237/神殿に座す男
「リディアってお前……――!?」
一体いつの人物だと思っていやがる、とか。
大陸を救った大英雄、剣を掲げる乙女を自称するには見た目がゴツ過ぎるだろう、とか。
――そんな言葉を言う前に、大女の姿が光の粒子になって消えた。
砂の城が波にさらわるように掻き消えたことに驚き、戸惑い――しかしニールはすぐさま行動を開始した。
どのような手段で目の前から消えたのかは分からない。分からない以上、考えても仕方がない。
ゆえに、必要な情報は二つだけ。
一つ――先程まで立っていた場所に彼女は居ないということ。
二つ――背後から先程と同じ気配がするということ。
ゆえに、ニールは体を捻りながらイカロスを振るった。
無二戦で付与された超強化がないため、この斬撃はあの戦いと比べ遥かに鈍い。
だが、あの戦いの中で足掻いた経験が、自身に迫る至高の刃の記憶が、ニールの斬撃を研ぎ澄ましている。鮮烈な斬撃は、背後の大女の首を――
「――やめなさい、狼翼。意味なく命を散らすことになるわ」
――そんなニールの思考を遮る金属音が鳴り響く。
ニールの斬撃を抜き放った大剣の腹で受け止めたリディアは、困ったような顔で言った。無駄だと、この戦いに意味などないと。
「はっ――誰の命が無駄に散るって?」
なるほど、なるほど、防御技術は悪くないらしい。
先程の斬撃は本気で殺すつもりで放ったモノだ。当然だろう、敵か味方かも分からない状態で背後に立ったのだから。
生半可な剣士であれば、この一撃で首を断ち切られ絶命していただろう。
だが、彼女は生きている。
剣呑に笑うニールに対し、「ええっと」と間の抜けた声を漏らすと――
「もちろんあたしよ。だって、あなたと戦ったら絶対負けるもの」
――そんな、ふざけたことを言い放った。
「――――は?」
「ええ、それはもう完敗よ。そりゃあ一撃でやられたりはしないし、頑張って攻撃を耐えるけど――反撃出来ずにそのまますり潰されちゃうわね!」
大剣で急所を隠しながらも大きく胸を張る自称リディア。
胸の中で燃えたぎった戦意に、思いっきり水をぶちまけられた気分だった。
「おっまえ……曲がりなりにもリディア自称してるんだから、もう少し気合入れろよ」
相手に敵意はないようだから、とニールは半眼で睨みながら剣を引く。
確かに勇者リディアは大して強くなかったという記述は多く残っているが、勇者らしくもっと踏ん張ってみせろよ――そんなことを考えながら、ニールは大きく息を吐いた。
無論、まだ鞘には収めない。
何かあった時のため、すぐに動けるように準備をしておく。
そんなニールの思惑を知ってか知らずか、リディアは困ったように頬を掻いた。
「いやぁ、だってあたし頑張って耐えるのが役目だったから。四肢欠損しない範囲でダメージを抑えつつセルマに治癒してもらって、攻撃に関しては九割方天才たちに任せてたし。それにそもそも、あたし剣の才能なんてまるでなかったからね。一対一だったら本当に弱いわよ、あたし」
体力と耐久だけの雑魚なんだから――そう言って笑う彼女を見て、連翹が困惑の表情を浮かべたまま挙手する。
「ええっと、あたしから見れば十分凄いと思うんだけど。もし斬られたのがあたしだったら受け止められなかったと思うし」
「そこら辺はまあ、年の功よ年の功。全盛期の肉体ではあるけど、実際のところ天寿を全うしてるしね、あたし」
リックは味方守るなんて真似しなかったし、大戦後も凡人なりに鍛えてたから――そう言って胸を張るリディアだったが、しかしすぐに大きく溜息を吐いた。
「……まあ、逆に言えば全盛期の肉体と全盛期の技、それを使っても狼翼の勇者――ニールくんには勝てないってことなんだけどね。パーティー戦なら負ける気はないんだけど、一人じゃあ無理無理。あたしって本当に踏ん張って耐えることだけが取り柄だったんだから」
剣奴リックが敵陣に突っ込み、賢者イライアスがリックごと吹き飛ばすような魔法を使い、後衛二人を守るためにリディアが踏ん張って、そのリディアを神官セルマが治癒し続ける。
それが、勇者リディアの戦い方だったと語る。
無論、戦うために剣や魔法、奇跡を学んでみたもののどれも大して芽が出ず――
「唯一残った有用なのが女っぽくないこの体格でね。ああ、ならこれを利用して相手の攻撃を受け止めればいいやー、って」
「……ええっと、それは」
「ああ、大丈夫大丈夫、そんな悲しそうな顔しなくていいのうよ――ええっと、ノーラちゃんだったわね。いい、ノーラちゃん? あたしって村の畑を手伝いまくってた、ただの体力自慢の田舎娘なんだから。特別な才能なんて無いってことくらい、自分が一番分かってたのよ。むしろ、最後まで皆と一緒に魔王と戦えたことが想定外だったくらい。あたしの背中を見て奮起してくれた誰かに任せるつもり満々だったからね」
体格には恵まれていたのは確かだ。
それが才能と言えば才能だったのかもしれないけれど、魔王大戦当時では圧倒的な力に踏み潰されてしまう程度のか細い才であった。
正直、自分が魔王と戦えるはずもない。
ただ、やれる範囲で抗ってみせよう。
凡人でもやれることをやって敵を倒せば、その背中を見て諦めていた誰かが続いてくれるはずだと。
『あの程度の女が活躍出来るんだ、なら自分の方が上手くやれる』――そう思った誰かが続いてくれるだろうと。
「だからまあ、魔王に勝ったのだって続いてくれた皆のおかげで、あたしの実力じゃないのよ。勝った後だってそう、自分が設立した騎士団のメンバーに一度も勝てなかったからね、あたし」
(いや、まさか、本当にこの女――?)
照れくさそうに笑うリディアを前に、ニールは油断せぬよう剣の柄を握りしめる。
本来なら剣を受け止められた直後に「御託はいいから呼び出した奴のところに案内しろ自称リディア」とでも言うべきだったのだ。
けれど、間の抜けた反応でその勢いは削がれ、今だって彼女の語りに聞き入ってしまっている。問答無用で警戒心が溶かされていく感覚。意識しないと、剣を鞘に収めてしまいそうだ。
そして何より恐ろしいのが――言葉巧みに誘導しているだとかそういう技術ではなく、薬物や暗示で強引に意識を捻じ曲げている悪意もなく、ただただ天然でやっているように見えること。
もしこちらを害そうとする悪意が見えたら、ニールは即座に剣を振るうつもりだったというのにである。
――だから、納得出来てしまうのだ。
剣を持って飛び出しただけの田舎娘が、一体どうして天才たちを巻き込んで魔王と戦えたのか?
その答えは、今のニールたちのように警戒心を削がれ、好感を抱いたからではないのだろうか、と。
この人柄だけで多くの人間を巻き込んで、最終的に魔王すら打ち倒してしまったのではないか、と。
「……創造神の神殿に招かれたっていう可能性は高くなったか。少なくとも、ただの金持ち程度がどれだけ魔法使いを集めたとしても、こんな真似は出来ない」
ふと、先程からずっと黙っていたカルナが興味深そうな声音で呟いた。
「彼女が消滅する瞬間、魔力が霧散する感覚があった。背後で魔力が再び結合していく感覚もね――とてもじゃないけど、普通の人間とは言えない。超常の力で再現されただけの人形だろう、貴女は」
「……まあ、否定はしないけどね」
ちょっといい方ってモノがあるんじゃない? と。
少しだけ気分を害したのか、僅かに眉を顰めるリディアを気にせず――いいや、気にする必要性など皆無といった態度でカルナは語り続ける。
「魂の複製――いや、歴史を一冊の本に見立て、過去のページを遡って読み返しているようなものかな? 過去を紐解いて、何か縁のある道具を利用して呼び出し、魔力で器を作って、呼び出したモノを注ぎ込んで現界させる――うん、うん、なるほど、不可能ではないかな」
その言葉はリディアやニールたちに向けたモノというより、自分自身の考えを整理するためのモノだったのだろう。
カルナは魔導書を開き、凄まじい速度で何かをメモしていく。今の感覚を忘れぬように、早く早く、そう己自身を急かしながら懐から取り出したペンを走らせる。
「魔法というのは、魔力を編んで精霊に呼びかけることによって超常の力を借り受ける技術。ゆえに、全くの未知を魔法にすることは不可能だ――死後の人間の再現なんて、僕らには創造も出来ないのと同じように」
仮に、天井に青空を映し出す魔法があったとする。
頭にあるイメージを光と共に天井に放つだけで、大した難度の魔法ではない。
だが、一生を土の中で過ごす生き物には絶対に使用できない魔法となる。当然だ。青空を知らぬ以上、それを精霊に伝えることも、どうやって魔力を編めば良いのかも判断できない――いいや、そもそも全くの未知である以上、そんな魔法を使おうという考えすら浮かばない。
だが、地中に住まうその生き物が地上に顔を出し、空を見上げたら――不可能は可能となるのだ。
即ち、これはそういうことなのだ、とカルナはまくし立てるように言葉を吐き続ける。
「だが、見た。僕は見たぞ。この目で見て、理解した……なるほど、なるほど、『そういうモノ』なんだね。それを理解出来た以上、再現できない道理もない――楽しくなってきた」
楽しげに、けれど物語に出てくるような狂った魔法研究者に近しい雰囲気を出しながら、カルナは笑う。
なるほど、これは面白い。
見た以上は再現は不可能ではない――他の凡百の魔法使いならばともかく、このカルナ・カンパニュラであれば、と。
(あ――やっべ)
そんなカルナを見て顔を顰めるリディア。それを見てニールは確信した。
リディアとカルナ――この二人、相性が最悪過ぎる。
「……あまり、そういう再現はして欲しくないんだけどね。あたしは今回同意の上に現界しているけど、やろうと思えばそんな手間きっと必要ないわ。そして、相手の同意がなければ、こんなの墓荒らしと同じよ」
「それに何の問題があるんだい?」
フォロー入れる前にやらかしたカルナの言動に、ニールは思わず顔を覆いたくなった。
確かにカルナは悪い奴ではない。ニールは心から信頼しているし、自分にはない視点を持ち、自分などよりずっと頭の良い男だと思っている。
だが、決して善人だというワケでもないのだ。
必要以上に喧嘩を売っても面倒なだけだと外面は取り繕っているし、認めた相手には惜しみない親愛を向けてくれる。
だが――ニールが剣に狂っているように、カルナもまた魔法に狂っている。
その結果、一般的な価値観から大きくズレてしまうのだ――ニールが無二と戦い、心から愉しんだ時のように。
カルナも魔法のためなら、倫理観など即座に捨て去ることが出来る。
「新たな技術に犠牲はつきものだろう? 一々気にしていたら足踏みしか出来ないよ。わざわざ墓荒らしに使うつもりはないけれど、他の魔法使いが墓荒らしに使いたければ勝手に使えばいい。その結果どうなるかまで、研究者が一々責任なんて取っていられないさ。好きに悪用すれば良い」
「……」
だから――勇気と人柄だけで世界を救ったような正義の人とは、根本的な部分で相性が悪い。
実際、ニールたちを除いてカルナが仲の良く話す相手は、ドワーフたちやファルコンといった新しいモノが好きな存在だったではないか。カルナという男は新しい技術に感心がある者、それを受け入れられる者と相性が良いのだ。
けれど、根本的な相性の悪さは騎士たちも同じだが、その辺りは一線を引いて取り繕っていた。
それは、彼らが今を生きる存在だからだ。自分が持ち得ない技術を持ち、実力もある――ゆえに、多少の敬意を抱いているからなのだ。
しかし、目の前に居るリディアは魂を再現されただけの過去の存在。要するにただの死人ではないか、取り繕う理由も価値もない。過去の残骸風情が、したり顔で説教を垂れるんじゃない――口には出していないが、態度からそんな思考が伝わってくる。
それを察したのだろうか、リディアは大きく溜息を吐いた後、ノーラの方に視線を向けた。
「イライアスの悪い部分を煮詰めた感じね……ノーラちゃん、ちゃんと手綱を握っておきなさい。この手の男はね、放置していると勝手に深淵に突き進んで周りごと破滅するのよ」
「いえ、わたしは手綱なんて握りません。カルナさんが本気で取り組むというのなら、それを止める理由もないですから」
その言葉を聞いたリディアは、説得するためか反論するためか口を開き――しかし、それよりも早くノーラは微笑みながら拳を握りしめた。
「けど、最低限の安全すら放棄して危険な技術をばら撒いたり、どうしようもなく最低なことをしようとするなら――真っ先にわたしが敵に回って止めますから」
手綱を握る気はない、真剣に何かに取り組もうとする想い人を自分の考えだけで歪めるような真似はしたくない。
ノーラとカルナは別の人間である以上、噛み合わない部分が出て来るのは必然だ。きっとそれは、距離が近くなればなるほど強く実感するモノなのだろうと思う。
だからこそ、手綱を握ろうなどとは思わない、思えない。
けれど――それを良いことにどこまでもどこまども堕ちて行くようなら、ぶん殴ってでも止めるのだと。
「……まいったな、それは困る」
――確かに、カルナは必要であればドライな選択や悪辣な行為をためらわない人物ではある。
だが、それはあくまで必要であったのならの話だ。無意味に悪辣になる趣味など、彼は持っていない。
そして何より、自分にとって価値ある人間が敵対するような選択肢をカルナは選べない。ノーラが正しさを押し付けて来るのなら反発はするだろうが、己のやり方を尊重されている以上、カルナはそれを振り払うことは出来ない。認め、尊重してくれる彼女を失うことはカルナにとって大きな損失であるからだ。
それでも研究自体はきっと行うのだろう。しかしある程度の安全性を考えて研究し、公開するのだろうと思う。
「……そう、それならいいわ。これ以上はあたしがとやかく言うべき問題じゃなさそうだしね。それじゃ、この神殿の主が居る場所に案内しようと思うんだけど、いいかしら?」
「待った、それより一体ここはどこなんだ? 星や月を見る限り大陸のどっかじゃねえかと思うんだが」
「ああ、それはね――」
「なんだ、ニール。気づいていなかったのかい?」
リディアの声を遮り、「今更そんなことを聞くのかい?」と言いたげな声でカルナは言った。
「レンさんやノーラさんはともかく、君は分かってもいいんじゃないか? 外の木々を見れば大体の場所は推測出来るだろ」
「推測、って言われてもな」
見覚えはあったような気がするが、しかしニールは木の種類などに詳しいワケではない。どんな立地にどんな草木が生えるのかなど門外漢だ。
星や月の位置から、大陸のどこかであること、仮に大陸外であったとしてもそう離れた位置ではないことくらいは理解しているが……
(……いや、まてよ)
ニールはここ数年の間、港町ナルキを拠点に活動していた。
潮風が吹く影響なのか、街の近くにはあまり木々は生い茂っていなかった。クエストで訪れる場所の多くは町中、海辺、街道などが多かったのだ。一緒に行動していた以上、それはカルナも同じだ。そんなこと、カルナとて承知のはず。
だが、例外的に森の中を探索することもあった。
この大陸に住まう者であれば誰しもが恩恵を受ける、大陸中央部に存在する――
「ストック大森林の中か!」
「正解。そして、恐らくその中央だよ。冒険者として未踏破の領域に居るってことを喜べば良いのか、自分の力で辿り着くべきだったのにと嘆くべきなのか、どっちが正解なんだろうね」
未踏破領域にあまりロマンを感じていないらしいカルナが冗談めかして言う。
ストック大森林――それは大陸唯一の未開拓領域。
浅い場所であれば恵みを享受でき、木々の声を聞けるエルフたちが中層に街を築いている場所だ。
しかし奥地に進もうとすればモンスターが、生い茂った樹木が、獣が、虫が――多くの要素が行く手を阻む魔境と化す。
ゆえに、この大陸は東西南北で分断されている。大陸中央を突っ切る手段を人間は、ドワーフは、木々の声を聞けるエルフですら持っていないのだから。
「……ごめん、あたしまだよく分からないんだけど。ストック大森林にある木と同じ種類の木が生えてる、大陸とは全く違う場所って可能性はないの?」
「こんな状況だ、可能性はゼロではないと思うけど低いと僕は思ってる。大陸とは違う全くの別世界だったら空の月も星の位置も全く違っているはずだしね」
別世界? と、何か気になったのか首を傾げる連翹はとりあえず置いておく。
ニールがリディアの方に視線を向けると、彼女は満足げに頷いた。
「説明の手間が省けて何よりだわ。それじゃあ皆、こっちに付いて来て。あなたたちを呼び寄せた奴のとこに案内したげる」
こっちよ、と歩き始める彼女の背中を追って歩く。
無数にある通路の一つを迷いなく選び、リディアは黙々と前に進む。その背中を見て、ノーラがぽつりと呟いた。
「……勇者って呼ばれるような人でも、死後はこんな仕事をしているんですか?」
「死んでも使いっ走りなんて、ってこと? それなら、大丈夫大丈夫。さすがに無理矢理複製されて仕事させられたりはしないわよ。あたしだって、新しい勇者がどんな子なのかなって思ったから一時的に現界しているだけだしね」
「それで、先代の勇者様からみて俺たちのことをどう思うんだ?」
正直に言えば、勇者などと言われてもピンと来ない。分不相応な称号過ぎて、まるで実感が湧かないのだ。
ニールはただやりたいことをやっただけで、勇者と呼ばれるにふさわしいことをした覚えなどまるでない。他人から勇気があるなどと言われたら、すぐさま「俺のは勇気じゃなくて無謀だろ」と言い返す自信がある。
そんなニールの自己認識とは裏腹に、リディアは振り返ってにこりと笑った。
「うん、良いパーティーだと思うわ! 才覚とかそういう面はカルナくんの独壇場で、活躍って意味じゃあニールくんが一番だけど、決して誰か一人を頼り切ってるワケでもないからね。連翹ちゃんもノーラちゃんも自分がやれることをしっかりやってる。誰もがおんぶ抱っこじゃない、良い関係だとあたしは思う!」
「……そ、そうかよ」
そっけなく言いながら視線を逸す。
こうも持ち上げられると、少しばかり恥ずかしい。
謙遜拗らせて悪し様に言われたいワケではないが、こうも真っ向から認められる経験はここ数年であまりなかったから、どう受け止めていいか分からなくなる。
(無理だとか、やめとけとか、絵空事だとか……んなことばっか言われてたからな)
転移者と戦い、勝利する――今でこそ戦う上でのセオリーが確立されているが、ニールが思い立った時はそんなモノなど欠片もなくて。
転移者とは絶対無敵の人形の化け物である。そんな認識を持つ者たちに馬鹿にされ、心配され、やめておけと何度も言われた。
それを聞き入れるつもりなどまるでなかったし、どうってことのない小言だとその言葉を振り払っていたが――それでも、心のどこかで気にしていたのだろう。
それは金属に蓄積した負担のように。一定量を越えるまでは素知らぬ顔で曲がらずに耐え続け、しかしある日突然ごきりと折れる。知らず知らずの内に溜まっていたそんなダメージが、いくらか和らいだような気がした。
「ただ――うん、そこの二人。ニールくんと連翹ちゃん。あなたたち二人にはちょっと言いたいことがあるの」
が、それでも褒められない部分もある、と。
リディアは呆れたように溜息を吐いた後、ニールと連翹を見つめた。
「けっこう無茶やったことか? だけど、俺はそうでもしなけりゃ勝てなかったしな」
「……うん、まあ、あたしは色々言われても仕方ないことしたからね」
「ああ、違う違う。違うのよ、二人とも。ニールくんの場合、無計画に暴走しているのなら怒るけど、そうじゃないでしょ? 連翹ちゃんは、あたしに言われなくてももう分かっているようだし、蒸し返すつもりはないわ。……ええっと、あなたたちが集まった広場があったでしょ? その広間に、あたしたちを象った石像があったのは覚えてる?」
そう言われて、ようやく気づく。
屈強な女戦士を象った像が、目の前に居る女と瓜二つであるということ。
どこかで見た覚えがあったと思ったが、そうだ、騎士剣の柄に刻まれた剣を掲げるリディアの姿に似ていたのだ。無論、そちらの方は乙女のような顔立ちで描かれていたのだが。
つまり、あれは当時の勇者たちの姿を模したモノ。美化などという要素を一切排除した勇者たちの石像なのだ。
であるなら、他の三つも勇者パーティーのメンバーであり、つまり、つまり――
(――――は? あの小汚い剣士が剣奴リック?)
脳内に描かれた、敵陣に突っ込み無双する美丈夫の映像がガラス細工のように粉砕される。
バラバラに砕け散った映像の背後から現れた小汚い剣士が、ニールの脳内で「よう」と言うように右腕を上げた。
「ふぐぅ……!」
「ちょ、ニールさん何事ですか!? どうしたんですか突然!?」
大丈夫、ちょっとだけ現実が受け入れがたくて脚の力が抜けて地面に崩れ落ちただけだ。何も問題はない。
考えてみれば過去の英傑なんて脚色されて当然で、ショックを受ける方が失礼だろう。ニールとて一応、勇者などと言われる立場になってしまったのだ。今後、伝聞でどんな脚色をされるのか分からないし、実物を見てがっかりされることも多くなるだろう。
その時はきっと、勝手に期待して勝手に落胆してるんじゃねえ、と苛立つはずだ。
だからこそ、うん、自分がそれをやってはいけないだろう。
そんなこと、百も承知なのだが――
「それでも憧れの最強剣士はもうちょっと格好良くあって欲しかったよ俺ぇ――ッ!」
「そっかー、アイツに憧れてたかー、憧れるような人物として描かれちゃってるのかー、歴史の脚色ってこわいわねー……」
ニールの叫びにリディアが、ははっ……、と乾いた笑みを浮かべる。
その笑みの内側にどんな感情があるのか、剣奴リックにどのような思い出があるのか、問いただしたい気持ちはあったが止めておく。さすがにこれ以上は心が持たない。
「に、ニール、大丈夫かい? 下手したら孤独と戦ってた時より苦しそうな顔してるよ君」
「大丈夫、ちょっとした致命しょ……ぅぐ、やべえ、なんか吐きそう……」
「全然大丈夫じゃないだろ君はぁ!? ああもう、ほら、深呼吸して落ち着いて……!」
カルナに背中を擦られながら、なんとか心を落ち着ける。
大丈夫、大丈夫だ、ニール・グラジオラスは正気に戻った。もう何も怖くない。
「……それで、リディア。さっき一体なに言いかけてたんだ?」
俺らに言いたいことがあったんだろ? と。
ゆっくりと立ち上がりながら問いかける。
すると、リディアは半眼でニールと連翹を見つめ――
「あー――石像とはいえあたしの友達のスカートを覗き込むような真似はして欲しくなかったかなー、って。それはちょっと反省してくれない?」
――は? と。
ノーラが音速でこちらに顔を向け、ニールと連翹は光速で顔を逸した。
(――あ、やっべ)
この反応は自白したも同然ではないだろうか?
そう思い、恐る恐る振り返る――それよりも早く、胸ぐらを思いっきり掴まれた。
「二人とも何やってるんですかぁ!? こんな場所で! 本当に! 何を! やって! いるん! ですか!」
(――やっべえ、何一つ反論出来ねえ)
確かに、客観的に見て確かにどうかしているとしか言えない。
だが、それでも――スカートの奥というロマンを求める心に抗えなかったのだ。
だって男だもの、そりゃ見たい。
「待ってノーラ、細部までしっかり作り込んであるのにそこを確認しないのは失礼なんじゃないかなと思うんだけど! これは芸術鑑賞の精神からの行動であっていやらしさとは無関係! 以下レス不必要です!」
「そういう純粋な気持ちで見ていたのなら、何も言わなかったけどね。二人とも、下着まで本物っぽい、凄い、って大盛り上がりだったじゃない。途中までセルマ、あたしと一緒に現界するつもりだったのに顔真っ赤にして引きこもっちゃったのよ……」
連翹の言い訳は目撃者によって粉砕される。
ノーラの視線が痛い。とても痛い。下手な刃よりもずっと鋭くニールと連翹を貫いている。怖い。
「……さ、最初にやり始めたのはそこの馬鹿女だぞ。あいつがやらなきゃ俺はスカートの中覗くなんて真似しなかったからな」
「あああああ! 責任全部こっちに投げるのは忍者の所業でしょニールーッ! 汚いな忍者さすが汚い、あまりにも卑怯すぎるでしょう!?」
「――二人とも、どっちもしっかり悪いんでちょっと黙ってくれません?」
真顔のノーラが普段通りの柔らかい声音で言った。
だというのに、何かがひび割れているような、ここで口答えしようものなら完全崩壊して封印された化け物が現れるように思えるのはなぜだろう?
なぜかは分からないが、とりあえずニールと連翹はその場に正座して頭を下げる。土下座である。昔ノーラがカルナに向けてやっていたのを見たことはあるが、あの時は自分がノーラに土下座するハメになるとは想像もしていなかった。
「全く、何をしてるんだ二人共――」
「そのセリフ、ノーラのカバンから本を取り出すついでに着替えやら下着やら鑑賞してたカルナが言っていいセリフじゃないと思うんだけど」
死なばもろとも。
自分だけは真っ当な人間だとでも言うカルナを、土下座したままの連翹がこちら側に引きずり込む。
ぴくり、と。
笑顔のまま固定されていたノーラの眉が跳ねる。
「……は?」
「――……皆! 今は無駄話をすべきタイミングじゃないと思うんだ! ほら、勇者リディアもそう言ってるから急いで――」
「さっきあんな物言いだった癖に今更あたし頼るとかどうなの? 急がないからちゃんと怒られなさいな」
「くっ、不覚――!」
「不覚なのはカルナさんの行動そのものですよぉ! どうしてこう、ああもう、どうしてこう皆はぁ――!」
「ちなみに、ご飯奢ったり服買ったりするから黙ってて欲しい、って買収提案してきたわよその無駄イケメン野郎」
「カルナさぁあああンッ!?」
雷が落ちた。ノーラが未だかつてない勢いで激怒している。
カルナも即座にニールの隣に跳躍し、土下座の体勢に移行する。
その様子をリディアは壁に寄りかかりながら楽しげに見つめていた。
「本当に、本当に……! まあ、ニールとレンちゃんはモデルが近くに居ると思ってなかったから、石像だからって言い訳は出来なくもないですけど、それですらアレなんですけどもぉ! ――カルナさん! 勝手にカバンを開いた理由は聞いたので、そこはもう何も言いません! 言いませんけど、なんで無許可で他のモノ漁って鑑賞なんてし始めるんですかぁ!」
「む、待ったノーラさん。それはつまり許可があればいくらでも漁って鑑賞してもいいってことにな――」
「屁理屈言ってる暇あるなら少しくらい反省しなさああああい――ッ!!」
「――ご、ごめん、本当にごめんなさい、悪かったと思ってます」
なんでアイツ燃え盛ってる火に油ぶち込んでやがるんだ――土下座をしながら思うニールなのであった。
――そして、それからきっちり三十分。
冷たい真白の床が体温でそれなりに温まった結果、むしろ「俺、一体なにやってんだろうこんな場所で」感が強くなって来た頃に、ようやくノーラの怒りは収まった。
ふうぅ、と大きく息を吐いたノーラはリディアに顔を向け、問いかける。
「お、お騒がせしました。ごめんなさい、こんな場所で」
「いいのいいの、というかあたしの仲間よりずっといい子たちじゃない。リックもイライアスも、あたしとセルマがどれだけ怒ってもまともに聞いちゃくれなかったわよ。だから最終的にいつも力技になってねぇ……」
自己完結した天才って話が通じないのよねー、そう言って頬を掻く。
思った以上に苦労人気質のようだが、彼女が浮かべる笑みにはそれを苦にしている様子は見受けられない。
そういう部分も含めて大事な仲間だったのだ、ということなのだろうか。
「さて、と! 緊張もほぐれたようだし、そろそろ行きましょうか。急ぎはしないけど、だからってずっとここで喋ってるワケにもいかないでしょ?」
正座で整列するニールたち三人を見下ろし、にかりと笑う。
その言葉を聞いて、カルナは納得したと言うように頷いた。
「……なるほど、本人の前に転移させなかったのは、そういうことか」
長い長い廊下を歩かせ、慌てふためいた者を落ち着かせる。
その後、全員が合流した後にリディアと対面し、会話しながら緊張をほぐす。
恐らくこの神殿の主は可能な限り落ち着いた状況で会話をしたいのだろう。
「そういうのもあるけど――『アレ』に任せちゃうと絶対まともな話し合いになんてならないと思ったのよ。悪意が無いのは理解してるんだけど、視点が高すぎるからどうも噛み合わないのよね……」
間に入る人が居ないと、時間ばっかり掛かるのよ、と。
そう言って再び歩き出したリディアの背を追う。しばし無言で歩くと、ほどなくして目的地に到達した。
辿り着いた場所は白く、けれど今までの通路や広間などよりずっと開放的な場所であった。
継ぎ目のない白い床、天井、柱は同じ。けれど、そこには壁が存在しない。左右を見渡せば真冬だというのに青々と緑を見せる木々、ストック大森林に存在する生命力に満ち満ちた樹木が姿を晒している。
そして、部屋の中心――そこに、彼は居た。
広間にあった椅子と比べ酷く見窄らしい椅子に腰掛ける彼。その容姿を上手く説明することはニールには出来なかった。
なぜなら、瞬きをする度、微かに意識を逸す度に、その姿が変質しているからだ。
最初は人のように見えた、けれど次の瞬間には野鳥に見える。突如として部屋を覆い尽くすドラゴンと化したかと思えば、目を凝らさなければ見えないほどに小さな羽虫に変わった。
姿は常に不定。だというのに、両性の生物を除けば全てオスであるという共通点があった。
ノーラが息を呑む音が聞こえる。
連翹が久方ぶりに知り合いを見つけた時のように、「ああ!」と叫びながら指を指す。
なるほど、確かにニールやカルナよりも彼女たちの方が馴染み深い存在だ。
ノーラにとっては彼女が祈りを捧げる相手であり、連翹にとってはこの世界に自分を招き入れた存在なのだから。
「――すまぬな、勇者リディア。使い走りのような真似をさせた」
獣の唸り声がする、虫の羽音が響く、ゴブリンやコボルトといった言葉の通じないモンスターの言語が紡がれていく。
「なん……だ!?」
だというのに、ニールの頭はそれらを『淡々と喋る人間の男の声』と認識している。
他の三人も同じなのだろう。カルナは顔を歪めながら右手で顔を覆い、ノーラは信じられないといった顔で声の主を見つめている。連翹は経験があるためか動揺はしていないが、眉を寄せて剣の柄に手を伸ばしていた。
「いやー、だってこういうことやれるのってあたしかセルマくらいでしょ? それにセルマは……ああ、うん、さっき自分の石像好き勝手やられて、ちょっと怒ってるみたいだから」
「姿を模した石像を弄られただけではないか、解せぬな」
「そこは解してちょうだいよ。というか、なにあの石像。いつの間にあんなの作ってたの?」
「うむ。自著を教会に無償配布したものの、気づいた時には文字が変わっていて読む者が居なくてな。ならば、時を経ても残りやすく、瞳さえあれば知識が必要ない石像を量産し、教会の物置に無償配布すれば良いと気づいたのだ。これにより、私の予測を上回った勇者リディアの伝説は多くの愛子たちに――」
「……あたしたちを評価してくれるのは嬉しいんだけどね。けど、もうあたしたちだいぶ美化されちゃってるから、今更本物とそっくりの石像作っても誰も勇者リディアたちだなんて思わないわよ。無駄に出来の良い地方の英雄の像扱いされて終わりだと思うわ。エルフの知り合いも居なかったしね」
「む」
旧知の友人と語り合うように、リディアは不定の存在と語り合う。
その様子を見て、ニールは、カルナは、ノーラは、連翹は、何者が自分たちをここに呼び寄せたのかを理解した。
カルナや連翹は道中で予測はついていたが、しかし半信半疑であったそれが確信となったのだ。
「さて、初対面の者も多いゆえに自己紹介させてもらおう。私の名はディミルゴ。ようこそ、私の神殿へ」
創造神ディミルゴ。
この世界を創造した神であり、全ての生き物の父。
不定の姿を持つ神が、慈しむような笑みを浮かべたように感じた。
その時のディミルゴの姿は、ニールが認識している限りでは小さなトカゲだったため、表情の変化など分かるはずもないのだが――それでも、当然のように笑いかけられたと知覚したのだ。




