234/招く者
――――そこに、『彼』は居た。
白い白い、処女雪めいた不可侵の白さの石で形作られた神殿――その、一室。
怪我人や病人が集まる治癒院とはまた別種の白色。目が痛い程の病的な白さだというのに、なぜだか温かみを感じる奇妙な空間であった。
その理由は、外から覗く青々とした木々の葉の存在ゆえにだろうか。生命力に満ち満ちた木々は神殿の周辺を覆い尽くすように存在している。
ふわり、と風が吹いた。
少女の手で撫でられた小動物が如くくすぐったそうに揺れる木々たちから、葉っぱが一枚、神殿の中に入り込んだ。
ひらひらと舞う緑色のそれが床に触れる――その瞬間、分解されるが如く葉っぱが掻き消えた。
後に残ったのは真っ白な部屋と、椅子に座る『彼』のみ。
『彼』の姿は不定であった。
スライムのような軟体生物というワケではない。
今、ここに誰かが居たのなら、『彼』の姿を見て困惑の表情を浮かべたことだろう。
人、虫、ゴブリン、エルフ、魔族、ドワーフ、犬――瞬きをするか意識を僅かに逸しただけで、瞳に映る姿が変化していく。無論、体積も、熱量も、全て全て。
一体どれが本当の姿なのか――『彼』を見た者はそう問いかけるかもしれない。
そしてその時、『彼』はこう答えるだろう――全てが我だ、と。
ドラゴンのような巨大な強者も、小蝿のような小さな弱者も、全てが我の愛子なのだと。
「……リディアの時以来、か。ならば喝采を。彼らの生き様に喝采を送ろう。よくぞ予測を上回り、己の信念を貫き通した」
淡々とした声音である。
時折獣の唸り声や虫の羽音に聞こえるそれだが、なぜだか意味は理解出来た。
恐らく――この世界に住まう者ならば、誰しもが理解出来るのだろう。ドラゴンから羽虫まで区別することなく、別世界から来た転移者すらも。
「ゆえに褒美が必要だろう。蝋翼の餓狼、黒衣の銀龍、祝福の乙女、再起の少女よ。ここに生き物を招くのはお前たちで二回目だ。悦ぶも良し、激怒するも良し、悲嘆に暮れるのも良いだろう。だが、どうであれ歓待しようではないか」
抑揚のない平坦な声音であったが、しかし『彼』の言葉は不思議と楽しげに響いた。
◇
――――レゾン・デイトルは王の死を以て瓦解した。
確かに彼は国を率いる器でも、皆をカリスマで従えていたワケでもない。
けれど、最強の転移者――彼は既に力を失っていたが、便宜上――が倒されてしまったこと。
そして、雑音語りが広め多くの転移者が求めていた力、無二の規格外が存在しないということが知れ渡ったこと。
その二つが、『レゾン・デイトルの転移者たち』という枠組みを完膚なきまでに破壊し、『有象無象の転移者』に成り下がらせた。
無論、己こそが新たな王だと声高に叫ぶ転移者も居たが――その声に従う者など誰もいない。
当然だ。
転移者がレゾン・デイトルに訪れ、王や幹部の下にいることを甘んじていたのは、無二の規格外という餌があったから。
いずれ力を得て逆転出来る――そういう思惑があったからこそ、レゾン・デイトルは辛うじて集団になれていたのだ。
ゆえに、それが全て無くなった以上、彼らが連携出来るはずもない。
バラバラに戦い、転移者を巻き込みながらスキルを放ち、互いに足を引っ張り合い――結果、一人、また一人と捕縛、または殺害されていく。
「……ま、それも当然か」
外壁に寄りかかりながら、カルナは数を減らしていく転移者たちを見て溜息を吐いた。
人間の強さとは、即ち技術と集団の強さである。
即ち、積み重ねてきた技術を複数人で用いて、自分たちよりも強大な生物を打倒する――こんなもの、石の槍を振るっていた時代から変わらないではないか。
転移者たちは、それを軽視した。
力があればなんでも出来ると、力さえあれば欲望のままに生きられると、力さえあれば――群れているだけの存在になど負けはしないと。
弱者の僻みめいた考えであり、けれど同時に心のどこかで共感してしまう考えであった。
誰だって自分が唯一無二でありたいし、弱いよりも強いほうが良い、不自由よりも自由に生きたいと願うのは当然だろう。
(……その結果、皆似たり寄ったりの技を使っている、っていうのは酷い皮肉だね)
転移者にはスキルという分かりやすい類似性があり、だからこそ似たり寄ったりになるのだが――実のところ、現地人とてスキルが無いだけで似たようなモノだ。
他人とは違う、自分は特別、そう思って実行した結果、他者と似たり寄ったりになるという現実は珍しくない。
そう考えると、転移者はそういう要素を戯画化した存在に見えてくる。似たり寄ったりの力を使い、自分は特別であり自由なのだと叫びながらも同じような行動をする無法者。
なるほど、と思う。
ふと思い浮かんだ益体もない考えだったが、的を外してはいないように思える。だとすれば、力を授けた創造神は転移者という存在が酷く無様に見えたことだろう。
「おう魔法使い、お前は掃討に参加しなくていいのか?」
ぼんやりと戦況を確認しながら思考の海に埋没していたカルナは、聞き慣れた声に意識を浮上させる。
視線を自分よりもだいぶ下に向ければ、鉄咆を抱えたドワーフの集団――その先頭に立つドレッドヘアーのドワーフ、デレク・サイカスは「よう」とこちらに笑みを向けてきた。
「もう魔法を使う余力なんてないよ……そっちはどうなんだい?」
「もう無理に技術者を戦わせる意味がないから下がってろ、ってよ。まあ、道理だな。鉄咆だってこんな敵味方が入り混じってるところじゃ使いにくいしよ」
まだまだ改良が必要だなぁ、と鉄咆を小突きながら大笑する。
鉄咆は確かに有用であり、上手く使えば大した鍛錬を行っていない農民であろうともモンスターと戦える強大なポテンシャルが存在するとカルナは思っている。
だが、今はそのポテンシャルを引き出す技術が、知識が、経験がない。幸い、今回のクエストで何度も使用したため改善点は見えてきたが、それでも鉄咆だけで戦えるようになるのはもう少し先のことだろう。
そんなことを二人で話していると、デレクの背後からひょこりと女ドワーフ――アトラが顔を出した。
「カルナさん、皆、は?」
「ああ、えっと……」
……やはり少し、気まずい。
別に悪いことをしたワケでもないし、謝れることでもない。というか、もし謝ろうものならアトラどころかノーラや連翹にも怒られそうだ。
だが、既にアトラは気にしていないようで――いや、気にしていない風を装っているのかもしれないが――普段通りの様子でカルナと相対している。
この気持ちの切り替えの差は人間とドワーフという種族の違いから来るモノなのか、男女の差から来るものなのか、もしくはアトラという少女がカルナが思っていたよりもずっとしっかりとした女性だったからなのか。
気にはなったが、それを追求することはもうカルナには出来ない。
あえて仲が悪い風に振る舞うつもりはないし、友人の妹として仲良くしていきたいと思ってはいるが、それ以上深入りするような真似はアトラにもノーラにも不義理だろう。
「……レンさんは掃討に参加中。ニールはもちろん、ノーラさんも今は治癒の真っ最中さ。僕も気分が悪いし寝ていたいところだけど、簡易寝台は怪我人に譲って今ここに居るってワケさ」
努めて平静に笑いかけながら語る。
ノーラは怪我人の治癒に協力したがっていたが、「右腕吹き飛ばした娘が何言ってんだい、いいから寝てな」とマリアンによって強引に寝かされたのだそうだ。
当然だろう、と思う。ノーラは自分では元気なつもりだったのだろうが、ベッドに入った瞬間、すぐに瞼が落ちてしまった。激戦で気分がハイになっていたものの、疲労は全身を侵していたのだろう。
「そっか、うん。分かった、ありがとう」
「どういたしまして……しかし、なんだか実感が湧かないな」
戦うべき者と戦い、倒すべき者を倒した。
後はレゾン・デイトル内の転移者を捕縛、または倒し、その後に西部を中心に広がる無法の転移者を狩ることになるだろう。
だが、その役目は連合軍という形ではなく、アルストロメリアの騎士団が行うはずだ。
対転移者のノウハウを得た騎士たちに、もう冒険者の助力は必要あるまい。時折、手が足りなくてクエストを回されるかもしれないが――こんな大勢で戦うことはきっと二度とない。
当然だろう。そもそも、騎士たちが守るべき民の一人でもある冒険者と共に戦うことが異例なのだ。
当然なのだけれど、その事実を寂しく思う。
「これが終わったら女王都ってとこに顔出して、その後は解散か――なあ、お前はそれからどうすんだ?」
「とりあえず、拠点にしてた港町に顔を出すよ。宿の女将や顔見知りの冒険者に無事な姿を見せないといけないからね」
なにせ出立した時はまだ転移者との戦い方が確立されていなかった。強力な技を瞬時に放ってくる、騎士すら退ける謎の強者たち――それが転移者に対するイメージだったのだから。
カルナは死ぬ気などなかったが、しかし残された者が心配する気持ちもよく理解出来る。
ゆえに、早く顔を見せなければなと思うのだが――少し、足が重い。
別に戻りたくないワケではない。むしろ、久々に友人や女将と会うのが楽しみなくらいだ。
だが、やはり寂しさが強い。
これを人間としての成長と見るべきか、繋がりを得た結果弱さを得たと見るべきか。村で一人魔法の研究をしていた頃は弱さだと断じていたことだろうが、今はよく分からない。
そんな風に思い悩むカルナを見て、デレクは微笑ましいモノを見たと言うように笑った。全く、これだから異種族はやり辛い。短い一生を全速で駆けるドワーフからすれば、カルナの思考は青く子供っぽいモノに見えるのだろう。
「今度はアースリュームに観光で来い。仕事がよっぽど忙しくなけりゃ歓迎してやるよ」
「……なら、しばらく行けそうにないね。今回のクエストで鉄咆の名は広まった以上、他所の工房に真似される前に稼いで設備を増強しないと」
無意識に不貞腐れたような声音で言うと、デレクは「それもそうだな!」と大笑した。
不貞腐れた子供を可愛がる親戚のような対応に苛立ちを覚えるが、仕方ないと思い直す。実際、子供っぽい対応をしているのはカルナ自身だろう。
昔に比べて大人の対応とやらを学んだつもりだったが、やはり根はまだまだ子供なのかもしれない。
(いや、根っこの部分が子供だっていうのは、誰だって同じか)
子供と大人の間に大きな断絶があるワケではなく地続きである以上、誰しもが根っこの部分では子供なのだ。
生きている間に次第に薄れていくモノではあるのだろうが、決して消え去るモノではない。
……なら、こんな時くらい大人ぶらなくて良いかな、と思った。
変に大人ぶって達観した風を装うよりは、もう少し素直に言葉を紡いでも良いだろう。少しみっともないかもしれないが――まあ、その時はその時だ。後で好きなだけ後悔すればいい。
「デレク――この旅は楽しかったね。こんな風に言ったら不謹慎かもしれないけど、それでもそう思うよ」
どんな難治も終わってしまえば良い思い出――とまでは達観できない。
悩んだ日々の苦しさは今でも覚えているし、戦いの中で感じた痛みや無力感もまた傷として心に刻まれている。
だが、それ以上に輝くモノを手にしたのだと思えるのだ。
魔法使いとして新たなな高みに上り詰め、己が考えた武器が量産され――それに、ノーラと想いを通じ合わせることが出来た。
ゆえに、この旅は苦しさや悔しさを含めて最高のモノだったと信じる。
「だから、正直言って寂しくてね。……後で僕らが拠点にしている町と宿を教えるから、暇になったら連絡して欲しい。その時はニールやノーラさん、レンさんも連れてアースリューム観光でもするからさ」
「こいつはまた……随分と素直な言い方だな。お前はそういうのは恥ずかしがると思ってたんだが」
「実際気恥ずかしくはあるけどね。でもちゃんと再会の約束もしなかったせいでそれっきりになったら……うん、寂しいなって思ってさ」
「おう、そうか――分かった、手紙は必ず出してやるよ」
一瞬、からかわれるだろうか、と思ったがデレクは安心しろと言うように胸をどんと叩く。
「……さて、それじゃあ俺らは冒険者の武具修繕の準備でもしてくる。魔法使いは?」
「僕はもう少しここに居るよ。まだ治癒途中の怪我人は多いからね、多少苦しくても自分の足で歩ける僕が休むのは後回しさ」
ニールやノーラに比べたらマシだったが、カルナとて疲弊している。
孤独との戦いに貢献した以上、休みたいと言えば一人分の寝台くらい空けてくれるだろうが――他の怪我人を押しのけてまで休みたいとは思えないのだ。
「そうか――ま、無理はすんなよ魔法使い。お前放置して倒れられでもしたら、そっちの方が他の連中が気にしちまう」
「分かってるよ。それじゃあ、また」
おう、とデレクと男ドワーフたちが大きく手を振って去っていく。そこから少し遅れ、アトラがこちらに頭を下げ、兄たちの背中を追って歩き出した。
彼らの背中が見えなくなるまで見送った後、カルナは大きく溜息を吐く。
……なんともらしくない言動をしたような気がする。右手で顔を覆いながら、そんなことを思った。
カルナに覚えがないだけで似たようなノリで誰かと話したことはあるかもしれない。だが、意識的に寂しいなんて言うなど、あまり経験がなかった。少しばかり、いいやだいぶ恥ずかしい。
「けど、まあ――言うべきことは言えてよかったと思おう。こういうのは、後に回せば回すほど言い辛くなるものだろうし」
下手に考える時間があったら恥ずかしがって何も言わなかった可能性もある。なら、この会話はベストではなくともベターなはず。
鉄咆を抱きしめるように持ちながら、ずりずりと壁に預けた背中を滑らせて腰を下ろす。
まだ敵対的な転移者が全て倒されたワケでも捕縛されたワケでもない。ゆえに、完全に気を抜くことは出来ないが――騎士たちが全力を出している以上、そう警戒することもあるまい。
(本当は安全を考えれば天幕周辺まで行くべきなんだろうけど……気を抜いて道端で寝てしまいそうだしね)
九割安全ではあるけれど、残り一割の警戒は必須――このくらいが今は丁度いい。
鉄咆に鉄杭を込めながら、回路が破壊されたのが痛いな、と思う。今の魔力では一発撃って昏倒してしまうだろうが、それでも詠唱なしに転移者に魔法を叩き込めるあの装備が有ると少しだけ安心できるから。
(ま――もっとも、あれは間に合わせの試作品。いずれ、もっと見栄えがするようにしてみよう)
回路の構想は連翹の言葉から生まれたモノであったし、一から作り直す時は彼女に聞いてみようかと思う。
正直に言うと、連翹は女性として見るには色々どうかと思う部分が多々とある――母親の腹の中に乳房を忘れてきたんじゃないだろうかと思う――のだが、女友達という意味ではノーラよりも付き合いやすい部分がある。
なんというか、根本的なセンスが似通っているというか――彼女が時々言う厨二病だとかいう病を共有していると言うべきか。もう少し胸が大きければ異性として見られそうなのだが……。
そんな、もし連翹に聞かれたら「あたしだってお断りよばーかばーか! 転移者の胸筋で頭叩き割られて死ね!」などと言われそうなことを考えながら辺りを見渡していると、ふと見慣れたモノが見えた。
それは、ノーラが肩に掛けているカバンだ。血が滲んだ地面の周辺に落ちているそれを見て、回収し忘れたのだろうなと思いカルナは立ち上がった。
自分がやらずとも後で誰かが届けてくれるだろうが、気づいた以上放置は出来ない。
ゆっくりと立ち上がりながらカバンがある方まで歩み寄り――ふと、違和感を抱く。
(……そんなに目立つ場所にないよね、あれ)
周辺はニールと孤独、そしてそれ以前から行われていた転移者同士のいざこざで瓦礫だらけだ。
カバンの周辺もその例に漏れず、スキルによって破壊された地面と瓦礫が存在している。率直に言って探しモノには不向きな状態であるし、だからこそノーラを天幕に放り込んだマリアンも気づかず放置して行ったのだろう。
だというのに、カルナは何気なく辺りを見渡しただけであっさりと発見した。それは、何故か? 疲労で鈍った頭脳を回転させながら、カバンを掴む。
「――――これは?」
ノーラのカバンが、仄かに光り輝いていた。
否、カバンではない、その中身だ。何か巨大なモノが、燐光を放っている。
まだ昼間だからさほど目立ってはいないが、それでも微かな違和感を抱かせるそれを前にカルナはしばし黙り込む。そしてすぐに外壁まで取って返し、心の中でノーラに謝罪しながらカバンを開けた。
丁寧に畳んで収納されている着替えの衣服や下着から目を逸らす――ことなく、「まあ、緊急事態的なものだし、約得――もとい、仕方なく」とカバンの中を漁る。
「……なるほど」
一体何がなるほどなんだよお前、と突っ込む人間は残念ながらここには居ない。
全体的に淡い色合いが多いなぁ、とか。
さすがに胸が大きい分、それを支える下着も大きな、とか。
これは偶然目に入っただけだから、と自分すら騙す気のない妄言を思い浮かべながらカバンを漁る。
(……けど、これバレたらわりと本気でぶん殴られる流れじゃないだろうか)
当たり前だ馬鹿かお前、と突っ込む友人は居ないが、居たら絶対言われるだろうなと思う――いや、もっと前に止められているだろうか?
そう思ったがゆえにギリギリのラインで自重しながらカバンの中身をじっくり覗き込む。大丈夫、触らなければきっとセーフだと言い訳しながら。
そんな風に、最初の目的を半ば忘れかけた辺りで、こつん、と指先に目的のモノが触れた。
それは、医学書と並んでカバンの中に収納された古めかしい本である。旅の最中、ノーラと共に翻訳した勇者リディアを書いた本であった。
それが静かに発光していた。柔らかく、暖かく、光り輝くのが当然であるといった風に。
「……」
しばし悩んだが、本を開くことを決心する。
幸い、現在地は騎士たちからそう離れていない。何かあれば全力で叫べばいいし、なんらかの手段で口を封じられたのなら鉄咆を撃てば異変に気づいてくれるはず。
ゆえに、鉄咆の具合を確認した後、ぱらりとページを捲った。
だが、準備したワリに何か特別なことがあるワケでもなく、内容も古語で書かれた勇者リディアの伝説だ。何かが変わっているようにも思えない。
(……もしやあの発光は、疲れた僕が見せた幻か何かなんじゃないか?)
もしそうならなんの意味もなく恋人のカバンを漁っただけの変態になるのだが、どうすれば良いのだろうか?
口元を僅かに引きつらせながらページを捲り――
<――新たな勇者の話をしよう>
――『現代語で書かれた』その一文に体が硬直した。
<その男は狼翼。餓狼のように荒々しく駆け抜け、友が授けた蝋の翼で飛翔する勇者である>
――即座に思い浮かんだのは誰かの落書き。
自分よりも先にノーラのカバンを見つけ、わざわざ古書を取り出し、古語が分からないから現代語でそれっぽいことを書き記したということ。
だが、カルナは即座に否と断じた。
理由は二つ。
一つ、古語と現代語という違いはあれど、筆跡が非常に似通っているということ。
そして二つ――ページが増えている。
元々この本は最初から最後まで勇者リディアとその仲間たちについて書かれた本であった。
新たにニールのことを記せる空白のページなど、存在しないはずなのだ。
だというのに、新たにニールについて書かれた部分は数十ページにも及んでいる。仮にカルナが気づいていなかっただけで空白のページがいくつかあたとしても、これだけの量を見逃すはずがない。
……前から多少の違和感はあった。
オルシジームに滞在していた時にノーラと共に読み進め、ふと前のページを捲ると言い回しが変わっていたことがあったから。
その時は気の所為だと思った。頻繁にあったワケではない以上、カルナが誤読や誤訳しただけだと思ったのだ。
だが――あれが気のせいなどではなかったとしたら。
何か超常の力で、何者かが本を遠隔から書き換えていたのだということになるのではないか?
(考えてみれば、元々誰が書いたのか分からなかったんだよね、この本)
勇者リディアについて綴った本ではある。
だが、彼女が有名になる前からずっと俯瞰していたような、そんな奇妙な語り口であったのだ。
そして……ニールに関する記述も、それに近しい。
気づけばカルナは鉄咆から手を離し、ニールについての記述を読み始めた。
冒険者として旅立ち、新人として名を上げ、連翹に敗北した後に東に流れ、ヤルとヌイーオに噛みつきながらも次第に友人関係を築き、カルナと出会い互いに信頼し、騎士団のクエストを受けて今に至る。
時にニールの判断について苦言を呈したり、時に喝采し、いい部分も悪い部分も含めて英雄であり勇者であると綴られている。
(なんだ、これは――?)
そんな物語を、どこか上空から俯瞰したような視点で書き記されているのだ。
そういえば勇者リディアの記述もこのような形で俯瞰した視点で書き記されていた。
正直、気味が悪い。今までずっと誰かが自分たちの様子を観察していたのではないか、だとしたら一体どこから?
慌てて空を仰ぎ見る。
だが、見えるのは巨大な外壁と茜色に侵食されていく青だけだ。こちらを覗き見る誰かなど、見えやしない。
ちっ、と小さく舌打ちを一つ。こちらを見ている誰かなど存在しなかったのに、まるで安堵できなかった。
冷たい手が背中を撫でるような恐怖から目を逸して本に視線を下ろす。
孤独との戦いを読み飛ばしながらページを捲って――最後のページ。
そこに、奇妙な一文があった。
<我の予測を上回った勇者たちに褒美を与えよう。今夜、汝ら四人を我が神殿に招こう>
それは、こちらに語りかけるような文章。
カルナが今この本を読んでいるのを知っている――もしくは、今も見ている何者かからのメッセージだ。
慌てて周囲を見渡す。もしかしたら、悪戯をしかけた誰かがこちらを見て笑いを噛み殺しているかもしれない、そう思ったから。
だが、カルナを見ている何者かなど居ない。
その事実に言い様のない恐怖が溢れ出るが――ふう、と大きく息を吐いて心を落ち着ける。
誰かの悪戯か、カルナでは知覚できない存在からのメッセージなのかは分からない。
分からないなら、今はそれを捨て置く。
今考えるべき問題は一つ。この古書を弄った何者かは、何を考えてこのようなことをしているのか、だ。
「悪意はない……と思うけど」
どのように干渉すれば文字を書き加えたりページを増やしたり出来るのかはカルナには分からない。
だが、悪意でこちらを害そうとしていたのなら、既に何らかの手段でこちらを害しているだろう。
だが、本を改ざんした何者かはそのような真似をしなかった。いいや、そんな大それた真似が出来ないだけなのかもしれないが、少なくとも突然ノーラを困らせるような真似を今までして来なかったのだ。
(それに、古語と新語っていう違いはあるけど――語り口が似ているんだよね。書き手の感情も、恐らくだけど)
この本の著者は勇者リディアに敬意を抱いていた。少なくとも、カルナはそう解釈したのだ。
そして、新たに追加されたページも、また――狼翼という名でニールを讃えている。淡々と、しかし心から祝福をしているように感じるのだ。
ゆえに、カルナでは理解できない超常の力が働いていようが、もしくはこちらの目を盗んで本を改竄していようが、『褒美を与えるために神殿に呼び寄せる』という部分に違いはないと思う。
「……それにしても今夜、か。一応、レンさんに相談しておくべきだね」
四人の中で一番余力があるのは彼女だ。いざという時のために彼女の力を借りよう。
規格外の残量が気になるところだが――いざとなれば他の神官に頼み込んで神の力を充填してもらおう。
(騎士や兵士、他の冒険者は――とりあえず、保留。というか、怪しい人物が侵入して来たら僕ら関係なく対処してくれるはずだし)
現状ただ本に文字が書かれただけである以上、たとえ言ったとしても騎士たちも反応に困る。
それに、確かに連合軍はレゾン・デイトルを打ち倒したが、まだ隠れ潜んでいる転移者が居ないと断じることが出来るほど制圧し切れていない。周囲の警戒は怠らないだろう。
ゆえに、ただの不審者が相手なら余力のある騎士が制圧してくれるはずなのだ。
問題は、何か超常の力で誘拐されること。
そうなれば騎士たちではどうにもならない。なら、一緒に誘拐されるはずであり、かつ一番余力のある連翹と情報共有しておくのが良い。
(……正直、あれだけの戦いの後でこんな面倒事とか勘弁して欲しいんだけどね)
はあ、と重い溜息を吐く。
悪意はないと思っているが、だからといってなんの対策も行わないのは思考停止だ。
後々になってただの考え過ぎだった、と。
カルナの勘違いであった、と。そんな笑い話になれば良いなと思い、空を見上げる。やはり、こちらを伺う者の気配など、欠片も感じ取れなかった。




