地味なローブはむしろ目立たないと言って良いくらいだろう。
だというのに連翹は、なんと言ったものか、と唸り声を上げる。
「……あたしのセーラー服が、鎧部分さえ外せばこっちじゃ特別珍しいモノじゃない――そう言えば理解出来る? というか剣とか鉄砲とか完全にアウトよアウト、その格好で街を歩いたら警察――あー、兵士とか自警団みたいな人たちに捕まっちゃう」
ああ、とニールは納得が行ったと頷いた。
確かに連翹のセーラー服は奇妙な衣装だ。水夫服にスカートを掛け合わせるなど、ニールたちの大陸では誰もやっていない。
だが、こちら側ではそれが普通だとしたら――逆に、ニールたちの衣服が奇妙に見えるということ。
日向人の着物とやらも、初めて見た時は良く分からない衣装だなと思ったが――今この瞬間、茉莉の目にはニールたちの姿が転移者や日向人のように見えているのだろう。
「ねえ連翹。そういえばグラジオラスさんたちはどこの国の人なの? ヨーロッパのどこかかしら? わたし、あまり地理には詳しくないのよね……」
つーか剣がアウトってどういうことだよ、モンスターとかに襲われたらどうするんだ――そんなことを思っていると、茉莉が連翹に小さな声で問いかけるのが聞こえてきた。
彼女が言うヨーロッパがどういう国なのかは分からないが、しかし分かったことが一つ。
やはり、転移者たちが居る世界ではニールたちの世界は知られていないということ。
そもそも、アルストロメリア女王国の存在を知っているのなら、ニールたちの格好を見て奇抜だとは思わないはずだ。
「――ああ、その説明をどうすればいいのかなー、って悩んでるのよね」
なんて言ったらいいのかしら――と、唸る連翹を見て、ニールは訝しげに表情を歪める。
「どうすればいいも何も、とっとと言っちまえばいいじゃねえか。異世界から来たって」
「――えっ」
瞬間、茉莉が微かに、けれど確実に退いた。
表情に困惑を滲ませ、微かに視線を逸しながら彼女は上ずった声で問いかける。
「あー、その、そういう設定の集まり、ということでいいのかしら……? 確かに剣とか魔法使いのローブとか、とてもそれっぽいけど」
――なんだろう、思いっきり下手を打った気がする。
視線を左右に彷徨わせると、連翹が頭を抱えて唸り声を上げ、カルナが大きく溜息を吐いていた。唯一、ノーラだけがニールと同じようにどうしてそんな反応になっているのか分からず困惑している。
「あの、異世界とか規格外とか、こっちでは普通のことなんじゃないんですか?」
「ううーん……娘の部屋を掃除する時に、そういう本のタイトルとか見たりはするけど……」
「……その手の知識は一部の人間限定の常識だよ、ニール、ノーラさん。だからこそ、わざわざ取捨選択していたんだろう?」
その言葉でようやく思い出す。
元々、転移者はチートという単語を使っていなかったということ。
その後、ディミルゴが作家になろうというWEBサイトとやらを基点とし、異世界チートという単語に馴染みがある人間を集めたのだ。
ゆえに、そこから外れた者は。
今の世界に順応していて、作家になろうに馴染みのない者は転移者にはならない。どちらかの条件を満たしていれば転移者になる場合もあるのだろうが、少なくとも茉莉という女性は違うのだろう。
「……仮にお母さんがそっち系の話が大好きな人でも、初対面でいきなり異世界から来たってのはドン引きされるわよ。コスプレのやべー奴よ。だからどうやって話そうかって悩んでたんじゃない……」
「お、おう……悪いな」
恨みがましい眼差しを向けられ、思わず謝罪してしまう。
(……ああ、あっちで連翹が妙なことした時は、きっとこんな感じなワケだ)
ニールたちの世界の住民は異世界の意味を正しく理解はしていなかったが、その言葉と転移者という存在は認識していた。
だからこそ、異世界から来た――即ち、こちら側の住人にとっての転移者だ、と言ったのだ。そうすれば異世界という言葉の理解云々はともかく、言いたいことは通じるだろうと。
だが、結果はこの有様だ。
連翹はしばしの間、じっと悩みんでいたが、吹っ切れたと言うように力強く立ち上がる。
「あー、もう! こうなったら論より証拠ってヤツね! カルナ! なんか掌で収まる範囲で魔法使ってみて!」
「いや、構わないけど――それで証拠になるのかい?」
「なるの! それに、お母さんを見てよ」
びしっ、と母を指差す。
彼女の方に視線を向けてみれば、冷や汗を垂らしながら、それでいて優しい笑みを浮かべる茉莉の姿。
「……ええっと、いや、べ、別にいいのよ! いいんじゃないかしら、異世界。魔法とか、うん、いいんじゃないかしら。だから、そんな無理しなくてもいいの、分かってるから、ね? お母さんは連翹が帰ってきてくれただけでもう満足なんだから……」
「この反応見れば、魔法が使えるとか言う奴がどれだけヤベー奴扱いなのか分かるでしょ?」
「あー……うん、そうだね」
ははっ、と乾いた笑みを漏らすカルナ。
それも当然だろう。魔法とは強力な遠距離攻撃手段であり、そしてそれ以上に大陸の経済や物流を支える存在なのだから。
冒険者として活躍しても良いし、商人と契約して幌馬車に積んだ食品を冷蔵しても良い、蓄えた知識で子供に勉学を教える者も居る。
ゆえに、魔法が使えると言って喜ばれることはあれど、頭のおかしい人扱いされることなどありえない。
(――あいつ、ちょっと傷ついてんな)
ニールと出会った頃だって『偏屈だが優秀な魔法使い』扱いされていたというのに、ここでは『なんか変な格好をした狂人』だ。さすがにへこむだろう。
だが、カルナは大きく溜息を吐いた後、表情を引き締めて右手を突き出した。
「まあいい、なら実力を見せるだけさ。……室内で炎はまずいよね、氷でなんか大道芸みたいなことをするべきかな? レンさん、こっちじゃ氷の方がまずいとか、そういうのはあるかい?」
「突然椅子とか家電を凍らせたりしなければ氷で問題ないと思うわ。カルナ、炎の腕とかよく使ってるじゃない? あんな感じで、氷を使った細工みたいなのやってくれない?」
「漠然とした物言いだけど……うん、分かったよ。――『我が望むは風に舞う氷の蝶、ひらひらと舞い踊る氷華と成りて我が世界を彩れ』」
瞬間、微かな冷気がカルナから発せられる。
それに驚いたのか慌てて顔を覆った茉莉は、恐る恐ると様子を確認し――室内をひらひらと舞う氷の蝶を目撃した。
「……え、その、これは……?」
ゆっくりと羽ばたく蝶は、氷の糸で編まれたような造形であった。
雪の結晶をかけ合わせたような模様のそれは、しかし隙間だらけで飛べるはずがない――本来ならば。
だが、氷の蝶の下から吹く風が軽いその体をふわりと浮き上がらせているのだ。
ひらひらと飛翔する蝶は、部屋の温度で微かに溶け出していく。それが風に煽られ、鱗粉のように周囲に散布される。
その様子を呆然と見つめる茉莉の手の甲に、蝶が着地した。
「冷たい……」
その冷たさに、茉莉の意識はようやく戻ってきた。
その視線は手の甲に乗り、翅を見せつけるように微かに揺らす蝶に向けられている。
「……カルナさん、魔法の存在を教えるだけだったら、もっと簡単な魔法でも良かったんじゃないんですか?」
「せっかく披露するんだ、細工は凝った方が良いだろう? それに、魔法を見たことの無い人が初めて見るモノなんだ、半端なモノを見せるワケにはいかないだろう?」
パチン、とカルナが指を慣らすと氷の蝶は溶け落ちるでもなく消滅して行った。魔力が途切れ、氷としての実体を保てなくなったのだろう。
突然、夢幻が如く消え失せた蝶を前におろおろとする茉莉に歩み寄ると、優雅に一礼する。
「さて、どうだったかな僕の魔法は。即席にしては悪くなかったと思うのだけれど」
「――あの、その、本当に……?」
「無論――この大魔法使いカルナ・カンパニュラの魔法、楽しんで頂けて何よりだ」
優雅に微笑みながらも大を殊更に強調するその姿を見て、「ああ、やっぱり頭のおかしい人扱いされたの根に持ってやがるな」と確信する。近くで苦笑しているノーラも、同じことを考えているのだろう。
そんな中、連翹は茉莉へと歩み寄り、真っ直ぐに目を見て言い放つ。
この言葉に嘘偽りはないと、これは真実だと、真っ直ぐに伝えるために。
「お母さん、あたしはね……こういうことが出来る人たちが居る世界に行っていたの。自分一人で決めて、お母さんやお父さんに何も相談もせずに。もう一度言わせて――ごめんなさい、お母さん。こんなこと、異世界に行く前に考えて当然のことなのに……」
連翹――小さく呟いた茉莉は、しばし静かに連翹を見つめていた。
室内に静寂が訪れる。駆動する暖風を送り込む道具と、家の外で響く聞きなれない複数の重低音だけがニールの耳に届いた。
「――よしっ、それじゃあ出かけましょうか」
ぱちん、と。
胸の前で両手を合わせながら、茉莉は微笑んだ。
「え? ……いや、あの、お母さん? あたしが異世界に行ったっていうのは――」
「うん、さっきのも見たし、連翹が本気なのも伝わってきた――だから、とりあえずわたしは信じたわ。正直、ファンタジー? は魔法学校の本と映画くらいにしか分からないけど――うん、要は魔法使いの国から来た魔法使いのお友達ってことでしょう?」
「いや、ここに剣士も居る――」
「ニールさん、ややこしくなるので口を挟まないでおきましょう」
解せぬ――いや、理解は出来る。
先程までの会話を聞く限り、茉莉はニールが出会った転移者たちと比べて魔法や異世界についての知識に疎すぎる。
いや、もしかしたらこちらの世界では茉莉の方が正しいのかもしれないが――どちらにしろ、下手に色々と説明しても混乱するだけだろう。
ニールが魔法の仕組みを延々と説明されるのと一緒だ、そんなことされたら頭が破裂する自信がある。
(それはそれとして、剣士としてのプライドがなぁ……)
小さく溜息を吐きながらカルナの方に視線を向けたら、前髪を掻き上げながらドヤ顔を見せつけていた。この野郎、後で覚えていろ――と思ったが、ノーラに「何やってるんですかカルナさん、子供ですか」と半眼で睨まれているのを見て溜飲を下げる。
「それに、簡単には帰って来られない場所なんでしょう? なら、家でじっとしてるなんてもったいないわ。最初に服を買うとして――うん、それまでは男の子二人は上からお父さんのジャケット羽織って貰おうかしら。グラジオラスくんは鎧と剣を置いて、カンパニュラくんはローブを脱げば、最低限外を歩ける格好になるでしょうし」
楽しげに、娘の友人を持て成すように茉莉は微笑む。
その姿に緊張感などまるでなく、本当に異世界云々について理解しているのだろうか、そう思って連翹と会話する彼女の横顔を眺め――
「――」
――一瞬だけ、連翹が意識を逸した瞬間に寂しげな笑みを浮かべるのを目撃する。
すぐに柔らかな笑みによって上書きされたそれに、ニールは見覚えがあった。かつて、冒険者になるために実家を出た時に母が見せた表情に近いように思えたのだ。
「……でも、そうなるとお金下ろさないとね。四人分だし、どのくらい要るのかしら……?」
「ああ、大丈夫よお母さん。ほら、この財布見てこの財布。あっちの世界でこっちの軍資金はちゃんと用意してきたのよ」
「魔法って凄いわねぇ……あっ、もしかして後で葉っぱになったりするの? 店の人に迷惑かけるのなら、あまり使って欲しくないのだけど」
「葉っぱ云々の意味は分からないけど、それはともかくさすがに魔法でこれは無――あー……いえ、問題なく通貨として使えるはずですよ、茉莉さん」
色々説明しようとしてそれを強引に飲み込むカルナに、「あら、そうなの?」と微笑んでいる。先程見せた表情など、ニールの見間違いだったかのように。
だが、アレは見間違いなどではなかった。
ゆえに、これは――
(……俺らよりずっと長く連翹と過ごしていたんだ、当然か)
――連翹が戻ってきた理由と、思い悩む心。それをぼんやりとだが察している。
きっと茉莉は全てを理解しているワケではあるまい。異世界と転移者については現地人以下の理解であり、そんな彼女が神の力で転移したこと、連翹が決断すべきことなどを正確に察することが出来るとは到底思えない。
だが、茉莉は連翹の母だ。
異世界、転移、神、規格外――それらを理解出来ずとも、連翹の言動の違和感から答えにたどり着いている。
それでも何も言わないのは、「もうどこにも行かないで」と懇願しないのは、連翹がどちらを選んだとしても悔いの残らぬようにしたいからなのだろう。
もしもこの世界に残るつもりなら、ニールたちとはここでお別れだ。ゆえに、最後の思い出作りはしておいた方が良い。
もしもニールたちと共に転移するなら、この世界にはもう戻れない。ゆえに、最後の思い出造りはしておいた方が良い。
ニールたちとの思い出か、この世界と家族との思い出か、どちらを選ぶにせよ部屋に閉じこもっているよりは良いだろう。
そんな風に色々と考えていたからだろうか、ニールは無意識に茉莉の横顔をじっと見つめ――彼女もまた、それに気づいたようだ。
ニールの表情から何を考えているのかある程度察したのだろう、茉莉は「連翹には内緒よ」と言うように唇に人差し指を当ててみせるのであった。




