240/異世界転移
――異世界。そう言われても、ニールにはどうもピンと来なかった。
言葉の意味は理解できる。異なる世界、つまりはニールたちが居る大陸とは全く別の場所ということ。
だが、それがどういう場所なのか、どういった概念を想像しているのか、そう問われても答えられる自信がなかった。
ただただ漠然と、『転移者が大陸のことをそう呼んでいる』、『ならば、自分たちにとっての異世界とは転移者たちの世界である』としか。
こことは違う遠いどこか、という意味合いくらいにしか理解が及ばない。連翹の反応を見る限り、間違ってはいないが酷くズレた思考をしていると察したが、しかしどこがズレているのかが分からないのだ。
だから、ニールはこれからどこに行くのか、どの程度遠くまで行くのか、そういうことを全く理解出来ていなかった。
ゆえに、不安がないワケではないのだが――
「あたし――家に帰りたい。その後どうするかは……まだ、分からないけど」
――その言葉で腹は決まった。
どんな場所なのか、どの程度ここから離れているのか、正直それは理解できないが――好いた女の心からの願いだというのならば、それを否定する理由はない。
「なら、決まりだな――行き帰りは一人分の願いでいいのか? 片道にしか使えないってんなら、俺の願いを使ってくれ」
「これは褒美だ、出し渋ったりはせぬよ。ただ、一つだけ言っておこう」
連翹を見つめていたディミルゴの視線が、するりとカルナの方に向けられた。
「常に世界同士を行き来させて欲しい、などという願いは却下させて貰おうか。そう何度もあちらの世界の物品や知識を持ち込まれては困るからな」
「……駄目か。あわよくば、と思っていたのだけど」
ちいっ、とカルナが忌々しげに舌打ちをする。
カルナは信仰に厚い人間ではなかったが最低限敬っていたはずなのだが――先ほどの会話でそういった部分が消し飛んだのだろう、態度が随分と砕けている。
「残念ながらな。異世界の金を願いで手に入れた後、手当たり次第に気になったモノをこちらに運び込むつもりだっただろう、黒衣の銀龍よ」
「当然さ。転移者たちがどんな文化で過ごしているのかは分からないけれど、新たな魔法を開発するいい刺激になってくれそうだからね。金に糸目をつけなくていいのだから、そりゃあするとも」
当然だろう? と上っ面を最大限に取り繕った笑みを浮かべるカルナに、ディミルゴは「はは」と満足げな笑みを浮かべた。
「無論、当然だろうとも。夢に向かって邁進する以上、やれることは全てやるべきだ。努力して叶わぬことも多々とあるが、しかし何も成さずに努力を否定するのはただの怠慢だ。これからも励むが良い黒衣の銀龍、カルナ・カンパニュラよ」
「おっと、まさか肯定されるとは思わなかったな――無論、言われるまでもないさ」
もしかしたら、カルナとディミルゴは相性が良いのかもしれない。
目的のために手段を選ばないことはあるが、努力を怠らないカルナ。
手段はどうであれ、目的のために邁進する者を尊ぶディミルゴ。
ディミルゴ自身、対面した時に言っていた。
『正直に言えば、この四人の中で大成出来るのは黒衣の銀龍――カルナ・カンパニュラのみだと思っていた』
と。
才能を認め、努力を認め、だからこそ大勢するのだろうと認めていたのだ。
にい、と笑うカルナの横で、ノーラがおずおずと声を発した。
「あ、あのぉ……あまりカルナさんを焚き付けないで欲しいんですが。この人、思い込んだら全力で走り抜ける人なので」
「それをお前が言うか、祝福の乙女、ノーラ・ホワイトスターよ。そも、思い込んだら全力疾走などという言葉はお前にも突き刺さる言葉だと思うが」
「――え、あの、わたしですか!?」
「当然。お前は自分の実力を加味してから疾走しているつもりなのだろうが、時折実力を過信することがあるな。たった一人で女王都を目指した時然り、相手が素人だったとはいえ武器を持った複数の男を倒そうとした時然り、お前は『自分がやらなくては』と思った時に自身の実力を見誤ることが多い。その想いは間違いではないが、まずは自力を上げろ。転移者との戦いで活躍が出来たのはあくまで相性が良かっただけだと知るが良い」
「う……は、はい……」
自覚があるのか、俯きながら小さく返答する。
確かに旅慣れていない女の一人旅など拐ってくれと言っているようなモノだったし、後者に関しては初耳だが無謀極まりない。無論、ノーラもある程度の考えがあって戦いに挑んだのだろうが、彼女は武器で傷つけられるということが痛くて怖いという当たり前の事実を理解していなかったのだと思う。
(いや、あー……その辺りは、俺の責任か)
ノーラは傷だらけになりながらも戦闘を続行するニールの姿を後ろで見ていた、見慣れてしまっていたのだ。
戦闘経験の少ない彼女がニールの戦い方を見続けた結果、咄嗟にその経験に準じた動きをしてしまったのである。冷静になって考えれば参考にすべきではないと分かったのだろうが、そもそもノーラが一人で誰かと戦うという状況自体イレギュラーに過ぎる、恐らく考えている時間がなかったのだろう。
これはニールの失態だ。少なくともニールはそう思った。
一緒に戦う以上、もう少し前衛のことを教えておけばよかった。四人の中で唯一の前衛――規格外持ちの連翹も居るが、経験という意味ではノーラと大差はないの――だから。
俯くノーラに何か言おうと口を開きかけた、その直前。
「……大丈夫、自覚があって前に進む気があるなら、僕も手伝うからさ」
彼女の背を、カルナが優しく抱きとめた。
「だから、まあ――僕のことも助けて欲しいんだ。知ってると思うけど、根っこは傲慢で面倒な奴だからさ」
「ええ、知ってます。……ええ、わたしも頑張るので、カルナさんも少しくらいそういう部分なんとかしましょうね」
「はは、他人に対して上っ面を取り繕うのは問題ないんだけどね――正直、あんまり自信はないんだけど、努力はするよ」
――これは俺の出る幕はねえな、小さく笑みを浮かべて言葉を飲み込んだ。
「あ、なに? ノーラを宥めながら合法的におさわり出来る役割を取られて悔しいの?」
「俺をどういう目で見てやがんだお前」
そもそも、さっきまでの神妙な顔はどうしたんだよ。
そんな想いを半眼で睨みながら言うと、「んーと」と少しだけ悩むようなそぶりをして、にこりと微笑んだ。
「正直まだ不安はあるけど、ニールたちが居るなら、まあなんとかなるかなって思ってるから。だから、ちょっと余裕できたのよ。ありがと、ニール」
間髪入れずに頷いてくれて嬉しかった、と花開くように笑う。
「……そうかよ、そいつは良かったな」
僅かに顔を逸して言う。
なんだろう。普段色々茶化したりふざけたりした言葉ばかり吐いてるその口で真っ直ぐにそういう言葉を言われると、少しばかり照れくさいのだ。
「――ん、やっぱり現界してよかった。皆とあたしの頑張りが、こうやって今に繋がってるんだって思えるから」
そんな四人の様子を眺め、顔を綻ばせる女が一人。
「ああ? そりゃあそっちは実年齢ババアなん――」
気恥ずかしさを誤魔化すために口汚い言葉を吐きかけて、途中でほどけて吐息と化していく。
リディアの体が、ゆるゆると分解されて行っているのだ。
砂細工を風が撫でてゆっくりと崩していくように、さらさらと。
「お前――」
転移ではない。直感だがそう思った。
再現されたリディア・アルストロメリアという女の体が、意識が、風化していくように消えていっているのだと。
「さすがにもうアレに斬りかかったりはしないでしょう? なら、過去の残像は消え去るのみ、よ。これからも頑張りなさい、二代目の勇者様とその仲間たち。見守ったりは出来ないけど、その行末が幸せなモノであるようにってそこの神様に祈っておくから」
「確約は出来ぬがな。彼らよりも努力し彼らを殺そうとする者が居たのなら、私はそれを止めることは出来ん」
「そういうワケらしいから頑張りなさい。獣人が滅んだように、見捨てる時は本気であっさりと見捨てるわよこの神畜生」
神も畜生も聞いたことはあるが神畜生という単語は初めて聞いたぞオイ。
そんなくだらない茶々を言う暇もなく、リディアは――過去の勇者は光の粒子と化した。
はらはらと舞う花弁のように散っていく光の後には、何も残らない。まるでそこに人など存在していなかったかのように、痕跡一つ残さず消え去っていった。
それを、少しだけ寂しく思う。
元々会うはずもなかった過去の偉人が消えただけ――などと納得できるはずもない。
なんだかんだで話しやすくて、可能ならもう少しくらい駄弁りたいと思ってしまう。
(こういうとこが、リディアっていう勇者の強みだったんだろうな)
武勇には特別秀でてはいなかったけれど、仲良くなって同じ目的地まで一緒に駆け抜ける――そんな、群れを作る生き物らしい力を持った人だったのだなと実感する。
ニールが彼女と同じ時代に生きていたら、剣奴リックの演劇ではなく彼女の背に憧れて剣を学んでいたかもしれない。
「さて――まずはカルナ・カンパニュラの願いを叶えるとしようか」
消失したリディアがいた場所をしばし眺めた後、ディミルゴは静かに呟いた。
椅子の下にある床が極彩色に輝き、波打った。昔話の女魔法使いがかき混ぜる鍋のような色合いにも見えるそこから、茶色がかった正方形の物体が四つ、吐き出される。
ふわりとした動きでニールたちの手元に飛び込んできたのは、なめし革で作られた財布であった。
「四つ、財布を用意した。念じた分だけ異世界の金銭が湧き出る。好きに使うが良い」
「え、なに、つまり資金無限チート……!? やだ、超持ち逃げしたい……!」
連翹は財布を両手でいじり回しながら空の中身をじっと見つめ――瞬間、突如として空間に書き足されたような唐突さで中身が現れる。
中に収まったのは、数枚の質の良い紙と、何らかの合金で出来たように見える硬貨だ。
もっとも、ニールはそれらがどの程度の価値を有しているのか分からなかったが「うっわあ念じただけで万札出たんだけど!? 規格外よりもずっとチートじゃないこれ!? 金の力でMMOを無双とか出来ちゃうんじゃないの!? 御曹司ごっこできちゃう!」などと騒いでいる連翹を見る限り、硬貨よりも札――つまりあの紙の方が貴重らしい。
「どの程度滞在するかはお前たちに任せるが、仮に持ち逃げしても一年で効果は消える。努々(ゆめゆめ)忘れぬことだ」
きゃいきゃいとはしゃぐ連翹を窘めるようにディミルゴは言う。
だが、何を言っているんだと思った。確かにどのくらい転移者たちの世界に行くかは分からないが、しかし一年も居る予定などニールたちには存在しない――
(――……いや、そうか)
――そうだ、ニールたちには存在しないけれど、連翹には存在する。
そもそも、連翹は一緒にこの世界に戻ってくる必要はない。
考えなしに捨てた故郷に戻り、両親と共に暮らしていくという選択肢も連翹には存在するのだ。
無論、連翹とてこちら側の世界に愛着を持っているのだと思う。連合軍の皆で旅をした日々を、その時に連翹が見せた表情を思い返せば、それが間違いではないと察することが出来る。
だが、十年以上両親と共に暮らしていた場所の郷愁、それと比べられる重さの想いなのだろうか?
(――いいや、俺が考えたところで、仕方ねえ)
彼女がどちらを選んだとしても、やることは変わらない。
連翹がどちらを選択したとしても、やるべきことが一つ残っている。
それを果たした後、今後も冒険者として大陸を駆け回るか、別れを受け入れれば良い。
(どうであれ、その決断を下すのはあいつだ。俺がとやかく言うべきじゃねえ)
仮に、ニールが「一緒に戻って欲しい」と言えば連翹は頷いてくれるだろう。連翹はニールに対して負い目があるから、絶対に頷くはずだ。
だが、それは連翹自身で導き出した結論ではない。
メンタルがあまり強くない連翹のことだ、ニールがそう言わずともカルナやノーラが言えば――悩んでいる最中に友人からの願いという逃げ道を見つけたら、思考を放棄してそこに飛びついてしまうだろう。
――でも、それは駄目だ。
故郷を捨ててここに残るのも、故郷に残りここを捨てるのも、己の意思で決断を下すべきなのだ。
自分の人生とは常に己の意思で、自由で決めるべきモノ。
そうでなくては、必ず後悔するはずだから。
「……? どうしたの、ニール」
「いや――冒険者として大陸の駆け回ったが、大陸の外には行ったことなかったからな。ちっとばかり緊張してるだけだ」
どんな表情をしていたのだろうか、不思議そうにニールの顔を覗き込んで来る連翹に対し、静かに首を左右に振った。
「さあ、行くが良い再起の少女よ。お前がどのような選択をするのか、この私が見届けよう」
先程の言葉で納得させることが出来たのか、それを確認する前に室内犬に見えるディミルゴは前足をこちらに向けた。
――瞬間、体が薄れ消えていく。
全身の血肉が、精神が、全て光の粒子に分解されてどこかに飛び立とうしている。
ニールとノーラは慌てて自身の体と仲間の姿に視線を向けるが、連翹とカルナは『心配する必要はない』と言うように落ち着いていた。
連翹はこちらの世界に来る時に転移しているし、カルナもこの神殿に招かれる際に同じ経験をしたのだろう。
そんなことを考えている間に、ニールたちの体は光の粒子と化して飛翔し――意識は、そこで途絶えた。
◇
どれだけの時間が経過したのだろう。
一瞬なような気もするし、数日の間眠っていたような気もする。
だが、どちらにしろ転移は成功したようだった。体の感覚はしっかりとしているし――先程とは全く別の場所に居たから。
――辿り着いたのは、小じんまりとした部屋の中だった。
元々一人で過ごす部屋なのだろう、ニールたち四人が一緒に入るとだいぶ手狭になってしまう。
目立つのは大きな本棚だ。中にはびっしりと本が入れられ、そこに入りきらなかったったモノを分厚い紙のようなモノで出来た箱の中に収納されていた。ぱっと見た表紙や背表紙には、見たことのない絵柄で描かれた男女が剣や杖を構えているのが見える。
壁際には小さなタンスとクローゼットが見え、部屋の端には一人用の机が存在していた。
机の上には薄っぺらい黒い板と、無数の紐らしきモノで板と繋がった箱が置いてある。机の右側にデフォルメされた鼠のような器具が放置されている。
衣服を収納する場所が少ないため男の部屋かとも思ったが、ベッドや机にはぬいぐるみがいくつか置いてあって、この部屋の主は女性だと消極的に主張していた。
だが、その部屋の主の気配は不自然なくらいに存在しない。
綺麗に清掃されているように見えるし、定期的に誰かがこの部屋に入り込んでいるはずなのだが、しかし誰かがここで住んでいるようにはどうしても思えないのだ。
返って来ぬ家主を待ち続ける忠犬――そんな印象をニールは抱いた。
「どこなんでしょうね、ここ」
ノーラがぽつり、と呟きカーテンを開く。
ここがどこかも分からない状態でいきなりそういうことをするのは迂闊ではないかと思ったが、そんな思考はすぐさま吹き飛ぶこととなる。
――窓の外、視界に映るのは大都市だ。
ニールは一瞬、故郷であるブバルディアを思い出した。様々な建物が乱立し、密集し、ぎちぎちに詰まったあの町を。
無論、目の前に見える風景はそれとは全く別のモノだ。考えなしに増築改築を繰り返したような乱雑さは全く無く、むしろ整然としていると言えるだろう。
だが、几帳面な人間が箱の中に荷物を目一杯に詰め込んだとでも言うべきか――二から三階建ての家屋を狭い土地の中にどれだけ建築出来るかと大工が挑戦しているような有様。それが、見える範囲で延々と続いている。舗装された道の端には柱のようなモノが立っており、黒くて太いヒモのようなモノで他の柱と繋がっている。街を守る結界か何かだろうか?
そして、これだけ整えて建設された街だというのに、建築物の種類に関しては雑多という他ない。レンガ造りに見える家や、日向の屋敷をこじんまりとさせたモノに、ニールは見たことがない四角い建造物が――
(……いや、違う。見たことあるぞ、これ)
――そうだ、レゾン・デイトルだ。
転移者が現地人の大工を違法奴隷にして建てさせていた建造物がアレに近かった。
うろ覚えの知識から再現されたそれとは違い、眼の前に存在するそれは不安定な様子など欠片もない。
「……」
カルナは一言も喋らない。
窓から覗く風景や、室内の家具、本棚に収められた本を興味深そうに眺めるのみだ。
「なあ連翹、お前はこっちに住んでたんだろ? ならこれがどういうことか、いやそもそもここがどの辺りなのかを――連翹?」
連翹は何を言うでもなく、ただただ部屋の中を見渡していた。
主の居ない、だというのに整頓された部屋を見て、懐かしむように、悲しむように、微かに瞳を潤ませている。
その理由を問いただそうと口を開き――しかし思っていたこととは別の言葉を吐くことになった。
「――皆、下から誰か来るぞ」
ぎい、ぎい、と階段を昇るような音が響いている。
忍び歩いているような気配はない。この瞬間、ニールたちという異分子が中に入り込んでいるなどとは欠片も想像していない、ゆったりとした足取りであった。
十中八九、この家の家主。
ちい、と舌打ちをしかけるがそれを押し止める。今、部屋の中に居るのがバレるのはまずい。家主から見ればニールたちは不法侵入した泥棒以外の何者でもないからだ。
連翹の両親と会う前に兵士に捕まるなど、笑い話にもならないではない。
窓から外に飛び出そうかとも思ったが、足音が近い。下手に音を立てるより、息を潜めた方が良いだろう。
だが、足音は部屋の前で止まる。
ひやりとした汗が流れるのと、ドアの向こうで女性が重く呟く声が響いたのはほとんど同時であった。
「……もうそろそろ三年かしら」
悲しい、というよりもどこか疲弊を感じさせる声音であった。
ドアの向こうの彼女は自嘲するように小さく笑うと、ぎい、とドアノブを回し室内に入り――
「――――えっ?」
――必然、ニールと目があった。
現れたのは、おおよそ三十後半くらいの女性であった。動きやすそうなワンピースの上にエプロンを身につけている。
押しの弱そうな垂れ目気味な大きな瞳を、ゆっくりゆっくり、驚きで見開いていく。
綺麗な黒髪を結い、左肩の上から胸元へと垂らしてた彼女の白い手には細長い棒のようなモノが握られていた。先端は幅広く、後方には車輪のついた丸みを帯びた塊が接続されている。
一瞬武器かと思ったが、呆然とこちらを見つめて何もしようとしない彼女の姿を見るに、その可能性は低そうだ。
(だが、どうしたもんか、これは)
ニールの目つきは悪い。
初見で極悪人扱いされる程ではないが、しかしこの場面においてその程度の差など関係ない。目つきの悪い男が家に忍び込んでいた、その事実に女は悲鳴を上げようとし――しかし驚きと恐怖で喉が引きつったのか、こひゅ、という吐息しか出てこない。
今のうちに気絶させて逃げる――というのは、可能な限り最後の手段にしておきたかった。
とりあえず敵意がないことを証明しなければならない。ニールは腰に差したイカロスを鞘ごと女の方に投げようと思い――その直前、連翹が一歩前に出た。
女は、一瞬怪訝そうな表情を浮かべ――しかし、連翹の顔を認めると、かしゃんと両手で持っていた細長い何かを取り落とす。
「えっと――その、あのね」
何かを言おうとして、何かを伝えようとして、けれど何も言葉にならない。
そんな様子でしばし向かい合っていた二人だったが、しかし喉の調子が戻ったのか、女がぽつりと呟いた。
「れん――ぎょう?」
「……うん、そう。ただいま、お母さん」
掠れた問いかけに、ゆっくりと答える連翹。
一秒、二秒――両者共に頭の整理が出来ていないのか、向かい合ったまま見つめ合う。
だが、女の瞳が潤んだ瞬間――跳びつくように連翹に抱きついた。
「どう、どうし――突然っ……いなく、なって……! 探して、みつから、なくて……!」
「うん、ごめん、ごめんね、ごめんなさい――」
連翹もまた、女を抱きしめた。
嬉しそうな、けれど申し訳なさそうな顔で。瞳を潤ませながら。
「……行きましょう。わたしたちは邪魔ですよ、きっと」
ノーラの言葉にニールたちは頷き、部屋の外に出る。
ドアを閉める直前、連翹が申し訳なさそうな顔でこちらに視線を向けてくるが、『気にすんな』と笑みを浮かべながら首を振る。
ガチャン、という硬質な音を聞きながらニールは小さく息を吐いた。
――ああ、疑問が氷解した。
ディミルゴはわざわざニールたちを狭い部屋に押し込んだワケでも、あえて家主に見つかりやすい位置に放置したワケでもない。
ただただ単純に、転移前に連翹が居た場所に戻しただけ。
――片桐連翹という少女が住んでいた家の自室。
それが、ニールたちが転移した場所だったのだ。




