218/雑音語り/2-2
(ああ――怖い、怖い、怖い、怖いわ)
斬撃が踊る。
閃光めいた斬撃を崩落が回避出来たのは、技術でも経験でもなく、運と転移者の身体能力によるものだった。
そもそも、彼女はまともに喧嘩すらしたことがない。この世界に転移してからだって、可能な限り夜道や裏道を歩くことを避けていた。
だって、怖い人に絡まれたら嫌だ。転移者には規格外があるとはいうけれど、だからといって進んで誰かをぶちたいワケでも、ぶたれたいワケでもない。
だから、崩落にとっての規格外は最後の切り札だった。悪人やモンスターに襲われ、どうしても逃げられそうにないという時に振るうモノであったのだ。
ゆえに、崩落狂声という幹部は酷く弱い。戦闘経験も技術もなく、そして相手を倒す気概もない。
個人の戦闘能力という意味では、幹部どころか大陸中の転移者と比べても最下位に等しいだろう。
「――え、いっ!」
だから。
そんな彼女が雑音のスキルを回避し、頬に拳を叩き込んだ瞬間――雑音は怒りや恥辱よりも先に驚きの表情を浮かべた。
「驚いたな。君にそんな真似が出来るとは思わなかったよ」
痛がる様子もなく、拳が振れた頬を軽く撫でる。
当然だ。彼女の攻撃には速度が乗っていなかったし、腰も引けていた。相手が現地人であればダメージになっただろうが、同じ転移者であればまともなダメージになりはしない。
だが、それでも――彼女が攻撃した、その事実に雑音は思わず攻撃の手を止めた。
先程も述べたように、彼女は戦いそのものを忌避している。だからこそ戦闘経験すらなければ、剣術スキルを扱うために必要な刃物すら帯びていない。そんな彼女だからこそ、戦場で歌う、ただそれだけのことが苦痛で怖くて――雑音が渡したハピメアに縋り付いてしまったのだ。
だというのに、その彼女が拙くとも拳で殴りかかってきた。必死に、がむしゃらに、勇気を振り絞って。
「わ――わたし、は……あの二人を、殺させ、ない……」
崩落自身は力強く啖呵を切ったつもりのその言葉は、しかし掠れ、震えている。
当然だろう、別に崩落は恐怖を感じなくなったワケではない。むしろ、普段ならば絶対にしない攻撃を行ったために、脚ががくがくと震えているくらいだ。普段感じている恐怖が何倍にも膨れ上がり、今も彼女を苛んでいる。
――怖い、怖い、怖い。なんで皆はこんなことが平気なのだろう。
こちらに敵意を向ける目も、振りかぶられる腕も、踏み込んでくる体も、全て全て怖くて仕方がない。
ダメージが通る通らないという話ではない。仮に目の前の相手が現地人で、崩落にダメージを与える手段が絶無だったとしても、恐怖はきっと消えてはくれないはずだ。
だって、こちらを害そうとする意思は怖いし、傷つけるために振るわれる拳や武器を見ると血の気が引いていく。どれだけ自分が頑丈になっていたとしても、怖いモノは怖いのだ。
だから、崩落は思う。
こんなモノと正対するなど正気の沙汰ではないと、体内で生成されるハピメアに酔いしれてこの恐怖から目を逸らす方がずっと楽だ。
その結果として待っているのが死であったとしても、少なくともこんな恐怖を感じ続ける必要はないのだからそう悪いモノではない。
『崩落の良いところ、悪いところ、歌以外で好きなモノ、嫌いなモノ――これから、ゆっくりとね』
ああ――けれど、けれど、けれど。
優しく微笑みながら、しかしどこか痛みに耐えるような面持ちで手を差し伸べてくれた彼女の姿を思い出す。
自信満々に見せかけて、けれどどこか自信無さげなその姿は、正直に言えば頼りなかった。
脆くて、弱くて、儚い――そんなイメージを抱いてしまったのだ。
けれど、彼女はそれでも手を差し伸べてくれた。
自分と同じように悲しみと失望の海に沈んだことがあるように見えるというのに、それでも必死に、そして真摯に。
これが、もっともっと頼りになる人だったら――きっと、崩落はその差し伸べられた手に魅力を感じなかっただろう。
だって、一度も傷ついたことのないような完全無欠な誰かに、自分の傷をあれこれと推察されたくないから。賢しげな顔で自分の傷を暴かれたくなかったから。ワガママだとは思うし、弱者の僻みだとは思うけれど、そう思ってしまう。
そういう意味ではノーラは駄目だ。彼女は確かに優しくて強くて素敵な人だが、崩落の痛みを理解出来ていないから。死んでしまいたい、ここから痛みも絶望もなく安らかに消え去りたい、そんな風に願ってしまう弱さを分かっていないからだ。
だから、傷を晒すなら同じ弱い人が――連翹が良いと思った。
脆くて、弱くて、儚い――そんな傷つきやすい人で、それでも前を向いて歩いている連翹が必死に差し伸べた手ならば、握り返しても良いと思ったのだ。
だって、突然強い光に当てられたら自分は耐えられない。輝かしい何かと自分を比べて、自己嫌悪で悲しみの深海に沈むから。
「だから……!」
踏み込む。
殴り合いお作法なんて欠片も理解していなかったけれど、しかし足さばきだけは普通の人よりもずっと上手い自信があった。
タンッ、タンッ、と軽やかに、そしてリズミカルに地面を跳ねながら、ジグザクな動きで雑音へと迫る。
「――なんだ? 頑張って? 覚悟を決めて覚醒でもしたつもりかい? なにを夢見てるんだ君は」
ヒュン、と乱雑に振るわれた刃を舞うような動きで回避する。
その事実に、崩落は微かに安堵の息を漏らす。
咆哮は使えない。今ここで使えば、倒れた連翹やノーラを巻き込んでしまう。特に、現地人であり戦士でもないノーラが咆哮に巻き込まれたら致命的だ。声の衝撃に耐えられるとは思えないし、叩きつけられたハピメアの胞子が鼻孔を伝って脳を犯してしまう。
ゆえに、出来ることは慣れない接近戦。剣を持っていないから剣術スキルは使えないし、魔法スキルなんてほとんど使ったことがないから効果範囲が分からない。
戦闘経験なんて皆無だけれど、崩落とて規格外を有しているのだ。数回攻撃を当てられれば、勝てずとも雑音を撤退させることくらいは出来るかもしれない。
「……仕方ない、その愚かしい夢を、このぼくが覚ましてあげよう――『ファスト・エッジ』」
スキルの発声と共に雑音が迫る。
疾い。先ほどまでの乱雑に振るった剣の動きとは別格だ。本来なら絶対に見切ることは出来ないだろう。
「だけ、ど――!」
『ファスト・エッジ』くらいなら、その動き程度なら――崩落だって読める!
転移者になった時、規格外を身に宿した時、どんなモノがあるのか確認ぐらいはしている。そして、『ファスト・エッジ』はスキルの中で一番動きが分かりやすいモノだ。
ゆえに、転移者の身体能力さえあれば回避は難しくない!
崩落は短剣が振るわれる瞬間に、大きく真横に跳んだ。
『ファスト・エッジ』は確かに疾いし鋭いが、正面の敵に対する攻撃でしかない。ゆえに、斬りかかる瞬間に横に跳べばいい。言うほど簡単なことではないが、崩落は元々ダンスのために体を鍛えていたし――何より規格外がある。戦闘経験は無くとも、この手の回避に関しては他の転移者よりも優れているのだ。
「やっ――た」
雑音の斬撃が空振り、地面に叩きつけられる。
響き渡る濁った金属音。地面を叩いた雑音の短剣は、半ばから折れ跳んだ。
勝機、チャンス、隙――脳内に浮かんだ単語に従い、地面を蹴り前に出る。
拳を握り、前に、前にと突き出す。殴り方がこれで良いのかは分からないが、勢いをつけて体重を載せれば威力は出るはず。
雑音は迫る崩落を見返している。
だが、問題ない。雑音はスキルを使った――スキルの発動硬直によりまだ動けない!
「これで――!」
勝てずとも、このまま戦い続けるのは不利だと思わせることが出来るはず。
そう、確信し――――
「ハハッ――『クリムゾン・エッジ』ィッ!」
――――耳障りな嘲笑と共に、スキルが連鎖した。
その事実を崩落は咄嗟に理解出来ず――けれど、雑音の右手には確かに短剣が握られている。
彼は空振った不自然な体勢のままスキルを成立させ――一閃。焔を纏った斬撃が、雑音を打ち据えんとしていた崩落の右腕を切り飛ばした。
「あ、っい、ぐ、ぅ――あああああああああ!?」
脳内で増殖する痛みの警告アラート。思考の全てを飲み込みかねないそれだったが、しかし消しゴムをかけたように消えていく。ハピメアの鎮痛作用だ。
だが、全ては消えてくれない。脳を焼き切りかねない激痛がマシになっただけで、右腕の燃え盛るような痛みは収まってはくれなかった。
「そら見たことか。弱者がどれだけ覚悟を決めようと、頑張ろうが、そんなモノは誤差だ。地力が違うのさ、地力が」
激痛に耐えきれずその場に蹲る崩落の後頭部に靴底が押し付けられた。
屈辱的な状況ではあるが、それを理解出来るほど彼女に余裕はない。確かにハピメアの鎮痛効果は発動しているが――彼女は外壁下で暴走する転移者ほど痛みを消してはいなかったから。
それは連翹の言葉を聞き入れ、また連翹を救わんと立ち上がり雑音に立ち向かったゆえに。
都合の良い夢に酔いしれることなく、必死に目の前の困難に立ち向かい、その上で右腕を焼き切られた――己のダメージを直視し、理解してしまった。
それは、些細な切り傷でも血が出ていればとても痛いのだと感じてしまうように。喪失した右腕が、断面から臭う焦げたたんぱく質の悪臭が、崩落という少女に激痛を連想させたのだ。
ゆえに、どれだけハピメアを吸い込もうと崩落は痛みに耐えられない。その痛みは肉体的なモノ以上に精神的なモノであるのだから。
「しかし――幹部どもはみんなみんな愚か者だよねぇ。自分専用の必殺技を、何度も何度もぼくの前で晒しているんだからね」
そう言って、雑音は己の外套の裏地を見せつけるように晒した。
そこにあったのは、無数の短剣だ。剣に関して無知な崩落から見ても安っぽくて、とても転移者が使うモノには見えないし、ましてや見せびらかすようなモノなどでは――
「……ぁ。まさ、……か」
――パチリ、とパズルのピースが嵌まる音がしたような気がした。
知っている。崩落はその装備を、無数の安っぽい短剣の意味を理解している。
だってそれは、友人が好んで使っていたモノ。数少ない転移者の同性で、数少ない女の幹部だった彼女――血塗れの死神が好んで用いていた装備だから。
崩落が気づいたのを見て、雑音は口元を喜悦に歪めた。馬鹿が、ようやく気付いたか、と。
「その通り! だが、それだけじゃあない。この外套は王冠の飛翔能力を能力をコピーしたモノで、学ラン下の装備は狂乱の強化鎧をコピーしたモノ、沢山仕込んだ短剣は君も知っての通り死神の連続攻撃をコピーしたモノなんだ。唯一、君の歌声はコピー出来なかったけれど……どうでもいいさ、要らないよそんな外れ能力。実際、どれだけ歌を歌おうがこの場面を覆せるワケじゃあないだろう?」
雑音は笑う、笑う、心底気分が良いというように雑音を垂れ流す。
「ははっ――しかし、他の幹部たちは本当に馬鹿だよねえ。他人の技を真似る機会があったっていうのに、自分の技に固執しているんだから。一つの技しか使えない奴より、沢山の技を使える奴の方が強いだろう? カードは多いほうが選べる戦術は多いんだ。単純な理屈なのに、どうして気づかないんだか」
己こそ至高で、他は塵芥。
それは、きっと多くの転移者が多かれ少なかれ有しているモノだろう。崩落とて、自分の歌は他の人よりも優れていると考えている。ゆえに他社は塵だなどとは言わないが、自分の方が優れているという自負があった。
だが、この男はその思考が強すぎる。下手をすれば、あの王冠よりも、ずっとずっと。
現地人も転移者も、全て全て格下であり自分に劣る塵なのだと雑音は雑音を吐き続ける。
「そもそも、技を考えるなんて阿呆らしいんだよ。スキルの運用方法なんて、どうせ最強妄想してる馬鹿どもが考えてくれるんだから、それをコピーしてやればいい。必死に自分専用の技を考えている様は滑稽ったらないね! どうせぼくに真似されるのにさ! そんなモノを信じて戦ってるから現地人如きに破れるのさ! 死神も、狂乱も、王冠も、そして崩落、君もだ! 皆々、少しばかりぼくより勝ってるところがあるだけの、無様な負け犬さ! そうとも、ぼく以外の者は全て全て! あの王ですら、ぼくの掌からは逃れることが出来ない――!」
歓喜のままにまくし立てる言葉の羅列。
上っ面を取り繕うことなく吐き出されたそれらは、全て雑音の本心なのだろう。
敵対している現地人どころか、共に行動した幹部までも自分よりも下だと、無様な負け犬だと嗤うその姿に崩落は痛みで歪んだ表情を更に歪めた。
(――ああ、これでも、少しは信用していたのだけれど)
街を歩いている時に声をかけてきた彼、同郷の人に会えて嬉しいと笑いかけてきた彼。
規格外に守られている安堵から、近場の喫茶店で話すことになり――そして彼の雑音を聞いたのだ。
談笑の最中に明かされた規格外の期限、狼狽える崩落に対し、雑音はレゾン・デイトルという国を創ろうとしていることを語った。
それは無限に規格外を使える王様の国で、転移者も規格外を失った者も暮らせる場所なのだと。
だから、良かったら君も来ないかな、と。
そう言って差し出された右腕が、その時は天より垂らされた糸のように思えて必死に掴んで――けれど、その国を守るために色々な場所に駆り出された。
戦いに駆り出されるなんて嫌だったが、しかしレゾン・デイトルの外に出ても居場所などない。
いずれ規格外は無くなって、残されるのは怯え続ける小娘が一人。そんなの、生きていけるワケがない。暮らしていけるはずがない。だから、ここで頑張らないと。
そうやって徐々に追い詰められていく崩落に、雑音はすまなそうな顔をしてプレゼントを持って来たのだ。
『これを嗅げば少しは楽になると思うよ……追い詰めてごめんね』
今思えば、その口元は嘲笑するように歪んでいたような気がする。
けれど、その時は彼の言葉を完全な善意だと思って、袋に満たされた粉を吸い始めたのだ。
すると、気持ちは一気に上向きになって、毎日が楽しくなった。血まみれで帰ってきた死神と一緒にお風呂に入ったり、街中で歌ってみたり、と動画を投稿して楽しんでいた頃のように明るくなれた。
だけど、夜になると急に全てが怖くなって、昼との落差で叫んでしまいそうになって、だから吸って、吸って吸って、吸って吸って吸って吸って吸って吸って吸って吸って――――結果が、これ。
(ああ、そっか――雑音さんの言うように、わたしはただの無様な負け犬なんだ)
逃げて逃げて逃げて、逃げ続けた末路がここだ。
他人の言葉から逃げて、元の世界から逃げ出して、規格外の喪失の恐怖から逃げ出して、戦いの恐怖から逃げ出して。
その結果が、這いつくばる崩落狂声の姿だ。
それはきっと当然の末路で――そう思うと、痛みと虚無感で涙が溢れ出してくる。
「――なんで、ですか」
滲んだ世界の中で、誰かが立ち上がるのが見えた。
腹部を殴打され、血混じりの吐瀉物を吐いた彼女。きっと腹部はまだ痛みを訴えていて、立ち上がるどころか横たわっていても苦しいだろうに。
それでも、涙で滲んだ世界の中でも分かるくらいしっかりと立ちながら、彼女は――ノーラは真っ直ぐに雑音を睨みつけるのだ。
「レンちゃんから聞いています。転移者は皆、創造神の願いに頷いてこの世界に来ているんだって。皆、元の世界では何かしら理由があって頑張れなくて――だから、救われたくて転移するんだって」
その言葉で、突然別世界の神殿に招かれた時のことを思い出した。
大理石で造られたような古めかしい作りのそこ。汚れなど欠片も存在せず、もし真っ白なベッドが並び薬品の臭いがしていたら病院と勘違いしたであろう、神聖な場所。
白色以外のモノは自分と外から見える鬱蒼とした森、そして眼前に居た神様――後で知ったことだけれど、創造神ディミルゴと呼ばれる異世界の神様がそこに居た。
瞬きする度に姿を、人、虫、獣、エルフ、獣耳の生えた人間、角の生えた人間、ドワーフ、と変えていく彼に崩落は選択肢を与えられたのだ。
新たな力を手に別世界に旅立つか?
それとも、このまま元の世界で生きるか?
ああ――と崩落は小さく息を吐いた。
確かに、あの言葉は自分にとって救いだった。この世界でも上手く生きられている自信は欠片もないけれど、しかし元の世界に留まっていてもっとマシに生きていられたかどうかは――正直、怪しかったろうと思う。
「あなただって、それは一緒でしょう? 元の世界で恵まれているのなら、元の世界での関係を全て捨ててこの世界に来ることはなかったんですから」
転移者とは元の世界の敗北者である。
けれど、そのままではいたくないからこの世界に落ち延びて再起を図っているのだ。
その結果、真っ当な生き方を選ぶのか、他者を踏みにじる悪辣な生き方を選ぶのかは人それぞれだろう。
けれど、転移者は多かれ少なれ敗北の痛みを背負っている――それはきっと、目の前の雑音とて同じはず。
だというのに、なぜ平然と同じ境遇の者を虐げることが出来るのか。ノーラはそれが分からないと叫ぶ。
「――ぼくが? 他の屑共と? まさか! あんな連中と一緒にしないでくれ。ぼくはあんな四六時中チート妄想してた負け組とは違って、ちゃんと才があるんだよ」
そう言って嗤う雑音の表情には、二つの感情が浮かび上がってきた。
一つは優越感。全て全て己よりも下であると、他者よりも自分は優れているという想い。
けれど、感情全てを塗りつぶすようなその傲慢な喜色の下から、淀んだ黒色が見えてきた。
封じて封じて封じて、けれど封じきれなかったそれを表情ににじませながら、雑音は高らかに嗤い続ける。
「昔から皆が必死になってやってる勉強なんてすぐに理解できたし、体育の授業だってちょっとその気になれば活躍出来た。皆が必死になっているのを見て、この程度も出来ないのかと思っていたよ――だから分かった。ぼくは天才なんだと、その気になればなんでも出来る万能の人だと。その証拠に、周りの人間は皆、皆、皆、ぼくを讃えていた。天才だと、神童だと!」
両手を大きく広げ、彼は語る。
「だから――努力なんてしなくてもそこそこに成れた。授業を軽く聞くだけで平均点くらいは取れたし、球技だって平均以上の働きが出来ていたよ。だっていうのに、他の連中は皆、必死に必死にやってようやく平凡になっている。惨めったらないね」
必死に努力などをしている奴はみっともない、と。
泥に塗れ汗に塗れ苦しみながら這いずるなど、まるで芋虫のようではないか、と。
ゆえに、真の天才はそのような真似はしない。
鳥のように羽ばたいて、地を這う虫を啄めば良いのだ。
「……だっていうのに、小賢しい連中はぼくにもっと頑張れと、本気になれと言ってくる。主席のガリ勉野郎を見習えだの、大会に出た脳筋を見習ってだのと……馬鹿らしいにも程が有る! 何故ぼくが、たまたま成功しているだけの塵なんぞと競わなくちゃならない! その連中だって、全国で競えば下も下の劣等じゃあないか。凡百どもは井の中の蛙ということわざすら知らないらしいね」
じわり、じわり、と劣等感が浮かび上がって来た。
優越感を塗りつぶしながら見下すような瞳を苛立つように細め、嘲笑していた口元は怒りを抑えるように食いしばり始める。
「そうとも……このぼくが、睡眠時間を削って勉学でトップを目指す? 炎天下の中球蹴り遊びに興じる? 愚かしい! このぼくに這いずる虫の真似事をしろって言うのか! 見る目のない塵屑どもめ! ぼくには才がある、言葉がある! これを以て他人を利用して生きていけるというのに、なんでわざわざ同じ領域に堕ちなければならないんだ!
そうとも! 努力なんて馬鹿らしいことをせずとも、ぼくなら上手くやれる、世の中を渡って行ける! 事実、この異世界ではそうやって成功してきたじゃあないか!
だっていうのに、糞! なにが元神童だ! なにが落ちぶれた天才少年だ! どいつもこいつもまるで見る目がない! ぼくは全てを裏から操る者、雑音を囁く存在、雑音語りなんだ! 頑張らなくちゃ結果の一つすら出せない連中とこのぼくを比べるんじゃあない! 不愉快極まりないんだよ――ッ!」
まくし立てる、まくし立てる、まくし立てる。
それは自分の言葉を他者に聞かせるためというより、自分に言い聞かせているように聞こえた。
そう、即ち――自分は間違っていないのだと。
他者と比べて劣っているワケではないのだと。
「だからこそ、この世界は心地いいんだ。利用できる能力だけの馬鹿は山程居て、全て全てぼくの思い通りになる。ぼくだけがまともな人間で、他者は全て出来の悪い書割――心からそう思える! 生きていてくれてありがとう、ぼくのための踏み台! ぼくはぼくの人生のために、君たちを永遠に搾取し続けることをここに宣言しよう!」
高らかに叫ぶ雑音の姿は感情的で、けれど酷く冷たかった。
すぐ傍に居るというのに、どこか隔絶した場所からこちらを見下ろしているような――崩落たちを物語の登場人物として俯瞰し、見下ろしているように見える。
だからこそ、理解出来た。
この男にどれだけ言葉を費しても無駄だと。
物語の登場人物がどれだけ感動的なセリフを言ったとしても、フィクションはフィクションだと流されてしまうように。
自身と同列の存在であると認めていない以上、どのような言動も無意味なのだ。




